A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

次世代テレビ放送はどうなるか? (15) 番組視聴率とは本来その番組を見た人の数で語れるべきだが・・

2011-10-04 | Weblog
テレビの視聴率は翌日日報で、さらにランキングが毎週ビデオリサーチから発表される。関係者にとっては、これが試験の成績発表のようなものだ。特に鳴り物入りで企画された特番などは、注目の度合いが高まる。最新の一覧を見ても20%を越える番組などはほとんど無いのが分かる。
民放各局では個別の番組の視聴率は勿論気になるが、それ以外に局全体の平均視聴率の動向に一喜一憂する。全日とかゴールデンとか時間帯の視聴率も気になるところだ。要は、この局の数字は局全体の広告料特にスポットの価格に影響するからだ。この視聴率は世帯視聴率なので、スポンサーの個々の広告にさらに影響してくる個人視聴率はまた別の数字がある。

さて、この週間ランキングを見ると、番組名と視聴率の他に局名と放送開始時間と放送時間が付記されている。要は、この視聴率とは対象となる放送時間の毎分の視聴率の平均である。ドラマのようなものは毎分の視聴率を見てもそれほど増減がなく平均的な数字が並ぶ。一方、番組によっては同じ番組内で視聴率の高低が大きく変動するものもある。例えば先日盛り上がった女子サッカーなどは、後半の見所に視聴率が跳ね上がる。
いずれにしても、番組の視聴率とはいうものの、それは放送時間の平均視聴率ということだ。前に述べたように、録画をしたものはカウントしていないし、それが実際に見られた数字も加えていない。あくまでも、視聴率とはリアルタイム放送された番組の視聴率である。

NHKの7時のニュースは、大きな事件があれば当然数字は跳ね上がるが普段でも高い視聴率になる。同じニュースがNEWS9でまた放送されても、7時のニュースは7時のニュースとして、それぞれ別々にカウントされる。ニュースは同じ素材でもアナウンサーやキャスターも代わるし、刻々と状況が変わるので別と言えば別物であるが。
ドラマのランンキングを見ると、朝の連ドラ「おひさま」や、日曜の20時の大河ドラマ「江・姫達の戦国」はランキング上位の常連だ。ところが、「江」は日曜日の20時以外にもオンエアされている。BSでの放送は、実は通常の放送より前の18:00~行われているし、再放送は翌土曜日の13:05~行われている。更に最近では「NHKオンディマンド」にも、すぐアップされるので見逃した時だけでなく、このオンディマンドを都合の良い時に見ている人も多くなってきた。そしてさらに自分で録画したものを毎週視ている人も結構多い。
ドラマという番組コンテンツの視聴率は、本来であればこれらをすべて足さなければならないが、そんな数字はどこにも発表されていない。昔と較べて大河ドラマの視聴率が落ちているといわれるが、実は以前と較べて色々な見方ができるようになったので、実際は反対に総視聴数は多かったという結果が出るかもしれない。

このように本来番組視聴率とは番組コンテンツをどの位の人に見られたかというのが筋であるが、昔からの指標である「放送時間にテレビ受像機のスイッチが入っている比率」で今でも語られている。確かに広告には必要な指標であるが、そろそろあまり意味の無い数字で一喜一憂するのを止めるときが訪れているのではないかと思う。広告自体も見られているかどうかが怪しくなっているので。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (14) たかがテレビ番組表、されどテレビ番組表

2011-09-24 | Weblog
何を頼りに番組を探してテレビを見るかといえば、長い間新聞のテレビ欄が主流だった。自分も子供の時から朝新聞を読む習慣がついていたが、見るところはテレビ番組欄とスポーツ欄であった。レギュラー番組だと局と放送時刻は決まっている。したがって、いつも見ている番組以外に何か面白そうな番組を探すのにテレビ番組表は不可欠であった。特に、4月、10月の番組改変期だと、新番組を探したり、特番を探したりいつもより丹念に番組探しをした。テレビ欄を見ながら今日見たい番組に○をつけるのが日課の人も多い。日々の生活で番組表は長年無くてはならないものであった。

ビデオレコーダーが世の中に普及して、テレビ番組欄の見方が少し変わった。それまでは、見たい番組があってもその時間テレビの前に座れないと結局テレビを視れない。見たい番組を必ず見るためには、テレビを中心に予定を組んだものだ。ビデオが家に入ると、番組表を見て、録っておきたい番組、見たい番組を予約するようになった。その予約設定が最初は結構面倒だった。ラジオのエアチェックを良くしていた自分にとってはそれ程苦にはならなかったが機械音痴の人には結構ハードルが高かったように思う。それで簡単録画の機能が色々工夫されたが、その内Gコードなるものが登場し各社のビデオに機能が搭載されるようになった。導入してまもなく1993年には殆どの新聞のテレビの番組欄にGコードが載るようになった。コードを打ち込む手間はあるが、とりあえず一発録画が実現され、このGコード利用は結構普及したように思う。しかし、Gコードはコードで番組を指定するのではなく、単に局と時間を指定する機能なので、ナイター延長で放送時間が延びると違う番組が録画されていたということは良くあった。そのGコードもテレビ放送がデジタル化されてお役御免になった。

Gコードに代わるものとしてアナログ放送時代にGガイドなるものが登場した。いわゆる電子番組表(EPG)である。それまでは、新聞のテレビ欄、さらには番組情報をより詳しく紹介するためにTV番組紹介雑誌など、紙の番組表であったが、この番組表を電子化して、テレビやパソコンなどに表示するようにしたものがEPGである。テレビ画面で番組表を見るのは決して便利とはいえないが、録画機能とこの番組表が連動すると結構便利であった。パソコンにテレビチューナーが搭載されると、このEPGが表舞台に登場した。アナログ放送の時代はこのGガイドがEPGのディファクトになったが、そこに至るまでには特許を絡めた熾烈な競争があった。これはEPGが、次世代のテレビサービスを睨んだ戦略の入口であったからだろう。今のデジタル放送は放送の仕様に中にEPGの仕様も既定されているので、どのメーカーのテレビでも基本的に局から提供される番組情報を見ることができる。Gガイドもデジタル放送対応になったが、基本仕様のEPGと差別化するには新たな付加価値サービスが必要になってきている。

そもそも、テレビ番組欄の情報はあの狭いスペースに必要情報がよく整理されて詰め込まれている。EPGの番組情報の中身は基本的に紙と同じであるが文字数の制約などがある。多くの人は、あくまでも番組情報の詳細を見るのではなく、このEPG機能を利用して番組表を見ながら、チャンネル切替や録画ができるという機能に便利さを感じていると思う。

このように紙からEPGに形態は変化し使われ方も変わってきたが、番組表の基本構造は、放送日、放送局、そして放送時間を表にしたもの。つまり、これは、放送局の番組編成いわゆるタイムテーブルを表したものである。つまり、時間を決めてプッシュ型で番組を提供するという放送の基本構造を視聴者にどうやって伝えるかという手段であった。リアルタイム放送を視聴するのであれば、それを逃すと2度と見れないので、この時間軸は非常に重要であった。しかし、タイムシフトで番組を視聴する習慣が一般的になってくると、この時間軸を重視した番組表は意味を成さなくなってくる。EPGの形態も変わってくるが、実は、この放送時間で番組を編成することがこれまでの放送局のビジネスモデルそのものなので、次世代のテレビ放送と現在のテレビ放送の相克の本質はここにある。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (13) 録画視聴はテレビ番組を視たことになるか

2011-09-19 | Weblog
テレビの録画というのは今に始まった話ではない。ビデオテープレコーダーなるものが世に出た時から、テレビの録画は始まっている。ビデオレコーダーは例のVHS対βの戦いで有名だが、家庭用のビデオが普及し始めたのは70年代の後半。VHS対βの戦いは80年代に入ってすぐだったと思う。要は、一般のテレビ視聴者にとって、テレビ録画というのはすでに30年の歴史がある生活になじんだ行為だ。テレビ放送を視聴することの延長で、見たい番組を録画して見たい時に見るのもごく一般的な視聴スタイルだ。

テレビの録画の前に、自分はFM放送のエアチェックということをよくやった。これは、これはせっかくのFM放送を聴きっぱなしにするのではなく、録音しておいて後で繰り返し聴くというのが目的だった。特に、好きなジャズのコンサートのライブなどでは良くやっていた。テレビの録画も実はスタートは同じだったかもしれない。一回限りの番組、あるいはライブなどを録画しておいて、いわゆるライブラリーにしてとっておくということもやっていた。
その内録画の便利さが分かると、放送時間に合わせて視聴できない時に、ビデオを使ってとりあえず録っておいて後で視るという使い方が増えてきた。家族がテレビを視ている時に、裏番組で自分の見たい番組をやっている時などにも便利だった。テレビが家庭に一台しかなかった時の、いわゆるチャンネル争奪戦の解決策の道具だったということだ。そして、いつのまにか自分の見たい番組は、とりあえずすべてビデオに録っておいて、好きな時間に視るという視聴スタイルもできてきた。また、番組全部を見るのではなく見たい所だけ見るという視聴方法もできてきた。生活者の視点で捉えれば、見たいテレビ番組をリアルで視るか、録画して後で視るかはその人の生活スタイルそのもの。「テレビ番組を視る」ということにおいてはどちらも違いは無く、結果的に同じ「テレビ番組コンテンツ」を見ていることになる。

視聴者の視点からすれば、「録画視聴もテレビを見るためのひとつの手段であり、当然《テレビ番組を視た》ことになる」

録画をする機器の方も、初期のテープから、DVDを経て、今はHDDとブルーレイに代わってきている。ビデオテープの録画はアナログであったが、DVD以降はデジタルデータでの記録に変わっている。放送自体もアナログからデジタルに変わったが、実はデジタルデータでの録画になって、著作権関連で大きな問題が生じた。要はデジタルデータはコピーしても劣化しないという特徴があるからだ。アナログ時代は、録画の複製を重ねると画質がどんどん劣化し、見るに耐えないもになった。したがって、昔は番組の映像の質もオンエア時とは違うものであり、あくまでも録画視聴はリアルタイム視聴のおまけのような位置づけであった。今では、デジタル化のお陰で、録画をしてもハイビジョン放送の高画質放送をまったく同じ品質で楽しむことができる。録画はおまけではなく、完全に「タイムシフト視聴」に不可欠な手段になっている。

実は、このリアルタイム視聴からタイムシフト視聴への変化の中に、ハード面でもソフト面でも次世代テレビ放送に関わる本質的な課題が潜んでいる。自分自身に照らし合わせれば、リアルタイム放送の視聴は「ながら視聴」が大半。音楽でいえばBGMでしかない。じっくり視る時は必ずといっていいほど、一人でタイムシフトで視る。音楽をオーディオ装置に面と向かって聴くように。どちらの場合も、CMはほとんど視ない。

ところが、テレビ業界では今でも録画視聴はあくまでも参考であって、リアルタイム視聴の視聴率だけでテレビ視聴を語っている。録画視聴をテレビ視聴の一部としてしまうと、一番の問題は今のリアルタイム放送の視聴を前提とするビジネスモデルが崩れてしまうからだ。実はこの問題はビデオテープによる録画視聴の時から問題になっていた。録画再生時のCMスキップの問題だ。この問題は、リアルタイム視聴が減っていなかった時は、あくまでも「おまけの録画視聴時の話」で片付けられてきたが、リアルタイム視聴が確実に減ってきてしまうと、この問題をもはや封印したままにして置く訳には行かない。録画が普及してからこれだけの長い期間が過ぎても、まだこの原則に則った議論、そして解決へ向けての対応がなされてこなかったのは不思議としか言いようが無い。がん患者がかなり前から自覚症状がありながら、がん宣告されるのが怖くて放置したままにしておいて、手の施しようが無くなってからいきなり死期を宣告されるようなものだ。

テレビ局の論理では、「録画視聴は視聴者が勝手にテレビ番組をみているだけであって、放送局の意図に従って編成されたリアルタイム視聴だけが《テレビ放送の視聴》だ」ということになる。

「テレビ番組視聴」と「テレビ放送視聴」では意味が違うということだ。録画においても録画率ではなく、録画視聴率が大事になってきた。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (12) テレビ離れを語るにはまずは視聴率を理解しなくては

2011-09-11 | Weblog
さて、テレビ離れは色々な調査データやコメントで語られているが、一般的なものは視聴率の推移であろう。この10年でゴールデンアワーの総世帯視聴率(HUT)は間違いなく減っている。要はテレビをつけていない家庭が増えたということだ。視聴率については、以前もコメントしたことがあるが改めて整理しておこう。

視聴率といえば、日本ではビデオリサーチの調査データが継続的にとられている。昔はニールセンのデータもあったが、現在は撤退しているので、このビデオリサーチが国内では独占的なデータだ。元々は電通の関連会社であったが、今では局や他の広告会社の出資もあり業界共通のデータとして使われている。先日の女子サッカーのような大きなイベントがあると必ず視聴率がニュースに登場するが、これらの元はすべてこのビデオリサーチの視聴率データである。

視聴率には世帯視聴率(要はテレビが何台ついていたか)と、個人視聴率(何人見ていたか)の2種類がある。視聴率がマーケティングデータとして重要な役割になってきたのはこの個人視聴率データが整備されてきたからだ。このテレビの視聴状況を記録するのがピープルメーター。視聴率のデータの元になるサンプル世帯に設置されている。関東地区でサンプル数は600世帯。けっして多くの世帯数ではないので、果たしてこのデータで視聴率は正しいのかという話は昔から良く出た話だ。統計学的には視聴率10%で確か2.4%+-で統計的には正しいと言われていたはずだが、最近のように視聴率が2桁やっととなると、その誤差範囲のデータが統計的には正しくても実態としてはどうなのかが改めて気になるところだ。

世帯視聴率は機械のON・OFFだから正しくは測定されているであろう。ただし、これも昔からテレビの前で猫が見ていても視聴率にカウントされるといわれていたが。最近の大画面テレビは節電機運が高まっているので以前よりもつけっぱなしは少なくなっているかも知れない。

視聴率の調査実態については、ビデオリサーチの、この資料を見れば歴史と現状が分かる。

では個人視聴率はどうやって記録するか?
が疑問になる。このピープルメーターなるものはこの個人の視聴状況も記録できるが、さすがに自動というわけにはいかない。人的な操作で誰が見ているかを記録するようになっている。この個人視聴率の機械式の調査が開始された時は各社どうやって記録するかの議論が技術的な手法を含めて良く行われていた。テレビの前の人物をカメラで捉えて人数を把握し、その顔を認識して記録するというような話もあった。寝転がってみても大丈夫か?とか、メガネを掛けたら認識するかとか、友人が来て一緒に見たらどうなるかといった話をした記憶がある。

色々紆余曲折を経て、現在の方式になっているが、その方式は果たしてどんな方式なのか。
YouTubeにこのピープルメーターの設置の実態のビデオが紹介されているので興味のある方はこちらで。



この方がコメントされているように、個人視聴率の測定には調査時点で誤差が出るのは避けられない。だが、それよりも重要なのは「リアルタイム視聴」と録画による「タイムシフト視聴」の割合の問題だろう。視聴率=リアルタイム視聴の減少でテレビ離れを語ると本質を誤るというのはこの点である。

この調査サンプルにはもうひとつ課題がある。600世帯のサンプリングは系属サンプリング方を採用して、いくつかの除外対象は決めているが特に世帯特性を考慮してはいないようである。昔、単身世帯は除くというような話も聞いた記憶があるが、仮に単身世帯を除いた世帯であれば、これはその時点で今の時代では実態とは掛け離れた数字になってしまう。
反対に単身世帯も含めて単純に抽出をしているのであれば、その結果はどのくらい全世帯の世帯構成比率に近いか気になるところである。今から40年近く前の世帯であれば、単身世帯は都市部の一部に限られていたが、今や単身世帯数の数は比較にならない位増えている。単純に若者だけではなく、独居老人、単身赴任、男女共に独身の増など単身世帯の内訳は千差万別だ。

実は、この世帯特性による視聴スタイルの違いが非常に大きくなっているのではないかと思う。さらには、録画機(ビデオ、DVD)だけでなく、パソコンを含めたIT機器やAV機器全般に対するリテラシーの高低が決定的に視聴スタイルに影響を与えているとも考えられる。となると、この600世帯のサンプル構成がどうなっているかが問題になる。本来であれば代表的な視聴スタイル毎にサンプルが欲しいところだが、この600世帯のサンプリングでは如何ともし難い。結果はかなり実態と掛け離れている可能性は大きい。

結論として、自分としてはこのピープルメーターによる個人視聴率のデータは今の時代では使い物にならないのではないかというのが持論であるが、広告料金を決めるマーケティングデータとしてはこの数字が唯一の指標であるのは間違いない。さすがのクライアントも、ターゲットに拘るところは、テレビ広告をやるのに腰が引けてくるのは分かるような気がする。

では、テレビの個人視聴率の把握は諦めるしかないかというとそうでもない。実現できるのはやりCATVであろう。各家庭のテューナーから視聴ログをとれば完全な世帯視聴率は計測可能だ。それも全数で。さらに、契約世帯ごとの住環境の把握は屋内配線工事ですでに手中にある。接続台数も把握済である。後は世帯構成の人数と属性が分かれば世帯ごとの視聴スタイルはすべて把握できる。それもサンプルではなく契約全世帯で。きっと面白いデータになると思う。次世代テレビ放送の主役はCATVになるのではなかと思うのも、こんなところに理由のひとつがある。



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次世代テレビ放送はどうなるか? (11) 若者はテレビ離れしているか?

2011-09-04 | Weblog
今年2月に発表されたNHKの国民生活時間調査でも、若者のテレビ離れ(視聴時間の減少が)は明らかであった。この傾向はここ数年言われ続けられてきたことであり、改めてデータでも立証されたということだろう。少し前からの動き、論調を振り返ってみよう。
2008年、当時のNHK福地会長のコメントがある。

●「若者のテレビ離れに危機感」NHK・福地茂雄会長


インターネットの影響は勿論だが、「視聴の希薄化」という表現には多くの意味が含まれていると思う。要はじっくり見なくなったということだ。昔からTVは「ながら視聴」というとりあえずテレビがついているという状態はあったが、これに加えて「分割視聴」「部分視聴」という形態も増えてきていると思う。

このコメントに、早速、2chでもこの話題に対するコメントが寄せられていた。

●若者のテレビ離れ 【2ちゃんねるより抜粋】



テレビ離れしてしまった人々のメッセージだ。
・国民洗脳を役割に持つマスメディアの立ち位置が分かってテレビ離れをした層
・お笑い、バラエティー、ネタバレの情報番組、内容の薄いドラマなどコンテンツの貧弱さに飽き飽きした層、
・放送時間に合わせた生活をおくることが無理になった層
など、彼らのテレビに対する評価・自分の生活での位置づけは大体が想定されるものだ。

そして、最大の要因はやはりインターネットの普及と、その利用との相対比較の結果テレビを視る必要がないと判断したか、あるいは見る時間が減ったのがひとつの結論である。

手を変え、品を変えドラマ作りをやっても視聴率の取れない局が四苦八苦している。

●面白くない番組しか作れないテレビ局が「若者のテレビ離れ」という言い訳


この議論は、視聴率だけを評価尺度としてきた番組作りの限界で、これも今に始まった話ではない。悪循環が進んでいるだけだ。視聴者に迎合しすぎたドラマがいいドラマになるはずが無い。あくまでも制作者やプロデューサーの意図や意思があって、視聴者の感動や共感を得るのが番組作りの基本だと思う。

●【社会】 若者のテレビ離れが進むなか、完全「見切り発車」の地デジ移行…地デジ難民は29万世帯か


とあるが、若者のテレビ離れと完全地デジ化はあまり関係が無いかもしれない。完全地デジ化でテレビ離れを助長したのは高齢層だと思う。

●若者は“テレビ離れ”していない--M1・F1総研の調査で明らかに


こんな調査結果もあるようだが、調査範囲が東京中心の1都3県であること、視聴番組に関する調査データが無いので、これだけでテレビ離れしていないというのも難しい。
しかし、若者は特に、色々なディバイス、生活シーンで「テレビコンテンツ」に接しているのは事実だろう。今の視聴率、あるいは狭義のテレビ視聴という定義の中で議論していると実態を見誤るかもしれない。ちゃんとした調査設計をすると面白い結果が出るかもしれない。

単純な調査だが、この方が説得力がある。

●若者の「○○離れ」実際に離れているものは? 3000人回答結果「テレビ、新聞離れ」が上位


まあ、順当な数字だろう。

ではどうしたら良いかという話になるが、

●「若者のテレビ離れ」を食い止めるには


これは、いわゆるディバイス論議だ。茶の間のテレビが大型の薄型テレビに変わったが、ここだけがテレビ視聴の場でないのは特に若者にとっては当たり前。そして、テレビ放送以外の視聴を合わせて考えると、スマートTVの話になっていく。これも次世代テレビのひとつの答えかも知れない。

●ネットTV有料配信 若者のテレビ離れを食い止められるか?


テレビ番組をリアルタイムで見るか、タイムシフトで見るかはビデオレコーダーが世に出た時からの流れ。これもタイムシフトのひとつの流れである。リアルタイム放送ではなくオンディマンドに本格取り組むという話が近々動きそう。コンテンツが良ければよい結果が出るかもしれないが、コンテンツを見る気がしないという層にはオンディマンドにしても結果は出ないであろう。

テレビ離れの原因は色々な要素が組み合わさっているが、ひとつひとつ解きほぐしてみよう。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (10) 「テレビ放送離れ」なのか「テレビコンテンツ離れ」なのか

2011-08-28 | Weblog
今後のテレビ放送がどうなるかを考える前に、今巷で言われている「テレビ離れ」なる現象を整理しておきたい。自分なりには整理されているつもりであるが、客観データで確認しておこう。

まずは、テレビ業界の当事者である、NHK放送文化研究所の2010年の生活時間調査から。確かに90%の人が視聴するテレビは国民のメディアの王者の地位は変わっていない。しかし、全くテレビを視ない人が確実に増えてきており全体の10%に達している。一方で、5時間以上テレビを視る人も増えているので平均視聴時間は変わらないということになる。統計数字の見誤りやすい点だ。若者のテレビ離れを象徴するように20代の女性のテレビ離れが大きく、5年前と比較して行為者率(要はテレビを視ている人)が大きく減少している。特に平日は男性と同様80%を切った。この層では2割の人がテレビを見ていないということだ。今後は全体ではなく2つの2極化したグループ別に数字を見ることも必要だ。

メディア接触全体では、10%程度の聴取者を持つラジオが減、ファンはやはり高齢者。そして新聞が大幅減。数字を見て改めて驚いたのが新聞の状況だ。全体で行為率は40%前後。4割の人しか新聞を見ていないということは宅配もどんどん減っているのだろう。自分の感覚では勤め人にとって新聞は不可欠だと思っていたが、勤め人でも40%以下とは。かえって無職のほうが高い。20代においてはもはや男女共に10%以下。マスメディアとしては完全に終わっている。

一方で、インターネットは全体で20%位だが、20代、30代では30%以上。さらに接触時間は2時間近くになっている。他のデータであったが、メディアの接触時間は1日平均して6時間程度。1日24時間の限界があるので、余程の暇人でないとこれ以上の時間を割くわけにはいかない。最近のデータでは移動中のモバイルの接触時間が割り込んできていて全体の時間を若干増やしているが、インターネットがこれだけ増えると当然割を食うのは他の既存メディアだ。雑誌、新聞はすでに駆逐されているが、いよいよ本丸のテレビへの影響だ。これも、他の調査データで見たが、インターネット利用者のテレビ接触頻度及び時間は極端に少ない。テレビ離れが一番顕著に現れるのはこの辺りの層からであろう。
他のメディアでは、ビデオ、HDD、DVDが増えている。ビデオ、HDDということはこれには当然テレビの録画視聴が含まれる。尚且つ、この録画視聴の場合は「ながら視聴」が少ないという結果も出ている。やはり集中して見るテレビコンテンツもあるということだ。

NHKの調査では、インターネット利用の中に仕事での利用と、メールでの利用は含まれていない。これも他の調査データによると、通常の検索、ショッピング、ブログの他に動画検索サービス(YouTube、ニコニコ動画など)であろう)の割合が急拡大しているとあった。若者の利用の間では、この動画サービスで見逃したテレビ番組や話題のテレビのシーンを見るのが流行っているとか。最近では他の動画サービスも増えているので、直近で調査をすればインターネットで動画サービスを利用している割合はかなり高くなってきているはずだ。

そこで、統計の取り方に疑問が沸く。現行の区分はあくまでも昔のメディア区分のまま、さらにはサービス分類もこれまでの区分を使って統計データを作成している。過去との比較や時系列データには必要だが、実態を果たして表しているのか。テレビのリアルタイム放送の視聴時間は減っているが、録画や動画サービスを含めて、若者の放送コンテンツを見ている時間は減ってはいないのかもしれない。今後はオンディマンドサービスが普及すればなお更である。

一日の中で電子メールの対応にとられる時間も多いが昔であれば手紙を書いたり、電話をしていた時間だ。仕事では報告書を作ったり、会議をしていた時間がメールに向かっている時間だ。生活時間調査もメディア接触時間ではなく、動画、音楽(音声)視聴、文書閲覧などの区分にした方がいいかもしれない。それが本当のコンテンツ接触時間だ。メディアはそれを見聞きするための道具であり何を利用するかは生活者にとっては何でもいい。そろそろ、メディア接触からコンテンツ接触に概念を変えなければ。そうすれば、生活者がコンテンツ離れを起こしているのかどうかは分かると思うのだが。
「テレビ放送離れ」を起こしているのであれば影響はテレビ広告の問題だが、「テレビコンテンツ離れ」を起こしているのであれば事態は深刻だ。
最近、こんな記事が目に留まった。

テレビ界、視聴率至上主義の愚昧:月尾嘉男(東京大学名誉教授)



日本では、両者が同時に起っていてお互い足を引っ張っているから問題なのだ。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (9) 大画面テレビでデジタル放送をみているか?

2011-08-22 | Weblog
さて、テレビ離れを解明していく前に、自分自身の周りを振り返ってみよう。
デジタル放送に大画面テレビは切っても切れない関係。ハイビジョンになり高精細の画面、5.1chサラウンドの音声にも対応するデジタル放送になり、それを視るにはやはり大画面テレビが最適・・・・・。と誰もが思ったし、世の中の風潮もまさにそのような雰囲気だった。

とりあえず自分の状況をレビューしてみよう。実は自宅の大画面テレビはすでに2世代目になった。最初に買ったのは10年位前だろう。SONYのプラズマの42インチを購入した。結構高い買い物であった。まだまだ大画面テレビは珍しかったし、以前のテレビと較べて圧倒的な画面の大きさと綺麗な画面にテレビ放送を改めて見直したものだ。CATVのデジタル放送対応への加入もほぼサービス開始後すぐだった。
オーディオも好きな方だったので、AVアンプに替えて5.1chなるものも体験した。映画の迫力は映画館には及ばないものの、従来のテレビとは全く違うことが分かりテレビでの映画視聴の機会は確実に増え、ますますデジタル放送への期待が高まった。

それから、月日が経ち今年になっていよいよデジタル放送への完全切替の年を迎えた。しかし、地上波の番組でハイビジョンを活かした番組は相変わらず数えるほど、以前と何も変わっていない。NHKはまだしも、民放はハイビジョン放送どころかそれ以前の問題として見たい番組を探すのにも苦労する。せっかくの大画面テレビが宝の持ち腐れになりそうだが・・・・。

ちょうど自分が実家の年寄りの面倒をみなければならなくなったこともあり昨年から自宅と実家を行ったり来たり。自分用のテレビを実家に設置することにした。買ったのはパイオニアのKUROシリーズの最終モデル。パイオニアのプラズマは色の良さに定評があったが確かに綺麗だ。このような技術の最先端を誇っていた機器が商品として生き残れないのはおかしな世の中になったものだと思う。これも「単体のデジタル化」による負の効果のひとつだろう。

一方で、自宅の初代プラズマも新製品と較べるとだんだん画質の悪さが目だってきたが、ついに画面の色バランスがおかしくなりご臨終。価格も下がってきたので、修理にお金をかけるよりも買い替えをすることにした。自宅はパナソニックのビエラ。10年前と較べると確かに安くはなったので買い易くなった。女房はもっぱらテレビ視聴中心。前のプラズマよりも綺麗になったので特に不満はないようだが。自分はパイオニアと較べてしまうせいか今ひとつだ。パイオニアの技術もパナソニックに引き継がれたと聞いてはいたのだが。

さて、実家の方にセットしたパイオニアのプラズマだが、今まで持っていたAV機器の引越しも行ってそれらと一緒に置いた。JCOMのCATVのチューナー、ブルーレイ&HDDはDIGA、今までハイビジョンをお手軽に録画していたRECPOT、古いVHS&βのデッキ、Ipod用のデジタル出力をとれるDock、AppleのデジタルAVケーブル、などなど・・・。自宅のほうには、古いDVDレコーダー、レザーディスクなどまだまだある。機器とケーブルが散在していてすでにテレビ側の入力端子が足りない。さらにはテレビの音声を出すためのAVアンプに、オーディオアンプ。これだけつなぐと大体のものはテレビの画面に映し出せるし、オーディオも大型のスピーカーで聴く事ができるようにはなったが。

何事もそうであるが、技術的にできるというのと、日常使えるというのは意味が違う。技術者は当然だが常に「技術的にできる、できない」で語っている。これを真に受けて、使ってみると「いつどこでそんな使い方をするのか?」といった疑問を持つことが良くある。今回自分も色々試してみたが、当然だが現時点では便利なものだけを使う使い方になっている。メーカーも機能を活かした生活提案ができるようになれば本物だ。

まず、テレビ放送はよっぽどライブで視る必要性があるものでないと録画してしまう。放送時間に合わせて生活時間を合わせることはなかなかできない。HDDレコーダーの録画容量が多くなっているせいもあるが思いついたら録画だ。EPGが標準仕様になって勧め番組なども選ばれてくるので便利。ライブで見るものといえば、ニュースかスポーツ物。ところがニュース番組は、朝のワードショーも含めて大画面では見ない。場合によっては携帯のワンセグで「ながら」で聴いていることも多い。面と向かってみる時は、録画した映画やDVDなど。自分は時間的にはこれが一番大画面テレビを見ている時だ。最近この大画面に張り付いてテレビを見たのは、あの震災の時。ライブ放送の圧倒的な優位性と、視聴者側のニーズが合ったのはこの時位である。もし自分に視聴率調査のメーターでも取り付けたら、視聴率にカウントできる番組はほとんど視ていない事になってしまうだろう。

さて、せっかくの大画面テレビ。録画したものをじっくり観ようと思ってもなかなか時間が無い。昔ビデオテープレコーダーが普及した時もそうであったが、1日は24時間しかない現実の壁がある。録り貯めが増えるばかりだ。NHKの番組は録画も面倒になり、オンディマンドの契約をしてしまった。
そのような中で、大画面に向かう時間が増えたのが”YouTube”の視聴だ。テレビパソコンなるものが世に出てから大分立つが、パソコンの利用環境、いわゆる椅子に座って40cm位で画面に向かう姿勢で長時間映像を見るのはどうもなじめない。短時間であれば良いが、最近は長時間も動画コンテンツも増えてくるとどうしても少し離れた状態で、場合によっては寝そべって視聴したくなる。という訳で、最近はテレビの前にIpad持参で、それを繋いでみたり、テレビのネット接続でみたりする時間が多くなった。これが、自分の大画面テレビの今の利用状況だ。今後テレビ受像機側のネット接続とアプリがますます大事になるような気がする。

自宅の女房は自分と較べるとテレビ中心の生活。最近忙しくしているようなので適当に録画をしながら自分のタイムテーブルを作ってテレビを視ている様である。平均的な視聴者像かもしてない。そういう彼女も最近はパソコンに向かう時間が増えたようだ。ノートパソコンを使いながらの「ながら視聴」が増えたとか。

要は、生活者にとって、「テレビ視聴」は「伝送路」や「視聴する機器」の問題ではなく、当たり前だが中身の番組の話。それが視たい物か、そうでないかが一番だ。さらに、リアルタイム放送で観たいか後でゆっくり自分の時間に観たいかも番組の中身の話だ。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (8) 視聴者はどのようにしてテレビを見ているか

2011-08-17 | Weblog
今朝の大きなニュースは、googleによるモトローラの買収だ。先日、ネットワーク時代のデジタルは「大陸のデジタル」という話をしたが、いよいよ大陸同士の合体が始まった。Googleはソフト産業の雄だが、google自体が自分でコンテンツを持っている訳ではない。人のコンテンツを利用し易くする道具の提供が事業の核。これからはいよいよハード(デバイス)と合体して、生活者一人一人にとって最強かつ最も便利な「コンテナ」を提供しようということになる。最近ではこの大陸のことを「プラットフォーム」という言葉で表すのが一般的だが、誰が今までのレイヤ(事業領域)を越えてプラットフォームを制覇するかの競争の段階になった。一企業というよりは業界生き残りをかけた戦争の始まりだ。

さて、テレビ放送が誕生した時、生活者はどうやってテレビを見ていたかというと、まず「街頭テレビ」が始まりだった。テレビは最初庶民にとっては高嶺の花。一体何が映るかも分からない時、人を惹きつける分かりやすいコンテンツとそれを体験できる場が大事だった。ショールームとしては駅前の街頭は最適であった。そして、コンテンツはプロレスが大人気になり、これで普及に弾みをつけることができた。パブリックビューイングの走りともいえるが、街頭×プロレスは一緒に見ている人同士が感動を共有化できた効果も大きい。丁度団塊の世代が小学生になる頃、昭和30年前後の話だ。





テレビが家庭に入っていくと、それが置かれたのは家族団欒の中心の茶の間に。昭和30年頃はまだリビングという言葉も一般的では無かった。人気番組の放送時間に合わせて、家族はテレビの前に集まってくるという習慣も生まれた。テレビの視聴率調査の始まりも、このような視聴形態であり習慣を前提にしたものであった。

テレビ受像機はもちろんモノクロのブラウン管。今思えば映りの悪い小さな画面を食い入るように見ていたものだ。受像機の次の大きな転換点は、カラー放送の始まりとカラーテレビ受像機の普及だ。普及に弾みをつけたのは1964年東京オリンピック。しかし、テレビ放送が全面的にカラー化されるにはそれから10年以上かかる。それまでは、モノクロの番組とカラー番組の混在する期間が続いた。新聞のテレビ欄にもカラー放送の表示が付いていたが、テレビ欄を見ているとその時代のテレビの進化の状況が分かる。
いわゆるメカ物は技術の進化に合わせてどんどんバージョンアップされていくが、いつも悩ましいのは古い物が使えなくなってしまうことだ。多くの場合は「上位互換」は保証されるが、古い物は見捨てられる。このモノクロからカラーへの転換で特筆すべきは、古いモノクロテレビでもカラー放送が見ることができたこと。もちろん色はついてはいないが、新旧の仕様で「相互互換」が保証されたことは大きい。今回のデジタル放送への転換の施策とは大きな違いだ。

今回の「地デジ化」の大騒ぎも簡単なチューナーさえ付ければ、これまでのアナログテレビは使えるし、CATVなどの有線サービスでは当面デジ→アナ変換サービスを行っているので、実は新しいデジタル対応の受像機への買い替えは必要なかった。しかし、今回のデジタル放送への切替では、受像機の買い替えをしなければならないような世論が作られた。丁度、家電の救世主になるはずだった薄型テレビの販売に力を貸す形をとったのだろう。しかし、結果的にテレビ受像機ビジネスも各社大赤字、生活者もまだ使えるアナログテレビを大量にゴミにしてしまう結果に。生活者視点を忘れるとこのような事態になってしまうのは仕掛けた当事者は自業自得だが、生活者も少し賢くならなければならない。

さて、カラーテレビが普及すると、テレビはパーソナル化に向かった。一家に一台から一部屋に一台。さらに一人一台へ。さらには生活シーン毎に一台へ。これと共に、家族団欒といった生活習慣が消えて、家族が単なる同居人になっていってしまったのは皮肉なものだ。受像機のサイズも大きな高品質な映像を追求したハイエンドモデルから、ポータブルな小型テレビまで多種多様なテレビが視聴形態に合わせて選べるようになった。
そして、1990年代後半以降はパソコンやカーナビなどへのテレビチューナーの搭載が進み、デジタル放送時代になると携帯でもワンセグ放送が受信できるようになった。最近はスマホブーム、ますます便利に利用できる環境が揃ってきた。まさに、ユビキタス時代に対応した、いつでも、どこでもテレビを見ることが出来る「テレビ受像機の普及」の目的は成し遂げられた。

自分自身も現在リビングの大型プラズマ、ダイニングキッチンの小型の液晶、書斎のパソコン、携帯、カーナビ(これはまだチューナーを交換していないが)と5箇所の利用環境がある。テレビ放送側からすれば、昔からの大きな目標であった「テレビ視聴の環境がすべての生活シーンに拡大」されたことで、本来は業界全員がハッピーエンドになるはずであったのだが。実際には生活者の中では10年前頃から反対に「テレビ離れ」が起るという大誤算に遭遇してしまっている。この原因を順次解きほぐしてみよう。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (7) テレビ局の「お客様」は誰?

2011-08-13 | Weblog
何の商売をやっても「お客様」が一番大事なのは変わらない。特に最近のマーケティングでは顧客のニーズに合わせて商品プランするのが当たり前。珍しい魅力ある商品ならば別ではあるが、いわゆるプロダクトアウトのマーケティングは一昔前の話だ。

さて、テレビ番組(放送)も商品と捉えれば、テレビ局の「お客様」は誰かということになる。NHKは視聴者全員(正確には視聴世帯)から、聴取料を税金のように徴収しているのだから視聴者をお客とは捉えていないであろう。
それでは民放はどうか?
広告のおかげで無料視聴なので、視聴者からすればタダで視るのだから、多少つまらなくとも仕方がないと割り切って視ている。他に手頃な楽しみが無い時代は、「タダだからテレビでも暇つぶしに見るか」ということになっていた。
一方で、局側も放送電波の割り当てを受け、民放とはいえ公共放送の役割を担っているので、視聴者のニーズだけに迎合するのではなく、メディアとして社会的な責任を持った番組作りをしなければならないという建前もある。
そのような本音と建前を混在させて議論をしている内に、放送局にとっての「お客様」の顔が見えなくなってしまった。

ビジネス的なお金の回り方からみれば、お金の出し手はスポンサー(広告主)になる。新聞・雑誌はまだ自分で購読者に買ってもらおうという努力をしているが、テレビの場合は番組を制作する費用だけでなく、自分達の給料に至るまで何から何まですべてスポンサーからのお金で丸抱えでは、タニマチであるスポンサーには頭が上がらない。いつの間にか視聴者の存在を忘れ、スポンサーのご機嫌ばかりを伺うようになってしまった。番組の内容にまで注文を出すスポンサーも当たり前になり、本来のテレビのあるべき姿はいつのまにかどこかに行ってしまった。タニマチをお客と勘違いしているのは、最近無気力や八百長騒ぎで話題に事欠かない相撲とか芸能界と同じである。タニマチのご機嫌取りに忙しく、本来の伝統や文化の継承、創造は二の次になってしまう。

このスポンサー至上主義に拍車をかけたのが視聴率だ。放送局に行くと、よく「何パーセント獲得」とか、「ゴールデン一位とか」、視聴率の高さに一喜一憂する張り紙が目立つ。高い視聴率が獲得できた時代にはこれも励みになったかもしれないが、二桁の視聴率をとるもの中々難しい時代だと、視聴率の高さを誇っていたビラを張り出すにも空しさを感じる。昔だったら落第点だったものを張り出すようなもので、自分達の無力さをさらけ出しているのだ。

大昔は視聴率を気にせずスポンサーの意向でよい番組が長く続くということもあったが、今のように番組も切り売り状態になると、視聴率の低い番組はいくら良い番組でも途中で打ち切りという羽目に陥るようになった。
視聴率が低いと、番組スポンサーの広告費が下がるだけではなく、局とっての稼ぎ頭であるスポットの料金にも影響してくるのが痛い。スポットが減ると利益が急激に減るので番組作りにますますお金がかけられなくなる。結局視聴者に受け入れられる番組が作れずまた視聴率が下がるという悪循環に陥っている。これは何も昨日今日に始まった話ではなく、テレビ離れが始まった時から言われている根本的な課題だが、今だ「解決策が見出せた」という話は聞いたことが無い。

視聴率にまつわる話はたくさんあるので追々語ってみよう。自分は学生時代今から40年以上前に視聴率調査のアルバイトをやっていたことがあるが、世の中はこの40年で大きく変わった。しかし、視聴率に関してはその当時の仕組みと今でも基本的に変わらない。テレビ局はこの旧態依然とした指標だけを頼りにして、未だ本来の自分の「お客様」である視聴者の実態を捉えていない。捉えていないどころか接点も少ない。これでマーケティングが出来る訳は無い。
一方で、加入者が急増したCATVは、放送波をケーブルを使って各家庭に届ける役割を担っているだけだが、地域密着型で自分の「お客様」の顔はすべて分かっている。更に各家のテレビの台数、配置図まで分かっている。更に、デジタルの時代になったので、各家庭のテレビで何の番組が見られていたかの記録、すなわち本当の視聴率までとる事ができるようになった。

これからのテレビにまつわるビジネスを考える時、お客の情報を全く持っていないところと、お客の情報をすべて持っているところのどちらがビジネスをやり易いかといえば、答えは明白だ。放送波がいいか、有線ケーブルがいいかという議論はあくまでも技術や利権に絡む内輪の話。聴者側から見れば、今後自分達のためにより良いサービスを提供してくれるのはどちらかということだ。「お客は誰か?」という話も、生活者視点で考えれば簡単な話なのだ。間違ってもタニマチはお客ではない。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (6) デジタル時代のコンテンツとコンテナと関係は?

2011-08-10 | Weblog
自分が仕事でIT関連に携わり始めたのは、ちょうど昭和から平成に代わった頃。いわゆるバブルの真最中であった。「社内システムの再構築」という大プロジェクトに参加した時からだった。それまでは、大学こそ理系であったが仕事は現場のマネジメント。システムとは遠い「アナログの現場仕事」の場所だった。当時、バブル時代は企業の収益にも余裕があったので、プロジェクトをスタートするにあたっての調査や視察には大判振る舞いで予算があった。おかげで色々勉強させてもらった事が、個人的にも今残っている「資産」である。今のように経費をひたすら切り詰め、目先の利益ばかりを追うようなマネジメントでは、俯瞰的に物を見る機会も無く、企業の中で人材が育つことはないだろう。

そんな時代に、あるセミナーに行った時に資料が配られた。4枚の図版であったが、内容は「20年後のITの世界を予測する」というようなものであった。それから丁度20年が過ぎた、まさに今の時代を予測した資料であった。出展はハーバードビジネススクールであったように記憶しているが、実はその4枚の資料が、自分のそれ以降の仕事のバイブルになった。大事にデータにしてとっておいたが、昨年ハードディスクのクラッシュと共になくなってしまった。丁度、現役を退くタイミングでもあり、結果の入り口を見届けた直後でもあり、何かの節目だったのかもしれない。

その内容は、世の中のデジタル化の進展の俯瞰図であった。当時1990年を基点として10年前の1980年はどうだったか、そして現時点1990年はどうか、10年後の2000年はどうか、さらに20年後の2010年はどうかという構成であった。変化の激しい時代の20年先はどうなるか分からないということをよく聞くが、その資料に描かれていた20年後は概念であったが妙にリアリティーのある絵姿であった。そして、今その絵を思い出すと、世の中はその通りになりつつある。世の中で予想は当たらないというのはギャンブル位で、人口予測、技術予測の類は確実に予測どおりになっている。特に技術の場合は進化の度合いが幾何級数的なので、スピードを増して劇的に変わる。20年前まだパソコンが一般的ではない頃、100Mのハードディスクは貴重品だった。今やメガからギガを経てテラのオーダーに入っている。

1980年に始まる第1期のデジタル化とは単品のデジタル。
我々は俯瞰図をみながら「島のデジタル」と言っていた。まさにレコードがCDに替わった時代だ。この間で、世の中の多くのメカニック物がデジタル物に替わっていった。メーターや時計のような小物から、最後はカメラ、コピー機、自動車部品の類まで。ひとつひとつが確実に。でも、世の中のビジネスモデルは大きく変わることはなかった。レコード屋の商品棚がLPからCDに替わっただけだ。自動車も電子部品だらけになったが、自動車は自動車だ。ただし、メーカーでは機械工学に長けた技術者は仕事が無くなっていった、反対に引張凧になったのは電子工学のエキスパート達だった。いわゆる「物づくりの伝統」もこの流れともに消えていった。

単品のデジタル化が進むと。次に起ったのは複合化だ。デジタル化された機器は機能の共通化がやり易い。いつの間にか、オフィスにバラバラに置かれていた、コピーとファックス、そしてプリンターはひとつの筐体に収まるようになった。個のデジタル化の進化の結果である。今の携帯電話には一体いくつの機能が収められているのだろうか?電話はもちろん、時計、万歩計、メモ帳、予定表、辞書、地図、メール、インターネット端末、財布・・・・など限りがない。昔はそれぞれアナログの道具でかばんやポケットに入れて持ち歩いていたものが、今では手のひらにすっぽり入る端末にすべて集約されている。デジタル化による個の道具の究極の複合機だろう。図版上では、点の商品やサービスが「大きな島」になるように表されていた。隣り合っていた点がいつのまにか小さな円に変わっていった。

1990年代の中頃から、現在に至る間に急激に成長したのが「デジタルネットワーク」である。これを我々は「島のデジタル」ではなく「大陸のデジタル」と呼んでいた。離れ小島に住んでいる人の日常生活は島の環境の制約を受ける。ところが他の島との移動手段ができ、本土とも繋がると島の生活も一変する。そして、橋やトンネルで結ばれてしまうと、そこはもう島というのではなく、地続きの本土の一部になってしまう。
デジタルの世界も全く同じで、単独の機器がいくらデジタル化してもそれは単体の機能が便利になるに過ぎない、しかし何らかの手段で外と繋がるとその機能は爆発的に進化し変化する。点在していた小さな点や、できたての円が統合されて色々な形の面が現れる。
丁度この期間に合わせるように登場し進化したインターネットの普及と引き続き起ったブロードバンド化が、「島のデジタル」から「大陸のデジタル」への変化をさらに後押しすることになった。

このように「単品のデジタル化」と「デジタルのネットワーク化」は相互に関連はするが、全く別の物として捉える必要がある。何故ならば、「大陸のデジタル」のビジネスモデルは既存のモデルを根底から変えてしまうからだ。レコードがテープやCDになっても、街のレコード屋は生き残った。もちろん大型店への集約や通販の台頭ということは起ったがメディアを売るという商売は変わらなかったからだ。しかし、音楽の提供方法がネットワークを経由するダウンロードサービスやオンディマンドサービスになると、街のCDショップは規模が大きくても小さくても不要になる。これが、ネットワーク化の怖さだ。
国の施策もいつの時からか「IT」から「ICT」に変わっている。このC= Communicationが加わった事がネットワーク化を意味している。

この資料にもうひとつ大事な切り口が図解されていた。IT関連のビジネス、サービスを、「コンテンツ」と「コンテナ」の2軸に分けて図表上にプロットされていた。鉄道に例えればコンテンツとコンテナとは貨車と荷物の関係だ。さらに区分すれば貨車とは、貨車本体、それに載せるコンテナボックス、さらに貨車の走る線路に分かれる。荷物を捌くコンテナヤードも重要な機能だ。要は荷物の移動に必要な移動手段全体がコンテナになる。ビジネスを考える上ではコンテンツビジネスをするのか、コンテナビジネスをするのかをまずははっきりさせる必要がある。アナログ時代には、コンテンツはコンテナに組み込まれて固定化されて切り離すことができなかった。このコンテナを取り扱うことがコンテンツを扱うというように思い違いをしていた。街のCDショップは今までコンテンツとしての音楽を売っていたのではなく、音楽の入ったコンテナとしてのCD盤を売っていたということだ。同じようにアマゾンの倉庫も、宅配便業者も今はコンテナビジネスをやっているということになる。コンテンツが紙に印刷され束ねられた物が新聞や雑誌になった。しかし、デジタルになるとコンテンツだけを簡単に切り離すことができる。残された紙の束は無用の長物になってしまった。

これまで、デジタルテレビ放送についての入り口の議論として、放送波かCATV回線かの課題を述べたが、これはコンテナの一部、番組の提供方法いわゆる「伝送路」についての問題だけだ。視聴者にとってはテレビを見ることができれば、その裏側は何の線に繋がっているかは実はどうでもよいことなのだ。地上波テレビ放送はコンテンツビジネスなのか、コンテナビジネスなのか、あるいは両方なのか、従来のモデルが終焉を迎えようとしているのに、この辺りの整理もまだついていないように思う。「大陸のデジタル」にテレビ放送が投げ込まれた時それはどうなるか?の答えが必要だが、それはゴールから想像すればそれほど難しい話ではない。実は整理がついていないのではなく、現状から類推すると自分たちの今の存在が無くなってしまうから整理を躊躇しているだけなのだと思う。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (5) 区域外再送信問題はCATVばかりではない

2011-08-07 | Weblog
CATV局が都市圏のキー局の放送を「区域外再送信」を始めたのは、都市圏近郊の都市から。そもそも、キー局の電波が届いている所であれば、電波事情が悪い環境で各家庭が苦労して観るよりCATVを利用して観ればよいというのは道理が合う。それに文句を言うのであれば、「県境を越えて電波を飛ばしてくるな」という話になりかねない。
今回のデジタルへの切替時もこれは基本的に「良」とした。しかし実際には、なし崩し的に各地域に拡大し、かなり遠隔地までそれが視聴者にとっての既得権になっている。中には、首都圏からの転勤族が多く、彼らのニーズが大きいという理由付けをしている所もあるようだ。それらの対応が今後問題になるが、6月にもいくつか「大臣裁定」が出たようである。

この「転勤族のニーズ」といえば、今日の国際化された時代では国内ばかりではない、海外の転勤者もかなりの数になる。そして、海外こそ日本のテレビが放送されているわけでなく、そこで日本のテレビ放送を見たいというニーズこそ根本的なニーズだ。
では、海外に向けて、区域外送信を行えばよいという話になるが、それはそう簡単な話しでではなかった。海外への放送波の配信となるとこれまでは衛星回線が必要になるし、NHKの国際放送を始めとして一部の番組が現地の日本語チャンネルに提供されているのが一般的だ。

しかし、ブロードバンド環境の整備より状況は一変した。極端な話、ブロードバンド上では誰かがやろうと思えば、それ程のお金をかけなくても高品質な放送番組を配信することは可能な時代になった。放送番組に関しては著作権法上かなりの制約があるが、個人の視聴に関しては基本的に何でもあり、複製(録画)も構わないというルール、視聴者にしてみれば既得権が長年運用されてきている。



そこに知恵者が法の隙間を突くようなサービスを始めた。世界何処からでもインターネット経由で機器の置いてある場所の放送を見ることができるソニーのロケーションフリーテレビのハウジングサービスを「まねきTV」が事業として始めた。要は、個人が自分のための「区域外再送信サービス」をやるための一括アウトソーシング請負業だ。理屈上はあくまでも個人が自分で自分のためにやる話なのでお咎めが無いのが通例である。放送局側は当然法的に争ったが勝ち目は無かった。これが、「区域外再送信問題」の突破口になるのではと、関係者はその行方に注目していた。

ところが、今年の1月にこの争いに最高裁が逆転判決を下した。細かい法解釈については門外漢なので細かいコメントを控えるが、要はいいがかり的な小さな根拠を探して、このネットを利用した送信は著作権法上違法という結論にした。此れまで通信と放送との争い事の主管は総務省、機器やコンテンツになると経済産業省も関係してきたが、この著作権となると文部科学省がこの問題の当事者として新たに登場した。

デジタルネットワーク時代のコンテンツ流通は間違いなく今までよりははるかに活発になる。その中で、著作権の考え方と法的な整備はかなり重要であり、先を見越した対応が世の中的には求められている。例えば、今回の話の主役であるテレビ番組と呼ばれる物の著作権はかなり昔のルールのまま最近まで運用されているために、時代のニーズに合わなくなっている。その為に、せっかくコンテンツとして優良な「放送番組」が死蔵されたままにあるのはあまり知られていない。再放送に関しての取り決め、テレビ放送以外への利用など、いわゆる時代が要請しているコンテンツのマルチユースに対しての対応がこれまで全く遅れているからだ。イギリスのBBCはかなり前から、この時代を迎えるにあたって、著作権の考え方をグローバルで見直し、整備したと聞いている。

実際に、Youtubeには過去のテレビ番組はかなりアップされている。多分これらはすべて違法であろう。しかし、これが現実なのだ。このような中で、今回の最高裁の決定はこの流れに全く逆行し、どうしても石器時代の遺物を守ろうという判断にしか思えない。
世の中のデジタル化&ネットワークの進化は一段とスピードを上げている。いま業界の話題はクラウドサービスだ。これが一般的になれば、企業であろうと個人であろうと、データ、コンテンツ、そしてそれを処理するアプリケーションを皆で共用するような形になっていく、勿論その中で権利、セキュリティー、プライバシーなど守らなければならないものは守られていくが、コンテンツ自体がネットワーク上を行き来するのは当たり前になる。まずは、ネットワーク上のコンテンツ流通を「是」とするところからスタートしないと物事は始まらない。それを著作権法上で否定するということは将来禍根を残すことは間違いない。テレビどころか、日本のコンテンツビジネスは終わりかもしれないというのもまんざら大げさではないかもしれない。

同様な意見は山ほどあるが、


「まねきTV事件」最高裁判決でクラウドも国内勢全滅の検索エンジンの二の舞か?


まねきTV最高裁判決についての補足

[著作権][時事]まねきTV事件最高裁判決のロジックを読み解く...試み


この判決を推す意見は誰がいるのだろうか。
デジタル&ネットワーク時代の著作権については、また別にじっくり語ってみよう。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (4) CATVの域外再送信問題は一応決着しているようだが?

2011-08-04 | Weblog
地上波放送同様、CATVもサービスエリアが限定されてサービスを提供している。放送波の場合は地域を限定しているとはいえ電波は空を飛んで行くもの。厳密に境界を設定できるわけではない。ラジオと違って東京では隣のサービスエリアのテレビ放送が受信されるということは無いが、例えば瀬戸内地域では本州側で四国の放送を見ることができるし、反対に四国で本州側の放送を受信できたりもする。一方、CATVは一戸一戸線を引いていくので、そのサービスエリアを厳密に運用することは物理的に可能である。何も県境に限定せず、生活圏でくくるというようなことも実際には可能だ。CATVは当初地上波の難視聴地域対策としての共同アンテナからの配信という役割が大きかった。しかし、CS、BSなどの放送が増えるにつれて、これらの番組の再送信の役割も果たし、有料サービスが可能になってきた経緯がある。この再送信問題という中には、リアルタイムで同一番組を配するだけでなく、放送日・時間帯を変える「異時再送信」や「編集を加えた再送信」もありうるが、これは局としては「編成権」を侵害されるので簡単に譲れない部分だ。その話はまた別に論じることにする。

有料サービスが可能になると、設備投資に対する加入世帯増が大きく見込める大都市ケーブルテレビは事業として育ってきた。一方で地方のCATVは難視聴対策からスタートしたところが多いのでバラつきがでてきた。統計数字を見るとその地方でのCATVの普及率が県毎に大きく差があることが分かる。例えば東京近郊では山梨県の88.6%。長野県の58.0%。群馬県の18.6%と較べても高率であることが分かる。群馬は東京の放送エリアであることの意味が大きい。そして、大きく伸びている地域の中身は有料のCATVサービスだ。CATVのサービスエリアは県域よりも狭く、多くは市のレベルになる。つまり、同じ長野でも、松本、諏訪、軽井沢で異なるサービス事業者が提供することになる。同じエリアでは複数のCATV事業者の競争は無いので、CATV事業者の競争相手は地元の地上波放送テレビになる。無償の地上波に対抗するために、有償のケーブルテレビはキラーコンテンツとして「東京キー局の番組の域外再送信」を行った。

テレビ東京のように、都市圏以外の地方に系列局を持たないチャンネルは再送信をしてもらえることで視聴可能エリアが広がるので利害は一致する。すなわちビジネスベースでの解決の可能性が残される。しかし、系列の地元局としては、基本的に同一番組を流しているので、東京の局を視聴されると地元局が見られないといういわゆるドレードオフの関係になる。番組を主体に考えればどちらで見られようと問題は無いのだが「問題は広告」である。全国ネットの番組提供は基本同じ広告なのでいいとしても、番組間のいわゆるスポット広告は地方と東京で異なる内容が放送される。東京に住む人間が地方に行ってテレビを見ると真っ先に感じる部分だ。一時代前は東京の華やかな広告に対して、地方局は静止画のスライドということもあった。当然、同じ番組を見るのであれば東京の局で見たいというのは視聴者側の心理である。東京からの転勤者だけでなく、東京の持つ情報発信機能に興味がある地元在住者も同じような意向になるのはやむを得ない。このスポット広告こそが、地方局の主たる収入源だが、そのスポットCMの効果や料金を決める上でこの再送信問題はあまり公にはしたくなかった問題である。広告料金は基本的に視聴世帯数と視聴率で決まる。仮に視聴可能世帯数の中の実際の視聴世帯が半分になってしまうことが明らかになると同じ広告でも料金が半分になってしまうという訳だ。

アナログ放送時代から、この域外再送信問題は地方局の存立基盤を揺るがす話になるので問題視はされていた。しかし、結果的に視聴者の利益確保という点から多くの場合は許可を受けた上で、アナログの地上波は東京キー局の番組が各ケーブル局に再配信されていた。しかもそのエリアは隣接地域だけでなくかなり離れた地域まで行われていた。
デジタルへの完全切替を前に、唯でさえ地方局の存在理由が問われだしている中、このままでは地上波放送の存立に危うさを覚えた地上波局は、この問題を大臣裁定に持ち込んだ。総務省側でもこの問題に関しての研究会が開かれ方向性が提示された。現在はこの最終報告に従う形で今はガイドラインが出されていると思う。基本は隣接地のみに限定されることになった。デジタルへの切替に向けて、諸々の課題をソフトランディングさせるために、視聴者利益を守るための経過措置(激変緩和措置)が行われることになり、現在実施されているところは、26年までの3年間の暫定延長が行われるというのが現時点での落とし所になっている。しかし、これはいつものように問題の先送りでしかないと考える。

実は、この一連の流れの中で、ひとつの事件があった。このような地方のケーブルテレビで先進的な取組みをしていたひとつの局に諏訪ケーブルデレビ(LCV)がある。ここが、デジタル放送が始まったのに合わせて、アナログ放送と同様にデジタルの再配信を始めた。しかし、このやり方がまずかった。東京に勝手に受信装置を置き、それをネット上で諏訪まで配信するという禁じ手を行ってしまったために、違法性を問われることになった。結果的には、経営責任を問われるまでの事態になり、つい最近まで再配信はできなかったという事態を招く結果になってしまった。「御柱祭り」の完全中継など、地元のコンテンツ開発などでも実績を残していた局だけに、この問題の影響の範囲は少なくなかった。

しかし、問題の本質はここにある。ブロードバンドネットワークが充実した現時点において、キー局のデジタルハイビジョンコンテンツの配信を、特別に高額な装置を設けなくとも簡単にできてしまうという事実が逆説的に実証されたということになる。ここにブロードバンド通信ネットワークの脅威の根源がある。既存のネットワークを利用して、放送コンテンツのリアルタイム配信が諏訪どころか世界中に対しても可能だということになる。放送波の利用というのは、各家庭までのネットワークインフラの整備が行われていない状況では非常に有効な手段だった。しかし、ネットワークが整備されてしまうと、その利用目的は何が最適かをもう一度議論し直さなければという話に至る。ただしその放送波の利権上でビジネスを行っているところは、死活問題になってしまうのを覚悟しなければならない。

ここで一番大事なのは、既存の利権者の意向ではなく、「視聴者ニーズは何か」という事だ。少なくともアナログ時代から、お金を払ってでもCATVに加入して東京の番組を見たいというニーズがあった中で、提供側の事情で無理やり見たくもないテレビ番組を見せることを強いることが長続きするとは思えない。少なくとも、「地上波放送の今の権益」vs「通信ネットワークの戦い」の行方は平成26年7月まで延長されているので、引き続き注目してみよう。その間にまた一波乱ありそう感じがする。
今回の経過措置もそうだが、既存の権益が損なわれないという視点でしか運用の細目が決められていないが、反対に既存の権益は損なわれても将来に向けて「生活者のためにはこうあるべきだというガイドライン」を作ることが本当は国策だと思う。でないと世の中の変化や改革にはついていけない。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (3) スカイツリーは地上波デジタル放送に本当に必要だろうか

2011-08-01 | Weblog
というような、お題を書くと不可思議に感じる方もいると思う。地上波デジタル放送の放送波を送出するために、スカイツリーを建てたのに何で今更と。
デジタル放送にはより直進性の高いUHF帯域を使うため、都心のビル影の難視聴対策を含め東京タワーより高い放送塔が必要で、場所の選定を含めかなり前から準備されてきた。まさに完成間近というタイミングで何故?

自分は、自宅も実家もCATV経由でデジタル放送を見ている。デジタル化以前のアナログ時代からCATVのユーザーだ。自分のような人間が果たして多いのか、少ないのかはあまり気にすることはなかった。周りに聞くとちらほらいた。自分の場合は自宅がマンションだったので、建物全体がCATV対応になったのをきっかけに、CSチャンネルを見るために加入したのがきっかけだ。その後、デジタル対応、ネット、電話を切り替え、結局CATVに集約してしまった。彼らの戦略に嵌ったといえばそれまでだが、結果的に便利に利用しているのも事実だ。

ひとつは、CATVは地域サービスなのでサポートが手厚いということだ。オーディオビジュアル系の機器をかなり複雑なつなぎ方をしているので、色々注文を出したがコールセンターから実際に作業をしてくれたスタッフまで快く対応してもらっている。
例えば。テレビのチューナーと録画機の間のiLink接続。最初は韓国のHumax製のHDD付きのチューナーだったので相性が悪かったが、相性のいいPanasonic製の古い機種を探してくれて大感激。接続確認までちゃんとしてくれる。自分は専門家ではないが、自分で色々やるのが好きだ。それでも苦労しているデジタル機器の接続だが、機械音痴の人は一体どうしているのか心配になる。

CATVを利用すると結局放送波を受ける受信アンテナは自分で用意しなくてもいい。まずはこれが便利だ。神奈川や埼玉を含めたU局も入る。そしてBS、CS、FMラジオも。これらを全部受けるとなるとアンテナは何本いるのだろう。
実は放送波の利用は、送り出し側は楽だが、受ける側はモバイル利用以外ちっとも便利ではないのだ。利用者視点で考えれば、いわゆる通信会社がうたい文句にしているトリプルサービスに集約されていくのは必然である。

では、このCATVがどの位の普及しているのだろうか。しばらく、この手の数字を見たことが無かったので、今年の6月の総務省の資料を見てみることにする。

「ケーブルテレビの現状」 平成23年6月 総務省情報流通行政局地域放送推進室

全国での世帯普及率は48.8%。思ったより多い数字だ。それとは別にIPマルチキャスト送信、いわゆる光TVも90万世帯を超えて増えている。県別の数字をみると都市圏の普及率が高い。地方は高いところと低いところが極端に分かれる。山梨は88,6%、福島は15.6%だ。それぞれ事情があるのだろう。都市部を見ると、大阪は100を越えて112,8%、そして肝心な東京は98,7%、6,216,208世帯の数字が読み取れる。
この数字は、自主放送をしていない、単なるパススルー機能だけのものも含んでいるので、一般的なCATVサービスに加入している世帯だけに絞っても、4,729,842世帯、75,1%になる。全世帯の3/4を越えているのが実態だ。

母数が住民基本台帳の世帯数なので、100を越える理由は、住民登録をしていない隠れ住民が多いのか、一世帯で複数契約をしているのが理由だろうか。細かいところはこの表からだけでは読めないが、いずれにしても東京都で地デジ用アンテナの無い世帯が600万世帯という数字の絶対値はかなり。つまり、受信用のアンテナを必要としない、つまりテレビ塔からの放送波を受けていない世帯が大半だということになる。

先日、自宅の前の家にもCATVの工事車両が来ていた。今回の完全切り替えで、CATV契約者はまた増えたであろう。結局、せっかく建てたスカイツリーは無用の長物ということになってしまうが如何なものか。もっとも、観光資源として下町の活性化に一役買うことは間違いないので。全く無駄というわけではないが。
次回は地方の数字の高い所を追ってみよう。ここにも、あまり放送局が公にしたくない事実がある。
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次世代テレビ放送はどうなるか? (2)アナログテレビもネットーク化されていた

2011-07-28 | Weblog
ネットワークという言葉はよく聞く言葉だ。そしてデジタル化ではそのネットワーク化が重要な意味を持つ。ところが、そのネットワーク化の意味を曖昧に使っているので、話が見えにくくなることがある。デジタルテレビ放送でも「ネットワーク」が重要だが、何のネットワークかを定義して議論しないと話が混線してくる。

実は、アナログのテレビ放送サービスでも、ネットワーク化は行われていたし、それはビジネス上も重要なファクターであった。それは、何かというと「キー局と地方局のネットワーク化」である。

地上波を利用するテレビ放送は、電波によって放送番組(コンテンツ)が各家庭に配信されるが、その送信アンテナの送信範囲はUHFでもVHFでも限られてくる。したがって、必然的に放送局毎に視聴エリアが限定されてくる。東京でいえは、東京タワーからの電波の届く範囲がそれにあたる。同様に大阪、名古屋、などの都市圏では周辺の県を跨った範囲で、さらに地方に行くと県域に合わせて放送エリアが決められ、そこに放送用のアンテナと放送局が作られていった。

各地方の局はその放送エリアで独自の放送をすればよいのだが、実際にはキー局の番組を入手し、再送信することが仕事の大半であり、独自の番組を制作し放送するのは地方のニュースなど一部の番組に限られてきた。実は、この構造が民間放送をビジネス的にも支えてきたし、結果、国民の生活の中で無くてはならないサービスとして定着したテレビ放送モデルだ。まさに、中央で制作・編成された番組が全国津々浦々で同時に見ることができる強力なメディアプラットフォームそのものだ。逆の言い方をすれば、中央から強制的に全国に番組を送りつけることができるということだ。

これを実現するために、キー局は自局の番組の全国放送のネットワークを構築してきた。公共放送であるNHKはいつの世にもテレビの普及の先頭に立つ任を受け、先行して日本中でテレビを見ることができる環境を整備していった。それに続いて民放キー局も順次地方局を整備し系列に収めていった。

ブロードバンドが未整備の時代、テレビ放送を全国レベルで瞬時に行うためには、無線によるマイクロ波のネットワークが放送局間のネットワークを可能にし、独占状態を作り上げることができた。今では、この基盤も光ファイバーによる有線通信に切り替わっているのも時代の流れである。

実は、技術的に全国統一放送がやり易い衛星放送が誕生した時、本来であれば地上波によるネットワークと衛星放送によるテレビ放送は一度競争をやらなければならなかった。しかし、無用な競争を避けるために、BSは天候によって不都合が生じることが多いとか理屈をつけ、公共放送の全国版に使うのは不適当と位置づけた。また、地上波キー局は自らBS局を持つことにより、自らを守るために正面衝突を避けた。結局。これは問題の先送りでしかなかったと思う。

現在の民間放送の5大ネットワークの現状は以下の通りだ。



東京に住んでいると、いつも見ている番組は日本中何処に行っても見ることができる思いがちである。テレビ東京系列は都市圏に限られるし、他の系列でも実際には系列局のない県もいくつか残っている。地方によっては東京の番組を見れないということだ。テレビがまだ花形だった頃は、新局が出来ることがカロリーアップといって、多少視聴率の取り合いはあっても、全体視聴の伸びが見込まれた。経済的に右肩上がりの時代は、全国の系列が整備されていることが、局間のスポンサー獲得の競争でもアドバンテージになった。
しかし、いつしか地方局を増やすことのメリットがディメリットを上回ることがなくなった。今ではスポンサーにとっては、不要な地域が系列に入っていることが番組提供のディメリットにもなる時代である。

日頃テレビを見ていると当たり前のようであるが、全国同一番組ネットワーク、これがマスメディアというものである。これは民放だけでなく、そもそも国策としてNHKを推進した構造である。テレビだけでなく、新聞や雑誌もそのような経緯で生まれてきた。国レベルで世論形成を簡単に出来る道具ほど権力者にとって便利なものは無い。これまでの歴史の中で、国家権力を持った政権がメディアを手中に収め、権力を行使するためのプロパガンダの手段としてマスメディアを使ってきたのは、このような構造故の必然である。
今あちこちで「マスメディアの時代」の終焉が言われだしたのと、世界規模で「これまでの政治体制の崩壊」が起りつつあるのも相互に深く関連があるからだ。

実は、この構造に広告業界も上手く乗じて、テレビ広告ビジネスを確立させてきた。当初は、全国に配信する番組にスポンサーが一社提供でつき、番組の人気、知名度の浸透に合わせてスポンサーを開拓した。我々の子供の頃は、プロレスといえばM電機、てなもんや三度傘といえばXXXクラッカーといったように。社名や商品を全国レベルで認知させるには、テレビ広告は長い間圧倒的な影響力を持っていた。結果としてスポンサーがナショナルブランドに育つ実績も上げ、巨額の広告費を生む仕組みに育っていった。

しかし、この地上波のデジタル化の流れは一変した。既存の放送設備をデジタル化対応に一新するために、各放送局はそれぞれ多額の投資を必要とした。ビジネスモデルの変更の無い中でのリニューアルはコスト負担だけが後に残る。キー局は自らの利権を守るためには仕方がないにしても、地方局は「キー局と地方局のネットワーク」自体の存在価値が揺らぎ始めている中での決断である。先行き経営的な不安はまだ払拭できていない。

生き残りをかけた地方放送局の再編がこれからスタートする。これまで、アナログ時代は利権を最大限享受できたキー局を核とした系列といわれた地方局ネットワークが、本格的なデジタルのネットワーク化の時代を迎えてかえって足枷になっているとは皮肉なものだ。
テレビ業界が、「ネットワークの括り」が変化するのに気がつくのが遅かったのかもしれない。
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次世代テレビ放送はどうなるか?・・(1) 今回のアナログ停波で何が変わったか

2011-07-26 | Weblog
地上波テレビ放送のアナログからデジタルへの切り替えが、たいした混乱もなく取り敢えず無事に終わったようだ。

でも今回の切り替えは、テレビ放送に使用する「放送波」の切り替えのメインイベント。アナログ用に使われていた放送波が停波し、いわゆる「空地」ができた。今後はこの部分の有効活用が具体化する。放送ではなくモバイル通信への利用が方針としては決まっている。テレビ放送(局)としては、これでデジタル波への引越し(これまでは両方使っていた)が完了し、跡地の引渡しが可能になったという状態だ。

周波数帯域の有効利用にはオークション制度の導入も謳われていたが、どうも本格的にはなりそうもない。最近あまりニュースも追いかけていないのでどうなっているのか。今後注目してみよう。

国が管理する電波の周波数帯域は限られた資源(資産)であり、当然次の世代で有効利用されなければならず、反面限られた資源なので利権化が行われる可能性がある。テレビ局の利権という視点では、少なくともアナログ波を使用していた帯域は返上するというのが今回の出来事だ。

テレビ局は、これまで放送波の利権のとりあえずの確保を真っ先に行うために、地上波だけでなく衛星波のBSにも手を出した。使用できる波が増えれば番組も増やさなければならないが、番組を制作し、購入するには費用がかかる。これまでには、民間放送の事業モデルが高収益を上げることができたので、とりあえずの利権化のコストも全体の中で帳尻を合わせることができた。

これからはそれぞれのビジネスを確立しなければならない。テレビ局とってはこれからが正念場だが、それが「次世代のテレビ放送」の答えになるものだ。

テレビビジネスの全体フローは単純に書けば以下のようなものだ。
今回は、単に「4の送波」の部分が変わっただけ。それに合わせて各世帯では、多くは受像機の買い換えが行われた。丁度デジタル放送の高画質を楽しむための大画面テレビが世に出てきた事もあり、この切り替えはまずまず成功した。アナログ⇒デジタル変換のチューナーもあるので、未対応の人もこれとアンテナを使えばとりあえずアナログのテレビ受像機でも見ることはできるので当座は凌げる。

1. 番組制作(購入)、CM集広
2. 編成
3. 送り出し(送出)
4. 送波
5. 受信
6. 受像機
7. 視聴

一方で、デジタル放送用の送信アンテナが東京タワーからデジタル放送のシンボルであるスカイツリーに替わることが予定されているが、こちらはまだ完成していない。来年テスト運用、本格的な使用開始は2013年の予定なので、まだ先の話だ。

デジタル化が一番の効果を表すのが、それがネットワーク化されたとき。
コンピューターシステムの世界では、ネットワーク化により劇的にサービスの内容が変化した。いわゆる昔オンライン化といわれた世界だ。

テレビの世界も、この1から7までがすべてネットワーク化されたときに、劇的な変化が起る。1から7の個々の要素のデジタル化対応は完成しつつある、あとはどう繋がってネットワーク化されるのかだ。
いわゆる「点のデジタル」から「面のデジタル」へのステップアップだ。順次その中身を解きほぐしてみよう。 
                                             
                                            <続く>
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