大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

030 法隆寺山内・2・・・よくもまあ立ち続けはる五重塔

2010-11-18 08:09:30 | 斑鳩

私も観たことがあるのかもしれないが、法隆寺薬師如来像の光背には「我大御病太平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔」と刻まれているそうだ。ということはこの寺は、聖徳太子によって586年に発願され、601年の斑鳩宮造営、法隆学問寺の創建へと歩んで行ったのだろう。しかし太子没後21年の643年、入鹿に襲われた太子一族は斑鳩寺とともに滅び、670年4月30日には「夜半之後、災法隆寺。一屋無余。大雨雷震」(紀)となる。

法隆寺の再建・非再建論争は「再建」で決着がついたようだが、以来1400年、法隆寺は世界最古の木造建築として人類の遺産になった。歩みが長くなればそれだけ創建当時の記憶は薄れ、謎となって人々を惹き付ける。いつものように修学旅行の子供たちで溢れる西院を中門まで行くと、隣の女の子が「変やわーこの門、真ん中に柱があるわー」と言った。実に鋭い観察眼である。

法隆寺の謎の一つに、この中門の柱がある。正面の柱は5本4間。つまり柱と柱の間は4つということになり、門の中央に柱が立つことになる。両端の間は阿形と吽形の金剛力士像が立つから、伽藍内部への出入りは中央の、左右二つの間のいずれかからということになる。

「どこかに一点の謎のようなものがあった。この印象が気にかかったが、それが何によるのかは分からなかった。首をかしげて立ちこの路をまっすぐに行けば、あの中央の柱につきあたってしまう。行手の門はなかば人を通すようでもあり、通さぬようでもある。門でありながら、塞いでいる。この柱は不思議だった。招じ入れる入口でありながら拒否している」(竹山道雄『古都遍歴』)

「入りを遮る」と考えたのが竹山道雄であった。これに対し梅原猛は、『隠された十字架』によって「法隆寺鎮魂寺説」を唱え、中央の柱は太子一族の怨念を封じ込める意図だと主張した。「出を恐れた」と考えたわけである。歴史の謎は簡単に解明できないからこそ面白いのであって、なかでもいにしえ人の精神性・思考方法という目に見えないテーマは、面白さに尽きるところがない。

だが、答えはもっと単純なのかもしれない。法隆寺の伽藍配置は、門を入ると右に金堂、左に塔が並んでいる。法隆寺に先立って建立された四天王寺は、塔と金堂が門から直列している。双方の寺を訪ねてみれば分かることだが、四天王寺式は配置がカチカチ過ぎていささか息苦しい。これに対し法隆寺式は、バランスを崩したことがかえって開放感を生み、伸びやかな聖域を実現している。

法隆寺の設計者は、四天王寺式の息苦しさを打ち破りたかったのではないか。そこで金堂と塔を、中門と講堂を結ぶ中心線の両側に並べてみる。それぞれの姿が一望でき、荘厳かつ軽やかではないか。だから門は5柱4間とし、金堂へ行くには右側を、塔に行きたければ左側を入ればいいと考えた。真相は、案外こんなことかもしれない。「後の世の人には論争のタネになったそうで、えろうすんまへんなあ」と、苦笑いが聞こえて来そうだ。
 
法隆寺は、なだらかな矢田丘陵が南に尽きるあたりに建っている。創建当時の都・飛鳥を、緑の丘を背に南方に望む土地である。その間には大和川が蛇行し、難波の海から西方の国々にもつながっている。法隆寺とその四囲を彷徨することによって、往事の斑鳩路が体得できたか? まだまだである。(旅・1990.11.1)(記・2010.10.1)

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