大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

023 雁多尾畑・・・山肌を紅葉に染めて雁が行く

2010-11-11 10:29:17 | 斑鳩

紅葉は、北の空から雁が渡って来て山を染めて行くのだと、いにしえの人々は考えた。大和盆地の場合、隊列を組んだ雁が大和高原の彼方からやって来て、難波の海へと渡って行く。その途上、生駒山系の南のはずれ・立田山あたりは、盆地の水が難波津へと流れ出る狭い筋となり、上空は雁の道となる。そうやって竜田山は「からくれない」に燃え上がるのである。雁多尾畑(かりんどうばた)の集落は、その尾根を越えたところにある。

龍田の峠を越えようと、龍田大社から歩き始める。気分は「夕されば雁が越えゆく立田山しぐれに競(きほ)い色づきにけり」(万葉集巻10 二二一四 作者未詳)というところだ。奈良から難波へ抜ける、川の流れに沿う道はといえばここになる。だからこの地と、そして伊勢へ通じる泊瀬川に沿って隠口(こもりく)の入口を押さえておけば、大和盆地の守りはできる。案の定、「関」の跡があった。そして迷い込んだ集落は「峠」といった。

細い道が緩やかな上り坂となり、登り切ったところに峠神社があったから、ここが当時の国越えとなる「龍田の峠」に違いない。住所は奈良県三郷町から、すでに大阪府柏原市に変わっている。それにしても峠と呼ぶのが気恥ずかしいほど小さな坂道だ。ただこれが1200年前だったらどうだろう。都を後にする古代の旅人は、再びこの峠を無事に戻れるか、切実だったろう。

大和川に近づいてみる。このあたりは「亀の瀬」と呼ばれるだけあって、浅い岩場で流れが白い渦を巻いている。こちらは生駒山系、対岸は葛城山系が始まる大和盆地唯一の「排水口」である。私のいる右岸は名うての地滑り地帯らしく、何やら大規模な工事が行われていた。その傾斜地と急流に挟まれた僅かな平地に、数軒の民家が並んでいる。こんな所に!と驚くのは他所者か。

標高差にしてせいぜい200メートルくらいの地滑りの山には、まともな木が一本もない。一面がブドウとミカン畑だ。急傾斜を登り切って、振り向いた写真が冒頭の1枚である。山頂は完璧な「大和展望台」で、左は若草山。そして三笠山から天理、石上、山野辺の道と目を移して三輪山にたどりつく。その右手の小さな三角は耳成山。飛鳥の境は畝傍山だ。さらに吉野、宇陀の山々が霞んでいる。こここそ龍田峠にふさわしいかもしれない。

尾根道を回り込むと、集落のてっぺんだった。狭い急坂が下って行くその両側に、家々が密集している。立派な瓦を葺いた2階家で、豊かな暮らしぶりが伺える。他の集落からは隔離されて、山の斜面にへばりついているような土地ではあるが、古い寺が門を構えていたり、郵便局や農協、学校が並んでいたりして、充実した集落なのである。そこが雁多尾畑であった。

集落の中ほどに光徳寺という古刹があり、創建は千年以上遡るらしい。由来には、この寺の雁鐘にちなんで土地の名が付いたようなことが書いてあった。道路はひたすら下って行く。大きな「かくれ里」に迷い込んだ気分だ。雁はいなかったが伊丹への航空路に当たっているらしく、ジェット機がひんぱんに轟音を響かせて行った。
            
国道に出てバスを待つ。足が痛い。「初めての客だあ」と運転手が笑った。「雁多尾畑ねえ、行って来たの? バスの終点だよ。ブドウとミカンだ。150戸くらいあるかなあ」。王寺の駅まで、運転手はたった一人の乗客にガイド役を勤めてくれた。(旅・1990.12.3)(記・2010.9.22.)

最新の画像もっと見る