坂戸市公益活動団体『北坂戸フォークソング倶楽部』(山木ジョージの桜梅桃李)

 
1960年代~現在の歌を中心に皆さんと一緒に、ギター1本で合唱を楽しむサークルです。

ゲット・バック/ドント・レット・ミー・ダウン

2020年08月30日 | 音楽

 

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

 

やはり中坊の頃 川上くんから頂いたレコード

 

ゆるーいウキペディア転載

 

「ゲット・バック」(英語: Get Back)は、ビートルズの楽曲。1969年4月に発表した19枚目のオリジナル・シングルとして発売された。B面ドント・レット・ミー・ダウン

レノン=マッカートニー名義となっているが、実際にはポール・マッカートニーによって書かれた楽曲で、リード・ボーカルもポールが務めた。リードギターとコーラスは、ジョン・レノンが担当した。また、ビリー・プレストンがエレクトリックピアノで参加しており、シングル盤には「ザ・ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン」と表記されている。

アルバム『ザ・ビートルズ』の制作中に露見したメンバー間の音楽性の違い、様々な軋轢、録音技術・機材の発達に伴い個別作業が増えたことによるすれ違い等、この時期のビートルズは重大な危機を迎えていた。そんな状況を危惧したポールが、「もう一度原点に戻ってやり直そう」と他のメンバーに呼びかけてスタートしたゲット・バック・セッションの中で作られた曲である。

楽曲の誕生

「ゲット・バック」のメロディは、1969年1月7日にトゥイッケナム・スタジオ(英語版)で行われたリハーサルでのジャム・セッションから出来た。その後、僅か数分でマッカートニーはいくつかの歌詞を考えだし、ジョージ・ハリスン作の「サワー・ミルク・シー(英語版)」の「Get back to the place you should be」というフレーズを変形させるかたちで「Get back to where you once belonged (元いた場所に帰れよ)」というフレーズを加えた。1月9日の時点で、マッカートニーは「Sweet Loretta Martin」から始まる2番のヴァースの詞が完成形に近い状態に仕上げていた。マッカートニーは、シングル『ゲット・バック』のプレスリリース時に、「僕らはスタジオに座って、ごく自然にこの曲を作り上げた。言葉を書き始めて、書き終わったらアップル・スタジオでレコーディングして、めまぐるしかった。」と語っている。

1980年のPLAYBOY誌のインタビューで、レノンは本作について「「レディ・マドンナ」の更新版という感じ。ちゃんと書き直した感じかな。」と語った。なお、レノンは「ポールがこの曲の Get back to where you once belonged (元いた場所に帰れよ)の部分を歌う時にヨーコの方を見ていた」とも語っている。

初期の歌詞

マッカートニーが、「ゲット・バック」の歌詞を作成していた頃、保守党議員のイノック・パウエル(英語版)による「血の川の演説」をヒントに「Commonwealth Song」と呼ばれる簡単なジャムを演奏した。 歌詞には「君は自分のコモンウェルス家に帰るのがよい」という一説が含まれていた。グループは"ゲット・バック"のための様々な一時的な歌詞を即興演奏し、"パキスタン人はいらない"のバージョンとして知られるようになった。 このバージョンは、人種差別を告発し、アメリカとイギリスの移民に対する態度を批判していた。「プエルトリコ人はアメリカにいらない」、「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などの歌詞が含まれていた。

 

当時のタイトルは「(Don't Dig) No Pakistanis(パキスタン人はいらない)」で、当時のイギリスでは、大量のパキスタン難民が自国民の職域を侵すと問題になり、排撃すべしという空気が漂っていた。人種排撃を嫌うマッカートニーは、この状況を歌にして自国の現状を逆説的に訴えようとしてこのタイトルを考案したが、逆に歌詞を誤解されて人種排撃に繋がるとして却下され、仕方なくシンプルな歌詞に改められ、タイトルも「ゲット・バック」に落ち着いた。

レコーディング

「ゲット・バック」のレコーディングが開始される前日のセッションで、不和が酷くなったスタジオの空気を和らげることを目的に、ハリスンはキーボーディスととしてビリー・プレストンを招いた。プレストンは、本作においてローズピアノを演奏した。

1969年1月23日にレコーディングが開始され、同日に10テイク録音されたが、この日のテイクはいずれも未発表となっている。1月27日に14テイク録音され、この時点シングル収録テイクでも確認できるエンディング部分が加えられた。同日にレコーディングされた中から、テイク11が最も完成度が高いテイクとされた。翌日[2]にもう一度コーダ部分も含めてレコーディングされ、この日にレコーディングされたテイクからのコーダ部分と、前日のテイク11を組み合わせた音源が作成された。

1969年1月30日にアップル・レコード本社の屋上で行われたビートルズ最後のライヴ「ルーフトップ・コンサート」でも演奏され、映画『レット・イット・ビー』にもライブ映像が含まれている。同公演において「ゲット・バック」は3回演奏され、ラスト・ナンバーともなった3回目では、通報を聞いて駆けつけた警官にレノンとハリスンのギターのアンプの電源を切られ、ベース、ドラム、キーボードのみしか聞こえない箇所があり、間奏ではこれに言及するかたちで、マッカートニーが「You've been playing on the roofs again, and you know your Momma doesn't like it, she's gonna have you arrested!(「また屋上で遊んでしまったね、ママは好きじゃないことは知ってるだろ、逮捕されるぞ)」という語りを入れている。この時の音源は『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』に収録されている。演奏終了後、モーリン・スターキー(当時のリンゴ・スターの妻)の歓声と拍手に対して、マッカートニーが「Thanks, Mo(ありがとう、モー)」と返し、続いてレノンが「I'd like to say thank you on behalf of the group and ourselves, I hope we passed the audition.…(バンドを代表して皆様にお礼申し上げます。オーディションに受かるといいな)」とコメントした。フィル・スペクターは、1月27日に録音されたテイクの前にレノンのトーク、曲の終わりに前述のライブの最後のマッカートニーとレノンのトークを加え、アルバムとは異なるアレンジに仕上げた。

1969年4月4日にEMIのジェフ・ジャレットによってモノラル・ミックスが作成されたが、メンバーはミックスの仕上がりに不満を持ち、同月7日にシングルとして発売するために、オリンピック・スタジオにてマッカートニーとグリン・ジョンズによってリミックスが施された。

 

リリース

シングル・バージョン

「ゲット・バック」は、1969年4月11日にアップル・レコードからシングル盤として発売され、B面には「ドント・レット・ミー・ダウン」が収録された。シングル盤は、4月23日付の全英シングルチャートで初登場1位を獲得。その後6週連続で1位を獲得し、17週にわたってチャートインした。イギリスでの発売から約4週間後の5月5日にアメリカで発売され、5月24日付のBillboard Hot 100で1位を獲得した。キャッシュボックス誌でも5週連続第1位を獲得し、年間ランキング14位を獲得した。

シングル盤は、いずれもアップル・レコードからのリリースとなっているが、契約の都合によりEMIも楽曲の権利を持っている。また、ビートルズの作品で唯一レコーディングに参加したミュージシャンがクレジットされた例となっており、シングル盤には「ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン」と表記されている。

シングル・バージョンには、チェンバー・リバーブの効果と、一度演奏がとまった後に演奏が再開されてフェード・アウトするコーダ部分が含まれている。なお、シングル・バージョンには、アルバム・バージョンにはないマッカートニーの語りも含まれている。シングル・バージョンは、1973年に発売されたコンピレーション・アルバム『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』でアルバム初収録となり、のちに『20グレイテスト・ヒッツ』、『パスト・マスターズ Vol.2』、『ザ・ビートルズ1』にも収録された。なお、1969年秋に発売が予定されていたアルバム『Get Back』には、このシングル・バージョンと、「Get Back (Reprise)」なる音源が含まれていた。

イギリスとヨーロッパ諸国では、モノラル盤が発売された最後のビートルズのシングルとなっていたが、アメリカでは本作からステレオ盤のみの発売となっていた。

アルバム『レット・イット・ビー』バージョン

フィル・スペクターは、アルバムのリプロデュースにあたり、シングルで発売されたアレンジとは異なるアレンジに仕上げた。シングルとは使用されたテイクは同じであるものの、冒頭にはレノンの「"Sweet Loretta Fart, she thought she was a cleaner, but she was a frying pan.…"(いとしのロレッタ・ファート(=屁)。彼女は自分を掃除機(または潔癖症)だと思っていたけど、実はフライパンだったのさ)」というセリフ、曲の最後には、ルーフトップ・コンサートでのマッカートニとレノンのセリフが加えられ、ライブ演奏を彷彿させるアレンジとなっている。なお、シングルバージョンでかけられていたエコーが、こちらでは除去されている。

『レット・イット・ビー...ネイキッド』バージョン

2003年に発売された『レット・イット・ビー...ネイキッド』では同作にはシングルとアルバムで使われたテイクを元に新たに編集されたものが収録されている。アルバム『レット・イット・ビー』に収録のアレンジと同様に、エコーが除去されているが、こちらではセリフなどが省略され、マッカートニーの「Wooo....」でフェードアウトして終わる。

『レット・イット・ビー...ネイキッド』の発売にあたり、レコーディング時の映像などで構成されたミュージック・ビデオが制作された。このミュージック・ビデオは、2015年に発売された映像作品『1+』に収録された。

『LOVE』バージョン

2006年に発売された『LOVE』にジョージ・マーティンと彼の息子ジャイルズ・マーティンによってプロデュースした新バージョンが収録された。

このバージョンでは、「ア・ハード・デイズ・ナイト」の冒頭のコードから始まる。曲中では、「ジ・エンド」のドラムソロとギターソロ、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (リプライズ)」のテイク1におけるドラムのカウント、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラも使用されている。

演奏

ポール・マッカートニー - リード・ボーカル、ベースギター

ジョン・レノン - リードギター、ハーモニー・ボーカル

ジョージ・ハリスン - リズムギター

リンゴ・スター - ドラムス

ビリー・プレストン - エレクトリックピアノ


エリナー・リグビー/イエロー・サブマリン

2020年08月23日 | 音楽

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

 

中学の友達 川上くんから貰ったレコード紹介です。

 

さぁ手抜き紹介 ウキペディア転載

 

「エリナー・リグビー」(英語: Eleanor Rigby)は、イギリスのロックバンド、ビートルズの楽曲。1966年8月に「イエロー・サブマリン」との両A面シングルとして発売された。ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では138位にランクされている。本作はレノン=マッカートニーの作品で、リード・ヴォーカルはポール・マッカートニーである。シングル盤「イエロー・サブマリン」とともに両A面規格でリリースされた。また同日発売のアルバム『リボルバー』にも収録されている。ストリングスをフィーチャーしたクラシック風の楽曲である。

リード・ヴォーカルのマッカートニーの他には、バック・ヴォーカルのジョン・レノンとジョージ・ハリスンだけが参加しており、リンゴ・スターは参加していない。

歌詞は、エリナー・リグビーという身寄りのない老女と、誰からも相手にされないマッケンジー神父という架空の人物を悲劇的に書いた物語調になっている。この主人公の名前は元々「Miss Daisy Hawkins(ミス・デイジー・ホーキンス)」という名前だった。エリナーの名前は映画『ヘルプ!』で共演した女優エリナー・ブロンから、姓のリグビーはマッカートニーがブリストルで見かけた会社の名前から取り、マッカートニーが言葉遊びをしてる間に「リグビー」になった。

なお、後にリヴァプールのセント・ピーターズ教会(英語版)(レノンとマッカートニーが初めて出会った場所でもある)のウールトン共同墓地に実在のエリナー・リグビー(1895年-1939年)の墓があることがわかり、リヴァプールを訪れるビートルズ・ファンの『聖地』となった。ただし歌詞に出てくるキャラクターとは関係ない。

セント・ピーターズ教会の、ウールトン共同墓地にあるエリナー・リグビーの墓石

なお、マッケンジー神父は最初は「マッカートニー神父」だったが、「自分の父親のことだなんて勘違いされちゃ困るなぁ」とマッカートニーが判断して新たに電話帳から選び出した。

ストリングス(弦楽八重奏)の編曲はジョージ・マーティンだが、マッカートニーはマーティンに、「ヴィヴァルディ風に書いてほしい」と求め、マーティンもこれに応えた。ちなみに弦楽八重奏を提案したのはマッカートニー。『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』には、弦楽八重奏だけのカラオケ・ヴァージョンが収録されている。

ビートルズのクラシック風の曲の中で、イエスタデイと共に評価が高く、様々なジャンルのアーティストからカヴァーされている。

本作は、マッカートニーがウィンポール・ストリートのアッシャー夫人の地下の音楽室でピアノに向かって書いた曲であり、後にマッカートニーは自伝『Many years from now』で「ピアノでEマイナーのコードを即席伴奏しながら書いたんだ。それに合わせてメロディをつけて、ダンスするような感じで。殆どインド風のリズムだよね」と語っている。また同自伝より、歌詞に関しては作曲終了後、既にポール・マッカートニーが弄っていた歌詞を元にジョン・レノンが少し手伝いを入れてポール・マッカートニーが完成させた。としている[7]。

これに対しジョン・レノンは「最初の一行はポールで、残りは、基本的にぼくのだ。ポールは、結婚式の最中の教会にいるエリナー・リグビーというメイン・テーマだけを持っていた。彼はこのテーマが手元にあって。手助けが必要なことを知っていながら、ぼくに詞をつけてくれとは頼まなかった。そのかわりに、あの時、『オイ、君たち、詞を書き上げちゃってくれよ』とぼくらに声をかけたんだ。EMIのどでかいスタジオ向こうで、録音をしたり、アレンジや、何か他の事をしながらね。その時、ぼくは、昔、電話工事をやっていたロードマネージャーのメル・エヴァンスと、そして後のロードマネージャーだがその頃は会計士見習だったニール・アスペノールといた。ポールは、この3人に向って(表記:ママ)そう声をかけたんだ。ものをそのへんにほうりなげるみたいなやり方をされて、ぼくはばかにされたような気がして、傷ついた。彼は実際はぼくに詞をつけてくれと言おうとしたんだけど、彼は、頼もうとしなかった。ぼくが頭にきたのは、末期の頃のポールのこういった無神経さなんだ。彼はとにかくそういう男だった」[8]と語っており、大きく食い違っている。さらに、ジョージ・ハリスンが「Ah, look at all the lonely people」というフレーズ、リンゴ・スターが「writing the words of a sermon that no one will hear」というフレーズ、レノンの子供時代の友人であるピート・ショットンが曲の結末を考えたともされている。

 

 


ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス

2020年08月11日 | 音楽

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス

 

中学校時代の川上くんから頂いたレコードの紹介

 

手抜きでゴメン

ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス

1968年に発表された2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称『ホワイト・アルバム』) に収録されているビートルズの楽曲。作詞作曲はジョージ・ハリスンで、「サムシング」や「ヒア・カムズ・ザ・サン」と並んでジョージの代表曲のひとつとされ、ライブのレパートリーに必ずこの曲を加えていた。

『ローリング・ストーン(Rolling Stone)』誌が選んだ「オールタイム・グレイテスト・ソング500」と「オールタイム・グレイテスト・ギター・ソングス100」、さらに「グレイテスト・ビートルズ・ソングス100」に於いて、それぞれ136位と7位、10位にランクイン。

本作は、日本初のアップル・レコードからのシングルとして1969年に「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」のB面として発売された。ちなみに日本でシングル発売された時のタイトルは「マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」と、何故か「ホワイル」が抜け落ちていた。

現在、この曲以降のジョージ作のビートルズ・ナンバーはジョージの個人楽曲出版社ハリソングス・コープスが保有しているが、この曲と同アルバムに収録されている「ピッギーズ」「ロング・ロング・ロング」「サボイ・トラッフル」の4曲は最初アップル・パブリッシングが保有していた。

この楽曲は1968年7月25日にレコーディングが開始された。この日はジョージがギブソン・J-200を用いた弾き語りによるデモ音源となっており。同日にポール・マッカートニーが演奏するハーモニウムのオーバー・ダビングも行われている。この当時のヴァース部分の歌詞は完成版と異なり、「I look from the wings at the play you are staging / While my guitar gently weeps / As I'm sitting here, doing nothing but aging / Still my guitar gently weeps」と歌われていた。ちなみにこの時の演奏は、1996年に発売された『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』に収録された。

その後8月16日にバンド編成でのリメイクが開始された。9月3日のセッションでは初めて8トラックレコーダーが導入され、逆回転のギターソロが加えられたが、このテイクは破棄された。

9月5日に8月22日のセッションを最後に離脱していたリンゴ・スターが復帰し、基本トラックの作り直しに取りかかった。9月6日にエリック・クラプトンによるギターソロがオーバー・ダビングされて完成となった。

ギターソロは、ジョージの親友であるエリック・クラプトンが演奏している。一説に、ジョージがこの曲の特徴であるギターの「泣き」を表現しようとしたが上手く出来ず、クラプトンに依頼した。また、この頃のグループの雰囲気の悪さを少しでも緩和するための配慮でもあった。実際、クラプトンがスタジオに姿を現すと「それまで不機嫌だったジョンとポールが急によそいきの態度に変わったんだ」とジョージ自身が語っている。ここでの経験が、翌年の「ゲット・バック・セッション」でのビリー・プレストン起用に繋がっていった。

当初クラプトンは、「ビートルズの曲で演奏するなんて恐れ多くて……」と尻込みしており、相当なプレッシャーがかかっていた。これに対しジョージは、「これはビートルズの曲じゃなくて僕の曲だ。僕の曲の演奏を僕がやってくれって頼んでるんだから、気にしないでいいんだ」と説得した。

 

I look at you all, see the love there that's sleeping

愛は二度と目覚めない きみをみてようやく気づいた

While my guitar gently weeps

ぼくのギターが静かにすすり泣くあいだに すべてが終わっていた

I look at the floor and I see it needs sweeping

床はひどく汚れている 綺麗にしなくちゃならない もちろんそんなことわかってる

Still my guitar gently weeps

でもギターはまだすすり泣いているんだ

I don't know why nobody told you

きみはただ その愛を打ち明ければよかったはずなのに

How to unfold your love

それをだれも教えてやれなかった

I don't know how someone controlled you

ぼくにはわからない きみを辱めた連中は

They bought and sold you

いったいどうやってきみを支配したのだろう

I look at the world and I notice it's turning

世界は無意味に回り続けている ようやく気がついた

While my guitar gently weeps

ぼくのギターが静かにすすり泣くあいだに すべてが終わっていたんだ

With every mistake we must surely be learning

どんな過ちにも なにか意味を見いだせるはずだった

Still my guitar gently weeps

でもギターまだすすり泣いているんだ

I don't know how you were diverted

きみはどうして道を踏み外したのだろう ぼくにはわからない

You were perverted too

どうして淫らな女に成り下がってしまったのか

I don't know how you were inverted

なにがあったというのだろう あんなに変わり果ててしまうなんて

No one alerted you

きみを戒める者は誰一人いなかった

I look at you all, see the love there that's sleeping

愛は二度と目覚めない きみをみてようやく気づいた

While my guitar gently weeps

ぼくのギターが静かにすすり泣くあいだに

Still my guitar gently weeps

そしていまもずっと 泣きづづけている

 


22才の別れ

2020年08月02日 | 音楽

 

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人山木ジョージです。

1975年発売

風の『22才の別れ』

当時、中学生の小生 アイロンがけしながらラジオを聴く姉が、当時22才?

結婚するか?迷っていた時代だったらしい?

いつもの手抜き紹介!

「22才の別れ」(にじゅうにさいのわかれ)は、日本のフォークデュオ「風」のデビューシングルである。1975年2月5日に日本クラウンより発売された。

元々は「かぐや姫」の伊勢正三が1974年のアルバム『三階建の詩』のために書いた2曲のうちの1曲(もう1曲は「なごり雪」)で、シングルカットの要望が出るなど当初から評価は高かったものの、かぐや姫LIVEに収録されるにとどまり、リアルタイムではかぐや姫のシングルとしては発売されなかった。

かぐや姫解散後「風」を結成しデビューシングルとして発売すると、「風」のシングルとしては最大のヒット曲となった。累計売上はミリオンセラーに達した。オリコンチャートでは売上70.8万枚、オリコン年間チャート7位。

1984年、日本テレビ系列で放送した倉本聰脚本のドラマ『昨日、悲別で』のエンディングテーマにかぐや姫のヴァージョンが使用され、シングルカットされた。ジャケット表面には、雪が降り積もる悲別ロマン座の風景画がレイアウトされている。

2005年にNHKが実施した「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」で白組71位にランクインされた。

2006年、この曲をモチーフにした純愛映画『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(大林宣彦監督)が制作され、2007年夏に公開された。

制作の経緯を伊勢正三自らが語っている。

それ〔注:「なごり雪」〕に反して、「22才の別れ」は計算して作った。実は、この2曲は同じアルバムに入っている。1974年に発表された「三階建の詩」というアルバムだ。このアルバムには2曲書いた。最初に「なごり雪」を、その次にもう1曲別の作品をレコーディングした。だけど、なんだか気に入らなかった。「これは売れないなぁ」と直感してしまったのだ。だから、1日待ってもらうことにした。その日、家に帰って、絶対売れる歌を作ってやろうと思った。そうして、徹夜で作ったのが「22才の別れ」だ。だから、「なごり雪」は自分の好きな世界が自然に沸き上がってできた作品、「22才の別れ」はヒットを意識して作った作品だ。