クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

エイゼンシュタインとスターリン

2009年02月23日 | ロシヤ関連
   エイゼンシュテインとスターリン
              イワン雷帝に隠された独裁批判

戦後、外国映画が怒濤のように日本に押し寄せ、映画全盛時代を築いたことがある。我々もこの恩恵に浴した世代である。特にフランス映画、米国映画に名作が多く、戦前、戦時中の名優たちの姿を見ることができた。米国の『風とともに去りぬ』等は今見てもその壮大さに感嘆するが、あの鮮やかなカラー映画が、戦時中の作品と聞いて、この国と戦ったのは間違いだったと改めて感じたものである。未だ日本がカラー時代に入っていない頃、ソ連からも幾つか入ってきたカラー映画は、その他の国の明るい色調とは違って何か赤と青が強いものであったと記憶する。この問題のイワン雷帝も見てはいるが、ここに書くような背景があったなどは勿論知る由も無いし、何しろ昔の事なのでこれと云った印象も残っていない。

1925年、ソ連のエイゼンシュテイン監督が作った『戦艦ポチョムキン』は、世界の映画史上、記念碑的な作品として知られている。自由を求める人々に発砲する皇帝の軍隊、有名な『オデッサの階段』シーンは、彼の映画に於けるモンタージュ理論の完成であった。
全く余談ではあるが、このポチョムキンとは、18世紀の女帝エカテリーナ二世の恋人と言われた寵臣であり、事実上の夫である。女帝に気に入られようとして視察先の村をそっくり作り替えたことがあったので、以後ソ連では、上司に見せかけだけの物を見せることを『ポチョムキンの村』と言う。エカテリーナ二世は、あの大黒屋光太夫が接見した女帝である事も日本人には興味がある。
エイゼンシュテイン監督生誕から既に百年が経過した。映画史に輝かしい一ページを残した彼の一生は、一方では時の権力者スターリンとの熾烈な戦いの連続であった。スターリン時代には、反体制の烙印を押されていた彼ではあったが、ソ連の崩壊後、その見直しが始まっている。モスクワの文芸アルヒーフ(公文書館)には、5.584 件に及ぶ彼の資料が眠っていた。幻の作品となった『イワン雷帝第三部』の絵コンテや自筆のシナリオ、そして 60 冊に及ぶ彼の日記から、映画に託されたスターリンへの独裁批判が浮かんできている。スターリンから彼への手紙、二人の会談の記録等、始めて公開された記録には、二人の緊迫した関係が浮かび上がる。映画を巡っての芸術家と権力者との確執が今明らかになった。
ここ数年の経済危機以来、ロシアは益々その混迷の度を深めているようである。この国の廿世紀は、革命と戦争に翻弄された世紀である。彼の作品に、革命を描いた『十月』と言うのがあるが、1917年帝政ロシアは、レーニンに率いられた世界で初めての社会主義革命によって倒される。革命が掲げたのは、圧政からの解放、自由と平等の理想である。
当時 19 歳の青年であった彼は、革命を熱烈に歓迎し、自らも赤軍に参加する。彼にとっての社会主義革命は、自分自身の革命でもあった。新しい時代の到来を感じて、革命芸術に身を投ずる。彼の映画監督としての最初の成功が『戦艦ポチョムキン』であった。
当時映画館には30万人が押しかけたと伝えられている。彼の作る映画は次々とヒットし
その映像表現の鮮烈さで人々に衝撃を与えた。
モスクワの『エイゼンシュテイン博物館』には、彼の書斎が当時のまま保存されており、その部屋の壁には彼の友人チヤップリンの写真が飾ってある。彼は生涯の友チヤップリンを通してハリウッド映画にも親しんでいた。同じような友人であったウオルト・ディズニーのアニメからも多くの手法を学んでいる。又、モスクワで公演された日本の歌舞伎から俳優の演技や音響効果を学び取っている。こうして彼の映画は世界の文化の結晶と言われるようになっていた。 
          
彼に対する評価は二つに分かれる。一つは勿論、才能豊かな監督と言うもので、共産党から発注された社会的なテーマで作品を作っていった。その一方で、彼はまさに『戦艦ポチョムキン』からある批判に晒されてきている。それは現実が正確に描写されていないとか一般の観客には分かりにくいと言う理由からの非難である。1930年代になるとこれらの批判は強くなり、彼の企画の多くは共産党によって却下されたり、幾つかの作品に付いてはその上映が禁止されている。そして彼の遺作になった『イワン雷帝二部作』は、その二面的評価を代表するものである。つまり第一部は評価され、第二部は禁止されたのである。
1924年にレーニンが病死すると、スターリンはレーニンの後継者トロツキーを追放し、独裁体制を確立した。スターリンは、映画の世界にも直接介入するようになり、エイゼンシュタインの作った革命映画『十月』はスターリンの怒りを買い、この映画でのトロツキーの登場シーンは全て削除される。これが二人の戦いの幕開けであった。
モスクワの『歴史アルヒーフ』には、当時のソ連共産党の文化政策に関する全ての資料とスターリンの個人的ドキュメントが保存されている。
スターリンが腹心のカガノビッチに宛てた書簡が今回公開された。その手紙には『エイゼンシュテインには気をつけろ。彼はわがソ連映画界の英雄になろうとしている。ソ連権力のプロパガンダを理解しない彼がリーダーになれば、私達は負けてしまう。彼は我々を騙そうとする欺瞞に満ちた反逆者トロツキストである』と書かれ、世界的映画監督エイゼンシュテインへの嫉妬と警戒心に満ちている。
1939年 9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻、欧州は第二次大戦に突入する。祖国防衛のため、ソ連共産党はプロパガンダとしての映画に注目し、1940年には『映画は社会主義的愛国心を培い外敵から守る意思を強固にするものである』という映画に関する条例を出す。愛国心を高めるために、スターリンはロシアを始めて統一した英雄『イワン雷帝』の映画の制作を命ずる。この映画によって祖国統一の英雄に自らを重ねようとしたのである。
スターリンは、エイゼンシュテインに映画制作を許すかどうか?について四人の腹心を集めて共産当本部で会議を開いている。その時の決議の記録も今回公開された。撮影を許可するか?のスターリンの質問に対して、カガノビッチは『彼は反社会主義分子であり、信じてはいけない』と言ったが、モロトフが『彼をもう一度試して見よう、映画のテーマを与えるべきである』と意見を述べたために、ジダーノフとボロシロフの二人がモロトフに同意し、三対一でエイゼンシュテインに映画制作が許可されている。
                                        こうして1941年 1月、共産党の依頼を受けた彼は、イワン雷帝のシナリオ執筆にとり掛かる。彼が一人でシナリオを書いた作品はこのイワン雷帝だけであり、執筆には一年以上の時間を費やしている。アルヒーフに残された彼の日記からは、執筆に苦悩する彼の姿が浮き出してくる。『この所ずっとイワン雷帝に付いて考えている。イワンという人物の真実の姿を描きたいのだが、なかなかその本質が掴めない……』
彼は数百枚の絵コンテを描きながら構想を固めていった。ロシアの民族的英雄を映画でどう蘇らせるのか?と悩んだ末に、テーマを二つに搾り込んだ。一つは権力者、もう一つは孤独な人間イワンである。彼は権力者イワンの人間としての悲劇を描こうとした。
1943年、戦時下のモスクワを遠く離れ、カザフスタン共和国の中国・キルギスタン国境に近い首都アルマアタで撮影は始められた。彼はこの映画を三部作の長大な叙事詩として描くことに決めていた。この撮影現場には、スターリンから遅れを取り戻せとの督励の電報が届き、戦時中の酷い状況の中で彼は追い込まれながら徹夜の連続で撮影を強いられた。イワン雷帝第一部は、1945年 1月に完成し公開される。この作品に対する評価は賛否両論に分かれている。公開された『共産党中央委員会審議録』には『この映画は素晴らしい』『俳優の演技は良くない』『心情的に理解できない』『観客は気にいるだろう』とあるがこのような批評は彼の耳にも届く。しかしスターリンは、英雄として描かれたイワンの姿に満足し、1946年、最高の栄誉であるスターリン賞を彼に与えた。
スターリンは、イデオロギー統制を強めると同時に、大量粛清を行い始めた。スターリンに逮捕された囚人たちは、全国に作られた収容所ラーゲリに送られた。党幹部から始まった粛清は、やがてその範囲が知識人にまで及びその犠牲者は数百万人に上ると言われている。彼の周りでも友人たちが次々と逮捕され、姿を消して行った。中でも彼を恐怖に陥れたのは、心の父と慕っていた演出家のメイエルホリドが逮捕され銃殺された事であった。スターリンの粛清の手は彼の身近に迫っていた。
              1946年 1月、大きな波紋を呼ぶことになる第二部が完成する。ここでは雷帝として次々と政敵を抹殺して行きながら、一方で孤独に苛まれるイワンの悲劇、そしてイワンに権力の行使を唆す親衛隊に焦点が当てられていた。
試写が終わると会場は重苦しい空気に包まれる。この第二部では、イワンはスターリンそのものであり、親衛隊はベリヤを指している事は誰もが思ったが、誰一人それを口にするものは居なかった。
スターリンは、この映画の危険性を直ぐに感じ取っていた。1946年 4月、共産党は第二部の上映を禁止する。理由は『歴史的事実をねじ曲げ、英雄であるイワンが軟弱なハムレットのように見える。そして進歩的な親衛隊が、米国のKKKのような堕落した輩として描かれている』と言うものであった。
この上映禁止から 5か月後の 1946 年 9月、彼は屈辱的な自己批判を発表する。『私は映画が奉仕すべき共産主義社会を築くと言う偉大な思想を忘れてしまった。イワン雷帝第二部で歴史の事実を歪曲し、思想的に欠陥のあるものを作ってしまった。イワンを強い真実ではなく、ハムレットの様な軟弱なものとして描いてあると言う共産党の指摘は、全てに於いて公正な物である。私は歴史を正しく認識するレーニン・スターリン主義に学び、私の創作活動をソ連の人々の教育に捧げなくてはならない』と云うものである。
自己批判した彼ではあったが、革命の理想には忠実であろうとしていた。この後、党からは何の反応もなかった。第三部の製作にとりかかれない彼は、モスクワの映画大学で学生たちの教育に時を費やしていた。
1947年 2月の或る夜、彼の部屋の電話が鳴る。スターリンからの呼び出しであった。クレムリンへ午後 10 時半に出頭せよと言うのである。スターリンからの深夜の呼び出しは彼の不安を掻き立てた。彼はイワンを演じた俳優と共に出頭する。そこで彼等を待っていたのは、スターリンと腹心のモロトフ、ジガーノフである。彼はこの夜の会談の模様を克明に書き記して残している。スターリンは、彼の映画での親衛隊の描き方、イワンの性格は間違っていると指摘し、イワンの犯した間違いは、貴族たちを皆殺しにしなかったことであり、若し全員を抹殺していればその後の動乱もなかったはずであると言った。その上、映画ではイワンが後悔しているが、イワンには決断以外に何も必要ではないと決め付けたのである。彼は映画をスターリンの言う通りに改作する事を約束させられた。
スターリンは映画の制作期間を 2~3 年とし、第二部の改作と第三部の続行を命ずる。
彼が何故粛清されなかったのか?と言う疑問があるが、既に彼は世界的に有名な監督であり、ソ連文化を代表する顔でもあったからである。その上、スターリンは自分の伝記映画を彼に作らせようと考えていたのである。
スターリンは自分に服従しない人間など存在しないと思って居たから、当然イワン雷帝は指示した通りに改作されると考えていた。2 月に改作を指示された彼は、夏が過ぎ再び冬が訪れても、一向に撮影を始めようとはしなかった。11月 3日の日記に彼は『過去の歴史を誇り、未来を信ずることの出来る民族は幸せである。同胞たちの歌を聞きながら、過去から未来へ時代と共に生きることの出来るものは、幸せである。私は違う時代を生きる異邦人だ』撮影にとり掛からなかった彼は、この時期ひたすら映画の未来を考え、映画理論の執筆に没頭している。こうしているうちに彼を突然の心臓発作が襲う。1948年 2月 11 日、未完の映画を残してかれは50歳の生涯を閉じた。スターリンに反体制の烙印を押されながらも彼は最後まで祖国ソ連に思いを馳せていた。
2 月13日、彼の葬儀にはスターリンから危険視されていたにも拘らず、多数の市民が参加し教え子のロストスキーが弔辞を読んでいる。実は、ロストスキーの所に彼から死の数日前に電話があった。彼の 50 歳を祝う記念式典の挨拶を頼みたいと言ってきたのであるが挨拶は、記念式典ではなく葬式ですることになるだろうとも言い添えていた。
この時代、彼はスターリンと一騎打ちで戦い、当時はスターリンが勝ったと思えたが、今となっては、彼が勝ったとも言える。
モスクワの文芸アルヒーフには、幻の遺作となった第三部の絵コンテとシナリオが保存されている。そこには彼が描こうとしたテーマがはっきりと読み取れる。第三部では、殺戮を繰り返すイワンの神への懺悔のシーンが描かれ、対立する貴族を滅ぼしたイワンは、隣国リボニアへ兵を進める。激戦の末リボニアを壊滅させたイワンは、遂に念願のバルト海に出る。しかしラストカットでは、ただ一人、海辺に立ち尽くす孤独なイワンの姿が描かれている。それに彼の残した第三部のシナリオからは、驚くべき記述が見つかっている。イワンが、自分が殺した人々の名を読み上げる懺悔のシーンがあるが、名前の中にスターリンによって粛清された人々の名前が織り込まれていたのである。内務人民委員のエジョフ、元外務大臣で友人のマキシム、彼と共に映画制作をしたイサクなどであり、これはスターリンへに真っ向からの対決を挑んだことになる。
彼は、既に1930年頃から専制政治が台頭してきていることを察知しており、1935年には
『映画に於ける反動主義の時代がやってくる。革命の時代が終り、共産党の時代がやってくる』とも明言している。スターリンの権力が今までに類を見ないほど増大して行く危険を警告していた。彼の映画は、戦艦ポチョムキンの時から全て反独裁がテーマであった。この映画の中のオデッサの階段シーンは、自由を求める人達とそれを圧迫する独裁体制を描いている。
彼は体の不調が分かっていながら昼夜をわかたずにシナリオに専念した。これは自殺である。毒薬やピストルではなく仕事による自殺である。イワン雷帝の破滅に、自分が耐えられないと分かっていたからこそ、自ら死の到来を早めたのである。
ロシアの歴史は、クレムリンでのイワン雷帝の即位から始まっている。帝政ロシア、ソヴィエトロシアを経て、1991年に新生ロシアが誕生した。そのロシアの指導者になったのがボリス・エリツィンである。人々は共産党の一党独裁からの解放を歓迎した。それから  8年が経ち、ロシアではエリツィン反対のデモが頻発している。エリツィンは、議会を軽視し、権力を一手に集中しているとして、彼の独裁性を非難する人は、彼をボリス皇帝とよぶ。半世紀の昔、イワン雷帝に込めたエイゼンシュテインの祖国への思いは、今もロシアの人々の心に響いているのである。

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