クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

トロッキーの悲劇とその評価

2009年02月23日 | ロシヤ関連
       トロッキーの悲劇とその評価

1905年と1917年の二つのロシア革命を率い、赤軍を創設して内戦を勝利に導いたトロッキーは、独裁体制確立を狙うスターリンに追放された。後に『労働者民主主義の復活』を叫んで、官僚層を基盤とするスターリン主義と戦うが、暗殺された揚げ句に歴史から抹殺された。自らも筆舌に尽くし難い苦難の幼年期を送った孫のボルコフは、ペレストロイカで祖父の思想の復権を願ったが、待っていたのはソ連自体の崩壊であった。
トロッキーの本名は『レフ・ダビドビチ・ブロンシュテイン』であり、1879年ウクライナのユダヤ人地主家庭に生まれる。革命運動に関わって1898年逮捕され、シベリア送りとなるが、彼はこの流刑先でマルクス主義を本格的に学び、最初の妻アレクサンドラとの間にジーナとアンナの二人の娘が生まれる。このジーナの息子がボルコフである。
彼は1902年にシベリアの流刑地を脱走し、パリに行く。生涯の伴侶となるナターリャとの出会いはこのパリである。翌年の1903年のロシア社会民主労働党第二回大会に於いて、党組織論でレーニンと対立、、穏健派とされるメンシェビキ(少数派)の指導者の一人となる。1917年には急進派のボルシェビキ(多数派)と合流し、ペトログラード・ソビエトの議長としてレーニンと共に10月革命を指導する。しかし1929年にはスターリンによって国外追放され、1938年、コミンテルンに対抗する国際組織・第四インターナショナルを結成する。1940年亡命先のメキシコで暗殺された。
メキシコ市コヨアカンのトロッキー記念館は、旧トロッキー邸であり、この館の主が殺されたときと同じたたずまいで、その未完の志を訴え掛けているかのようである。書斎の机の上には、当時の新聞や警報ブザーが置かれ、日めくりカレンダーは、運命の日、1940年 8月21日を示している。椅子の隣には口述筆記のための録音機、本棚にはマルクスの著作が並ぶ。
トロッキーはその日、スターリンの刺客のメキシコ人ラマン・メルカデルのピッケルの一撃を受け、独裁者に対する最大の告発者の心臓は、その翌日永遠に停止した。
ロシア革命の最高指導者の一人であったトロッキーは、スターリンによって国外追放されてからも、常に迫害され最後の数年は命を狙われ続けた。この年の 5月にも熱狂的なスターリン主義者のメキシコ人画家シケイロス率いる襲撃が有ったばかりであった。
孫のボルコフは、運命の日をよく覚えている。当時14歳であったボルコフが、学校から帰ると瀕死の祖父が救急車で病院に運ばれようとしていた。祖父の意識ははっきりしていて『犯人を生かして置け、証言させるのだ』と繰り返し言っていたという。何年も警戒していたのに遂に終わりが来てしまったと、 60 年近い月日が過ぎても、ボルコフにとっては悔いと悲しみが消えることはない。メルカデルは、信頼できる米国人トロッキスト女性シルビアの恋人として、何度も出入をしていた。政治には無関心な振りをしていたので誰も怪しまなかったが、それが罠であった。原稿の書き直しを見てほしいと言って、夏なのに外套を着たメルカデルは、トロッキーの書斎に入り、机に向かっているトロッキーの背後から外套の下に隠し持っていたピッケルを振りおろす。しかしトロッキーが即死せず、叫び声を上げて反撃したのは計算外であった。暗殺者は逃走に失敗し逮捕される。犯人は逃走後に発表しようとしていた声明文を持っていた。それによると『メルカデルは献身的なトロッキストであったが、トロッキーが資本主義の指導者と結託してスターリンの暗殺を企てている事を知って幻滅し、殺害を決意した』事になっていた。しかし実際にはソ連当局が送り込んだスペイン共産党員で、意図的にシルビアに近付き恋人に収まっていたと言うことが判明した。
『レーニンは晩年、スターリンの下で革命が歪曲されているのに気付き、書記長からの解任を遺言した。その戦いを一人で引き継いだのが祖父であった。スターリンこそは、人類が生んだ最大の犯罪者の一人である。その邪悪さとサディズムは比較を絶する。ヒットラーでさえ、彼の前では小物に見える』と言うボルコフの言葉には最愛の祖父を奪われた肉親としての怒りが籠る。彼にとってトロッキーは永遠の英雄である。『祖父は独立不羈の闘士、革命家であった。個人的な権力など問題外であった。祖父はマルス主義の原則と思想を守るために闘ったのだ』と続けるが、その戦いはトロッキー一家に惨澹たる運命をもたらした。四人兄弟であったトロッキーの兄と妹は処刑、子供は、長女(ボルコフの母)は自殺、長男は暗殺、次男が処刑、更に甥、姪、孫と多くが、命を奪われた。ボルコフ自身の人生も凄惨である。1928年に父のプラトン・ボルコフは流刑となるが、収容所で死亡する。1938年母ジーナは出国許可が下りたので、ボルコフを連れてトロッキーの当時の亡命先トルコのプリンキポ島に行く。ボルコフは暫く祖父と暮らすが、ジーナは神経病の治療でベルリンへ出る。1932年には一家の全員がソ連国籍を剥奪される。六歳にして無国籍者になったボルコフの国外旅行は困難になり、この年の末、母の許に行くが、その母がガス自殺して終う。その後パリに居たトロッキーの長男リョーバ夫妻に引き取られる。
その間、トルコからフランス、ノルウェーとトロッキーと妻のナターシャは、流浪の旅を続けたが1937年メキシコ人画家リベラの尽力で左派民族主義者カルデナス大統領統治下のメキシコに居を定めた。1938年、ボルコフを養っていたリョーバが暗殺さたので、トロッキーは唯一の存命親族のボルコフを引き取ったのである。
ボルコフが12歳の頃、トロッキーはこの孫に手紙を書き、一家の運命が何故こんなに悲惨なのかを説明しているが、自分の人生と追放に付いて何か弁明をしているようである。
トロッキーは唯一手元に残った孫に、この圧倒的な悲劇の背景を理解し、納得して欲しいと言う特別な思いがあったのかもしれない。人生の全てを政治闘争に捧げたトロッキーも残った孫だけは政治に関わらないように、と考えて居たらしい。警護の人々にもあの子には普通の人生を送らせたいと漏らしていた。実際、ボルコフは技師となって普通の人生を送った。しかし熱愛してくれた祖父への敬愛の念だけは変らない。
トロッキーの楽天的理想主義は、死の半年前に書かれた遺書に結実し、幸か、不幸か現実の試練を受けること無く生き続ける。   
1980年代の後半、ペレストロイカの進展で、ソ連でもトロッキーの著作が日の目を見て、『反革命』『売国奴』と言う全面否定であった評価の見直しが始った。ボルコフは祖父の理想であった民主的社会主義に繋るものと、ペレストロイカに熱い期待を抱いた。
1988年、ボルコフらの生き残ったトロッキー一族は、ソ連最高裁へかってトロッキーに下された『反革命の張本人』と言う罪状の無効宣言を要請した。
しかしペレストロイカは、ソ連の崩壊と資本主義化で終ってしまった。ボルコフは『ペレイトロイカは官僚支配の立て直しを計るものでしかなかった。祖父は労働者階級が権力を取り戻さない限り、官僚が向かう方向は資本主義の復活であると、既に五十年前に予測していた。スターリン主義は社会主義とは無縁で、それ所か社会主義を最も傷つけるものであり、ソ連の崩壊がその結果である』と慨嘆するが、ソ連は建国の父祖の一人、トロッキーへの名誉回復をしないまま消滅して終った。それは、さながら子供を全て失ったトロッキーが我が子のように愛した孫に対してスターリンの亡霊が贈った最後の残酷な『贈物』であったのかも知れない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿