クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

北方領土交渉史(2)

2009年02月23日 | ロシヤ関連
          北方領土交渉史(2)
              ゴルバジョフ時代の交渉史

国後・択捉・歯舞・色丹からなる北方領土、東西冷戦時代に日本は、四島一括返還を強く要求したが、ソ連が領土問題その物の存在を否定したために、交渉は膠着状態に陥っていたのである。しかし、1985年この状況に大きな転機が訪れる。ソ連共産党書記長に改革派として知られるミハイル・ゴルバチョフが就任して、壮大なるペレストロイカに着手したからである。彼は核軍縮、東ヨーロッパの民主化にも大きな役割を果たし、東西冷戦を終結へと導いた。日本も当然彼が、北方問題の解決にも乗り出すはずであると期待する。
ソ連は、1956年の日ソ共同宣言で、両国の平和協定が締結された後、歯舞・色丹の二島を返還すると約束している。この共同宣言をゴルバチョフが再確認して、二島を返還し、国後、択捉に付いての交渉にも応ずるのではないか?と多くの日本人が予想し、期待した。しかし、1991年 4月、日本を訪問したゴルバチョフは、北方領土問題の存在を、この時の共同声明で認めるに止まった。この時の日本の首相は、海部俊樹である。
何故期待されたゴルバチョフの時代に、北方領土の問題が解決されなかったのか?当時の関係者の証言と発掘された新しい資料によって検証してみる。
関係者とは、元総理大臣・中曽根康弘、外務省ソ連課長・東郷和彦、ソ連東洋学研究所副所長・コンスタンチン・サルキソフ、ゴルバチョフ書記長補佐官・アナトリー・チェルニェーエフ、カルフォルニア大学教授・長谷川毅、IMEMO(世界経済国際関係研究所)日本部長・ゲオルギー・クナーゼの各氏である。

1985年 3月 11 日、総理大臣官邸にソ連のチェルネンコ書記長死去の知らせが届く。更に外電は後任は改革派のゴルバチョフであると伝えた。中曽根首相は、ソ連大使館に弔問のため訪れたとき、葬儀への参列のためモスクワを訪問したいと言う意向を伝える。
中曽根氏の証言『私はチェルネンコ死去の知らせを聞いて、即座にソ連に行き、新書記長と会見しようと決心した。なぜなら政権交替の時は、外交路線転換のチャンスがあるからである。しかし、そのとき外務省が強硬に反対した。その理由は、それ以前に鈴木善幸首相が、アンドロポフ死去のときソ連に行ったが、チェルネンコ新書記長と会えなかった実績があり、今度も同様の事が起これば日本としてみっともないと言うのである』
この時は、中曽根首相の強い意向でソ連訪問が実現した。中曽根首相はモスクワ赤の広場でチェルネンコの棺を見送る。ゴルバチョフは、当時54歳、停滞するソ連を改革する若手指導者として抜擢されたのである。中曽根氏はこの機会を捕らえて、彼のモスクワ滞在中に首脳会談をやりたいと申しいれた。そしてその翌日、ゴルバチョフとの一時間の会談が実現する。この会談の中で中曽根氏は、今後首脳会談を重ねる事で日ソの懸案事項を解決したいと提案する。
再び中曽根氏の証言『二国間の問題を色々話をして、特に日本は北方領土問題を抱えていたが、それだけでなく文化協定・科学技術協定の問題もあったのでそれらも一緒に解決しようと申し入れた。ゴルバチョフは、一切の資料を見ること無く返答をしたが、
唯一北方領土の問題に関しては、立ち会っていたグロムイコが資料を出して、ある箇所を指差して示し、ゴルバチョフがその部分を読み上げた。私はソ連での領土問題は強いタガが嵌められていると感じた』

書記長に就任したゴルバチョフは、外交面で独自色を打ち出し始める。1985年 7月のソ連最高会議で彼は、28年間も外務大臣を務めたグロムイコを、名誉職である最高会議幹部会議長に就任させ、後任の外務大臣に改革の同志シュワルナゼを選んだ。彼は国内の改革を推し進めると同時に、西側との関係改善を計る。
この年の9 月、ソ連は日本に対しても動きだし、シュワルナゼが1986年 1月に訪日したいと提案して来た。提案を受けた日本では会談をどう進めるかが検討されたが、この時中曽根首相と外務省の意向の食い違いが再燃する。外務省の意向は、領土問題の解決は、経済協力拡大の入り口であると言う『政経不可分の原則』を固く守る事であった。
中曽根氏は、外務省が領土ばかりに固執するのは、非常にまずいと思っていたから、多面的なしかも総合的に文化、政治、経済も科学技術も一緒に話し合いをし、その中での領土問題と云うとらえ方であった。
1986年 1月 15 日、シュワルナゼ外相が訪日、しかし、中曽根氏の主張にも関わらず、日本の外交方針には大きな変化は無かった。ちなみに外相は阿部氏であった。会談の席上、阿部外相は、領土問題が解決しない限り、経済協力は行えないと表明し、それに応えるシュワルナゼの発言も従来のソ連の考えを踏襲しただけであった。       ところがソ連側の記録によると、この時のシュワルナゼは、本国に対して大胆な提案をしていたことが分った。サルキソフ氏の説明では、シュワルナゼは本国に対する機密電報で北方問題を妥協で解決するように提案したと言う。しかしこの提案は、前外相グロムイコに厳しく批判され、政治局からも反発された。
ゴルバチョフの登場で始まるかに見えた両国の対話は、従来路線に固執する両国の姿勢によって行き詰った。1986年中にと云う事で計画されたゴルバチョフの訪日計画も立ち消えになった。ゴルバチョフの訪日計画は日ソの外交史で最初の元首の訪日であったから、単なる表敬訪問では済まなかった。訪問は実りのあるものでなくてはならなかったが、実り多きものにするには、時期早尚であったとも言える。
日本外交が足踏みを重ねている隙きに、米国はソ連と首脳会談を重ねて、急速に接近していく。1985年 11 月のジュネーブ会談で両国は、核軍縮会議を進めることに同意し、翌年10月のレイキャビク会談で、ゴルバチョフとレーガンは、戦略核兵器を大幅に削減する事を目指して突っ込んだ議論が行なった。この時同行していた補佐官のチェルニャーノフは『この会談ではもう一歩のところでレーガンが決断に踏み切れずゴルバチョフも諦めた。しかし、会談の後で両者は肩を抱き合って、決裂ではない、突破口は開かれたと言い、ゴルバチョフは、レーガンに対してこの大統領となら何時か、核軍縮は達成できると感じていた』と証言している。そして1987年12月、1NF(中距離核兵器)全廃条約の調印が行なわれた。この調印の一か月前、先見性を持っていた中曽根氏は総理の座を降りていた。
                                                                              何故ゴルバチョフ時代の日ソ交渉は不毛であったか?を問う『北方領土問題と日ロ関係』という本が米国で出版された。これはカルフォルニア大学教授の長谷川毅氏が、日ロの関係者への取材と未公開資料の発掘によってゴルバチョフ登場以降の交渉史を検証したものである。その著者をNHKワシントン支局の手島龍一がインタビューしている。
それによると、日本政府はゴルバチョフのペレストロイカに付いて懐疑的であり、低い評価しか与えていなかったらしい。それに対して米国は積極的で、レーガンは、多分ソ連が拒否するであろうとされた核軍縮案をぶつけたが、意外な事にソ連はこれに同意したのである。日本は米国との安全保障の関係からソ連の安全保障的なものには手が出ない、経済面も政経不可分の原則から何もできなく、唯一提案したのはゴルバチョフが嫌っている領土問題だけであった。おまけにこの領土問題をゴルバチョフ外交を試すリトマス試験紙として使ったのである。つまり、高いハードルを作ってこれをクリヤすれば彼の外交姿勢は本物と認めると云うのである。
1988年、出遅れた日本の対ソ外交を立て直そうとする動きが出てくる。7 月に中曽根前総理がモスクワを訪問して、ゴルバチョフと会談を行なった。彼は会談の冒頭で足踏み状態の両国関係を是非打開したいと述べ、ゴルバチョフも日ソ協力の可能性を考えたいと応ずる。 2時間 40 分にも及ぶこの会談で二人は、領土問題でも始めて自由な意見交換を行った。中曽根氏は、ゴルバチョフの米国・欧州での活躍を認めた上で、日本の事も忘れるなと念押ししている。どうもゴルバチョフは、領土問題は何とかしなくてはならないが、どうして良いか分からないと言ったらしい。
この会談の結果を受けて、1988年 12 月、シュワルナゼ外相が訪日し、『平和条約作業グループ』を作ろうと言う大きな進展があった。平和条約のことは、1956年の共同宣言で約束されていながら長い事、停滞していたのである。そして12月 20 日に、グループの最初の会議が外務省飯倉会館で開かれる。出席はロガチョフ外務次官と栗山外務審議官でありこれが日本の対ソ外交方針見直しの切っ掛けとなる。           長谷川氏がロシア側から入手したこの会議の記録からは、激しい議論の内容が明らかになった。ロガチョフ外務次官は、平和条約に向けた話し合いは、経済協力や文化交流等の幅広いテーマで行うべきであり、北方領土問題はその一つにすぎないと主張している。そして彼は従来の日本の領土問題に関する考え方に全面的に反論している。ここで打開を目指すために出てきたのが、5 月に宇野外相が訪ソするときに出す『拡大均衡』である。拡大均衡とは、領土問題の議論と経済協力等の議論を同時に進めて行くと言う事である。これは領土問題の解決が、全ての外交の入り口であるとしていた政経不可分の方針を転換する物である。1989年 5月、この拡大均衡を携えて宇野外相が訪ソする。この日本の新しいアプローチをシュワルナゼは高く評価する。そしてゴルバチョフも、訪日の意向を明らかにしたが、その時期は 1年半後の1991年 4月とされた。この頃になれば外交の機が熟すと考えてのことであった。
この直後の1989年 6月、ゴルバチョフは始めて西ドイツを訪問する。この時の共同声明には、民族自決権の尊重が謳われるが、これは東西ドイツ統一の可能性を認める画期的な物であった。
実はこの事は、西ドイツの積極的な外交努力の成果であった。西ドイツのコール首相は前の年にモスクワを訪問して、経済・科学技術・文化・自然保護等の幅広いテーマで合意を達成し、ゴルバチョフから大きな信頼を得ていたのである。この訪問の期間、ゴルバチョフは西ドイツ国民から大きな歓迎をうけ、この経験が彼の頭から東西ドイツ統一は脅威であると言う先入観を拭い去ったのである。彼は帰国後の政治局への報告で『我々は間違っていた。西ドイツは敵ではない』と言明している。
それから 5か月後の1989年 11 月 9日、ベルリンの壁は崩壊する。この後もコールとゴルバチョフは会談を重ね1990年 10 月 3日に遂に東西ドイツの統一が達成される。この様にシュワルナゼとゴルバチョフはこの時期にはドイツ問題で忙殺され、日本のことに時間を使うことは出来なかったのである。
日本の外務省は、ベルリンの壁崩壊後、翌年の 4月に予定されたゴルバチョフ訪日計画に向けて頻繁にソ連外務省と連絡を取るようになる。しかし両国の外相会談を設定することがなかなか出来なかった。もし中曽根氏が1986年と言う早い時期に提唱していた拡大均衡を外務省がもっと真剣にとり挙げていたならば、西ドイツ問題の前に、日ソは別の展開を見せて居たであろうが、日本の方向転換は遅きに失したのである。
1990年になるとソ連の政治に大きな転機が訪れる。ゴルバチョフはこの年の2 月に、共産党の一党支配を放棄し、複数政党・大統領制の採用を提案する。そして 3月、この提案にしたがってソ連の憲法は改正され、ゴルバチョフが初代ソビエト大統領に選出される。こうした変革は自由化を推し進め、日本問題の専門家たちも自由に発言できるようになる。1990年の夏になると、ゴルバチョフ訪日に向けた本格的な準備が始まる。改革派の外交専門家を多く抱え、ゴルバチョフ政権の政策立案を担っていたシンク・タンクのIMEO(世界経済国際関係研究所)は、日本部長のゲオルギー・クナーゼに領土問題の報告書を作らせる。1990年 9月に届けられた報告書はゴルバチョフに高く評価された。その主旨は、1956年の歯舞・色丹の返還を約束した共同宣言を速やかに実行すべきであり、実行するかどうかの議論ではなくて、何時、いかなる方法でと言う議論にするべきと書いてある。
9月 5日にはシュワルナゼ外相が来日し、中山外相との間では、当時問題となっていたイラクのクェート占領を非難する共同声明を発表するなど、これまでに見られない日ソの協調が見られた。一方の北方領土問題は、事務レベルで歴史的事実関係の掏り合わせが行われている。漸く軌道に乗ったかに見えた日ソの対話、しかし1990年秋、ソ連国内の経済破綻や民族問題は急速に深刻さを増してきていた。そして不満をもつ軍などの批判派は、公然とゴルバチョフへの非難を表明し始める。又、この年の 5月にロシア共和国の最高会議議長に選出されていたエリツィンも、次第に発言力を強くしていた。
1990年 12 月、ソ連外務省を中心にしてゴルバチョフ訪日の計画が練られる。その計画のなかでソ連外務省はゴルバチョフに二つの選択肢を提案している。第一の選択肢は、日ソ共同宣言の有効性を認め、二島の返還を約束するが、残りの二島の交渉には応じない、と言うもの。第二の選択肢は領土問題の存在を認めるに止めると言うものである。
1990年 12 月 20 日、予想外の事態が起きる。シュワルナゼ外相が、ゴルバチョフ政権内の保守派の台頭に抗議して突如辞意を表明したのである。彼は、新たな独裁性に抗議すると表明した。日ソ外相会談を八回も経験した彼の辞任は、両国の外交関係に大きな影を落とした。
1991年になると、ゴルバチョフ政権の政治姿勢は一転する。1 月13日には保守派の圧力を受け入れリトアニアに軍事介入したのである。こうした厳しい政治情勢と向かい合いながらゴルバチョフは、1991年 3月下旬、チェルニャーエフ補佐官らと共に訪日の詳細を決定する。同じ頃、東京では海部総理がゴルバチョフの訪日に備えて、外務省のシナリオを入念に読み込んでいた。
1991年 4月16日、遂にソ連国家元首初の訪日が実現した。彼は途中でハバロフスクに立ち寄りシベリヤ抑留の犠牲となった日本人墓地に花を供えた。しかし、そこでは領土問題で妥協するなと言う保守派のデモにもあっている。海部総理とゴルバチョフの会談は、迎賓館で始まった。会議は六回、12時間 40 分も行われたが、ゴルバチョフは、1956年の共同宣言の再確認には応ぜず、一挙の解決を図った日本側の希望は空しく終わった。ドイツ統一の時は、保守派の反対を振り払って一人で決めてしまった実績を誇るゴルバチョフの指導力は、国内の危機的状況のため大きく後退していたのである。この八か月後、彼は大統領を辞任しソ連は消滅する。日ソ外交と言う言葉も消え、ロシアとの対話が日本の新たな課題となったのである。
1992年に始まったエリツィン時代の日露外交は、ゴルバチョフ時代の成果の上に築かれる事になる。1993年 12 月の東京宣言でエリツィンは二島の返還を明記した1956年の共同宣言は有効である事を間接的に認めた。そしてエリツィンと橋本首相は、2.000 年までに、領土問題を解決し平和条約を締結することを約束したがこの期日は極めて悲観的であリ、その後の小渕首相の訪露でも進展はない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿