クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

北方領土交渉史(1)

2009年02月23日 | ロシヤ関連
             北方領土交渉史(1)
                  機密文書・アルヒーフより

国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島からなる問題の北方領土、この島々の領有権を巡って日本・ソ連そしてロシアは、長年に亘って交渉を繰り返してきたが、未だに解決にはいたっていない。
1990年代になって、ロシアの公文書館(アルヒーフ)で様々な文書が公開され、北方領土の問題にも、新たな光が当てられるようになり、それまで謎とされてきた交渉の舞台裏が次々と明らかにされつつある。特に二人の研究者が卓越している。
ロシア側では、日ソ交渉史の第一人者、ボリス・スラヴィンスキーである。彼にはソ連軍の千島列島占領の経緯を明らかにした『千島占領』の著書がある。
彼によれば『重光外相は歯舞、色丹の返還を条件にソ連との平和条約に調印する用意があった。しかし、米国の反対によって踏み切れなかったのである』と切り出した。
もう一人は日本側の東京大学名誉教授・和田春樹である。彼は日本に於けるソ連・ロシア史研究の第一人者で、ロシアで公開された資料を基に、日・米・ロシアの三国の関係から北方領土問題をとらえようとしている。彼によると『冷戦時代の硬直した論理は、ペレス・トロイカの時代を以てしても、問題の解決まで導かれ無かった』と言う。

[初期の日露国境交渉]
日本とロシアの国境が始めて確定したのは、1855年の江戸時代末期である。日露両国は、伊豆半島の下田・長楽寺で外交交渉を行い、条約を結んだ。ロシア側の代表は、時の皇帝ニコライ一世の命に依って来日したプチャーチン中将、日本側は幕府勘定奉行・川路聖謨(トシアキラ)である。両者は五回に亘る交渉の末、『日露和親通好条約』(下田条約)を締結する。この条約によって、千島列島ではウルップ島以北をロシア領、択捉島以南を日本領とする事、更には樺太島は日露の共有とすることが決められた。この様に千島の国境線は、最初、ウルップ島と択捉島の間で確定したのである。つまり問題の国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島は日本領とされた。
しかしロシアでは、長年の間、この条約はプチャーチン中将が日本側の圧力に屈したもので、ロシアは強要されたとする説が存在していた。
しかし、1991年にこうした説が誤りである事を示す資料が、ロシアの公文書館で発見された。それは『ニコライ一世訓令』と言われるもので、1853年にプチャーチンが、日本到着直後にニコライ一世から受けとった物である。そこには『クリル諸島(千島列島)の内、ロシアにとっての最南端は[ウルップ島]であり、この島をロシアの南の終点として構わない』と記載されていた。これによってロシア皇帝もウルップ島と択捉島の間に国境線を引くことを求めていたのであることが判明した。
この訓令の発見によって、当時のロシアが英・仏と戦争中のため、苦衷にあったプチャーチンが、日本の圧力に負けたという説は否定された。つまり当時のロシアは、現在日本が北方領土として問題にしている国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島は日本領と明確に認めていたことになる。                             
この下田条約による国境線は、明治の時代に二度に亘って変更されることになる。
1875年、日本とロシアの間で『樺太・千島交換条約』が締結され、日露共有とされていた樺太全土をロシア領に、その代わりに日本は、カムチャッカ半島と向かい合う占守島までの千島全島を領有することになった。しかし、やがて日露は、1904年に朝鮮半島の支配権と中国東北部・満州の権益を巡って日露戦争を引き起こし、戦いを有利に進めた日本は、1905年のポーツマス条約によって北緯 50 度線以南の樺太を譲渡されることになった。

[ヤルタ協定と千島占領]
1941年、日本軍のハワイ奇襲攻撃により、太平洋戦争は勃発する。しかし、その半年後には、米軍の圧倒的な軍事力の前に、日本軍は敗退を重ねる。米国は、太平洋で日本軍を追い詰めながらも、中国大陸にいる勢力を何とかしないと、日本を屈服される事は出来ないと考えていた。ルーズベルト大統領はその為に、ソ連が日本に対して参戦する事を求めたのである。1945年 2月、戦後体制を話し合う米・英・ソの首脳会談がクリミヤ半島のヤルタで開かれた。この会談での重要議題に、米国が求めていたソ連の対日参戦問題が挙げられる。この時に、スターリンは対日戦争参加の見返りとして、千島列島全部と日露戦争の結果、日本に割譲した南樺太を引き渡す事を要求した。ルーズベルトは、この要求を受け入れている。この時の『ヤルタ秘密協定』にこの事が明記されている。
ソ連が参戦に同意した裏には、勿論日露戦争の恨みを晴らしたいと云うこともあったが、そんな事よりも、千島全島を手にいれることは、ソ連と太平洋を隔てていた垣根が取れることであったからである。第二次大戦中には、この海域を日本に押さえられていた為に、カムチャッカとウラジウォストクの間の自由な航行すら出来なかったのである。ソ連にとっては太平洋への出口の確保であった。しかし、この事は、領土不拡大を謳った大西洋憲章やカイロ会談決議には合っていないことである。
それにヤルタ会談の取決めは、ソ連の参戦を引き出す政治的な物であり、日本から千島を取り上げる法的なものではない。従ってヤルタを根拠にしてソ連が千島の恒久的領有を主張するのは基本的におかしいことになる。
しかし大戦の終結を目の前にして、米国の対ソ戦略は大きく変革する。ルーズベルトが急死して、トルーマンが新大統領になったからである。トルーマンは、ソ連の勢力拡大に警戒心を抱いていた人物である。
1945年 7月、米国は第一回の原爆実験に成功し、ソ連の参戦がなくても日本を屈服させる事ができると言う考えが米国内に強くなる。米国の公文書の公開によって、この時期に米英間で交わされた秘密文書が発見されたが、それには千島までの日本軍は、米軍に降伏させると地図添付で記されている。
8 月6 日の広島への原爆投下には、ソ連参戦前の日本の降伏と云う事を考えた思惑もあった。しかし、ソ連軍は 8月 9日に日本に宣戦布告、満州に大軍をなだれ込ませる。
そして8 月15日の日本降伏を受けて、極東軍司令官マッカーサーの名前で、極東に於ける米ソの占領地域を定める一般命令が出される。この命令案には、日本本土を米軍が占領すること、南樺太をソ連軍が占領することは書いてあるが、千島列島をソ連軍が占領するとは書いていない。この命令案は、トルーマンからスターリンに伝えられる。スターリンはこの内容に強く反発し、ヤルタ協定の遵守を強く求める電文をトルーマンに発している。それは『ヤルタの約束通り、全ての千島列島をソ連の占領地域に含めるべきである。更にソ連の占領地域に北海道の北半分を含めるべきである。その境界は、釧路と留萌を結ぶ線とする』とあった。こうしたソ連の強攻策にトルーマンが、北海道の件は拒否したが、千島に関してはソ連の要求を受け入れたのである。この時、スターリンは報復的に命令を変更しそれまで帰国させる筈になっていた関東軍捕虜 60 万人をシベリヤに連行して、無償の使役で使い捨てにする決定をした。その為に、多くの元日本兵・民間人が地獄を体験し6 万人が生きて帰国出来ずに、シベリヤの曠野に恨みを残すことになる。
日本降伏後の 8月 18 日、ソ連軍が千島列島の北端にある占守島への侵攻を開始、大陸からの部隊が南樺太を占領する。この時の占守島日本軍守備隊の採った戦闘は、『戦争は敗戦三日後に始まった』との話として、その悲劇が語り継がれている。
カムチャッカからの部隊はその後も南下を続け、8 月 30 日にはウルップ島に達するが、それ以上は南下しようとはしなかった。この事実から日本では、ソ連は当初、国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島を占領する予定はなかったと言う説が浮上していた。
スラヴィンスキー氏が、1992年にロシア海軍中央公文書館の資料を元に『千島占領』を著したが、その中では『千島列島占領は、カムチャッカ・サハリンと言う二方向からの部隊が分担する計画であった。そしてカムチャッカからの部隊がウルップ島までを、サハリンの部隊が国後、択捉、色丹、歯舞を占領する指令が出されていた』とあるから、ソ連側がウルップで一時止まった事を以て、ソ連に国後、択捉、色丹、歯舞の占領予定は無かったとの説は間違いである事が判明した。
更にスラヴィンスキー氏は 9月 3日から 5日に掛けて行われた歯舞の占領が連絡ミスによって偶然行われたと言う事もその著書で明らかにしている。ソ連軍は歯舞の占領の計画をしていなかった。 9月 2日までに国後、択捉、色丹を占領した後、サハリンの指令部から現地のチェチェリン少佐に一つの命令が伝えられる。それは歯舞諸島に関する行動計画の提出を求めるものであった。しかし当時の無線状況は極めて悪くチェチェリン少佐は、それを攻撃占拠命令と誤解してしまったのである。つまり歯舞は勘違いによって偶然占領されてしまったのである。所がソ連当局はチェチェリン少佐の行動に事後承諾を与え、その責任を問うことをしなかった。

[サンフランシスコ講和条約]
敗戦から四年後の 1949 年、日本では米国による占領を終わらせ、国際社会に復帰したいと言う声が高まった。しかしその頃、日本を取り巻く国際情勢は、激しく変化し、新しい社会主義国家が次々と誕生したのである。1948年 12 月には、金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国が誕生、1949年 10 月には毛沢東の中華人民共和国が成立する。スターリンはこうした国々との同盟を目指し、1950年 2月には中ソとの間に『中ソ友好同盟相互援助条約』を締結する。こうした極東での共産勢力の拡大に米国が危機感を募らせていた1950年 6月、朝鮮戦争が勃発する。金日成の朝鮮民主主義人民共和国がソ連の支援を受けていると考えた米国は、国連軍を組織して武力介入する。すると今度は中国がソ連の要請を受けて参戦、朝鮮戦争は米・ソ中の代理戦争の様相となった。この時の中国空軍機には『中国人民志願航空隊』と大書されていた。
こうした緊迫の中で米国は、1951年になると各国に対して『対日講和条約締結』を呼び掛ける。講和会議の米国全権代表になったダレス氏は、参加国に対して個別に米国案を示して同意を取り付けて行こうとする。この時ダレス氏がソ連に送った条約案には、日本が千島列島と南樺太をソ連に引き渡す事が示されていた。所がソ連は、講和会議で台湾が中国の代表となっており、毛沢東の中華人民共和国が呼ばれていないことに強く反発し、中華人民共和国の参加を強く求める覚書きを米国に通達する。しかし米国は、外交関係がないことを理由にこの要求を拒否する。こうした中国の取扱を巡る米ソの対立が解決しないまま、1951年 9月、サンフランシスコ講和会議が開催された。ソ連代表のグロムイコは、冒頭で中国の参加を認めないことを激しく非難し、議事進行の前に解決しなくてはならない問題であると主張する。米国代表のダレスは、これに激しい応酬を加え『この会議を開催するにはソ連やポーランドと11か月も交渉期間があったはずだ。参加各国に送った案内状に書いてあるように、この会議は対日講和条約を調印するためのものである』と言い切って対抗する。
グロムイコは、これは米国によって仕掛けられた極東に於ける新たな戦争の始まりであるとまで発言し、ソ連は講和条約の調印を拒んだ。そして、それ以外の国によって、9 月 8日には条約は調印され、日本は念願の国際社会への復帰を果たしたのである。
ここに重大な事実を確認しなくてはならない。日本が千島列島を放棄をしたこの条約に、ソ連は調印していないのである。従って放棄した千島列島の帰属先は空白のままにされていたのである。ソ連はここで調印をして、千島の領有を国際的に認めさせると言う事よりは、中国と連携して極東アジアで米国と対峙する事を選択したのである。
但し、それ以前のスターリンは、中国は蒋介石でよしとしていた節があるので、北朝鮮、中国の革命成功を観て気が変わって行ったと思われる。
結局、ソ連は調印した場合に享受できるいかなる特典も得られ無かった。つまり調印しなかったことで、南樺太と千島の領有を主張する権利も奪われたのである。これはソ連外交の完全なる失敗であり、米国と協調していれば千島と南樺太を完全な世界の合意の下に手にいれる事が出来た筈であった。スターリンは、朝鮮戦争による世界の反ソ感情の高まりの中で、中国との同盟を重視したのである。

[日ソ共同宣言]
1953年 3月、30年に亘って独裁政治を引いていたスターリンが死去、後任にフルシチョフが就任する。彼は今までのスターリンの抑圧的政策を批判、西側諸国との関係改善を打ち出す。彼の登場したその頃、日本の政治にも変化が現れる。ソ連との関係改善を重視する『鳩山一郎』が首相に就任したのである。日本とソ連は相互に国交の恢復を目指して1955年からロンドンを舞台にして交渉を開始する。
交渉を担当したのは日本側全権代表の松本俊一と駐英ソ連大使ヤーコフ・マリクである。米国はこうした日本とソ連の動きに警戒の目を向ける。日本が自らの陣営に止まる事を望んだ米国は、日本のソ連への接近を恐れたのである。
この頃の駐日米国大使アリソンが米国国務省に送った電報が発見された。そこには、ソ連が歯舞と色丹、場合によっては国後・択捉に対する日本の潜在的主権を認めるかも知れない、そして歯舞と色丹の返還と沖縄の返還を結び付けてくる可能性があると、報告されている。米国が危惧した通り、ロンドンでの日ソ国交恢復交渉でソ連は歯舞と色丹の返還を提案する。こんな形の日ソ和解を恐れた米国のダレス国務長官は、日本の重光外相に対して、若し日本が歯舞と色丹の二島で妥協するならば、米国は沖縄返還の意図を再考することになると恫喝した。日本のなかにも、二島のみの返還では不十分であり、四島一括返還を要求すべきであるとの声が高まった。こうした情勢の中で、1956年 10 月に鳩山首相が訪ソし、ソ連首脳と国交恢復に向けた会談を行なう。この時、日ソ共同宣言のために、フルシチョフと交渉したのが『河野一郎』である。彼は当時の農相であり、漁業交渉を通じてソ連の事情に精通していたからである。
三回に亘った河野・フルシチョフの交渉の詳細が、1996年にロシア大統領公文書館から公開された。この会談の主題は、ソ連が提案した歯舞・色丹の返還と残る二島に就いての交渉継続をどのように共同宣言に盛り込むか?であった。
それを主張する河野に対して、フルシチョフは『歯舞・色丹の返還条件は、日ソ平和条約が締結され、且つ米国が沖縄を返還することである』と答えた。北方領土問題と沖縄問題を結び付けようとするフルシチョフのこの主張に、日本側は大きく動揺する。これは沖縄を完全基地化している事への日本の反米感情を心配していた米国につけ込んだものであった。日本側は米国への配慮から、日ソ共同宣言から沖縄問題を切り離すように懸命にソ連側に働きかける。第三回の会談でソ連は沖縄問題の撤回に関して日本側に或る譲歩を求める。それは共同宣言の文面から国後・択捉の継続審議を意味する『領土問題を含む』と言う言葉を削除すると言うものであった。日本側は沖縄問題を回避するためにフルシチョフのこの提案を受け入れざるを得なかった。
こうして1956年 10 月 19 日、クレムリンで共同宣言が調印され、日ソは国交を恢復したのであり、ソ連が歯舞・色丹を返還すると明記されたのである。そしてその時期は、日ソの平和条約が締結された後とされた。しかし日本は、四島一括返還に拘る余り平和条約には調印せず、大きなチャンスを逃すのである。平和条約を結び、歯舞と色丹を受けとってしまってから、国後、択捉の話を継続することも出来た筈なのにである。
当時の重光外相には、歯舞・色丹を条件に平和条約を締結する用意があったのに、米国の反対によって結局、調印に踏み切る事が出来なかった。
様々な新資料の研究から、北方領土問題は、日本とソ連・ロシアの二国間の問題ではなく米ソ対立、東西冷戦と言った国際情勢の中で未解決のまま、残されてしまったと言う事実が浮かび上がる。
ロシアのスラヴィンスキー氏は『未だに平和条約が締結されていないと言うことが、ソ連だけの責任であると言うのは全く間違いで、日本はソ連・ロシアとの関係を改善するチャンスを何度も逃し続けてきた。両国は北方領土の問題だけに拘らず、広範な協力関係を築いて行くことが重要である。1956年の日ソ共同宣言で、歯舞・色丹の返還を認めている以上、ロシアはこの二島を日本に引き渡すべきである。国後と択捉に関しても、いずれ帰すと言う政治宣言をする必要がある。しかしこれら二島には既に多くのロシア人が住んでおり、日本が主権を放棄してから 50 年経っている。従って10年とか20年の間は、両国が共同で保有することにする必要があり、しかる後に完全な返還に関する議論が出来ると思われる』と指摘している。
日本側の和田春樹氏は『ソ連では、日米関係を裂く事ができないならば、そんな日本に歯舞・色丹を返還する必要はないと言う議論が起きて[領土問題は解決済みで何もない]と言う発言に繋がったのである。日本の方では、安保条約の後で政権の座に就いた池田総理は、四島返還の話を強く押出し、日ソ関係が緊迫して結果として日米関係が強化されると言うことに役立ったのである。ここでは、領土問題は解決すべき問題ではなく、解決できない問題として存在したのである。そしてペレストロイカになって、解決すべき問題になった時、古い論理が障礙となる』と説明する。
1956年の共同宣言以降、日ソは長い停滞の時代に入る。こうした状況に展望が開けるのはゴルバチョフの登場を待たなくてはならなかった。







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