三浦綾子著『いきること 思うこと』「神は愛なり」の部分
「神さま、わたしはなぜ、こんな苦しみをうけなければならないのですか」とか「神など、いるというのは嘘だ、神がいるのなら、なぜこの世はこんなに不公平なのだ」などと文句をいったりする。絶対者というのは、文句を言える相手ではないと、これだけはわたしは信じている。文句を言えるなら相対ものではないのか。
しかも、この絶対者が愛の方、私たちの霊魂のために善いことばかり備えてくださる方だと信じるなら、わたしたちはもっともっと平安に生きられるのではないであろうか。
自分の死ぬ時だって、神は最もよい時をえらんでくださるにちがいない。死に方も、死に場所も、わたしのために一番よいようにしてくださるのだと信じこんでいたら、こんな平安なことはないような気がする。
絶対者なる神は、ひとり子イエス様を十字架にかけられてまで私たちの罪を贖ってくださったほどの愛の方だ。決して悪くは取りはからなさらない。かのリンカーンも、きっとそう信じていたにちがいない。でなければあの有名な、「神は貧乏人をいちばん可愛がる。もしそうでなかったら、こんなに沢山の貧乏人をつくるはずがない」
という、彼の言葉は生まれなかったと思う。「神は愛なり」聖句を本気でわたしも信じたい。
「神さま、わたしはなぜ、こんな苦しみをうけなければならないのですか」とか「神など、いるというのは嘘だ、神がいるのなら、なぜこの世はこんなに不公平なのだ」などと文句をいったりする。絶対者というのは、文句を言える相手ではないと、これだけはわたしは信じている。文句を言えるなら相対ものではないのか。
しかも、この絶対者が愛の方、私たちの霊魂のために善いことばかり備えてくださる方だと信じるなら、わたしたちはもっともっと平安に生きられるのではないであろうか。
自分の死ぬ時だって、神は最もよい時をえらんでくださるにちがいない。死に方も、死に場所も、わたしのために一番よいようにしてくださるのだと信じこんでいたら、こんな平安なことはないような気がする。
絶対者なる神は、ひとり子イエス様を十字架にかけられてまで私たちの罪を贖ってくださったほどの愛の方だ。決して悪くは取りはからなさらない。かのリンカーンも、きっとそう信じていたにちがいない。でなければあの有名な、「神は貧乏人をいちばん可愛がる。もしそうでなかったら、こんなに沢山の貧乏人をつくるはずがない」
という、彼の言葉は生まれなかったと思う。「神は愛なり」聖句を本気でわたしも信じたい。