ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

「ああモンテンルパの夜は更けて」 関連情報(1)

2016年01月30日 | 好きな歌

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 日本人戦犯帰国60周年

第1回 ・ 「強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことが何より良かった」と元死刑囚の宮本さん

 1953年7月22日、フィリピンでBC級戦犯裁判にかけられた旧日本軍将兵108人を乗せた白山丸が横浜港に到着した。米軍に投降後、戦犯裁判を経てニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で受刑生活を送り、キリノ大統領(当時)の恩赦で釈放、あるいは終身刑に減刑され帰国したのだ。対日感情が依然厳しく、日比両国に国交がまだなかった時代、マニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺された大統領が出した恩赦令。日本社会は戦犯らを熱狂的に出迎え、渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌入りオルゴールが大統領の琴線に触れ、恩赦に結びついたとのエピソードも生まれた。当事者だった元戦犯や助命嘆願運動に打ち込んだ日本人画家の遺族、フィリピン政府関係者の遺族らにインタビューし、BC級裁判の実相を4回シリーズで紹介する。

 ▽憲兵隊学校へ

 天橋立に近い京都府与謝野町。丹後ちりめんの産地として知られるこの町に住む宮本(旧姓・中西)正二さん(92)は、フィリピンで裁かれた元死刑囚だった。最近、腰を痛めたという宮本さんだが、声には張りがあった。「戦時中、マニラのイントラムロスにあった憲兵隊学校で1年間勉強し、郊外のサンタメサでタガログ語も勉強しました」と懐かしそうに話し出した。

 20歳で、中部第37部隊第1機関銃中隊(京都市伏見区)に入隊した。1942年5月にルソン島リンガエン湾に上陸。その後、現在のケソン州ルセナやリサール州アンティポロに駐留した。上官の勧めもあり、試験を受けてマニラ比島憲兵隊に入隊した。45年1月にマニラからルソン地方北部へ撤退し、9月15日にイフガオ州キアガン町で投降した。

 ▽容疑者キャンプ

 投降後、まずラウニオン州サンフェルナンドにあった捕虜収容所に収容され、そこから列車でマニラに送られた。途中、沿道でフィリピン人から「バカヤロー」など罵声(ばせい)を浴び、石を投げつけられたという。

 宮本さんはBC級裁判の容疑者キャンプに入っていたとき、米軍マニラ裁判で裁かれた戦犯死刑囚たちが隣の既決囚キャンプから処刑場に送られるのを見送った。「皆さん立派な態度でした。でも、残される者としては銃殺刑が嫌でした。銃声がどうしても耳に入るんです」

 ▽戦犯裁判

 1947年8月、米軍から引き継いだフィリピン政府のBC級戦犯裁判が始まる。裁判は49年末まで続き、151人の被告に対し審理が行われ、死刑79人を含む有罪判決137人という厳しい結果だった。

 宮本さんはアンティポロで10人ほどの住民がゲリラ掃討の日本兵らに殺された事件の容疑者として裁かれた。フィリピン軍関係者の弁護士が付き、真剣に弁護してくれたが、証人の確保に苦労する。原隊が後にレイテ島に送られ、上官を含め全滅したからだ。宮本さんは戦犯裁判について「起訴状の内容がそのまま判決になるんですから、一種のセレモニーですよ。検察側の証人の中には、私が当時、残飯をあげた15歳くらいの少年もいましたが、誰も私の住民虐殺への関与を完全に証明できませんでした」と説明する。

 ▽モンテンルパ刑務所

 48年8月に絞首刑判決を受けた宮本さんは、モンテンルパ刑務所に移された。死刑囚の独房には3段ベッドがあり、3人一組の生活が始まる。隣の独房へも看守に声を掛ければ行けた。「卓球やマージャンもできました。ブニエ刑務所長は理解のある人で、一度、刑務所内で塩がなくなったときに、自宅にあった塩を日本人だけに分けてくれました」と宮本さん。

 比較的自由な拘留生活だったが、51年1月19日夜、中村秀一元陸軍大尉ら14人の絞首刑が行われる。近く減刑される、とうわさされていた死刑囚が含まれていたこともあり、衝撃が拡がった。宮本さんを含め、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けた。

 ▽大統領恩赦

 冷戦下という国際情勢や対日関係正常化、戦犯拘置費用の財政圧迫、日本の助命運動などを受け、キリノ大統領は苦渋の決断を迫られた。世論の動向を探るように、刑の軽い戦犯を徐々に釈放し、53年6月27日、死刑囚56人を終身刑に、終身、有期刑の49人を特赦・釈放する恩赦令を決定する。

 その後、100名余りの日本人戦犯は7月15日、処刑された仲間17人の遺骨とともに、日本政府が用意した白山丸に乗りマニラを後にする。宮本さんは「フィリピンの領海を航行している間は、当局から呼び戻されるのではないかとひやひやでした。台湾近くまで来てようやく落ち着きました」と当時の心境を吐露する。

 帰国後すぐ巣鴨刑務所に移送されたが、沿道では日の丸を振る大勢の国民に迎えられた。53年12月末、キリノ大統領は終身刑の戦犯も釈放する。「当時の経験は全部がマイナスではありません。いろいろ勉強になりましたし、何より全国に強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことは良かったと思います」と締めくくった。(澤田公伸)

(2013.8.4)

 

日本人戦犯帰国60周年

第2回 ・ 助命嘆願から児童憲章へ 洋画家・加納莞蕾の軌跡

 大山を望む島根県・安来市。その中でも緑深い山里の広瀬町布部に瀟洒(しょうしゃ)な白壁を持つ美術館が立つ。備前焼のコレクションで知られる加納美術館。ここで、5月30日から9月30日まで、洋画家・加納莞蕾(1904〜77年、本名・辰夫)の特別展示が行われている。戦前、地元で教師をしながら、独立美術協会の設立に関わり、戦中には従軍画家として中国戦線などで日本軍を描き続けた加納は、1949年から53年まで、画業を犠牲にして、フィリピンBC級戦犯裁判で死刑判決を受けた戦犯たちの助命嘆願に打ち込んだ。当時のキリノ大統領をはじめ、日比政府関係者やローマ教皇も含め200通近い嘆願書を送りつづけた洋画家の足跡を紹介する。

 

 ▽古瀬元少将との出会い

 戦後、松江地方海軍人事部に勤務した加納莞蕾は45年10月、フィリピンから復員した古瀬貴季元海軍少将と出会う。翌年1月に戦犯指名を受けて巣鴨プリズンに向かう元少将から「指導者として責任を感じている。戦犯裁判で裁かれても減刑運動などはしないでほしい」と頼まれる。

 古瀬少将は言葉どおり、49年3月開廷のBC級戦犯裁判で六つの訴因すべての有罪を認め、2日後に銃殺刑を宣告された。罪状は45年4月から5月にかけ現在のケソン州インファンタで起きた民間人152人虐殺事件の指導者としての責任だった。これを知った加納は助命嘆願をするため、当時5歳の娘、佳世子を連れて汽車で上京する。

 

 ▽大統領への嘆願書

 東京で厚生省や海軍の関係者に当たった後、知人の紹介で駐日フィリピン代表部のベルナベ・アフリカ公使の肖像画を描くことになる。それまでフィリピンとは無縁で、大統領の名前も知らなかったが、娘を連れて代表部に出入りするうち、嘆願書を直接、大統領宛に送ることを決意する。

 同美術館の館長を務める加納佳世子さん(68)は、「父がある日、代表部の女性秘書に『大統領に手紙を出すと罰せられるだろうか』と尋ねたら、彼女は『日本では、自分の思うことを言ったら、罰せられるのですか』と逆に聞かれたそうです。それで決心したのでしょう」と、当時を振り返る。

 

 ▽悲劇に寄り添う

 知人が英語に翻訳した大統領宛ての嘆願書は当初、古瀬少将の助命を請う内容だったが、そのうち戦犯全員の恩赦を求めるようになる。アフリカ公使の後任のメレンシオ公使から、キリノ大統領の妻子4人が日本兵に殺され、大統領自ら幼い末娘の遺骸を埋葬した話を聞く。

 「フィリピン国民にとり日本軍が女性や子供を虐殺したことが重大な問題で、その傷跡は消えないだろう」という公使の言葉を聞いた加納は、日本軍の加害の問題を深刻に受け止める。加納莞蕾を研究する三島房夫さんは、「大統領に宛てた4通目の嘆願書には『……閣下の手から残虐にも奪い取られた愛児の名において、赦し難きを許す。そんな奇跡が起きることを待ち望んでおります』と恩赦を求めています。しかし、莞蕾さんは日本人が罪の意識を十分持たず、反省しないまま赦免されることには、反対しています」と解説する。一方、加納の助命運動について、広島市立大学の永井均准教授は、「加納画伯はモンテンルパの戦犯と交流がなく、戦犯もその活動を知らなかった。メレンシオ大使などフィリピン人と直接交流し、彼らの言葉や戦争体験を受け止めながら展開した画伯の助命運動は、当時として極めてユニークな試みだった」と評価する。

 

 ▽「国際的な罪人」

 加納はキリノ大統領に38通の嘆願書を送った。大統領自らの返事は来なかったが、受領を確認する書面は返ってきた。53年7月、日本人戦犯105人に対し、大統領が恩赦令を出す。母国の土を踏む直前、白山丸の船内で横山静雄元中将が新聞記者のインタビューに次のように語っていたことは興味深い。「帰国を温かく迎えて下さる皆さんの気持ちは自然に出たのだろうが、よく考えると難しい問題だと思う。私たち自身は、日本の罪人だとは思っていない。ただ、国際的な罪人だと感じている。……(中略)……そっと静かに迎えて下さいと、それだけお願いしたい」

 

 ▽児童憲章への願い

 莞蕾は54年9月から2年半ほど布部村の村長を務めた。村議会に働きかけ「世界児童憲章」の早期実現を求める決議を採択し、島根県町村長会を経て、全国都道府県町村会でも満場一致で決議にこぎつけた。56年8月には、村長として布部村平和5宣言(自治、国際親善、世界連邦平和、原水爆禁止、世界児童憲章制定促進)も出している。

 佳世子さんは「父はかつて、メレンシオ公使とお互いに児童憲章の制定に努力することを誓い合いました。キリノ大統領の戦犯赦免を受け、永遠の平和を築くのは次の世代である子供たちだと考えていたのでしょう」と、父親の書簡を繰りながら教えてくれた。(澤田公伸・続く)

(2013.8.5)

日本人戦犯帰国60周年

第3回 ・ 戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令

 

 フィリピンBC級戦犯裁判で死刑や有期刑を宣告され、ニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所に服役していた100人を超える日本人戦犯に対し、ちょうど60年前の1953年7月に恩赦令を出したキリノ大統領。彼は、戦争末期に市民10万人が犠牲になったと言われるマニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺された。永井均・広島市立大学准教授の近著『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社)によれば、キリノ大統領が議会での承認を必要としない特赦で日本人戦犯を釈放、減刑した背景には、冷戦の世界情勢や日本との賠償交渉の行き詰まり、53年11月の大統領選、助命嘆願運動の高まりや刑務当局の財政軽減などがあったとされる。加えて、キリノ家関係者へのインタビューからは、キリノ政権を支えた弟アントニオ・キリノの進言も大統領の決断を促した、との見方も浮かび上がってくる。(一部敬称略)

 

 ▽2歳の幼子を仮埋葬す

 マニラ戦当時、上院議員だったエルピディオ・キリノの家族は、フィリピン総合病院に近いマニラ市エルミタ地区のコロラド通り(現在のフェリペ・アゴンシリョ通り)に住んでいた。45年2月9日午後、キリノ邸が米軍の砲撃で一部破壊されたために、妻のアリシアが長女ノルマ、長男トマスらと一緒に近くにあった実家(アリシアの母親らが住むシキア家)に避難しようとした。しかし、実家の向かいにあった日本軍の防衛拠点にいた狙撃兵に銃撃され、アリシアとノルマは即死、アリシアが抱いていた当時2歳の娘フェが地面に投げ出された。フェはしばらく泣いていたが、近づいてきた日本兵の手で刺殺されてしまう。

 キリノ大統領のめいでマニラ戦を共に経験したミラグロス・パシスさん(80)は、「エルピディオは後で実家にたどり着きこの悲劇を知りました。まだ激しい戦闘が続いていたので、2歳の末娘の遺体だけ収容することができ、自ら木製のトランクに遺骸を納め、シキア邸に仮埋葬しました。それから一族を率いてパコ運河などを渡り、さらに避難したのです」と当時を振り返る。

 

 ▽マニラ戦体験した東京裁判判事

 後の東京裁判でフィリピン代表判事を務めることになるデルフィン・ハラニーリャもこの時、キリノ家の悲劇を耳にした。長女のエマ・ハラニーリャさん(2012年10月20日に94歳で死去)は生前、筆者に対し、「自宅が破壊されて決死の逃避行の最中にこの悲報に接し、父親が『ああ、何と痛ましい』と嘆いたのを覚えています」と明かした。エマさんによると、ハラニーリャ一家が避難する直前には、自宅近くにあったセントポール大学で日本軍がフィリピン人やスペイン人、インド人など多数の民間人を講堂に集め、爆弾を爆発させて殺傷する事件も起きていた。「その時、学校の壁が一部崩れおち、私達の自宅の前まで逃げてきた人がいましたが、すぐに追いかけてきた日本兵に銃剣で刺殺されました」とエマさんは振り返った。戦後、最高裁判事や司法長官を務めたハラニーリャは、戦争指導者らA級戦犯を裁いた東京裁判に参加する。ハラニーリャ判事は、一部の被告についてより厳しい量刑を求めたほか、被告らの無罪を主張した有名なインド判事パルの「反対意見」に対する批判を展開した「同意意見」を提出した。ハラニーリャ判事は、東條英機ら7名の絞首刑を含む被告25名を全員有罪とした東京裁判の判決には基本的に同意したものの、マニラ戦を体験した者として、残虐行為の関係者個人を裁くことの重要性も訴えた。

▽実弟の説得

 キリノは共和国独立後、最初の副大統領に選ばれる。その後、ロハス大統領が急死したため大統領に就任し、49年の大統領選で当選を果たす。冷戦の国際情勢や対日正常化に加え、新大統領が直面した外交問題の一つが、日本人戦犯の処遇に関するものだった。51年9月にキリノ政権は対日講和条約に署名するが、フィリピン議会は野党の反対でその批准を見送る。対日感情が依然厳しい中で、死刑囚を含む日本人戦犯105人の恩赦に踏み切った背景には何があったのか。キリノ大統領の実弟アントニオの娘であるアレリ・グスマン・キリノさん(69)は、「エルピディオ(大統領)の腹心として絶大な信頼を得ていた私の父、アントニオが恩赦を出すよう説得したようです」と語る。アレリさんによると、当時、賠償交渉が行き詰まっていたことに加え、キリノ大統領が戦犯を利用して金儲けしているといううわさが流れたこともあり、実弟アントニオは「カトリック教徒として相手を赦すべきだ」「助けられた日本は恩義を感じてフィリピンを支援するのではないか」などと、恩赦の決断を促したのだという。キリノ大統領の恩赦令について、永井准教授は「冷戦の現実を前に、キリノは対日協調の道を探り、戦犯に寛大な措置を講じた。逡巡(しゅんじゅん)の末の政治決断であり、将来の比日関係を見すえ、対日憎悪の連鎖を断つことの大切さをフィリピン国民に示し、日本国民にはフィリピン人の痛みへの理解を促した」と指摘している。(澤田公伸、続く)

(2013.8.12)

日本人戦犯帰国60周年

第4回 ・ 偉大なヒューマニスト ブニエ元モンテンルパ刑務所長

 

 フィリピン政府によるBC級戦犯裁判で裁かれた死刑囚を含む100人を超える日本人戦犯は、キリノ大統領による恩赦が出るまで約5年間をニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で服役した。14人の死刑囚が一晩に絞首刑に処されるなど死と直面する厳しい現実に置かれたが、フィリピン刑務当局からは比較的寛大な扱いを受けたようだ。その象徴が当時のアルフレド・ブニエ刑務所長の存在で、その温かい人柄、寛容な態度は日本人戦犯たちに強い印象を残した。(一部敬称略)

 

 ▽運命の命ずる所

 1948年12月1日に日本人戦犯たちがマンダルーヨンの米軍収容所からモンテンルパ刑務所に移送されると、早速ブニエ所長が訪ねてきた。所長はまず「運命の命ずるところ、諸君は当監獄に入られた。気の毒に思う」と語り掛けたという。「独立国家の体面をもって諸君の取り扱いに注意する」と人道的な処遇に努めることも強調した。彼の上司のバラグタス刑務局長も日本人戦犯に好意的で、洗礼を受ける死刑囚の代父になったほか、53年3月に橋爪四郎ヘルシンキ五輪の水泳選手らが訪比した折には、死刑囚を含む戦犯の外出を特別に許可し、局長公邸のプールで橋爪選手らが水泳を披露するのを見学させた。

 

 ▽本物のヒューマニスト

 52年1月、賠償交渉に臨むため訪比した津島全権団に同行した記者団の1人に朝日新聞の辻豊記者がいた。辻記者は戦犯を取材しようとモンテンルパを訪ね、刑務所にカメラを持ち込もうとして看守に制止された。そのうちにブニエ所長が姿を見せ、次のように話して許可したという。「カメラは規則上、絶対に持ち込みは許されていません。しかし、あなたの持っているその妙な機械はいいでしょう。(中略)良いのを撮って下さい。家族の人々が喜ぶように」。辻記者はブニエ所長について「私の会った限りの、最も謙遜な、そして最も本物のヒューマニストであった。こんな人物を刑務所長に持っているフィリピンをうらやましく思った」と自著に書き残した。

 

 ▽日本軍が父親殺害

 アルフレド・ブニエは1899年に今のパサイ市で生まれた。フィリピン革命期にスペインと戦った経歴を持つ父親イグナシオは戦前、今のモンテンルパ市アラバンにあった「アラバン・ストック・ファーム」と呼ばれる動物飼育施設の管理人として働いていた。家庭が貧しかったため、アルフレドはスイス人ビジネスマンの家で書生として働きながら、苦学して高校を卒業。公立学校で教師などに就いた後、刑務局に勤務するようになる。33年に弁護士資格を取得、37年にマニラのビリビッド刑務所長に就任した。40年にはモンテンルパに開所されたばかりのニュービリビッド刑務所の所長となった。日本軍の占領時代も引き続き刑務所長を務めたが、戦争末期に悲劇に見舞われる。45年初頭に日本軍関係者がアラバンで暮らす父親のイグナシオをゲリラ容疑で連行、父親は行方不明になる。戦後、日本軍に協力したフィリピン人が当時の事件を後悔し、イグナシオの遺体を埋めた場所をアルフレドら遺族に教え、その遺骨が収容された。父は45年2月3日に死亡していた。

 

 ▽囚人も人間

 ブニエ所長の次男で、モンテンルパ市長やアロヨ政権期の報道長官などを歴任したイグナシオ・ブニエ中央銀行金融政策委員(68)=現職=は、「父は『囚人は人間だ』という哲学を持っていました。法律を犯した者は罰するのではなく、矯正させるべきだというのです。刑務所長に就任すると、それまで刑務所で使われていた鉄製の足枷(あしかせ)を廃止したりしています。のち『近代行刑の父』と呼ばれました」と語る。刑務局長まで出世したアルフレドだが、晩年は刑務所の騒乱事件(58年)の責任を問われ、刑務局長を罷免されるという憂き目にあった。

 

▽憎しみの連鎖を止める

 戦犯死刑囚としてモンテンルパで服役した元憲兵軍曹の宮本正二さん(92)は、「中村元大尉ら14人が処刑された時も最後まで見届けてくれるなど、ブニエ所長は日本人に理解のある人でした」と振り返る。キリノ大統領の恩赦で帰国した元戦犯たちが結成した「問天会」は、66年にブニエ元所長夫妻を日本に招待し、日光などを案内して感謝の意を表した。息子のブニエ金融政策委員によれば、アルフレドは訪日中に日本人記者から、父親が日本兵に殺されたにもかかわらず、捕虜となった日本兵に寛大な取扱いをしたことの理由を聞かれ、「憎しみと暴力のサイクルは止めなければならない」と答えたという。(澤田公伸、終わり)

(2013.8.19)


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加賀尾秀忍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
 

加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。 

概要

1901年1月5日岡山県真庭郡落合町の極楽寺に生まれる。落合尋常小学校を卒業後、おなじ落合にある木山寺に入り、住職の高藤秀本に師事し漢籍・経文を習った。1929年真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。

1949年11月4日フィリピンマニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。

当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。

ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。

3月半ばのある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。

こうして完成した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの夜は更けて』である。

この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。

そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐにピアノで試し弾きをやってみて、望郷と帰国の念に駆られる感じ漂う哀しいリズムの歌であることを知った。
そして、かつて、戦争協力者として台湾や中国大陸各地の前線を歌で慰問して巡っていた頃の自分を責め、生涯かけて歌っていこうと心に決めると、さっそく手直しにかかった。当初、5番から成っていたものを2番削除して3番編成とした。

曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものが20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。弟や妻子を日本軍に殺害されたキリノ大統領も、加賀尾よりオルゴールの曲の作詞作曲が日本人戦犯であることを知る。会見より1ヶ月後の6月27日、フィリピンに生存している日本人戦犯の釈放が決定される。こうして1953年7月7日、フィリピン独立記念日の日、晴れて日本人戦犯の特赦が実現し、7月15日、処刑された戦犯兵士の遺骨17柱と、戦犯としてニュー・ビリビッド刑務所に収容されていた108名の元日本人兵士とともに、帰還船「白山丸」(日本郵船所属の貨客船)でマニラを出港し、7月22日朝、横浜港大桟橋着で日本に帰国する。

その後、日本国内で僧侶として活躍しながら、『13階段と平和』と題して講演活動を行う。1973年には、日比親善に功労があったとして、勲三等旭日中綬章を授与された。

1977年5月5日朝、岡山県井原市の自坊で3度目の脳出血を発症して倒れる。倉敷市の倉敷中央病院に入院するも、5月11日重篤に陥り、3日後の5月14日午前12時22分、死去する、享年76。

演じた人物

テレビドラマ

薬師丸ひろ子演じる渡辺はま子が主人公となっているものの、処刑立会いのシーンや歌作り提案の場面など、加賀尾秀忍が登場する重要な場面も少なからずある。

著作

  • モンテンルパに祈る 1953年 富士書苑

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