自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

再録「100分de平和論」

2017-05-09 13:13:18 | 自然と人為

 私のブログは私の主張のためではあるが、TV番組をビデオカメラで撮影して皆様に紹介したいためでもある。NHKは受信料を払っていながら見逃した番組を観るために何故お金を払わなくてはいけないのか。NHKはすべての番組をいつでも観れるように公開しているのか。受信料を払っている人とそうでない人を区別するシステムを導入しているのか。放映した番組をYouTubeに公開することを著作権を理由に拒否できるのか。YouTubeも無料とはいえ、ビデオカメラで撮影して登録している映像を著作権を理由に一方的に削除し、製作者さえも記録をなくす様なことが、サービスとして許されるのか。ここではNHKの貴重な番組がオンデマンドでも観れなくなっているので、多くの方に観ていただきたく、有料のOneDriveに登録して再公開をさせていただく。

 明日 戦争がはじまる  宮尾節子の詩  宮尾節子 ツイート
 NHK「100分de平和論」 プロデューサのこぼれ話

 この番組は平和について考えさせられる4つの課題『戦争と人の心』、『経済と平和』、『江戸の平和』、『寛、容の祈り』について名著を、順番にそれぞれの分野の専門家が解説している。

『戦争と人の心』 フロイト「人は何故戦争をするのか」予備
 精神科医 斉藤環 
 「平和のためにできることは、”対話(ダイアローグ)”である。」

 人間として対話が基本であることには間違いはない。しかし、インターネットの普及で世界の人々の交信が容易になってきている。ネットにも問題があるにしても、語学の壁を破ることでもっと世界の人々が交信して世界を知ることや、自然と他者を大切にし、仕事とは後世にとって良いことを残すことだという道徳教育を義務教育にすることも世界平和のために大切なことだと思う。愛国心は生の欲動、憎しみや破壊は死の欲動、道徳教育で個の過剰な欲動を抑えるとともに、戦争は国の責任なので国の欲動を抑える平和憲法は大切にしなければならない。

『経済と平和』 ブローデル「地中海」予備
 経済学者 水野和夫
 「よりゆっくり より近く より寛容に」

 ヴェネツィアの商業資本主義からジェノヴァの金融資本主義に至る資本主義の推移について、貴重だが分厚い本のブローデル「地中海」を分かりやすく解説している。手形の発明により、ジェノヴァの金融資本主義が発達したことも面白いが、手形は経済のバーチャル化でもあり、欲望は他者の視点のもとに成立する。ワインの生産で繁栄していたイタリアは、ブドウ生産用土地を限界まで耕したが、一方では低利子が続いたことで資本が他の国に移動して衰退したことも、資本主義の源泉は欲望であり、生きる原点の農業以上に人間の欲望は肥大化することをしっかり認識しておく必要があろう。
 参考: 【100分de平和論】ブローデル著「地中海」 <モブトエキストラ>
      ヴェネツィア、--、ジェノヴァ──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む
      ヴェニスの商人はいかにして資本主義を
      第1章 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現
      『資本の帝国』抜き書き(第三章「商業の帝国」)
      水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(要約)(2)
      700年の資本主義の歴史から見ると、金融拡大は、一つのサイクルの最終局面


 この地中海の時代は、14~16世紀のルネサンスと重なる部分があるが、このルネサンスは戦国時代であった。ジョバンニ(1498-1562)は若くして鉄砲で死んだ最後の剣術士であったが、「理なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず」の日本の武士道に通じる魂を持っていた。その後、産業革命を経て戦争の破壊力は大きくなり、欲望の資本主義はますます肥大化していく。日本もこの時期、豊臣秀吉の朝鮮の植民地化という野望があったが、徳川の鎖国政策によって武士道と平和な時代が明治維新まで続くことになる。
 参考: ザ・プロファイラー「知られざるルネサンス~戦いの革命~」(動画),同左を見て
      イタリア美術と戦国時代
      古典古代の再生運動 ルネサンス
      イタリア ルネサンスの時代


『江戸の平和』 井原西鶴「日本永代蔵」予備 
 法政大学総長 田中優子
 「平和のためにできることは、信頼を作り出し、それを持続すること」

 江戸時代は260年続いた太平の世、封建的だとは言え戦争をしない国の知恵は、何よりも庶民のためになる。永代蔵はいろいろなものを長く保存することで、いろいろなものを持続していくこと。参勤交代は戦争の資金を蓄えさえないと同時に、大名行列でその資金を街道に循環させ、江戸に住まわせることで江戸の町に資金を循環させた。
 「すぎはいは草ばふきの種なるべし」と言うように「生きる方法は草の種ほどいろいろあるものだ」。人が見向きもしないものを大切にする始末とは、「始めと終わりの循環をきちっとする」ことで 節約するだけでなく都市と農村の循環や仕事の循環を第一に考えて多様性のある社会を築いた。そして仕事の継続は信頼にありとしたように、すべてを人間の在り方に求める江戸の社会は、欲望の資本主義の対局にある。

 秀吉の時代が永くは続かず、徳川の時代は後世の我々まで「モッタイナイ」社会、有難い社会をを残してくれたのに、文明開化だと明治維新が日本の始まりかのように高く評価し、植民地化は世界の常識だったと中国、韓国を侵略した誤りを今でも過小評価し、縄文時代は海に囲まれた島国で平和に暮らした13000年の歴史があるのに、資源を求めてアメリカとまで戦った。明治は、日本の負の遺産の始まりでもあったことを忘れてはなるまい。
 参考: 【100de平和論】井原西鶴著 日本永代蔵 <モブトエキストラ>

『寛容への祈り』 ヴォルテール「寛容論」(予備)
 作家、明治学院大学教授 高橋源一郎
 「Pray, and think 祈れ、でも考えよ」
 (すべて人は兄弟であるのをみんなが思い出さんことを

 ヴォルテールはフランス革命前のブルボン朝時代において、人間皆平等であると主張した絶対王政にとっては危険人物であった。「偏見は判断を持たない意見である」(2)等、封建社会や宗教的不寛容などにたいする合理的精神による批判を展開し、18世紀は思想史としてはヴォルテールの時代と呼ばれたりもする。
 カトリックによるプロテスタント迫害の時代、南仏のトゥールーズのプロテスタントで宗教には寛容であった「ジャン・カラスの冤罪事件」があった。ヴォルテールはこれに抗議して闘い「寛容論」を発表した。その一節に夘次の文章がある。
  ある一人の人間が別の人間に向かって、「私が信じているが、お前には信じられないことを信じるのだ。そうでなければお前の生命はないぞ」などどうして言えるのか理解に苦しむ。
 これを高橋源一郎は次のように分かりやすく解説している。 
 「俺は信じているけど、信じないやつは死ね。」宗教家がやっていることはこれだよね。宗教が一番問題。宗教対立が戦争の原因、イスラムとキリスト、カトリックとプロテスタント。キリスト教が一番ひどくない? キリスト教は愛の宗教ではなかったのか。そのことを一から考えてくれというのがヴォルテールの「寛容論」。
 参考: 【100de平和論】ヴォルテール著「寛容論」  <モブトエキストラ>

初稿校正 2017.5.9 更新 2017.12.14

最新の画像もっと見る

コメントを投稿