理性とは言葉でつぐむ物語であり、それをつぐませるのは感性だ。キリスト教では「はじめに言葉ありき」だが、仏教では「はじめに感性ありき」ではなかろうか。
母親の胎内で「成長する臓器」のように母子一体で育ち、生まれてからは初めての他者として我を抱いて育ててくれる母を知る。初めての自他分離は、「母ありて我あり」の感性によって育てられる。それをアマゾンの先住民は教えてくれる。
私がアマゾンに興味を持ったのは、「自然」と言う言葉も、「幸せ」と言う言葉も持たない「森の哲学者メイナク族(TBS:TV番組)」に感銘を受けてからである。それからネットで調べて「熱帯森林保護団体」の南研子さん(「アマゾン、インディオからの伝言」)を知り、研子さんとの会話の中で映画監督 森谷博さんを知ることになる。つなぎつながって感銘を受けた映画の監督に出会い、私の大切にしている斉藤牧場でお話をしていただくことにもなった。
南研子さんはインディオ社会の子供の成長と大人の関係を見ても、そこに本来の人間としての理にかなった姿があると次のように紹介している。
「生まれた赤ちゃんは2ヶ月間、お母さんと2人っきりの時間を過ごす。家の一隅を2人のために設け、母親の食事は家族が協力して運び、お母さんは育児に専念する。赤ちゃんは安心して母親のぬくもりを覚え、2ヶ月後には今度は集落全部で部族の子として皆が愛情を注ぐ。色々な人たちのスキンシップが十分にあるので人見知りやヒステリーで泣いたりせずに、どのインディオの赤ちゃんものんびりしていてよく笑う。2歳くらいになったら、子どもたちだけの世界でたくさんのことを学ぶ。年長者は10歳くらいで、行動範囲のジャングルでいかに遊ぶか等を下の子に教える。大人たちは口を出さずに遠巻きで見守っている。ある年が来たら男女とも、大人になるための通過儀式を一人りで迎え、自己と対面するが、正しい道のり踏んできたので、ほとんどの人は個のあり方を体得する。変な競争もせずに、お互いの個性をうまい具合に生かし認めている。私たち文明人は、子どもが大人になり、社会を築いていくという当たり前だが、この大切な事実を忘れてしまったのではないだろうか。」
戦後の物質的には貧し時代に、私は里山で遊ぶ豊かな子供たちだけの世界を経験した。しかし今は、大人が子供たちの世界に口を出し、勉強しろと子供たちの分断と競争を強制する。大人はそれを自覚していなくても、時代がそうさせている。わずか戦後70年で、人間の生きる原点をこの国は忘れてしまうのであろうか。
健全な子供は「なぜなぜ人間」から育つ。なぜの設問も答えも年下を思う年長者が教えてくれる。大人が教えることではないので、嘘か真かを疑う前に、子どもたちは親近感を持ってこれを受け入れる。ところが孤立してゲームで育った子供たちは、人は生き返ると信じているそうだ。そして、「なぜ、人を殺したらいけないの」とも言う。大人はこれに理性で答えようとするが、子どもたちは親近感を持ってこれを受け入れることはできない。感性は自然との関係、人との関係で育つ。子どもの時代に大切に育てなければいけないのは自他同一の感性だ。戦争も戦争に備えることも絶対悪だ!「君あり、故に我あり」の感性から君を殺すことなど誰も思いもしないであろう。
2014.8.10 一部修正
通る度、思うだけで中々寄れずにいます。今度、
勇気!?を出して寄ってみますので、色々とお話を
聞かせてください。
フルネームを書くのは何か抵抗がありますので、
名前でお察しください。