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神の山霧島-15 熊襲の穴

2018年04月10日 | 記紀創世紀

 日本神話の熊襲の舞台となったのは九州宮崎から鹿児島・大隈半島周辺である。歴代天皇のなかで熊襲に因縁があるのは景行天皇である。第12代景行天皇は大足彦忍代別天皇・オオタラシ彦ともいい、大旅行をした天皇として有名である。因みに共に旅を行ったのは竹内宿禰といわれているが、九州への旅の目的は熊襲がそむいて朝貢しなかったためである。景行天皇紀12年9月、景行天皇は周芳のサバに至った。サバとは現在の山口県防府市の佐波と考えられている。実は仲哀天皇・タラシナカツ彦もここを九州への出兵の拠点にしている。サバの南には集落があり、賊がいるに違いないと家来を派遣すると神夏磯媛・カムナツソヒメという支配者がいて、景行天皇の家来を見るや、降伏を申し出てきた。周防灘の福岡県側・豊前地域を制圧した景行天皇は仮宮を長峡県・ナガオノアガタにおいた。(関門海峡あたりか・・)豊前制圧後はオオキタ国(今の大分)にはいり、速見邑では速津媛ハヤツヒメという支配者に迎えられた。11月には日向に仮宮をたてて高屋宮と呼んだ。神代三陵のひとつに彦火火出見・ヒコホホデミ(神武天皇の祖父)を日向の高屋山上に葬った(紀)とあり、鹿児島県溝辺町に治定されている陵が該当するとも言えるが定かではない。

 高屋宮での会議で、景行天皇は「熊襲国にアツカヤとサカヤという勇者がいて、この統率者はとても強くて勝てそうも無い」 というと一人の臣が、「勇者には二人の娘がいて賂で手なずけ不意をつけばよい」 と進言する。景行天皇は姉のイチフカヤを寵愛し、酔っている父の弓の弦を切り、急襲により父を殺すと、イチフカヤを不孝者として殺し、妹のイチカヤを火国造にあたえた。かくして一旦は熊襲は退治されたが、再び反乱を起こしたのでヤマトタケルに熊襲を退治させたのである。この時にも騙し討ちをしたようで、その場所が熊襲の穴であるという。

 

 

大隈半島の志布志湾沿岸には唐仁古墳群があり、前方後円墳6基、円墳133基から成る大古墳群である。最大の前方後円墳である唐仁大塚古墳や北へ5kの大崎町の横瀬古墳は熊襲国主と大きく関係がありそうである。景行天皇は高屋宮で6年を過ごし、日向国の子湯県にでかけている。この子湯は児湯ともいい、32基の前方後円墳と300基あまりの古墳で構成される西都原古墳群の所在地である。ここにあるメサホ塚古墳、隣接するヲサホ塚古墳は大型の帆立貝式古墳であり、神代三陵の所在地と想定される。

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