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藤原順子 後山階陵

2007年11月23日 | 天皇・皇后陵

藤原順子・後山階陵

 京都府京都市山科区御陵沢ノ川町にある後山階陵は山科駅のすぐ北側にあります。 山科駅の西からまっすぐ安祥寺に伸びる道を進むと第一疎水にかかる小さな橋があり、これをわたると安祥寺入り口があります。 前回訪れた時には門は閉まっていて残念ながら中にはいることができませんでした。 ここ安祥寺川上流西岸に東面して築かれた円墳が後山階陵で、今回は、毘沙門堂の境内経由で訪れました。 丁度紅葉の最盛期でもあり、後山階陵を艶やかに照らしているようで素敵な情景です。

山階陵を抜けると大文字山、南禅寺へも行くことができます。(2007.11.23撮影:クロウ)

 

 

 

 左大臣藤原冬嗣(775~826)の娘順子(809~871)が眠っています。 藤原順子は 「美姿色。雅性和厚」と伝えられていて、女御より皇太夫人に昇った初例でもあります。 のちに皇太后となり、東五条院(五条宮)を居所としたことから、五条后と称されています。 『伊勢物語』によると、姪の高子が一時同居した時、在原業平との間に問題を起こしています。 また、.藤原順子は仏法に帰依深く、宇治郡に安祥寺を建立しました。 

安祥寺 (撮影:クロウ)

 

 後山階陵一帯は、日本古来の方法による製鉄・をたたら製鉄の遺跡でもあり,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれます。 これらの地域の製鉄は6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられている。また、輪王寺宮御墓参道もあります。

                                  801-861
     
              伊都内親王(桓武皇女)
       
                            ┃
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┗藤原沢子   -839
 830-887 
 ┃ 737-806   ┃  ┣ 時康親王58光孝天皇 
白壁王(光仁)   ┃  ┃ ┃     藤原穏子885-954(時平・妹)
         ┃  ┃ ┃      ┃ 安子
         ┃  ┃ ┃      ┃  ┣
         ┃  ┃ ┃      ┣ 成明親王(62村上)926-967
         ┃  ┃ ┃高藤┓┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
         ┃  ┃ ┃  胤子┣ 保明親王901-923
         ┃  ┃ ┃  ┣60醍醐天皇 ┗ 慶頼王920-925
          ┃  ┃ ┗ 源定省(59宇多天皇)┏58光孝天皇
        
正良親王(54仁明天皇)810-850   ┗源順子   
      藤原嘉智子┃  ┣
           ┃ 小野吉子(更衣)
   
   
        ┃                          *5
  
         ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                 ┃    ┣
紀有常女              
            ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
        藤原冬嗣
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
           ┣ 藤原順子(冬嗣・娘) ┣清和天皇        
 
    美都子           藤原明子

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第49代光仁天皇田原東陵

2007年11月21日 | 天皇・皇后陵

49代光仁天皇田原東陵

 春日宮天皇田原西陵と田原東陵は隣接して奈良公園の東・田原地区にあります。天智天皇の第7皇子・施基親王の第6子で白壁王と称し、母は紀橡姫。 初叙が29歳と大変遅かったが744年に聖武天皇の皇女・井上内親王を妃とした頃からにわかに昇進が早くなり、762年に中納言となり、恵美押勝の乱の鎮圧に功績を挙げると称徳天皇の信任を受けて766年に大納言に昇進する。 だが度重なる政変で自らは凡庸を装っていたといわれている。(撮影:クロウ)

 

 藤原永手は女帝(称徳天皇)の死後、次期天皇位とは無縁であった天智系の白壁王を強引に即位させた。 女帝は後継者を指名せずに死んだということになっている。 吉備真備を含む残された廷臣たちは天武の孫で元皇族で参議の文屋大市を、次期天皇として推戴することを決め、勅書を女帝の名で作っていた。 ところが藤原永手らは土壇場に来て「次期天皇は白壁王」という勅書に摩り替えていたという。 裏を掻かれた吉備真備は悔しがったが後の祭りですぐに右大臣を辞した。 称徳天皇が発病した770年、朝廷の軍事権は左大臣藤原永手、右大臣吉備真備により握られていた。 女帝は志望する前の二ヶ月間は女帝と道鏡は連絡が遮断され、白壁王が即位するとすぐに吉備真備は辞職する。 天智系の白壁王が天武系の皇族をさしおいて即位することは通常考えられないことである。 吉備真備は女帝が藤原氏の勢力に対抗するために引き上げた実力派であるが、身分は極めて低い。 その彼に女帝は期待したのであるが、女帝が病気になった頃から、吉備真備は左大臣永手と組んで、道鏡に対抗している。 つまり女帝を裏切った格好になったが、実は永手に一杯くわされたようである。 本来皇位につけない白壁王を即位させることによって、一層藤原氏の権力を強固なものにするためであるが、これは安麻呂が大炊王を即位させたのと同じ手法である。 この手法を考えたのは実は永手ではなく、同じいとこにあたり策略家の藤原百川であると日本書紀はいっている。 つまり天皇を藤原氏の言いなりにしておくことで他を排除し権力を握ることが藤原一族の手法である。 こうして仲麻呂を追いやった吉備真備も永手により辞職させられた。 

 称徳天皇の死に関する古事 「称徳帝は道鏡の陰をもあかず思されたので、道鏡は山の芋をもって異型なるものを献上した。しかるところこれが折れ込んでしまったのでゆゆしき病気になられた。百済の医者・子手尼が参拝して『わたしの手に油を塗って処置申せば容易に取り出すことが出来ます』といったところ、百川は『妖狐なり』といって小手尼を斬った。 このために帝は病が癒えず崩御された」 とある。 つまり称徳天皇は暗殺されたといえる。 続日本紀によると帝は「大和国佐貫郷高野」に祀られたが、聖武天皇、光明皇后、元明、元正、基王等皆「佐保山」一帯に眠る。 称徳一人だけ違った場所に葬られたのにはわけがありそうである。 暗殺という異常死の場合こういうことになる場合が多い。 高野陵は成務天皇の隣になっているが、実はこれは称徳の陵ではない。 現在称徳の陵とされているのは前方後円墳であるが、当時の陵墓で前方後円墳はありえないのである。 ということは、称徳の陵墓は現在所在不明ということになる。

 天智系の白壁王(しかも即位時は62歳)を推した藤原永手は、天武系の光仁天皇の妻・井上内親王とその子・他戸親王を追放し、帰化人・高野新笠との間にうまれた天武系の血がはいっていない山部親王を皇太子にする。

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聖武天皇皇子・安積親王 和束墓

2007年11月21日 | 天皇・皇后陵

聖武天皇皇子・安積親王 和束墓

 奈良から24号線を北上して木津川を渡ると伊賀街道(163号線)と交わります。 これを東に進むと国分尼寺跡があります。 実はここには聖武天皇が放浪生活をしたときの都の一つである恭仁宮跡もあり、安積親王が変死をした場所でもあります。 またさらに進むと安積親王 和束墓があります。

聖武天皇皇子・安積親王 和束墓(撮影:クロウ)

 

  

安積親王が急死したという恭仁宮(くにのみやこ

  

 

 744年、聖武天皇が難波宮へ引越しを始めた頃に、安積親王が恭仁宮(くにのみやこ)で急死した。 安積親王は光明子が皇后になったきっかけの人である。 光明子の息子・基皇子が生まれて間もなく病死した頃に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた皇子が、その人である。 738年に光明子の娘・阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にすえていたものの、朝廷内には反論も多く、藤原四兄弟が亡くなった今では藤原反省力が盛り返していた。 大伴家持などはその筆頭であった。聖武天皇と分かれて恭仁宮にいた安積親王は、同じく留守番をしていた藤原仲麻呂に毒殺されたのかもしれない。 後に仲麻呂は孝謙天皇とともに政界を握ることになる。聖武天皇の彷徨がおさまったのは745年のことである。橘諸兄の政権に指導制が欠如していたために、天皇の専横を許したともいえる。

 749年聖武天皇は孝謙天皇に譲位した。安積親王の謎の死によって阿部内親王が女帝として即位したのである。そして光明皇后は孝謙天皇の補佐を行う機関(紫微中台)をつくり、天皇にかわって皇太后が勅をだすのである。 そして紫微中台の長官には藤原仲麻呂がついた。

 756年、聖武天皇が崩御されたときの遺言には孝謙女帝の次には道祖王(ふなどおう)を立てるようにとあった。 道祖王は新田部皇子の子で、天武天皇の孫に当たる。朝廷内が藤原一族で固められるのを懸念していた。 翌757年に橘諸兄が死去すると公卿のトップには藤原豊成がつき、藤原南家の全盛時代が到来し、反藤原勢力の道祖王は朝廷機密漏洩事件を起こしたとして皇太子を廃し、右大臣・豊成、藤原永手らは、道祖王の兄・塩焼王を推薦。 また他にも船王、池田王、など推薦されるが孝謙女帝は仲麻呂推薦の大炊王を皇太子とした。大炊王の妻は仲麻呂の長男・真従の先妻であった。 皇太子大炊王を手中にした仲麻呂は独裁政権の道を歩み始めるが、反藤原勢力として橘諸兄の長男・奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂が動き出す。 ところが、757年、長屋王の子山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告する。 そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に440人余りが処された。仲麻呂の独裁に対する反感の大きさが伺える。

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那富山墓

2007年11月21日 | 天皇・皇后陵

那富山墓(なほやまのはか

 那富山墓は佐保山地区にある基皇子の墓です。 奈良ドリームランドに隣接したこの墓は、「黒髪山稲荷神社」のすぐ隣で、柵の為に中にははいれません。 基皇子は728年(神亀5年)1歳で亡くなります。 聖武天皇と光明子の期待の第1皇子でしたが、生まれて間もなく亡くなり、その後二人の間に皇子が誕生しなかったために、悲劇は起こります。 聖武天皇のもう一人の夫人・県犬養広刀自が同年、安積皇子を産みますが、光明子に子が生まれなければ安積皇子が皇位につくことから藤原氏は焦ります。 藤原一族は権勢を維持するために、光明子夫人を皇后につけ、聖武天皇に万一のことがあれば、皇后を天皇に立てる策にでます。 これに反対する長屋王は後に謀反の罪で自殺に追い込まれ、安積皇子も17歳で謎の死を遂げます。 <o:p></o:p>

 

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聖武天皇母藤原宮子佐保山西陵

2007年11月21日 | 天皇・皇后陵

聖武天皇母藤原宮子佐保山西陵

 聖武天皇生母藤原宮子后宮墓は、万葉集にも詠われた史跡「黒髪山」にあります。 この辺一帯は佐保山地区古墳群と云われ、聖武天皇縁の御仁の陵が多く点在しています。 藤原宮子が眠る佐保山西陵はもともと黒髪山の西に位置していましたが奈良ドリームランドの開発により破壊されたようで、現在では「黒髪山」にその痕跡があります。 祠に納まったお地蔵さんの右隣が史跡「大黒芝」、佐保山西陵七ツ石、聖武天皇生母藤原宮子后宮墓稜石、中央に「石母」、右に「黒住大明神」、左に「豊國大明神」の大きな石碑が建っています。更にその右隣が、朱色の鳥居が12本建った「黒髪山稲荷神社」です。(撮影:クロウ)

 

 

烏玉の 黒髪山の山草に 小雨降しき しくしく思ゆ 万葉集巻11-2456

 文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。 椎岡墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕 

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第48代称徳天皇・高野陵

2007年10月27日 | 天皇・皇后陵

第46代孝謙天皇/第48代称徳天皇・高野陵

 高野陵は奈良・平城宮跡の北西すぐ、成務天皇陵、日葉酢媛命陵の南に隣接しています。 この辺一帯は自動車の通行を許可していない生活道路が多く、渋滞が慢性化していて近寄りにくいところです。成務天皇陵、日葉酢媛命陵は参拝したにもかかわらず、隣接する高野陵へは参拝していなかったので、再度の訪問です。

 

 孝謙天皇(718-770)の父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后で、史上6人目の女帝である。 天武系からの最後の天皇であり、即位前の名は阿倍内親王と言います。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(稱天皇) 以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいません。

 744年、聖武天皇が難波宮へ引越しを始めた頃に、安積親王が恭仁宮(くにのみやこ)で急死した。安積親王は光明子が皇后になったきっかけの人である。 光明子の息子・基皇子が生まれて間もなく病死した頃に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた皇子が、その人である。 738年に光明子の娘・阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にすえていたものの、朝廷内には反論も多く、藤原四兄弟が亡くなった今では藤原反省力が盛り返していた。 大伴家持などはその筆頭であった。聖武天皇と分かれて恭仁宮にいた安積親王は、同じく留守番をしていた藤原仲麻呂に毒殺されたのかもしれない。後に仲麻呂は孝謙天皇とともに政界を握ることになる。 聖武天皇の彷徨がおさまったのは745年のことである。橘諸兄の政権に指導制が欠如していたために、天皇の専横を許したともいえる。 749年聖武天皇は孝謙天皇に譲位した。安積親王の謎の死によって阿部内親王が女帝として即位したのである。そして光明皇后は孝謙天皇の補佐を行う機関(紫微中台)をつくり、天皇にかわって皇太后が勅をだすのである。 そして紫微中台の長官には藤原仲麻呂がついた。756年、聖武天皇が崩御されたときの遺言には孝謙女帝の次には道祖王(ふなどおう)を立てるようにとあった。 道祖王は新田部皇子の子で、天武天皇の孫に当たる。朝廷内が藤原一族で固められるのを懸念していた。 翌757年に橘諸兄が死去すると公卿のトップには藤原豊成がつき、藤原南家の全盛時代が到来し、反藤原勢力の道祖王は朝廷機密漏洩事件を起こしたとして皇太子を廃し、右大臣・豊成、藤原永手らは、道祖王の兄・塩焼王を推薦。 また他にも船王、池田王、など推薦されるが孝謙女帝は仲麻呂推薦の大炊王を皇太子とした。大炊王の妻は仲麻呂の長男・真従の先妻であった。 皇太子大炊王を手中にした仲麻呂は独裁政権の道を歩み始めるが、反藤原勢力として橘諸兄の長男・奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂が動き出す。 ところが、757年、長屋王の子山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告する。 そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に440人余りが処された。仲麻呂の独裁に対する反感の大きさが伺える。

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、藤原仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。 763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され孝謙は復位して称徳天皇となった。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。

   ┏ 蘇我娼子娘-693
   ┣ 安麻呂  ┣ 武智麻呂(南家)680-737

           ┃   ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
 
          ┣ 房前  (北家)681-737元正の内臣
 
           ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
 
           ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱        白壁王709-781光仁天皇

           ┃  ┣ 良継 白壁王支持           ┣ 他部親王

  ┏許米━大嶋  ┃  ┗ 百川 道鏡追放   県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王

┏□ 金(反大海)
 ┃                            ┣ 井上内親王717-775
 
┣□□意美麻呂  ┃五百重669-695(天武夫人)      ┣ 安積親王728-744 
  
┃舒明┓      ┃┣ 麻呂 (京家)695-737       ┃

┃   鏡女王    ┃┃          文武天皇683-707  ┃
 
┃    ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売         ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756

┃    ┣五百重 ┃┃  ┣ 藤原宮子682-754┛     ┣ 基皇太子727-728
  
┗□ 鎌子614-669┃┃  ┣ 長娥子694-(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770

           ┣ 藤原不比等659-720               ┃
       ┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
        與志古娘       ┃     
       
          県犬養(橘)三千代668-733                   
              ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
 
            ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757  
  
           美努王

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春日宮天皇妃御陵

2007年10月25日 | 天皇・皇后陵

春日宮天皇妃御陵(吉隠よなばり陵)

 春日宮天皇妃御陵は 奈良県宇陀郡榛原町鳥見山(標高740メートルの山)にあります。 鳥見山といえば厩戸皇子や押坂彦人大兄皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の出身地でも有名です。 近鉄大阪線の榛原駅近くの165号線から登山道が伸びています。 この登山道口を登る人はほとんどいないのでしょうか、楽に入れるような道ではありませんでした。 

 

 春日宮天皇妃御陵は 第49代光仁天皇の母・紀橡姫(きのとちひめ)(紀諸人の女) の御陵で、 709年(和銅2)吉隠の地で崩ぜられ、ここに葬られたと伝えられています。 春日宮天皇は、光仁天皇の父・施基皇子 (皇位継承とは全く無縁で、政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だった) のことをいい、天智天皇の皇子になります。  奈良時代末期、聖武天皇の娘であった孝謙・称徳天皇(46代、48代の二度天皇となって重祚)には、子供がなかったことから、光仁天皇(天智天皇系)に皇統が移っているのです。 光仁天皇・白壁皇子が即位されると、 亡くなられたあとに春日宮天皇として諡号されてい ます。 また、施基皇子は万葉歌人でもあり、 よろこびの御歌一首を見ることが出来ます。 「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

 紀橡姫(きのとちひめ)の出身の紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。紀の国紀氏は、古墳時代初頭の昔から紀国の豪族であったが、大和王権に媚びてその由緒を捨て去り、神別、皇別氏族へと6世紀後半ー7世紀前半に集団が分断されたらしい。 武内宿禰は、架空の人物(紀記編纂時造られた)とされ、この子紀角宿禰は、渡来系の人物で7世紀あたりで神別紀氏の系譜に入りこんだ、との説も多数ある。

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順子後山階陵

2007年10月09日 | 天皇・皇后陵

藤原順子 後山階陵

 京都府京都市山科区御陵沢ノ川町にある後山階陵は山科駅のすぐ北側にあります。 山科駅の西からまっすぐ安祥寺に伸びる道を進むと第一疎水にかかる小さな橋があり、これをわたると安祥寺入り口があります。 今回訪れた時には門は閉まっていて残念ながら中にはいることができませんでした。 ここ安祥寺の境内の安祥寺川上流西岸に東面して築かれた円墳が後山階陵だそうで、左大臣藤原冬嗣(775~826)の娘順子(809~871)が眠っています。 藤原順子は 「美姿色。雅性和厚」と伝えられていて、女御より皇太夫人に昇った初例でもあります。 のちに皇太后となり、東五条院(五条宮)を居所としたことから、五条后と称されています。 『伊勢物語』によると、姪の高子が一時同居した時、在原業平との間に問題を起こしています。 また、.藤原順子は仏法に帰依深く、宇治郡に安祥寺を建立しました。 

安祥寺 (撮影:クロウ)

 

 後山階陵一帯は、日本古来の方法による製鉄・をたたら製鉄の遺跡でもあり,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれます。 これらの地域の製鉄は6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられている。また、輪王寺宮御墓参道もあります。

石碑

                                  801-861
     
              伊都内親王(桓武皇女)
       
                            ┃
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┗藤原沢子   -839
 830-887 
 ┃ 737-806   ┃  ┣ 時康親王58光孝天皇 
白壁王(光仁)   ┃  ┃ ┃     藤原穏子885-954(時平・妹)
         ┃  ┃ ┃      ┃ 安子
         ┃  ┃ ┃      ┃  ┣
         ┃  ┃ ┃      ┣ 成明親王(62村上)926-967
         ┃  ┃ ┃高藤┓┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
         ┃  ┃ ┃  胤子┣ 保明親王901-923
         ┃  ┃ ┃  ┣60醍醐天皇 ┗ 慶頼王920-925
          ┃  ┃ ┗ 源定省(59宇多天皇)┏58光孝天皇
        
正良親王(54仁明天皇)810-850   ┗源順子   
      藤原嘉智子┃  ┣
           ┃ 小野吉子(更衣)
   
   
        ┃                          *5
  
         ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                 ┃    ┣
紀有常女              
            ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
        藤原冬嗣
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
           ┣ 藤原順子(冬嗣・娘) ┣清和天皇        
 
    美都子           藤原明子

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仁明天皇皇后・沢子中尾陵

2007年10月08日 | 天皇・皇后陵

仁明天皇皇后・藤原沢子中尾陵

 京都府京都市東山区今熊野宝蔵町の住宅地にあるのは仁明天皇皇后藤原沢子中尾陵で、泉涌寺への参道の近くにあります。写真の角度が悪いのですが、石碑の鳥戸野陵と書いている右の面に中尾陵と刻まれています。 実はわたくし、この道は何度も通っております。 恐らく10回くらいは・・・。 今思えば何故ここに中尾陵があると気がつかなかったのか、車で通ると見逃すことは多いのです。 

 贈皇太后藤原沢子(?~839)は、藤原総継の娘で、一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデルといわれている。 仁明天皇の女御・藤原順子(808~871)(藤原冬嗣の娘) が文徳天皇を産んだのに対して、藤原沢子は光孝天皇を産んだ。 仁明天皇の沢子に対する寵愛は後宮に並ぶ者がないといわれたというが、宮中にて急病となり、小車に乗って宮中を退出し、里邸に着くと生き絶えます。 天皇はこれを聞き哀悼し、使を遣わして従三位を贈り官に喪事を監護させました。 のちに所生の時康親王(光孝天皇)が即位。没後45年を経て皇太后を追贈されます。

 

                                  801-861
     
              伊都内親王(桓武皇女)
       
                            ┃
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┗藤原沢子   -839
 830-887 
 ┃ 737-806   ┃  ┣ 時康親王58光孝天皇 
白壁王(光仁)   ┃  ┃ ┃     藤原穏子885-954(時平・妹)
         ┃  ┃ ┃      ┃ 安子
         ┃  ┃ ┃      ┃  ┣
         ┃  ┃ ┃      ┣ 成明親王(62村上)926-967
         ┃  ┃ ┃高藤┓┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
         ┃  ┃ ┃  胤子┣ 保明親王901-923
         ┃  ┃ ┃  ┣60醍醐天皇 ┗ 慶頼王920-925
          ┃  ┃ ┗ 源定省(59宇多天皇)┏58光孝天皇
        
正良親王(54仁明天皇)810-850   ┗源順子   
      藤原嘉智子┃  ┣
           ┃ 小野吉子(更衣)
   
   
        ┃                          *5
  
         ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                 ┃    ┣
紀有常女              
            ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
        藤原冬嗣
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
           ┣ 藤原順子(冬嗣・娘) ┣清和天皇        
 
    美都子           藤原明子

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盗掘で明らかになった天皇陵

2007年09月16日 | 天皇・皇后陵

盗掘で明らかになった天皇陵

 今現在宮内庁によって管理されている天皇陵のほとんどは詳しい研究がなされないままに治定されているらしく、ほんとうにその天皇が眠っているのかどうかが不明瞭なんだそうです。 そういった状況のなかで、明確化されている天皇陵のひとつで檜隈大内陵については、天武・持統天皇の合葬陵として間違いないであろうと伝わっています。 その理由は、1880年に京都栂尾高山寺で発見された 「阿不幾乃山陵記」 という巻物本にあります。 この発見によって明治政府は陵の治定を変更したのです。 当時の高山寺の住職錦小路証成はもっと以前から巻物の存在を知っていたようであるが、1880年に田中敬忠氏によって発表され、現在の見瀬丸山古墳が天武・持統天皇合葬陵として是正された。

第40代天武天皇・第41代持統天皇檜隈大内陵(撮影:クロウ)

 

 さて、この「阿不幾乃山陵記」 で記述されているのは、文暦二年(1235年)に盗掘が行われ、実地検分のために派遣された勅使による詳細記録です。 その記録によるとこうです。 『 この陵は八角形で石壇の一周は一町程である。 墳丘は五段で十株程の大きな樹木に覆われて森を形成している。 南に面して石の門があり、その門の前に石橋がある。 盗人はこの石門を切り開いて侵入した。 御陵の内部は前後二室から構成され、前室は一辺一寸四方ですべてメノウ製で、天井までの高さは七尺、天井もすべてメノウである。後室は広さ南北一丈四,五尺、東西一丈程で、入り口に金銅製妻戸が設けられている。 扉の厚さは四寸で、金物六個、そのうち小さいものが四、大きいものが二個あり、その形は蓮華の花のようである。 後室三方上下供にメノウ製で赤く塗られている。 御棺は張物で朱塗りである。御棺の蓋は木製で、赤く塗られた御棺の床の金銅の棺座の厚さは五分で、その上には透かし彫りが左右に八個ある。御骨の首は普通よりも大きく、赤黒色を呈している。 肘骨は長さ一尺四寸、御棺の中には紅い御衣装の朽ちたるものが少々存在した。 その他の盗人が取り残したものは橘寺へ移された。 その中に玉帯一条あり、形は銀製兵庫鎖を使用して種々の玉で装飾する石の種類二種あり、一は銭を繋いだものと表は長三寸、その色は水晶のようである。これが玉帯である。御枕には金の珠玉を飾り、唐様で言葉では表現できない。鼓の形をした金銅の桶が一個床にあり、その形は礼盤のようで鎖がクリカタに少し残っている。またこのほかに念珠一連があり、琥珀を銅糸で繋いでいる。 これは多武峰の法師が取り上げる。』 

 この墳丘は天武天皇が崩御し、690年10月から築造を開始しており寿陵ではなく、 天武天皇の殯期間中の築造である。 八角形の墳丘は終末期古墳に登場する形で、中尾山古墳や束明神古墳等がある。

 

 奈良県高取町には草壁皇子墓であるといわれる古墳が二つあり、束明神古墳がそのひとつです。 岡宮天皇陵の北側を進むと春日神社があり、その境内にあります。 (束明神の「束」は草壁皇子の歌から取られているらしい) 

 

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天皇失格・仲哀天皇

2007年09月01日 | 天皇・皇后陵

天皇失格の烙印を押された仲哀天皇 

 神を怒らせて急死してしまった天皇がいる。それは仲哀天皇である。 そして失格天皇の代わりに世を治めた息子・応神天皇の話を古事記に見てみることとする。 朝廷に従わない熊襲を征伐しようと思った仲哀天皇は筑紫の香椎宮(古事記では訶志比宮)にいて神の意思を窺うことにした。 神を招き入れるために斎場で天皇が琴を弾き、皇后の息長足比売命(神功皇后)が神を受け入れる用意をして、武内宿禰大臣が神の言葉を発せられるのを待っていた。 やがて皇后が神がかりの状態になって言葉を発する。 琴の音に導かれて降りてきた神は皇后の口をとおして、さまざまな財宝のある西方の国・新羅を攻めるように諭した。 しかし、それを聞いた仲哀天皇は、高いところに登ってみてみたが、国土は見えず、ただ海があるだけです、といい、嘘をつく神だといって琴を弾くのをやめてしまった。 これに激怒した神は、この天下はお前が治めるべきではない、あの世へいくがいい、と言った。この状況にまずいと判断した武内宿禰は天皇にそのまま琴を弾き続けるように勧めた。 天皇は再び琴を弾き始めたが、少ししてまた琴の音が聞こえなくなると天皇は既に絶命していたという。 琴は特別に神聖な楽器であり、神を呼び寄せる能力をもっていた。 天皇が絶命したことで神の威力を恐れた皇后と武内宿禰は、罪や穢れを払い清める儀式を執り行うと、再び神託を受け入れる用意を整え、神の言葉を求めた。  すると、神は「もともと、この国は皇后の腹にいらっしゃる御子がお治めになる国である」 と教えてくれた。 武内宿禰の問いに答えて、御子が男子であるとも言ったのである。 

 新羅への遠征が終わらないうちに、皇后の懐妊している御子が生まれそうになり、皇后は出産を抑えようとして、石を裳の腰に巻き、筑紫国に渡ってから御子を出産した。 こうして生まれた御子が品陀和気命、後の応神天皇である。 この伝説は、天皇あるいはそれに准じる存在が高い場所に登って自分の支配する国土を見渡しながら、目に見える国土のすばらしさを褒め称えるという「国見」の儀礼と深い関係がある。 国見は支配者にとって重要なものであり、この儀礼を行うことによって、そこを支配する神の霊威が高まり、国土に豊饒と反映がもたらされると考えられていた。 また天皇が地方へ行幸する場合にも、その地その地で国見の儀礼を行い、そこを支配する神々に一行の身の安全を祈った。

 しかし国見の儀礼がいつも適切に行われるとは限らなかった。 不適切に行われると政治的な混乱や災いが起こると考えられた。 その一例はこうである。 天界の支配者である天照大神は、自分の子である 天忍穂耳命(饒速日命の父)を地上界の支配の為に天降らせた。 命令を受けて天浮橋に降り立った天忍穂耳命は地上の様子について、ひどく騒然としている、と発言したと言う。 国見という観点から言えば、褒め称えるべきところを、逆の発言をしてしまったために、大変な事態が続いて起こるのである。 すぐ後に降り立った天菩比神は、地上界の支配者である大国主神と癒着し、3年間天界に戻らなかった。 また、その次に降り立った天若日子は天界の神が投げた矢によって絶命してしまう。 こうして天忍穂耳命の国見の失敗が後々問題を起こすのであるが、続いて地上に派遣された建御雷神は、圧倒的な武力を発揮して大国主神とその息子達を相手に交渉し、地上の支配権を天界の神に譲ると言う約束をとりつけた。 そのあとで、天忍穂耳命の子である邇邇芸命(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)が威厳を示しながら、天界から地上に降りてきた。邇邇芸命は地上を褒め称えると、堂々たる宮殿を建てた。 そして笠沙の御前で美しい娘と出会い、結婚するのである。

 仲哀天皇の場合、国見の能力がないとみなされ、神によってその場で急死させられたというわけである。 そしてこの失敗は後に収拾されるのであるが、それは息子の品陀和気命(後の応神天皇)によって行われたのである。 応神天皇の国見の伝説を見てみた。

 ある時、天皇が近近江国に行幸したとき、宇遅野の上に立ち、葛野のほうを遠く眺めて、「葛野を見れば家が満ち満ちているところも見える。国のすばらしいおころも見える」 と詠んだ。 そして木幡村に着いたときに、美しい娘と出会った。 天皇は娘に、「お前は誰の子か」と尋ねると、娘は「和邇の比布礼能意富美の娘で、宮主矢河枝比売と申します」 と答えた。 すると天皇は明日帰るときにお前の家に行こうと思うと言い、 娘を貰い受けたのである。 こうして応神天皇は国見において、父の仲哀天皇とは全く違う結果を残したのである。

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第75代崇徳天皇陵

2007年07月25日 | 天皇・皇后陵

第75代崇徳天皇白峯陵

 香川県の讃岐は白峯山の頂上にある白峯寺に隣接して崇徳天皇陵があります。 前回ここを訪れた時に御陵の前まで来ていながら暑さで集中力を欠き、思わず断念してしまいましたので再度の訪問となりました。 白峯寺境内入り口を左へ進むと石畳があり、これが崇徳天皇陵への参道となっています。(撮影:クロウ) 

 

 

 陽成院、三条院に続いて、悲劇の天皇で代表されるのが崇徳天皇である。保元の乱に敗れて讃岐に流されたが、陽成院・三条院との大きな違いは崇徳天皇の和歌の飛びぬけた見識にあり、後の後鳥羽天皇に次ぐ天皇歌人である。「詞花和歌集」は崇徳院の勅命により清輔の父・左京大夫・顕輔が編纂にあたった。 また「久安百首」は自身の歌や側近の徳大寺公能、藤原敦長らの作を集めたものであり、1150年に奏覧されたものを藤原俊成が手直しをし完成させた。

 院が讃岐に流された後、歌壇の火が消えかかることに対して、西行、寂然は嘆き悲しんでいる。寂然は院の生前に密かに讃岐を訪れ、西行は崇徳院側近の女房と音信を交わしていた。院は変わり果てた境遇を悲しみ、来世こそはと願ったが悟りの境地に到達せず、その心境への同情がやがて怨霊説となっていった。崇徳院は讃岐にて経典の血書をしかるべい寺に奉納しようと申し出たが、乱後政権を握った信西入道が許さなかったため、生きながら天狗の姿になり魔王となって国家を傾ける呪いをかけたというのである。西行が崇徳上皇崩御後に讃岐を訪れ、白峰の墓に参り亡魂を慰めたのも、彼のただならぬ思いを早くから憂えていたためである。

 やがて歌壇に進出する藤原俊成も院の配流を嘆き悲しむ者のひとりであり、家集に院の長歌を収録している。

思いやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたる心細さよ

 藤原俊成の子・藤原定家が百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあわむとぞ思ふ」を納めたのも偶然ではないのである。

百人一首 崇徳院

白峰寺 

 

  

                   為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘          尊子(道長五女)    ┣為隆(万里小路家祖)
 ┣隆姫女王995-1087 ┣俊房        ┣顕隆(葉室家祖) 
 ┣次女  ┃    ┣顕房       ┃ ┗徳大寺実能━公能
 ┣師房  ┃    ┃  ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河鳥羽の乳母)
 ┣嫥子女王┃    ┣麗子        

具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子)                篤子内親王
      ┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子)       中宮賢子 ┣
       ┃ 彰子 ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘) ┣73堀河天皇1079-1107
       ┃  ┣69後朱雀1009-1045     ┣
72白河天皇1053-1129
       ┃  ┃  ┃  ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
       ┃  ┃  ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
      ┃66一条天皇┃  光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長    ┃     ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保    ┃
 ┣頼通992-1074   藤原嬉子┃    ┣西園寺通季┃┣顕輔    ┣76近衛天皇
 ┃      ┃ ┣通房1025-1044  ┃    ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃ 
 ┃      ┃ ┃         ┃    ┃ ┗公能 ┃      ┃ 
  ┃   ┃源憲定娘┏━━━━┛    ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
  ┃   ┣覚円  ┣ x      実季┳公実      ┣75崇徳      ┃
 ┃   ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子   ┣77後白河      ┃
 ┃   ┣師実 1042-1101京極殿       ┗━━┓┃         ┃ 
 ┃   ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099     ┃┃  ┏━━━━━┛┣近衛基実
 ┃   ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃       74鳥羽上皇       ┣近衛基房 
  ┃   ┃     麗子  ┣忠実1078-1162    ┣       ┣九条兼房 
  ┃  
┣藤原祇子     ┣全子  ┃  ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
  ┃  頼成      俊家1014-1082 ┃  ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
  ┣教通996-1075           ┃ ┣源師子
倫子 ┃   ┃┣ x                 ┃源顕房
   ┃   ┃嫥子女王
       ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家       盛実娘

         ┣ 通基        
 
       ┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)        
  
         ┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)      
  
   頼忠   ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)      
  
    ┣公任┣ 真子(後冷泉女御)      
  
 厳子女王┣娘 
  
     昭平親王娘

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第47代淳仁天皇陵

2007年07月24日 | 天皇・皇后陵

第47代淳仁天皇淡路陵

 久しぶりの天皇陵訪問です。 残り僅かとなった天皇陵のうちのひとつ淳仁天皇陵は南淡路市の賀集にあります。 明石海峡大橋を渡って一気に淡路島を縦断し西淡三原ICで降りる予定が、淡路島南ICまで行ってしまい、御陵までもどることに。 おかげで福良港の海岸線や港に浮かぶ煙島を望むことができ、少し収穫がありました。

明石海峡大橋

 

福良港 煙島

 

淳仁天皇陵

 

       天武天皇 
 
  中大兄皇子 ┣ 舎人親王676-736(日本書紀編集)
 
     ┣新田部皇女  ┣ 大炊王(47淳仁天皇)733-765仲麻呂推挙で皇太子 淡路廃帝

     ┣明日香皇女 当麻山背  ┣
 
    橘娘               粟田諸姉 仲麻呂の子真従の未亡人

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、光明皇太后の寵臣・藤原仲麻呂は亡き息子・真従の未亡人・粟田諸姉を妃として娶らせたというから、仲麻呂の意向であったことは云うまでも無い。 そして、仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 淳仁天皇は中麻呂の傀儡でしかなかった。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。 

 763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され、孝謙は復位して称徳天皇となった。 淡路廃帝となった淳仁は母・当馬山背とともに淡路に幽閉されるが、配所を逃亡して捉えられ、その翌日生涯を閉じた。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。 

 しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。 この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。

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藤原胤子 小野陵

2007年06月18日 | 天皇・皇后陵

藤原胤子・小野陵

 藤原胤子(876-896)は、内大臣藤原高藤女で母は宮道列子である。第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇生母、同母兄弟に右大臣藤原定方がいる。 884年頃に光孝天皇の第七皇子源定省と結婚し、885年に長男維城(後に敦仁と改名)を産んだ。 887年に定省が皇族に復帰し宇多天皇として即位すると888年に更衣となり、892年には女御の宣旨を受ける。 同年、敦仁親王が立太子。 896年に20歳で逝去するが、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈された。

 三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)は藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。

『今昔物語』によれば、父高藤が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、弥益の娘列子を見初め一夜の契りでもうけたのが胤子である。 宇多天皇との間に四男一女をもうけながらも早世したが、所生の醍醐天皇が即位したことによって、同家は以後北家勧修寺流と称されることになった。 都の南東・山科の勧修寺は、平安初期に繁栄を極めた醍醐天皇ゆかりのお寺で、生みの母である藤原胤子の菩提を弔うために建てられたのが始まりとされている。陵墓は小野陵といって勧修寺北大日町にある。(撮影:クロウ)

 

 

 

       是公娘・吉子-807
    
┣ 伊予親王
      
┃乙牟漏皇后 760-790
      ┃┣ 高志内親王789-809
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839 830-887  
 ┃ 737-806   ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┣胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃列子┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┃            ┃┃ 
           ┃  ┃┃            ┃菅原衍子
  
         ┃  ┃斑子女王         源貞子
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850  
          ┃               ┃

          ┣正子内親王       ┃
小野吉子(更衣)      *5
          橘嘉智子             ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                                ┃    ┣
紀有常女              
                           ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
                              
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
                        藤原順子(冬嗣・娘) 

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第59代宇多天皇陵

2007年05月13日 | 天皇・皇后陵

第59代宇多天皇大内山陵

 京都で一番平安時代を感じることが出来る仁和寺を創建したのが仁和寺(888年に創建)で、法親王が住持し「御室御所」と呼ばれました。 御室というのは、「皇室の住居」という意味です。 朱塗りの中門をくぐると、御所の紫宸殿を移築した金堂の他、五重塔や観音堂等が見えてきます。 門跡寺院として格式が高く、また、「徒然草」「方丈記」など古典にも数多く登場します。そしてここ仁和寺の北側にあるのが宇多天皇陵です。 仁和寺の外周に沿って天皇陵への参道は続きます。

宇多天皇と陽成上皇

 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。

宇多上皇と醍醐朝

 醍醐朝は897年から930年までの30年余り続いたが、中でも延喜元(901)年から延喜九(909)年までの9年間は、道真を追放した時平が、国政に力を注いだ時期である。延喜元(901)年「日本三代実録」の完成、延喜二(902)年の荘園整理令の発布、延喜五(905)年の「古今和歌集」の編纂、延喜七(907)年の貨幣の改鋳と「延喜式」の編纂、目に見える形での律令制再建の動きが活発になっていたことを表している。法令の目的の一つは、王臣家や諸院、諸宮などの権門と地方の有力者が結びついて、地方の荘園が増加するのを食い止めることだった。時平自身、権門の一人であるから自分で自分の首を絞めるようなものだが、それを敢えてしなければならないというところに、当時の律令制の崩壊が見えるようである。効果のほどはともかく、若い時平の意気込みが窺われて、後世の人々の心を捉えたのかもしれない。  だが、時平の死でそれらのほとんどは挫折した。延喜十四(914)年、醍醐天皇が公卿から国司まで、官人らに政治に関する意見を募ったところ、前文章博士三善清行が意見封事を提出した。12箇条から成るこの意見は、地方政治の弛緩や奢侈に流れる風潮などを指摘したものである。けれども、この意見は現実の政治には反映されなかった。醍醐天皇は、父宇多上皇の享楽的な生活に影響を受け、政務より風流文事にいそしむようになっていたらしい。形の上では天皇親政ということではあるが、天皇が積極的に政治に参与しないばかりか、忠平らまでが時平の後を継ごうとはしなかったという。  

宇多天皇と藤原氏

 三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)であるが、ふたりは藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。

宇多天皇と伊勢姫

 伊勢姫は、藤原基経の娘・温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係です。 伊勢姫は、女御・温子の弟の藤原仲平と兄の時平からも愛されますが、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て皇子・行明親王を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。 しかし後に、皇子を幼くして亡くし、伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう中、敦慶親王(宇多天皇皇子)の寵を受け、一女・中務をもうけます。

宇多天皇と褒子

 六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。

宇多天皇と周子

 道長が政務に奮闘しかけているとき、土御門邸では倫子が身篭っていた。最初は道長との結婚に反対していた69歳の源雅信もご満悦である。こういうとき、身篭った妻を持つ主人は他に女を囲って遊ぶものであるが、道長はそれをしなかった。後に源高明の娘・明子を妻とするが、倫子と明子以外のところに通うことがなかった。道長の性格にもよるであろうが、二人の妻の愛らしさに飽きることもなかったのであろう。土御門邸でいささか手持ち無沙汰の道長は、久しぶりに東三条邸の詮子を訪ねた。当時の公卿の館は一町四方というから4千坪であるが、東三条院はその倍である。かの有名な嵯峨天皇の皇子・源融の六条院が一万坪というから丁度それに匹敵する。歩き慣れた邸内を行くと琴の音が伝わってくる。御簾越しにほのかな人影が見えたかと思うと琴の音が止み、「だめ・・・」という幼い声が聞こえた。詮子の命で男気から遠ざけられて育てられたその女性こそ宮の御方、つまり不遇の人生を送った源高明の姫君である。故実に明るく才長けた源高明は醍醐天皇の第十皇子で母は源周子(第58代光孝天皇の娘で宇多天皇の妹でもある)である。

 

 

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