スワルツ・サリス・オットリー。
オットリー侯爵の祖父を持ち、次期後継者である父と、その長子である兄に、「お前は侯爵家の一員としての覇気が足りない」と
常日頃から責めたてられながらも、一切口答えせず、道も踏み外さず、心優しく育った21歳の好青年である。
…と、自分では思っている。
観月の夜会に招待され、祖父、父、兄と共にこのレネーゼ侯爵家の敷地内に滞在していたのは二日。
朝食後、先に帰るという祖父たちを見送ったサリスは、同じように今夜の夜会までの滞在を課された他家の子息たちと合流するか否か、
考えあぐねながら美しい庭をうろうろしていたのだが。
なんと不運なことに、レネーゼ侯爵の次期後継者、ミカヅキに遭遇してしまった。
(朝からついてねえ!!)
はるか格上の君と対峙するのには欠かせない拠り所である、数の優勢、がない孤立無援状態。
しかし気づかなかった振りも出来ない至近距離では歩み寄るしかない。
相手の許しを窺う絶妙の位置まで歩を進め、なるべく穏やかに、年長者の余裕を持って、にこやかに挨拶をする。
「これはこれは、おはようございますね、ミカヅキ殿」
「ああ、…貴公も」
ミカヅキは昨夜の豪奢な夜会とは違い、気取りのない楽な服装で、何をするでもなくベンチに座って庭を見ていた、という感じだ。
そういえば、こんな無防備な彼は初めて見るな、と思った瞬間、ここはレネーゼ侯爵家の方々の住居区域なのか、と青ざめる。
「あ!ま、まさか、ご住居に迷い込んでしまったのでしょうか、あの、お庭を散策させていただいていただけなのですが!」
と、思わず自分の来た道を振り返り、自分が滞在している屋敷はあれだよな、と確認するサリスに。
いや、とミカヅキの冷静な声が重なる。
「貴公の誤りではない、ここは居住区ではないので、ご案じめされるな」
居住区ではない、と言われ、やっぱりそうだよな、という安堵感と、じゃあなんでこの人ここにいるんだ、という疑問が浮かぶ。
客人が居住区に立ち入らないのと同じように、屋敷の人間も客人がいる時はそこに無闇に立ち入らないのが礼儀だ。
これはサリスたちが仲間内で内密にミカヅキを揶揄するような「自由奔放」という域を超えているのではないか。
ならばここは年長者として、皮肉の一つでもって、それを窘めるべきかとサリスは頭を悩ませる。
次期後継者である彼の軌道を修正するのも周囲の子息の務めである、とは、日ごろ父や兄に口うるさく言われていることの一つだ。
「ああ、そうでしたか、いやあ、こちらのお庭は広くて勝手がつかめないのはミカヅキ殿も同じですか」
言いながら、これ皮肉になってるか?と内心で苦悩する。
言葉の裏でミカヅキの行動を窘め、彼自身が間違っている事に気づいて改めて貰わなければ、自分の皮肉はただの挑発だ。
(それはヤバイ!!)
いつもは他の仲間に任せっぱなしで良いので、こういった事は苦手分野だな、とサリスが勝手に窮地に陥る羽目になっている。
「いや、えっと、今のはですね、このお庭でミカヅキ殿と邂逅した事に始まって、えーと」
自分の放った嫌味を自分で相手に解説し始めるこの道化ぶりはどうだ!
そんな絶望的な状況を救ったのは、意外にも目の前にいるミカヅキだった。
「いや、貴公の言う事は解る。尤もだ」
余計な気を負わせたようだから言うのだが、という前置きで、ミカヅキが自分の背後へと目をやる。
「あちらの館、あれに、昨晩紹介した冒険者の三名を滞在させている」
と言って、今は自分もそこに身を置いているので、ついその延長のような形でここまで出てきてしまったのだ、と説明する。
「なので無作法はこちらだ、以後気を付ける」
「えっ、ええ、はいっ、いやハイとか言っちゃっ…、ああいやその、え?そこに身を置いてる?!」
なんか調子狂うな。
自分の知っているミカヅキはこんな人間だったかな、と思い、じゃあどんな人間だったのかと考えても、そうそう言葉は出てこない。
学生時代も近衛時代でも、サリスと在籍がかぶっていたのはほんの半年ほどの時期だけだ。
ただ自分は、次期後継者、という彼を遠くの囲いから眺め、周囲から漏れて伝わる問題行動らしきものを聞いて、勝手に人物像を描いていただけだ。
だからその人物像と、実際に対面してのミカヅキとの実態が、うまく重なり合わないのは当然の事じゃないのか。
それはミカヅキにとって、ひどく迷惑な話だろうな、と感じた時。
どうでもいいが、というミカヅキの声に、サリスは自然俯いていた顔を上げる。
「そういう態度はやめるんじゃなかったか」
その言葉がどういう意味か、少し考えているところへ続けられる声には、わずかに感情のようなものが乗っていた。
「お前らがそう言ったんだぞ」
目の前の貴公子が、ありえないほど乱雑な言葉遣いをする。
その耳と目から与えられる衝撃は並大抵の破壊力ではない。
「あっ、ああ、そう、そうでした、…いや、そうだった…、うん!そうだったよねえ!!」
半ばやけくそのように、後継者に対する礼節をかなぐり捨て、年下の友人を相手にするような気安さに態度を変更させたが。
不自然すぎて逆効果じゃないか、と笑顔がこわばるのが自分でもわかった。
それを一瞥したミカヅキは、邪魔をした、と言いベンチから立ち上がる様子を見せた。
(彼を行かせてはいけない)
咄嗟に、そんな思いがよぎったのは、ミカヅキが見せたわずかな感情の変化。
そういう態度はやめるんじゃなかったか、という声音には、確かに、わずかながら不愉快そうな響きがあったのだ。
それが、サリスの返した態度によって、跡形もなく消え去った。感情を全て切り捨て、何事もなかったかのように、立ち去ろうとする。
(それは、失望じゃないか)
ミカヅキは何かを期待し、自分はそれを裏切ってしまった。
今までとは違う。違う何かが彼を動かそうとしている。この失望を何事もなかったかのように終わらせてしまっては、もう二度と。
二度とは彼のあんな不愉快そうな声は聞くことができないだろうと、思ったのだ。
「待って!聞きたいことがあったんだ!」
精一杯、今の自分にできることで彼を引き留める。
何か策があるわけでもないのに無謀な事をしている、と思っても、これだけは失敗するわけにはいかない。
オットリー侯爵家の一員としての、責務だ。
「何か?」
と言い、ミカヅキはベンチの装飾に手をかけたまま、振り向いてくれた。
引き留めることができた安堵と、これから踏み込んでいくことの苛烈さに、サリスは膝が震えるのを感じていながら、
目をさまよわせる。
ミカヅキの背後、その少し上に、館の美しい屋根飾りが見える。それを見ながら、無意識に昨夜の夜会を思い出していた。
「あの、旅のお仲間、いや、冒険者の、彼らは」
どんな人間なのか。ミカヅキにとって、どんな意味を持つのか。考えようとして果たせず、引き留めるための口実とはいえ
聞きたいことは、そんな事じゃないと思った。
「君の、旅の供に、どうして…俺たちは選ばれなかったのか、どうしてあの3人は選ばれたのか、知りたくて」
従者としても、側近としても、取り巻きにさえもなれなかった自分たちと、彼らとの違いは何だ。
そんなことが頭をよぎり、見栄も対面も投げ捨て、そんなことを口走っていた。
やってしまったものは仕方がない。
口にしてしまえば、後はただミカヅキの返答を待つばかりだが、その時間は実に居心地が悪い間でしかなく。
しかしそんなサリスに気を配るでもなく、実に長い間、一人考えこむように腕を組んでいたミカヅキが、やっと口を開いた。
「あいつらが酒場にいて、お前らは酒場にいなかったから、…かな」
という答えが返ってきた時には、あんだけ考えといてそれかい!!と、二の句が継げない。
思わず大口をあけて呆気に取られているそれそのものの反応を返しているサリスだが、それを見たミカヅキは珍しく、
きまり悪そうに視線をさまよわせた。
「…いや、そもそも旅に出ている経緯が尋常じゃないくらい入り組んでいるので…他に…答えようが…」
「はあ…」
もっと簡単に答えられる質問にしてくれ、と言われ、今日の朝食は何でしたか、とか聞けばいいのかな、と思うサリスである。
が。
ああそうか、と独り言ちたミカヅキが、サリスを見る。
「おそらく数日後には、また旅に出ることになるが」
「えっ、それは、どこに」
「どこだろうな、当て所もなく出ていくんだ」
その言いざまには、またもや返す言葉がない。
何を思ってミカヅキがそれを口にし、自分に何を教えようとしているのかがまるで読めないからだ。
それだけ、自分と彼との距離は遠い。
「その旅に、どうしてお前らではなくあいつらを連れていくのか、という事なら答えられるな」
遠い場所にいるミカヅキが、遠い場所の話をする。
目的も、行程も、不確かな旅で、どれだけの物資が必要で、どのくらいの武力が試されるのかもわからない旅だ、と言い。
それに対する準備が想像つくか?と問うてくる。
準備など従者に任せればいい。物資も、武力も、不足ならばその都度補えばいい。支援など実に容易い。
それは当たり前の事だが、と前おいて、あいつらな、と背後の館を見る。
「何も持って行かねーんだよ」
「え?」
「自分の手で持てるもの以外、何も持たないんだ」
その身軽さに慣れてしまった、とミカヅキはサリスに視線を戻す。
「え、っと」
「…いや、これは俺の個人的な感覚だな、そこを理解してもらおうとは思ってない」
ただ、それと同じ事で、と続けられた話は、まさに自分たちの問題を突いていた。
「お前らと旅に出て、何かあった場合、お前らは俺を守ろうとするだろ。何を置いてもまず、俺の無事を優先するよな」
「それは、勿論…」
自分たちはそう訓練されている。何よりもまず、主となる人物を守ることが第一だ。
だがこれは訓練ではない。実戦で、少人数で魔物に対峙した時、その場の状況に合わせて臨機応変に動けなければ意味がない。
ミカヅキは、「供は全員を無事生還させたい。その為には、必ず俺の作戦の通りに動いてもらわなくてはならない」と言った。
「俺の命令は絶対だ、そういわれて従えるか?」
「とっ、当然ッ、ミカヅキ殿の命令であるなら、誰もがそれを乱すことなく完遂しますよ!」
忠誠心の話かと思った。確かに自分たちとミカヅキとの間には不穏なものはある。だがそれを実戦へ持ち込むほど、愚かではない。
その最低限の信頼関係さえ築けていないと、ミカヅキは思っているのか、と耳を疑ったのだが。
そうだな、それが平常時の言葉なら信じられるんだけどな、とミカヅキはわずかに眉をひそめたように見えた。
「極限状態で、お前たちはきっと俺の言葉より、家の言葉を優先させる。それは、俺の格がそうさせるんだ」
お前たちはそう教育されているんだろう、と言われて、息をのんだ。
「究極、死地の話だ。強敵を前にわずかでも生き残る可能性に欠けて各自に逃走を命じても、お前たちがどう動くのかが読めない」
逃走中に主が負傷でもしようものなら、なぜ身を投げ出してでも守らないのかと責める「家」があるからだ。
作戦とは言え、主を残して敗走すれば「家」に泥を塗ったと責め立てる「社会」があるからだ。
「極限状態で、その責から逃れることができるのか、極限だからこそ逃れられないのか、俺には読めないんだ」
そんなどちらに転ぶか解らない賭けを、命をやり取りする現場でうまく手懐けられるほど力があるわけじゃない。
「俺がもっと自分の武力に自信があれば、お前らがどんな行動をとろうと守れるんだろうけどな」
と言って、かすかに自嘲のようなものをにじませ。
「だから、俺がお前たちを守るには、初めから連れて行かない、という選択になる」
その告白。
だからなのか、という思いがサリスの胸を貫く。
旅の話じゃない。
(ああ、だから!だからこの人は従者も側近も、取り巻きさえもつけず、たった一人という状況を貫くのか!)
それは余りにも危うすぎる。
侯爵家の跡取りとしての身でありながら、従者を持つ事を恐れるほど心が弱いというのであれば、許されない危うさだ。
従者を持ち、自身と従者を秤にかけ、従者を切り捨てられず、己を投げ出すこともできない弱さか。
だからと言って、ミカヅキ当人に、そうなのか?と問う事は出来ない。
ミカヅキという薄氷に踏み込むような真似は、恐ろしくて、とても自分一人で抱え込める事ではないと思った。
レネーゼ侯爵が愚かなほど孫に甘い、という周囲の見解も、ミカヅキの抱えるこの弱さが根底にあるのであれば。
祖父である侯爵でさえも手を出しあぐねる問題だ。
それを、どうして。
「…どうして、自分に話してくれるんですか」
サリスは余りの衝撃に、ついそんな事を口走っていた。
今まで儀礼的に顔を合わせ、必要最低限の飾り言葉だけで、互いに存在しているという認識だけを持つ関係。
それは、諸侯の子息たちすべてがそうである現状。それをどうして。
「どうして、って、…お前が聞いたからだろ」
呆れたようなミカヅキの声音、それはサリスが受けた衝撃を、欠片も感じていないように軽い。
その軽さに救われたように、殊更、サリスは大袈裟に手を振った。
「あっ、ああ、そうか、そーいや俺が聞いたんでしたね!あ、いや、聞いたんだったな!」
なぜ自分たちを連れて行かないのか、なぜ彼らは連れて行けるのか、確かにサリスの問いに正確に答えてくれたわけだ。
それはそれで意外だが。
「ああ、その、君の命令を、彼らなら、どんな理不尽な命令でも絶対に従うって、信頼か」
「なんで俺が理不尽な命令を出すんだよ」
理不尽なら理不尽だとちゃんと反発されるわ、と再び、呆れられ。
そうか俺たちはちゃんと反発することもしないんだな、とふと思った。
「戦法でそれが必要なら、俺を盾にもする。俺を囮にして逃げることも迷わない。あいつらには、何のしがらみもない」
その場の状況を理解し何を優先させるか、という段階で、ミカヅキという存在が枷になることがない。
「優先するものが一致するから、俺もそれを踏まえて動くことができる」
そういう事だ、と言って。
「まあ、結局は俺の力のなさが一番の原因になるな」
と、サリスたち子息側に供を任せない問題があるわけじゃない、と言ったミカヅキは。
率直に尋ねれば、率直に答えてくれるんだな、と思った。
だから、尋ねる。
「じゃあ、俺たちは、ずっと必要とされないのかな」
それを口にした途端、寂寥感に襲われる。
ミカヅキに必要とされない自分たちにか、供を必要とすることができないミカヅキに対してなのかは分からない。
解らないけれど、それはひどく寂しいことのように思えたサリスだったが。
「どうして、そう思うのかが解らないんだが」
「え、だって…、俺たちの関係は、そう変わらないって、話じゃ」
もう何度、彼の言葉に振り回されたことだろう。
そうだ、彼との会話はいつもこうだった。
互いにまるで思惑の違う言葉だけが行き交って、会話の趣旨さえも何だったか解らなくなる始末。
それこそが互いの距離だったのに、今、こんなにも近い場所にミカヅキがいるという実感は、その会話にある。
ミカヅキが、その真意を、率直に問えばどこまでも話してくれる。
「俺は今、対外交で学ばせてもらっているのだと思う」
昨夜には上の方々にもそう説明したがあまり信じて貰えていないようだったな、と言って、小さく笑う。
「それは、上の方々は」
「いや、いい。好都合だ。何か事を起こすと思われているなら、起こしてみるのもいいかと思ったところだ」
そんな、穏やかでない笑みで、サリスの防衛範囲まで、あっさりと侵入してきて。
「より多くの家と交流しろって、言ったよな?」
その侵入を、自分は、あっさりと許したりしている。
「そりゃ、言うよ、俺たちだけ親密に交流してるなんて、他所の家から思われるのは必須なんだし…」
そんな簡単な事も解らないはずもないだろう、という言外の含みまでちゃんと読み取ってミカヅキはサリスと向き合う。
「ああ、だから。交流するための夜会を解放してやるよ」
向き合う笑みは凄みを増す。
「これからは、旅が一つ終わる毎に、夜会を開く。お前たち、これに集まってくれるんだよな?」
よもや俺に恥をかかせはしないよな?という、脅迫に近い。
近いが、おいそれと承諾できる話ではない。
旅の間で見聞きした事、各地の情勢、国外でしか得られない経験すべてを公開するというのだ。
「えっ、だって、旅、旅は、アルコーネ公のご意思なんじゃ…そんな事勝手に俺たちに話して大丈夫なのか?!」
「さあどうだろうな」
と、ミカヅキが嘯く。
昨夜から今朝まで、一体どれだけの彼の一挙一動に翻弄されている事だろう。
もう何度心中で発した「こんな人だったのか」という詠嘆は、恐れと期待。確かに、期待があった。
「公には自由にしていいと言われているが、それをお前たちにも保証するものではないな」
「だったら!」
まず先に公に確認を、というサリスの警告は押しとどめられる。
「俺の自由でお前たちを守れるか否か、という話だ。賭けじゃない。俺の、格だ」
ここでサリスたちを守れない様では、自分の持つ格とはただの冠だという事になる。
そんな飾りに何の疑問もなく頭を下げていて良いのか、というそれは、サリスを陥落させようとするミカヅキの。
(いや、はったりじゃない、自信だ)
これが格の違いか、と膝を折ってしまいそうになる。
ミカヅキの持つ、正統後継者という冠は、飾りではない。それをサリスたちに見せつける。
サリスたちの忠誠心をこそ飾りだと刺し、そんな飾りの態度ではなく、心から従えと言っているのだと解った。
「どうして、…そこまでして、俺たちに情報を公開する必要が?」
「お前が、自分たちに価値がないように思っているらしいからな」
「価値…」
「俺が国を空けるという事は、国外の情報を得る代わりに国内の情報は手に入らないという事だ」
今は現候主の威光がある。だが自分が後継となるには、足りない。祖父の意向をそのまま継ぐだけでは、足りないのだ。
「だからお前たちのように若い地盤の情報が欲しい。俺の外の情報と、お前たちの中の情報、どちらも重要だと思っている」
それを成すための夜会だ、と言われ、ようやくミカヅキの覚悟を知れた。
夜会を開き、そこに人を招いて、国外の情報と引き換えに国内の情報を寄越せと言う。
彼が命を賭して世界から得た情報と、サリスたちがのうのうとただ日々を送るだけの情報に、同等の価値があると言うのだ。
「それが俺たちの、価値」
「そうだ」
今までほとんど同世代との交流を断ってきた彼の変革。
そこに至るまでの経緯は解らないが、学ばせてもらっているという言葉は、周囲を欺くためのものではない。
ミカヅキは自分で立とうとしている。
それは、後継者としての試練だ。
サリスと同年代の彼は、自分の父親ほどの年代の後継者と並ばなければならない。
家を継ぐこともないサリスとは、圧倒的に覚悟が違う。
その彼に求められるという事。
必要とされるという事が、主従関係であると、やっと解った。
「どうして、俺なんですか」
自分もいつか誰かの下に従事すると思ってはいたが、くいっぱぐれないなら誰でもいいや、などと考えていた程度なのに。
「またどうして、か」
何度発したかわからな問いに、ミカヅキが辛抱強く付き合てくれるのも不思議だが。
「お前が、円滑に、率直に、親交を深めたい、って言った初めての人間だからだな」
その言葉には、心が震えた。
昨夜の夜会で、サリスなりに勇気を振り絞って言った言葉だ。
皮肉で場を盛り上げようとするいつも通りの仲間の言葉だったが、それを否定するのには勇気がいった。
彼らとの親交も、ミカヅキとの親交も、どちらにもヒビを入れるわけにはいかない、と双方からの圧力に屈しながらも、張り上げた言葉。
(それを認められた)
その事実は、サリスの心に沁みる。
(この人にだけは、認められた)
昨夜の事を思えば、朝から仲間の元に合流するのにも足が重く、ただ庭をふらつくだけで時間を稼いでいた心に、沁みた。
一人に認めてもらえるだけで、こんなにも感じ入るのか、と思っている矢先に。
ミカヅキの第二波は容赦がなかった。
「だからだな、今の話をお前からアイツラに事前に周知徹底しておいてくれると助かる」
「ええ?!俺?!なんで俺?!」
「だってお前、円滑に親交深めたいんだろ?俺の言う事、あいつらあんまり率直に聞いてくれそうもないしな」
お前のいう事なら聞くんだろ?と、悪びれもなく言われて、いやいやいやいや無理無理無理無理!と絶叫する。心の中で。
頼んだからな、と大真面目に言われるそれが、なんと罪深いことか。
「いや、ちょっとそれは」
と、サリスが一歩踏み出したのと、「ちょいやー!!」という絶叫がその場に響いたのが、同時だった。
敵襲か?!とサリスが身構える間もなく、ミカヅキの影は飛び退り、その場に少女が降ってきた。
「朝ゴハーンの使者参るー!!」
「はあ?!」
今までミカヅキがいた場所に華麗に着地し、なにやら奇妙なポーズを決めた少女の口から出た言葉もだが、何がなにやら、
状況が全く把握できない、と固まっているサリスをみて。
得意満面だった少女が、「あ」と言った。
そして、隣に立つミカヅキの渋面を見て、もう一度、「あ」と言った彼女は、素早く居住まいを正し。
「これはこれは、オットリー侯爵家のスワルツ様、美しい朝でございますわね御機嫌いかが?」
と、ドレスを着ているときのように優雅なしぐさで挨拶をして見せた。
名前は確か。
「遅いわ、ボケ」
「あーやっちゃったー!ミカちゃん一人だってヒロが言ってたからー」
「それにしたって普通に来いよ普通に!」
「ミカちゃんを盛り上げようと思ったんだよ!」
「いらんわ!」
軽く小突くミカヅキにその場で逃げ回る少女。
そんなやり取りに再び固まる。
「ミカ…ちゃん…」
ミカちゃん?ミカちゃんって言ったぞ、この子。愛玩動物を呼ぶときみたいに。ミカちゃん、って!!
という衝撃を、目の前のミカヅキも察知したのだろう。気まずそうに、サリスを見る。
「あ、あー、いや、うん、今のは、あれだ、えー、と、内密に、内密に頼む」
「な、内密、に」
「うん、それな」
「あ、はい、それですね、ふ、二人の秘密、ということで」
「ウイもいるよ?」
「あ、ああ、はい、じゃあ三人の秘密ということで」
「うん」
「し…、しかと承りました」
そんな場の空気を全く意に介していないように、ミカヅキの腕にまとわりついた少女が彼を見上げ。
「朝ごはんの用意できたから、ミカちゃん呼びに来たの。今日はねーなんとお庭に用意してもらっちゃったよ」
そう言いながら、サリスにも笑顔を見せる。
「スワルツ様も一緒にいかがでしょう」
「えっ、俺?!」
「うんうん」
ミカヅキを見れば、宜しければお招きするが、と言うので、思わず辞退していた。
「いえ!私はもう済ませてしまいましたので!ご遠慮申し上げます!」
「…そうか」
そう言ったミカヅキの真意は読めなかったが、なんとなく辞退してしまったのは、二人の仲睦まじい様子を目にしたからだ。
昨夜のような儀礼的な関係でないことは一目でわかる。
多分、他の二人も同様に。
それを、内密に、とミカヅキは言っているのではないか、と思うのは気の回し過ぎか。
「あ、では、私はこれにて失礼させていただきます」
「ああ」
そう言ったミカヅキが、じゃあ今夜7時、と念を押すのに、笑顔がひきつるサリスであったが。
その場を立ち去る二人を何気なく見送って、ミカヅキの背中につい、声をかけていた。
「ミカヅキ殿!」
何事か、と二人に振り向かれて、今言うようなことでもないような、と後悔したものの仕方がない。
「あの、室内では解らないと思いますが、外の明るい陽射しだと、その衣装は少々薄いかと」
外に出られるなら何か羽織られた方が、と言えば、ミカヅキと少女が驚いたように顔を見合わせている。
少女は解っていない様だったが、ミカヅキには理解してもらえたようだ。
「うん、そうしよう。気付かなかった、有難う」
「ああ、いえ」
今度こそ、去っていく二人を見る。
そうだ、こんなささやかな注意に皮肉も嫌味も、込める必要はないのだ。
率直に言えば、彼なら、ちゃんと礼まで述べてくれるじゃないか。その方がよほど、心がある。
(だけど、あいつらどうかなあ…)
と、サリスも館の方へ踵を返しながら、7時までに皆を説得する任務に頭を悩ませていると。
「ええー!!たったそれだけの事なのー?!」
と、少女の叫び声が聞こえ、ミカヅキの声が重なった。
「声がでけえよ!!」
あなたもでかいですよ…、と思わず背後を振り向けば、遠くなった二人がじゃれているように見える。
「ミカちゃんの背中なんかどうでもいいよ!」
「俺だってどうでもいいわ!」
なんてやりあっている声が遠くなって。
はしたない、と思うよりも、仲が良いんだな、と、思えば、率直な親交の深い深いところまで行きつけば、自分もああなるのだろうか、と考える。
いつか、近い将来。
(いやないない、ないな。あれはない)
そう軽く頭を振って、サリスは皆の説得を企てることに神経を集中させた。
サリーちゃんとか呼ばれちゃうのよ