ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第1回 日本橋から千住宿へ

2011年04月24日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年4月24日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの旧水戸街道約118Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内~千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第1回のこの日、日本橋から千住宿までの約10Kmを歩いた。
東京駅八重洲北口に集合した参加者は全部で19名で、都内を集団で歩くにはやや多すぎる人数だ。
安全のため、二組に分かれることにした。


9時ちょうど、この日のゴール千住宿(北千住駅)に向けて出発である。


10分ほどで旧水戸街道(日光街道)の起点となる日本橋が見えてきた。
橋の真上を首都高都心環状線が走っている。


橋の下を流れるのは、神田川の支流だが、かなりの濁りだ。


橋のたもとには、色んな碑が建てられている。
皆さん、熱心にメモを取ったり、カメラに納めたり。


橋の中央に「日本国道路元標」が埋め込まれている。


この日は日曜日なので、車は少ない。車が途絶えた隙を狙ってカメラに納めることに成功した。
複製が道路脇に置かれているのだが、ここはやはり本物を撮っておきたい。


里程標(西日本)が橋の脇に置かれている。
もうひとつの里程標は、東日本(千葉・宇都宮・水戸・新潟・仙台・青森・札幌)が記されている。


日本橋三越本店の玄関前にはシンボルのライオン像が。


日本橋三越本店(振り返って撮ったもの)
まだ開店前のためか、通りを歩く人影はまばら。


日本橋大伝馬本町通りに向けて中央通り(国道4号線)を進む。


ここから日本橋大伝馬本町通りになる。


小津和紙の起源の説明に見入る。
伊勢の商人だった小津清左衛門長弘が、承応二年(1653)に創業した、と案内されている。


日本橋大伝馬本町通りは、日曜日のため車や人通りは殆どない。閑散としている。
安全に歩くには良いのだが、ちょっと淋しい感じでもある。


横山町通り


横山町通りは、呉服問屋が多い。
問屋だが、個人向けの商売もやっている。


浅草橋から神田川の下流を観たところ。屋形船が両岸に隙間なく繋がれている。
神田川の水はお世辞にもきれいとは言えない。
昼間の神田川を見てしまうと、夜であっても”屋形船で食事をしながら一杯”はちょっと遠慮したい。


浅草見附跡
道路の反対側を歩いてしまった。かろうじて碑が建っているのが見える。
江戸幕府は、主要交通路の重要な拠点として櫓、橋、門などを築いて江戸城の警護をした。
江戸五街道の一つ、奥州・日光街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから
門は浅草御門と呼ばれ、また警護の人を配置したことから浅草見附と言われた。
現在は、碑が建っているだけである。


中央総武線の陸橋の向こう側が浅草橋駅だ。


浅草橋は人形店が多い、人形店といえば浅草橋である。
TV-CMでも有名な”久月”総本店前を通る。この他”吉徳””秀月”などなど・・・
今の時期だけに、五月人形がびっしりと陳列されている。


須賀神社
創建は推古天皇九年(600)で江戸時代には牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていた、とのこと。
明治元年(1686)、須賀神社と改称して今に至っている。
横断歩道を渡るのが面倒なので、道路の反対側からの撮影に留めた。


蔵前付近にあった、交番。
何とも洒落た建物である。


どじょう料理で有名な”駒形どぜう”だ。


東京駅を出発して1時間半ほど経過していたので、ここで一休み。
ちょうど東日本大震災の日(3月11日)、どぜう鍋(2,600円)、柳川定食(2,450円)に舌鼓を打ったのが思い出される。


店の人と、しばし震災の時に立ち寄った話で盛り上がった。


駒形橋西詰交差点に建てられている駒形堂
およそ1,400年前、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川より示現され、奉安された地に建てられている。
昔、この辺りは船着場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいだった。
船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂にお参りして、観音堂へと向かった。(案内板より)
我々も、駒形堂へお参りを済ませて浅草寺(観音堂)に向かった。


駒形橋から見たスカイツリーとアサヒビール本社ビルのモニュメント
二つ一緒に観れる場所として人気が高い。


10時50分、雷門に到着。
日曜日にしては、さほど混雑している様子ではなかったが、それでも大勢の観光客で賑わっていた。
ちょうど東日本大震災の日にも訪れた。その日は平日だったが、もっと混んでいたと記憶している。


東日本大震災以後は外国人観光客(特にアジア系)が激減したそうだ。
仲見世通りも殆どが日本人観光客だ。


宝蔵門
何度見ても堂々とした立派な門である。


東日本大震災で五重塔の先端が少し歪んだとのこと。
そう云われてみると歪んでいるようでもある。


この日の安全を祈願して本堂(観音堂)にお参りだ。


二天門を抜けて旧水戸海道(日光街道)へ戻る。


二天門を出て真直ぐ進んだ先の花川戸公園に姥が池がある。
浅草寺が出来た頃、周囲は浅茅が原と呼ばれていた。その中の一軒家に老女と若い娘が棲んでいた。
旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたのだ。
殺された人が999人になったとき浅草観音が若者に変装して老女のところに泊まった。
老女はいつものように若者を殺して、明かりをつけてビックリ仰天。
殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だったのである。
老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へと消えていった。
その後この池を姥が池と呼ぶようになったそうである。


言問橋西交差点付近、一斉にカメラを向けて何かを撮っている。


言問橋から見るスカイツリーはなかなかのもの。
新たなビューポイントになりそう、いや、既になっているのかも。


山谷堀は、江戸初期に造られたもので、当時この堀は吉原への通路のひとつであった。
今は暗渠になっており、ご覧のような桜並木の公園になっている。


都道464号線を南千住まで進むと歩道は行き止まりになっている。
駅前に設けられた歩道橋で日比谷線を越える。


日比谷線と常磐線の線路の間に「延命地蔵」別名(首切地蔵尊)がある。
江戸初期から小塚原刑場があったところだ。
寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立されたものである。
通勤電車から見えていた地蔵尊が見えない。台座には何もなくその横に頭だけが見える。
台座に座った高さ一丈二尺(約3.6m)の地蔵尊を期待していたのだが、残念。


小塚原回向院
江戸時代には、刑死者を自由に供養することは許されなかったが、
ここ小塚原回向院だけが許され供養していたそうである。


桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちも小塚原で処刑されている。


源達信士(鼠小僧次郎吉)の墓
天保三年(1832)八月十九日となっている。召し取られた後、鈴が森で獄門さらし首にされた日である。
両国の回向院にも墓があるそうで、戒名は”教覚速善居士”とのこと。


一番奥まったところに吉田松陰の墓がある。


安政の大獄の難にあい、安政六年(1859)江戸伝馬町の獄で処刑された。
吉田松陰辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留どめ置かまし大和魂
松陰二十一回猛士墓と刻まれている。


都道464号線(吉野通り)を進むと、突き当りに素盞雄神社(すさのおじんじゃ)がある。
素盞雄は別名牛頭天王(ごずてんのう)で、天王様と呼ばれている。
立派な神社で、芭蕉碑もある。
境内に入ると大木が目の前を走る国道4号線の騒音を遮り、驚くほど静かになる。


国道4号線を進むと、前方に千住大橋が見えてきた。


隅田川を渡ったところに”奥の細道矢立て初めの地”の碑がある。


その昔、松尾芭蕉が弟子の曽良とともに奥の細道へ旅立ちした地である。
行く春や 鳥啼魚の 目に涙
この句が紀行「奥の細道」の最初の句(矢立初め)ということだ。


千住仲町商店街入口
旧日光街道(国道4号線)を比べると細い道(街道)である。


通りを進むと、地面に地図が描かれていた。
『こっちの大きい道路が旧日光街道?』『旧水戸街道は小さいねぇ』と言ったかどうか。


千住仲町商店街は結構賑やかな通りだ。
しかし、この辺りでは、昔の面影を残す建物は見当たらない。


千住二丁目交差点を右に曲がるとこの日のゴール北千住駅になる。
この日は、ここまでとし、北千住駅へ向かった。12時45分を過ぎていた。
次回は、ここから先を進むことになる。
千住宿場町の面影を今に伝える建物や店もあると聞くので、今から楽しみである。



この後、北千住駅前の”丸井”で食事をして帰途についた。


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