ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.11 二本松城

2011年06月04日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年6月4日(土)


二本松城は、二本松市街地の北に位置し、白旗ヶ峰山頂(標高354m)に築かれた中世の山城と、
二本松城初代藩主丹羽光重が築いた山麓の近世城郭からなる。
山麓にはよく霞がたなびいたので 別名、霞ヶ城白旗城と呼ばれる。
現在は城跡が「霞ケ城公園」として整備されている。

駐車場に着くと、高々と築かれた石垣とその上の城壁が出迎えてくれる。
見えている櫓は箕輪門(大手門)続櫓の二重櫓だ。


二本松城は、室町時代中期に奥州管領を命じられた畠山氏7代当主・畠山満泰が築造し、
以後畠山氏歴代の居城として140年余り続いた。
その後天正十四年(1586)伊達氏との抗争に破れ、伊達政宗に降伏・落城した。

豊臣時代になると、二本松城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、
中通り(仙道)警備の任を与えられた。
二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのもこの頃である。

その後、徳川時代初期にも会津領として、蒲生氏加藤氏らの支配下にあった。
とくに加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが平成の発掘調査で明らかになった、とのこと。

二本松城が誕生した寛永二十年(1643)、初代藩主丹羽光重が十万700石で入城し、
幕末まで丹羽氏が12代220有余年続いた。
戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で、城内・家中屋敷の全てを焼失し、慶応四年(1868)7月29日に落城した。

明治二年(1869)藩籍奉還し、丹羽長裕のとき藩知事となり、明治五年、廃城令によって残る建物も全て破却された。

昭和五十七年(1982)箕輪門と附櫓が復元されている。
また、平成五年(1993)~平成七年(1995)にかけて本丸の修復、復元工事により、天守台や本丸石垣が整備された。


霞ケ城址銘碑と藩兵集合地である”千人溜”に建つ「二本松少年隊」の群像
後方建物は二重櫓


慶応四年(1686)戊辰戦争の際、二本松藩は旧幕府軍に属し、白河口で明治政府軍を迎え撃つべく、
大半の兵士が出陣していき、城内・城下は空虚同然となった。
この状況下、少年達の出陣嘆願の熱意に藩主は止むなく許可を与え、13歳~17歳の少年62名が出陣した。
少年たちは城内の大壇口で果敢に戦ったが、7月29日の昼ごろに城は炎上し落城してしまった。
多くの少年達(14名)が討ち死にしたのである。


正門から登城する。


箕輪門
箕輪門は城の正門にあたり、江戸時代初めの寛永期に、二本松藩初代藩主・丹羽光重により築造されたもの。


その際、門の主材の樫の木を箕輪村(現二本松市内)山王寺山の御神木を用いたことから、箕輪門と命名された。
昭和五十七年(1982)に附櫓とともに復元された。


内側から二重櫓箕輪門平櫓を見る。


箕輪門北側の石垣上に植えらているアカマツの古木群で、土塀に代えて石垣上に植えられたものらしい。


箕輪門を過ぎて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る枡形虎口の石垣


枡形虎口を入ると、三の丸下の段跡へのなだらかな石段が続く。


左側にはアカマツの古木群が並んでいる。
個々の木が美しい樹形を持つとともに、全体が周囲の石垣や石段とよく調和し、見事な景観を呈している。


相生瀧
この滝は城内の自然地形を利用して造られ、昭和九年(1934)に竣工し、公募により「相生瀧」と名付けられた。
城内中腹を流れる「二合田用水」から水を引いている。
止められているのか、あいにく水は流れていなかった。


二の丸広場の奥まったところから見た風景。
霞が池畔の丘の中腹に洗心亭が見える。


七ツ滝
七段になって流れ落ちていることからこの名が付けられた。


洗心亭
城内に建立された茶亭の一つ「墨絵の御茶屋」で、天保八年(1837)、背後の崖崩れのため阿武隈川畔・地蔵河原に
移築され、藩主の休憩所として利用されていたものを、明治四十年(1907)この地に再移築したもの。
十七世紀中頃の創建と推定されており、福島県の重要文化財に指定されている。


洗心亭は公園内のもっとも見晴らしのいい場所にあることから、その眺望は素晴らしい。
閑雅な趣があり、風流人や名士の茶会などが開かれている。


るり池
江戸時代に初代藩主丹羽光重によって造られた「二合田用水」により
安達太良山中腹から18Kmの峰々を引き水して、このるり池に注いでいる。


傘マツ
霞ヶ城公園内の南中腹にある樹齢約350年の老松(アカマツ)は、
ちょうど傘をひろげたような形をしているため傘マツと呼ばれている。
それにしても見事な松である。


八千代の松とも云われ、根元周囲3.0m、目通り幹囲3.9m、東西に約14mの傘状に広がっている。


相生滝・七ツ滝をはじめ、城内にはいくつかの滝がある。
これは、洗心滝という。
「二合田用水」から引いている水だが、かなりの水量で、本物の滝のようだ。


土井晩翠の歌碑
花ふぶき 霞が城のしろあとに 仰ぐあたたら 峯のしら雪


智恵子抄碑
明治から昭和にかけて、詩人として、また彫刻家として有名な高村光太郎が、亡き夫人・智恵子の
生涯を痛切な鎮魂の思いを込めて回想した詩集「智恵子抄」の「樹下の二人」の冒頭の句が刻まれている。
あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川


この白旗ケ峰一帯の平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年たちが
稽古を行っていた、と云われている。
右端が「二本松少年隊顕彰碑」である。


二本松少年隊顕彰碑
碑の裏面には、隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守を始め、出陣した少年62名の氏名が刻まれている。


藩士自刃の地とその碑
家老・城代・小城代の3名が責任をとり自刃した場所
供養の碑が天守台横に建てられている。


日影の井戸
千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び、「日本の三井」と称されている。
昭和の初期頃までは俗称で「底なし井戸」と呼ばれ、また古老の伝えでは「ひのゐ」、「蔭の井」とも称されていた。


井戸の深さは約16m、井戸の岩盤をえぐって、さらに北に14mに達している、そうだ。
今でも豊富な湧水を溜めている。


旧三の丸より見た本丸の石垣
左端に少しだけ見えているのが、二本松城に築かれたもっとも古い石垣のひとつである。
この石垣は、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」(あのうしゅう)によって築かれたものである。
その上に見えているのは、本丸跡の石垣


搦手門跡


搦手門跡の石垣と主柱の礎石だけが残っている。
搦手門の復元が期待される。


搦手口から坂道を上ると、復元された本丸の石垣が見えてきた。


天守台の高石垣
手前は西丸櫓跡面の石垣で、突き当りの上が天守台になる。


西丸櫓跡面の石垣の内部には、別の石垣が保存されている。つまり二重の石垣である。
旧石垣は、会津領主・蒲生氏郷が二本松城に初めて築いた慶長初年の石垣であり、
上面の石垣は、後の会津領主・加藤氏が修築・拡張した寛永初年の石垣であることが解明されている、とのこと。


本丸石段と枡形虎口


天守曲輪枡形虎口の様子


枡形虎口からの眺望
二本松市街がよく見える。


本丸天守台跡から見た東櫓跡櫓台


本丸天守台跡から西櫓跡櫓台を見たところ。


本丸西櫓跡櫓台


本丸天守台跡
本丸跡はかなり広く、本丸北角の奥部に天守台跡が位置している。
往時、天守閣などの建物は存在しなかったそうである。


天守台脇に城代・丹羽和左衛門(66歳)と勘定奉行・安倍井又之丞(65歳)の自尽(割腹)の供養碑が建てられている。
慶応四年(1686)7月29日、戊辰戦争による二本松城の落城に際して、共に自尽したのである。


本丸天守台


白旗ヶ峰山頂部の本丸からの眺めは素晴らしく、二本松市街地や盆地周辺の眺望も良い。


本丸跡から動画で見た景色



この後、歴史資料館で100名城のスタンプを押し、喜多方の道の駅「喜多の郷」へ向かった。
喜多方でゆっくり汗を流し、明日は、会津若松城への登城に備えることにする。


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