八月末に母が亡くなり、遺品を整理している中に、28年前72歳でなくなった父の遺品もかなり出てきた。寡黙だった父が、退職後別の会社に勤めるようになり、家族と離れひとり大阪で暮らしているとき、私の弟が体調を崩していることを知り、母と弟にあてた長い手紙を読んだとき、私が思っていた父と違う父親としての愛情を知り、生前の父への偏見を恥じた。
そんな中に、「第二次ノモンハン事件出征戦友名簿」という字が消えかけた昭和39年7月に作成配布された資料が出てきた。
ノモンハン事件というのは、1939年の5月から9月にかけての満州国とモンゴル人民共和国との国境ををかけた日ソ両国の戦争で、第二次というのは7月初めに起きたそうだ。
その名簿には約50名の名前が書かれており、詳しい人は住所と勤務先まで書かれている。苗字だけのものもある。この中で多くの人はすでになくなっているのだろう。
父は時々、満州のことを少しだけ話したことがあるが、若かった私は聞く耳を持たなかった。父も母も亡くなった今、もっと聞いておけばよかったと思うが、まさしく「後悔先に立たず」だ。
来月、福山と姉妹都市を結び、福山の第41連隊が全滅したフィリピンのレイテ島タクロバンを私費で尋ねようと思っており、41連隊の生き残りの人を探していただけに、第二次ノモンハン事件の戦友名簿を見たとき特別の思いがした。
そんな中に、「第二次ノモンハン事件出征戦友名簿」という字が消えかけた昭和39年7月に作成配布された資料が出てきた。
ノモンハン事件というのは、1939年の5月から9月にかけての満州国とモンゴル人民共和国との国境ををかけた日ソ両国の戦争で、第二次というのは7月初めに起きたそうだ。
その名簿には約50名の名前が書かれており、詳しい人は住所と勤務先まで書かれている。苗字だけのものもある。この中で多くの人はすでになくなっているのだろう。
父は時々、満州のことを少しだけ話したことがあるが、若かった私は聞く耳を持たなかった。父も母も亡くなった今、もっと聞いておけばよかったと思うが、まさしく「後悔先に立たず」だ。
来月、福山と姉妹都市を結び、福山の第41連隊が全滅したフィリピンのレイテ島タクロバンを私費で尋ねようと思っており、41連隊の生き残りの人を探していただけに、第二次ノモンハン事件の戦友名簿を見たとき特別の思いがした。