THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「絵のなかの光景ーーデルフト、ブリュージュ」

2006-12-08 | Weblog
「ヨーロッパの不思議な町」 巖谷 國士 著 

VII 絵のなかの光景ーーデルフト、ブリュージュ

著者は、デルフトにちかいデン・ハーグにあるマウリッツハイツ美術館でフェルメールの「デルフトの光景」と「真珠のイヤリングの少女」を見たときの印象をこう語っている。

もっとも『デルフトの光景』が不思議だというのは、町の光景にエル・グレコ式の変形が見られるからではない。エル・グレコのトレドとは反対に、描かれている建物や運河はその位置といいプロポーションといい、ほとんど忠実は再現なのであって、あとでたしかめてみたところでは、いまのデルフト市の南のある地点からの眺めもさほど当時と変わっていない。この絵で目をひくのはむしろ、色と光とに加えられている一種の演出であろう。家並が運河の水面に影をおとしている。その家々のあいだに町の中心部が遠望されており、今日にのこる教会の塔もくっきりと見える。空が微妙だ。手前は雨もようの黒っぽい雲、だがかなたには、白い雲間の青空がかいまみえる。地上もまたおなじように手前は暗く、遠方は明るく描きわけられているようで、そんな光の段階表現のゆえに、不思議な遠近感が生まれている。運河のこちら側にはぼんやりいとした人影が二つ、また四つ、すこしはなれてなにごとか語りあっているありさまが、ほとんど汚斑(しみ)のように小さく淡く描かれている。ただそれだけのことである。
ただそれだけのことなので、複製で見てもそれほどすばらしい絵だとも、不思議な絵だとも思えないかもしれない。むかしゴッホがこれについて「信じがたい絵」だといったとか、プルーストが「世界でいちばん美しい絵」だと書いたというような話も、あまりピント来ないで終わってしまうかもしれない。ところが、いざ本物と向かいあってみると、世界一かどうかはともかくとして、ゴッホを驚嘆させた事情についてはよく理解できる。つまりこの絵は、遠くから見るのと近くから見るのとでは、全体の印象がまったくちがうということだ。あまりにも繊細な点描の効果である。この時代の絵としてもたしかに信じがたいような、たがいにかけはなれた色の点の組みあわせからすべてが成り立っているために、見る距離によって世界が変転するばかりでなく、なにか抽象的で超次元的な、ありうべからざる雰囲気がかもしだされている。さきに触れた空と光の遠近の不思議な表現があいまって、しばらく見つめているうちに、いわば、どこにもない夢のなかの光景が現出してることに気づく。当時の現実のデルフトの町の、ほとんど忠実な再現であるにもかかわらず。
そうなると、おなじ部屋の真向いの壁にあるもうひとつの不思議な絵ーーターバンを巻き、イヤリングをして、こちらをふりむいた瞬間をとらえられている美しい女の肖像ーーのことにも触れたくなる。少女のようでもあり、人妻のようでもあり、官能的なようでも無垢なようでもあり、親密なようでもれい冷淡なようでもあり、国籍も血統も時代もわからず、どんな角度から見ても非限定的であることを感じさせるこの女の肖像ほど、具体的でありながら同時に抽象的なものは珍しい。どういえばよいか、この絵もまた『デルフトの光景』と同様、げんに生きていた何ものかの正確な再現でありながらもなお、しかし、どこでもない場所の、いつでもない時代の、誰ともつかぬ夢のような存在を描き出しているのだ。そのために、やはり『デルフトの光景』と同様、どんな気分にも感情にも対応することができるし、また、瞬間の表現でありながら永遠をかいまみせることだってできる。彼自身の本体がいったい何であったか、いまもほとんど知られておらず、ただ三十数点の絵だけが各地の美術館にのこされているにすぎないこの謎の画家、フェルメールは、いまから三百年も前に、町を、そして女を、このようなイデアに変えてしまったんである。

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Voice of America Special English   06 December 2006