THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

アレッチ氷河(リーダーアルプ)

2007-06-30 | Weblog
今日は、久しぶりにハイキングに出かけた。
今日の予定は、リーダーアルプまで出かけて、アレッチ氷河を見てハイキング。
(先週先々週と週末にお兄ちゃんが熱をだしたので、どこへも行けなかった。宿とって無くって良かった~~)

5時に起きて、6時に家を出た。バスに乗り、電車に乗る。
シオンで乗りかえ、ブリークで乗りかえメルレへ。そこからロープウェイに乗りリーダーアルプにつく、そしてまたまたゴンドラでモースフルーまで登った。やっと着いた、この時すでに11時を回っていた。

ここから、スイス最大の「アレッチ氷河」が眺められる。
「お~~、写真と同じ!」とやっぱり思ってしまった。
まさに、氷の河が流れているような氷河が見える。
この前ツェンマットに行った時も、高いところまで登れば氷河が見えたんだけど、一歳児を3000m越えるところまで連れて行くのはどうかと思ってやめたので、今回がはじめての氷河。(ここでも、しっかり2300mあるけど)

氷河を見ながらまず腹ごしらえ。買ってきたパンを食べる。
ここから、リーダーフルカまで尾根道をハイキングする。
この一帯は「アレッチの森保護地区」になっているらしい。ハイキングコースは平坦でよく整備されていて歩きやすかった。あまりに歩きやすく下の子も「おれ、歩く」と言ってきかない。(実際は喋らないけどネ。)
ところどころに咲いている花を見ながらみんなでゆっくりと歩いた。

3時前にリーダーフルカにつく。ここには、元誰かの別荘だった豪華な屋敷がある。現在は環境保護センターになっているとのことであった。リーダーフルカに合ったカフェでアイスとビールを買って一休みした。

その後、ゆっくり下り坂をリーダーアルプまで歩いた。途中牛の放牧場があって、牛が何頭もゴロゴロいるところを通った。
4時のロープウェーでリーダーアルプを後にする。結局家に着いたのは9時ちょっと前だった。(お兄ちゃんはだいぶ疲れたらしく電車の中でぐっすり眠ってしまいました。)

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【6月のまとめ】 
読み終わった本は2冊。 日本残酷物語第5部、やっと読み終わった。

「仁義なき戦い―美能幸三の手記より (死闘篇)」 飯干 晃一 著(読了07)
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」(読了07)


Fete(祭)

2007-06-29 | Weblog
今日はお兄ちゃんの一年生最後の日。
明日から8月27日まで約2ヶ月の夏休みにはいる。
授業は午前中でお終いだけど、夕方5時30分にもう一度学校に行って、ちょっと離れた所で、行進するとの事。

ボクも会社を午後お休みにして帰った。5時半まで時間があるので、ジュネーブ駅まで行ってTGVの予約をする。
5時半にお兄ちゃんを学校に送って行って、それからバスに乗って行進のある場所に行った。(お兄ちゃん達は、専用バスで移動)
このあたりの学校が何校も集まってやるようで、道は凄い渋滞をしていた。

なんとか行進の時間前に到着。最初に音楽隊と偉い人が行進した後、学校別に低学年の子どもが自分達で作った帽子などをかぶって行進してきた。各学校の前には、派手な仮装をした「先生」数名が先導している。しばらくするとお兄ちゃんの学校となった。お兄ちゃんも元気に行進してきた。

お兄ちゃんが行った後、公園の方へ行ってなにか食べることにした。
この一帯には、今日のために出店が出ていたり、子どもの乗る汽車などの乗り物が出ていたりして、「祭」モードになっている。
取り合えず、ウインナーとフライドポテトを食べながら休憩した。

小1時間待っていると、お兄ちゃん達が行進から帰ってきた。子供達特設のテーブルがセットされていて中で、ジュースとオヤツをもらえるって食べていた。
オヤツタイムの後、席の周りにあった柵が取り払われてお出迎えのお時間となる。
食べ物券一枚と乗り物券二枚を持ったお兄ちゃんが帰ってきた。
乗り物券で下の子と一緒に汽車に乗って、食べ物券でホットドックを食べた。

そろそろ、8時になるのでバスに乗って帰ることにした。
今は一年で一番日が長いころとあってこの辺は10時近くまで日が暮れない。お祭はまだまだ続くようであった。


「実生活にひそむだましーー思い込みと欲得の落とし穴」

2007-06-28 | Weblog
「だます心 だまされる心」安斎 育郎 著

5章 実生活にひそむだましーー思い込みと欲得の落とし穴

ここでは、イロイロな詐欺の手口を紹介すると共に「思い込み」の危険性について書かれている。

まず、色々な命題について「主観的命題」(自分の好みで決められる問題)と「客観的命題」(自分の好みで決められない問題)を区別することが大切である。そして、この「客観的命題」に関しては、合理的・科学的態度を貫くことが基本。
この「客観的命題」を間違えるかについては、「思い込み」(あることに心を集中して他の事への心配りができない状態)が多くの場合にある。

「科学者もだまされる」

2007-06-27 | Weblog
「だます心 だまされる心」安斎 育郎 著

4章 科学者もだまされる コラム 自然界の中の「だまし」名人

ここでは、科学者が陥った錯誤や「マッチ・ポンプ」的な捏造事件など。
(マッチで日をつけておいて、その火つけ本人がポンプで消しに行くという一人二役のだましは「マッチ・ポンプ」と呼ばれる。)

著者は長岡半太郎が陥った「水銀から金を作り出す研究」を評して

どんなに「偉い人」でも、自分の思い込みを正すことができない状況下では錯誤に陥りかねないことをしめす典型例のように思います。

と言っている。


「霊とカリスマの世界」

2007-06-26 | Weblog
「だます心 だまされる心」安斎 育郎 著

3.霊とカリスマの世界

ここでは、「こっくりさん」、十九世紀に欧米で流行した心霊主義、オーム真理教など超能力を売り物にした宗教、さらに明覚寺グループによる霊視商法などの話。特に十九世紀の心霊主義の話が詳しい。

「こっくりさん」の起源はヨーロッパに源流をもつ古い占い法である。この占いに関しては、『ローソクの科学』で有名な大科学者のファラデーが一八五三年六月三〇日付の『ザ・タイムズ』紙上で解明している。
日本でも明治二〇年五月二日、浄土真宗東山本願寺の僧・井上圓了が『妖怪玄談 狐狗狸(こっくり)の事』を出版し「こっくりさん」を解明している。

二人が達した共通の結論は、「テーブルに手をかけ手いる人が心の奥底にもっている潜在意識(予期意向)を反映して、無意識の筋肉運動(不覚筋動)によってセルフサービスで動かしているに過ぎない」ということでした。つまり、「こっくりさん占いは超自然力で起こる」という信念を背景とした一種の自己催眠誘導現象なのです。いわば、無意識のうちに自分自身をだましているとも言えるでしょう。


「文学・芸術の中の「だまし」ーーユーモアあふれるウソ」

2007-06-25 | Weblog
「だます心 だまされる心」安斎 育郎 著

2 文学・芸術の中の「だまし」ーーユーモアあふれるウソ

ここでは、推理小説・口品(だまし話芸)・川柳・だまし絵などの話が書いてある。

だまし絵に関して、

人間がある対象を認識する場合、その対象が備えているいくつかの部分的特徴だけで判断を下しているのがふつうです。あるものを「人間の顔」と認識するような場合には、「目(のようなもの)が二つ並んでいる」というのがかなり重要な要件です。楕円を描いて上半分のどこかに二つ丸印をならべて描くと、それだけで「顔」に見えます。人間が対象を認識するとき、その対象に関するすべての構成要素を隅から隅まで徹底的にチェックして判断しているわけではありません。いくつかの重要な特徴に依拠して判断を下しているのです。マジックでは、観客のそうした「簡略化された対象認識手続き」を最大限に利用して、観客を錯誤の世界にいさなうのですが、この種の「だまし絵」の世界も同じです。


『だます心 だまされる心』

2007-06-24 | Weblog
「だます心 だまされる心」
安斎 育郎 著 岩波書店(岩波新書)2005年 700円+税

はじめに、1章 トリックーー人為的な不思議現象にはタネがある

「だます心 だまされる心」を読み始める。この本は、NHKの「人間講座」で放送された内容をまとめたもの。「だます」というキーワードを中心に話は手品から悪徳商法まで広範囲わたる。
今日の部分は、著者も趣味としている手品の話から。

普通人間は合理的に納得できる結果が起こると安心感を得、反対に予想外の結果が出る時に不安感を覚えるのだが、手品はこの「だまされる」という不愉快な事を反対に楽しむという技芸である。
これは、とても人間業とは思えない現象を「合理的なギミック(仕掛け)」、「鍛えあげられた手練の早業」、「魅力的な演出」によって楽しむというものである。

これが手品として楽しんでいるうちは良いが、「超自然現象的な現象」と印象付けて人を欺くと問題が生じる。

人がだまされる背景には、現象を認識するのに「部分的な情報から全体を推測する」という人の認識の仕方がある。

日常生活での私たちの判断の多くは、部分的な情報にもとづいてなされています。詐欺師がそこに目をつけるとき、人間の認識は他愛もなく錯誤の世界にいざなわれます。それは、対象が自然現象でも社会現象でも同じことであり、要注意です。人間はだまされやすいーーそのことを深く心に刻むことが大切です。



(死闘編)読み終わり

2007-06-23 | Weblog
「仁義なき戦い―美能幸三の手記より (死闘篇)」 飯干 晃一 著(読了07)

9.喧嘩(でいり) 10.警官の死 11.広島戦争 12.岡組の覇権 13.呉戦争 14.山村組の内戦 15.佐々木派の実力 16.山村組解散 17.佐々木派破滅 18.福山・府中の戦い 19.山村組の復活 20.美能幸三の苦悩

読み終わりました、250ページあまりの薄い本なのでやっぱり2日でした。
(ほとんど1日だけど)

内容はなかなか面白いのですが、時系列に並んでいず、時間が激しく前後するのと場所が、広島と呉と二箇所あるので、読みづらい感じでした。
(頭をはっきりして読まないと、つながりがわかり辛い。)
「週刊サンケイ」に連載されていたようなのでその関係でしょうか?

残念なのは(決戦編)を買ってないこと、ちょうど面白いところでおわってしまった。(残念)


『仁義なき戦い―美能幸三の手記より (死闘篇)』

2007-06-22 | Weblog
「仁義なき戦い―美能幸三の手記より (死闘篇)」
飯干 晃一 著 角川書店(角川文庫)1980 420円+税

序説 1.崩壊した均衡 2.岡組対村上組 3.美能幸三という男 4.山村組結成 5.無法の街・呉 6.ヤクザの歴史 7.土岡を狙う 8.刺客・美能幸三

テレビもほとんど見ないし、映画もまったく見ないのですが、過去の一時期「ヤクザ映画」をレンタルビデオ屋さんで借りてきて見たことがありました。
仁義なき戦い」も見ました。もっとも、シリーズの全部を見たかどうか自信が無い。今となっては、菅原文太が子分を殴ってたところしか思い出せないので。

この本はその映画の原作である。実際に起きた広島ヤクザ戦争をその抗争の中心にいた「美能組」元組長 美能幸三の手記を元に描いたノンフィクションである。映画では仮名になっていた名前もこの本では実名になっている。

ヤクザ社会は仁義と侠気(きょうき)が支えになっているとヤクザは誇らし気にいうが、この手記のなかには、そんな偽善はこれっぽっちもない。ヤクザ社会とはただ利害損得によってのみ動く集団だということを、美能幸三ははっきり書いていた。そういう意味では、これも勇気ある手記なのである。


2007-06-21 | Weblog
今日の夜中と朝方激しい雷雨だった。
びゅーびゅーと風が吹いて、ガラガラ雷が鳴って、バシャバシャ雨が降った。
特に朝方の雷は近いところを通ったらしく激しく、ヒョウまで降った。

6時半頃に普通に起きて見ると、雨も止んでなんだか晴れてきている。っがママが一言、「あれ?インターネットに繋がらない?」

調べてみると、電波が飛んでいない。電話のところに行って無線LANのモデムを見てみると電源ランプすらついていない。
どうやら、ご臨終なさったようでした。

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「だます心 だまされる心」
安斎 育郎 著 岩波書店(岩波新書)2005年 700円+税

「仁義なき戦い―美能幸三の手記より (死闘篇)」
飯干 晃一 著 角川書店(角川文庫)1980 420円+税

「カラー版 スイス―花の旅」
中塚 裕 著 中央公論新社(中公新書)2003年 980円+税


「戦勝のかげに 癈兵の哀歌」

2007-06-20 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」(読了07)

第四章 駆りたてられた者  戦勝のかげに 癈兵の哀歌

日本残酷物語 第五部の最後は、戦争で傷つき「癈兵」となった人たちの哀れな末路について。

「・・・・余リ御恥カシイ御話シヲ致シマスガ、我々ガ癈余ノ身ヲ漸クニ故山ニ運ンダトキハ、其ノ当座ハ世間モ家人モ同情致シマシタガ、馴レルニ従イ、他人ハ愚カ最モ信頼ス可キ自分ノ妻女ニマデ怠ケ者也ト口汚ク罵ラルル有様ニテ、路傍ノ児童ニハ片輪者ト嗤(ワラ)ワレ、小額ノ恩給デハ米代ニモ足ラズ、不具ノ躰(カラダ)デ使イ手ハナシ、嗟夫(アア)ナマジ生キ恥ヲ曝(サラ)スヨリナゼ一層(イッソ)一(ヒ)ト思イニ戦死シナカッタカ・・・・」
と前田法観氏(新潟出身)は当時の苦しみをのべているが、このような境遇の中に放擲され悲涙をのみほした人々は、そのころ日本の村々にかならず幾人かいた。ある者は盲になり、ある人は見るも醜いイザリになって。そのころ「癈兵の子」といえば乞食や賎民の子のように蔑視され、うしろ指をさされて嘲笑されたのである。

このような癈兵に対する恩給は、度重なる癈兵運動にもかかわらず満足な金額ではなかった。

そのころの新聞紙面の片隅には、目立たない形であるが、ときおり悲惨な癈兵の末路が報ぜられている。縊死する者や親子心中する者もあり、妻が去り子が去って、癈兵のみが身動きできぬままにあばら家にとりのこされたという例も少なくない。捨てられた癈兵は乞食になるよりしかたがなかった。


「戦勝のかげに 軍法にそむく兵士」

2007-06-19 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第四章 駆りたてられた者  戦勝のかげに 軍法にそむく兵士

ここでは、旧日本軍の軍法および私刑である「掟」によって処罰された事例について。

理非に照らして考えれば、もともと日本における軍隊自体が国家組織の下に根を生やした巨大な犯罪機構であり、暗い倒錯の影をおびた地下集団であった。とすれば、そうした社会で「犯罪」が問われるということ自体、奇怪な矛盾をふくむものとせねばならぬ。すなわち犯罪社会である軍隊において規律上「犯罪」が云々され、処罰がおこなわれたというありうべからざることが、しかも軍法のルールをふみにじる形でおこなわれたという点に日本軍隊における軍法の二重の喜劇性があり、犯罪者の悲劇があった。
・・・・・・中略・・・・・・
軍刑が軍内の独立した司法権によっておこなわれず、統帥権の名目の下に往々にして私刑化されたということは、軍隊社会において日常的に支配していた私刑的「掟」について、軍法がほとんど無力であったという事実と有無相通じることがらである。

このあと、上官侮辱罪や逃亡罪などで軍法にかけられた事例や前線において壊滅的被害をこうむった戦いから必死に後方の司令部まで逃げ帰った将校が軍隊の「掟」により自決させられた事例などが書かれている。

「掟」はさいごには民間人にまでおよばされた。サイパンで、沖縄、満州で数知れぬ婦女子が自決して死んでいったことはわたしたちの記憶に新しい。


「半島の隣人 迫害をこえる人々」

2007-06-18 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第四章 駆りたてられた者  半島の隣人 迫害をこえる人々

ここでは、朝鮮人の妻となった人のドキュメントが何本か書いてある。

彼女は戦後、ある朝鮮人と見合い結婚したが、この時期に朝鮮人に心をかたむけ、結びついていった日本女性の中には、次に述べるように、朝鮮人のしいたげられた立場に共感をおぼえずにはいられない悲しい境遇の女が多かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし夫には朝鮮に妻子があったのだ。まもなく夫の故郷である南朝鮮から、夫の老母と孫、すなわちユリの夫の先妻の子をつれて密航してきた。しかし上陸してつかまり、大村の朝鮮人収容所へ入れられてしまった。老母は息子の顔をみることも許されず、韓国へ帰国させられた。ユリは必死に運動して夫の子どもだけは引きとったが、北鮮への帰還をひかえて今後この夫婦が歩いてゆかねばならぬ道は、わたしたちの想像を絶するほどけわしく困難なものであろう。----玄界灘の波はまだまだ深く、荒いのである。


UNO

2007-06-17 | Weblog
昨日からお兄ちゃんがちょっと風邪気味なので、今週末はどこも行かずに家にいた。
(昨日ちょっとお買い物にいったけど。)

本人も「どっか、行く?」と聞くと「いかない、お家にいる。」との返事。
「じゃ、何をするの?」と聞くと「パパとUNOをやる」ということだった。

早速、この前、買ってもらったUNOを取り出してきた。ところがボクはUNOをやったことが無いのでルールをしらない。
「じゃ、教えてあげるね。」と言う事だった。

どうやら学校でみんなとやっているみたい。「負けてばっかりだけど。」と言っていた。

ルールを教えてもらいながらやってみた。ルールが時々お兄ちゃんの都合がいいように変わるのは、気のせいだろうか?(細かい部分がどうもはっきりしない。)
勝敗は、五分五分くらいの感じだったので、なかなか終わりにしようとしない。
3時間くらいやってしまった。


「半島の隣人 玄海灘をこえて」

2007-06-16 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第四章 駆りたてられた者  半島の隣人 玄海灘をこえて

ここから第四章に入る。まずは明治期以来の日本に移住する朝鮮人の話。ここでは、その歴史を概観している。

玄界灘の荒波をこえて朝鮮人が本格的に移住しはじめたのは、いうまでもなく明治四十三年(一九一〇)の「日韓統合」以後であった。憲兵と警察の力によってすすめられた日本人による土地収奪は、世界植民地史上でも類を見ないほど徹底的なもので、土地を奪われた農民たちはいきおい流民のむれとなって故郷を放棄せざるをえなかった。

このようにして、多くの人が日本に渡航、あるいは強制的に拉致されて送られた。

戦争をへるごとに雪ダルマのごとく膨れていった日本の資本主義が、いかに朝鮮人の労働力を欲したか。たとえば昭和二十年三月には、全国炭坑労働者の三十二パーセントが朝鮮人でしめられていたことを見ても、その事実は理解できる。とりわけ北海道の炭鉱は数が多く、昭和十八年末の統計によると、抗外労働者は四十五パーセント、抗内労働者はじつに六十五パーセントという数字を示している。
・・・・・中略・・・・・
戦争が最大限に狂奔した一九四〇年から一九四五年までの五年間だけで、一躍百万に近い朝鮮人が強制的に移動させられ、終戦時の在日朝鮮人数は二百三十六万五千二百六十三名に達していた。日本人三十八人に一人が朝鮮人であったわけである。

このような朝鮮人の労働力を日本人は酷使し使用した。

昭和二十一年(一九四六)北海道の炭鉱を視察しいたあるアメリカの新聞記者は、この地の十万人の朝鮮人労働者の姿を形容して「飢えたる奴隷(スターヴィング・スレイヴ)」という言葉を使っていた