THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

帰国

2009-07-31 | Weblog
12時間のフライトの後、やっと帰国。

行きは、時差の関係から出国の時間と入国の現地時間は、ほとんど差がなかった(ココ参照)。
反対に帰りは、午後2時に飛行機に乗って、降りたらもう翌日の夕方だった。

飛行機では、横にすごく太ったおじさんが座り、また、前のシートについている小さなテレビでゲームをやっていたら、前の席のおばさんに文句を言われた。
かなり窮屈であったが、それでも疲れていたのか4時間ほど寝ることができた。 

出国すると、同僚の奥さんが迎えに来ていたので、一緒に車で家まで送ってもらった。

家につくと、下の子が迎えてくれた。お兄ちゃんはというと、「ロッククライミングキャンプ」なるものに行っていて、今日の夜10時ごろ帰ってくるらしい。
下の子にお土産、「恐竜のお砂場セット」をあげる。

その後、お兄ちゃんが帰ってくるという事で、ママが迎えに行った。
お兄ちゃんへのお土産は、「派手な鉛筆」である。


リムジンが来ない

2009-07-30 | Weblog
さて、土曜日に来て、やっと時差ボケが直ったと思ったら、今日は帰国の日。
まだ仕事がある1人だけ残し、後の人は今日帰国する。
残る人にレンタカーを預けてしまうので、10時にリムジンをホテルに呼んでもらうように、先方のセクレタリーの方に依頼していた。
(ちなみに、呼び寄せるタクシーをリムジンと呼ぶらしい。本当のリムジンで来る事もあるそうです。)

朝、チェックアウトを終えて待っていると・・・・10時になってもリムジンがやってこない。
そう言えば、最初10時半の約束だったが、それを10時に変えてもらったので、間違えているのかも知れないと思い、もう少し待つ。

ただ、なんとなく怪しい、忘れられているか?
今度の出張準備で何度もセクレタリーと連絡を取ったのだが、どうも反応がいま一つ。こちらの英語が悪いのかとも思ったが、解釈が間違えていたり人の関係が入れ違ってたり、どうも変な事が多かった。
こちらに来てわかったのだが、セクレタリーの待遇が良くない。あまり能力のある人がやっていないようである。(スイスにいた時にお世話になったセクレタリーは非常に有能で待遇も大変良いみたいだった。)
なんか二つ、三つ物を頼むと一つぐらい忘れそうな感じである。

でも、さすがに出国の足を忘れないだろう?と思ったが、やっぱり10時半になってもリムジンは現れなかった。

しかたなく、急遽ホテルのフロントにタクシーを呼んでもらうように依頼した。
11時過ぎにタクシーが来て乗り込んだ。

予定より1時間も遅い出発になってしまったが、JFK空港に12時に着いた。
航空会社のカウンターに行って航空券を貰い、荷物を預け、手に持つ検査を受けて無事に飛行機に乗り込んだ。


砂浜へ

2009-07-29 | Weblog
お仕事3日目。今日の予定は午前中だけ。午前中に見学等をこなした。
昼食は出張先の食堂に、その前に売店に行って地図を買う。

食堂で、ハンバーガーを食べながら地図を見て、これからどこに行こうか検討する。近くの道をまっすぐ行くと海岸に出るという事なので、食後海岸を目指して南下した。
駐車場に車を停めて少し歩くと広い砂浜に出た。すごく広い。砂浜に降りると砂がふかふかであった。同行の人たちは、靴を脱いで裸足になっていた。
平日だが、アメリカも夏休みなのか家族連れの海水浴客もいる。日本のようにごちゃごちゃと人がいるわけでもなく、なんか優雅な海岸であった。

海岸を後にして、地図にパークと書いてある場所に行くことになる。走って行くと、この前と同じように、だだっ広い森に着いた(ココ参照)。
またも公園のようなところは無い。なんだか牧場があったりする。道をあちことと巡る。
この前の公園内は、優雅な別荘でひしめいていたが、ロングアイランドもだいぶ奥まで来たこの辺は、そんな優雅な別荘はなく。壊れかけた家も散在していた。結局ここでは、なんだか船を出すための船着場みたいなところと、松林のハイキングコースを見つけた。


インドカレー

2009-07-28 | Weblog
今日は、お仕事2日目。昨日よりだいぶ楽だった。
簡単な昼食(サンドイッチ)をはさんでお仕事をして、4時には解放された。

さて、今日はどこに食べに行こうか?という事になった。ホテルからもらったレストランのリストを見てインドカレーに決まる。
実は、日曜日にもインドカレーを食べた。しかし、日曜日に夕食の待ち合わせ時間の不徹底から一人先に夕飯を食べてしまった。その人が「ボクだけインドカレーを食べていない」というので、カレーを食べに行くことになる。

住所を頼りにナビでさがして、カレー屋さんに到着した。日曜日に食べたカレー屋さんは、どちらかというと庶民的なカレー屋さんだったが、今日の所はちょっと本格派である。
席に案内されて、メニューを見る。英語の説明を頼りにカレーを注文。インド人のカレー屋さんは辛いのが普通なので、みんな辛さは、マイルドと注文。ワインを頼む。

出てきたカレーは、意外にもマイルド過ぎて全然辛くなかった。(もう行く事はないが、次に行った時は、辛さは普通で)
ワインを飲みカレーを食べる。


ローマニアン ステーキ

2009-07-27 | Weblog
今日は、お仕事の日。朝7時半にはホテルを出る。
入構の登録を行い、目指す建物へ行った。

簡単なランチをはさんで仕事は続き、6時ごろにやっと終わった。
夕飯は、ステーキハウスに招待された。

渡された地図とナビを頼りにステーキハウスまで行く。行ったところは何とアメリカンな感じ。自動車レース、リトルリーグ、はたまた競馬などなどのスポンサーもしているようで、壁に写真などが飾ってあった。
まずは、ビールを一杯。(時差ボケのため、一杯で自制しました)

さて、注文となった。ステーキの大きさがオンス単位なのでなんだかわからない。グラムで言うとどのくらいと聞いてみたら、結構大きい。一番小さいものを頼んでも200gは軽く超えちゃう。
メニューを見ると、「ロマニアン ステーキ」ってのが載ってる。なんだろこれ?
みんなそれぞれ適当に頼んでいるが、どうもこれが気になる。ウェイターの男の子に聞いてみたら、(説明の部分は聞き取れないが)なんだか「俺は好きだ」と言っている。まぁお兄さんが好きなら頼んでみようと、注文した。
まずは、前菜が来た。スープとサラダを選べるのだが、スープを選んだら、これは普通に想像するようなものでなく、なんだかマッシュポテトの緩いやつみたいな感じ。(これだけで、お腹いっぱいになっちゃう)
次にいよいよステーキが来た。ロマニッシュステーキは、なんだか真っ黒で味付けは、日本風な感じ。なかなか美味しい。(ちゃんと11オンス残らず食べました)
ちなみに、アメリカのステーキのみんなの意見としては、「ミディアムレアなのに、まっくろ」「ステーキソースは甘くて微妙」と言ってましたが、残してないので、そこそこ美味しいということらしい。


ロングアイランド

2009-07-26 | Weblog
今日は日曜日。ジェット・ラグでほとんど眠れず。
まず午前中に明日訪問する場所の確認に行った。フリーウェイを走ること30分ちょっと思ったより簡単に訪問先に着いた。入構の手続きもしたかったが、建物は開いていたものの、さすがに手続きするオフィスは開いてなかったので断念。

ホテルに帰って休んでから昼食に出る。どこへ行こうか相談したところ、とりあえず手近なところで「バーガーキング」に入った。
ハンバーガーなので日本とシステムはあまり違わないが、ドリンクはカップをもらって自分で注ぐ方式であった。「バーガーキングは大きいぞ」と言われてちょっと心配したが、注文したものが良かったようで普通サイズだった。味は大味。

その後、眠いのも関わらずドライブに出る。ひさしぶりの左ハンドルを運転させてもらった。ホテルでもらった大雑把な地図を見るとなんだか広大な公園がある。そこを目指すことになった。
ナビをしてもらって行ってみると、広大な森があって、別荘のような建物があちらこちらに見える。公園と言ってもどこが入口だかさっぱりわからない。あっちこっちうろついてみて、やっと湖のほとりの釣り場を発見したので降りてみた。
どうやら近所の人の釣り場のような感じであるが、湖を望むと岸辺には大きなクルーザーを浮かべた別荘がびっしりと立ってる。ここは、ウォール街でお金儲けをした人の別荘地なんだろうか??

また車に乗りこみ、公園の入口を探したが広すぎて分からず。
しかたなく、ホテルに帰ろうとフリーウェイに乗ろうとしたときに、目指していた公園とはまた別の公園だったが入り口があった。入園料12ドルを払って公園に行く。内部は自然を残した地域、花を植えた地域、昔の建物を残した地域などに分かれていてそこそこの広さである。1時間ほど散策をした。


出国

2009-07-25 | Weblog
さて、今日はいよいよアメリカ出張に出発。成田空港にて、同行するみんなと合流した。目指すはJFK空港!
意外にも海外は3回目。まだまだ出国とか手続きを、「はじめての・・・・」という本で確認してたりする。
チケットはE-ticketなので、航空会社の機械にパスポートを読みこませて航空券をゲット。なんか紙に印刷されているだけで、重みが無い。荷物を1個あずける。
手荷物検査を受け、出国検査を受けて、やっとゲートにたどり着いた。

飛行機に乗りこむ。今回はいろいろあってみんなバラバラの席。ボクの隣はフィリピン人のおじさんとお兄ちゃん。
フィリピン人のおじさんはともかくお兄ちゃんは、なんか凄く若い。ふと周りを見ると、同行の若い人に囲まれていた。
飛行時間は約12時間。時差の関係で午後3時に飛び立って午後3時に到着する。(正確にはちょっぴり時間が戻ってる)
エコノミークラスでは、まんじりともできず。結局眠れなかった。

やっと到着した後、飛行機を降りて進むと「○○高校のみなさ~ん」と呼んでる人がいた。あ・・・隣の若い子は高校生だったんだ!(後から思うと、時々来ていたまとめ役の子は・・・先生だった。)そして、集団行動だった生徒達にぬかされ、入国検査では、本当のビリになってしまった。

その後、レンタカーを借りるのに一苦労。同行の人にアメリカに1年いた人がいたので何とかなった。運転も「左ハンドルはひさしぶりだから」と言いながらハイウェーを飛ばして走る。アメリカの道路事情は、なかなか凄くて、進路をなかなか譲ってもらえない。(後に乗ってても結構怖かった)
ほどなく、ホテルに着いた。
近くのショッピングセンターでお買いものをして、夕飯を食べる。

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「燃えよ剣」上巻 
司馬遼太郎 著 新潮社(新潮文庫) S46年 743円+税

女の夜市、六車斬り

空港でこの本を買う。本当は「発見!角川文庫の100冊」から買いたかったのだが、本屋になかったので、仕方なく「新潮文庫の100冊」から選んでみた。(ココ参照)

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【購入図書】09

「燃えよ剣」上巻 
司馬遼太郎 著 新潮社(新潮文庫) S46年 743円+税


国際免許とESTA

2009-07-15 | Weblog
いよいよ、アメリカ出張へもあと15日。
今日は、国際免許の申請に行った。3年ほど前にスイスに派遣されていた時も取ったので、案外気楽である。(ココ参照)

国際免許証の申請用紙に記入して、窓口のお姉さんに「国際免許証を取りたい」言うと、1番窓口で印紙を買って下さいね。と言われた。
印紙を買ってきて、パスポートを持ってまた窓口へ。
(ついでに古い国際免許証を渡した。)
しばらく待つと、すぐに国際免許証が出来上がる。

ほどなく会社に着いた。
次は、VISAなしでアメリカに入国する際に必要な「ESTA」の認証を行う。
申請は、WEBから簡単にできて72時間前までに申請してください。と言う事で、あまり難しく思ってなかったが、やっぱり余裕を持って申請しなければ。
一応念のため、政府のHPにあった、「ESTA」申請の動画を見る。うむ、やはり簡単そうである。

そしてESTAのHPに入って申請を行った。何と言う事もなく終わり。無事即座にOKされました。


発見。角川文庫 夏の100冊

2009-07-13 | Weblog
昨年は、「新潮文庫の100冊」と「発見。角川文庫の夏の100冊」とで6冊文庫本を買った。(ココ参照)
新潮文庫はエコバック、角川文庫はケロロ軍曹のブックカバーが目当て。

今年も、また宣伝用の小冊子があったので貰ってきた。
発見。角川文庫 夏の100冊』、『新潮文庫の100冊』、『はじまりナツイチ 夏の一冊 集英社文庫』の3種類。
そしておまけを見ると、角川文庫は昨年と同じくブックカバーであるが、新潮文庫は、エコバックでなくパンダの人形。集英社文庫はなんだか携帯ストラップとなってる。
パンダも、ストラップもいらないから、今年は角川文庫で本を探すことにした。
ちなみに昨年もらったケロロのブックカバーはお兄ちゃんが大事そうにしてるので、今年もケロロは外せない。あとフェルメールも欲しいから、4冊か?

さて、小冊子をパラパラとめくりながら気になる本をメモしておく。
  • 『ちぐはぐな部品』星新一 この本は、若いころ読んだはず
  • 『新選組血風録』司馬遼太郎 新撰組の本を読んだことがなかった
  • 『ベルナのしっぽ』郡司ななえ
  • 『注文の多い料理店』宮沢賢治 これも読んでないはず
  • 『或る「小倉日記」伝』松本清張
  • 『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』小松左京 夏だし怖い話も


小西甚一という碩学

2009-07-12 | Weblog
「小西甚一という碩学」五郎ワールド 
2009年7月11日読売新聞

昨日の読売新聞に小西甚一に関する記事が載っていた。
最近『日本文学原論』(笠間書房)が出版されたそうだ。これは有名な『日本文藝史』(全5巻、講談社)の別巻として構想されたが、最終巻が刊行されてから17年、全体の5割しか完全な原稿が無い中、弟子たちが師の三回忌前に完成にこぎつけたもの。
(別巻『原論』と『索引』の二冊、『日本文藝史』は全部で7冊になった)

昔、ドナルド・キーンの『日本文学の歴史』(全18巻、中央公論社)を読んでいたころ、「キーンの『日本文学の歴史』と匹敵するのは小西甚一の『日本文藝史』くらいである」と何かで読んだ。
その頃から小西甚一という人は、気になっていたが、この記事を読むと、とてもすごい人である。

小西さんは英語、中国語を縦横に使い、独仏語は書くことができた。朝鮮語は書けないが理解できた。『日本文藝史』の原理編ともいうべき『日本文学原論』を書くために語学の才能を駆使したが、さらにギリシャ、ラテン語も勉強し直したという。
元都留文科大学学長の久保木哲夫さん(78)らが、「刊行にあたって」で書いている。

しかし、ひたすら学問一筋の「堅物」ではなく、能、狂言を習い、連歌、俳句に親しんだ。そして、アルコールも何でもござれの酒豪であった。

『日本文藝史』を買ってみようかと、アマゾンで見てみるとすでに絶版で古書価格は、非常に高いものだった。(あ~ 買っておけばよかった。)


パラグライダーと夏祭

2009-07-11 | Weblog
今日は、ハードスケジュール。
まずお兄ちゃんのスポーツクラブはいつもと違って、今日は7時半集合。バスに乗ってパラグライダーを体験する。さらに午後からはお兄ちゃんの小学校と下の子の幼稚園と夏祭がある。

朝起きて、パンを食べてすぐに集合場所まで車で行く。受付をしてお金を払う。(今回は、親がバスに乗る場合は1000円必要。さらに4000円で親もパラグライダーを体験できる)
バスに乗ってしばしのバス旅行となる。下の子も楽しいそう。

今回パラグライダー体験をしたのは、「エアパークCOO」というパラグライダースクール。到着後、簡単に挨拶した後、子供たちは2班に分かれて移動。1班は、まず下の練習場で実際にパラグライダーを体験。2班は最初に山頂のパラグライダー場から実際のパラグライダーを見学である。(その後、交代)
お兄ちゃんは、2班だったので車に分乗してパラグライダー場まで山道を登っていった。山頂のパラグライダー場は草を短く刈ったなだらかな斜面。ただしすぐに崖になっている。親は怖いのでゆっくりと歩くが子ども達は平気らしく走ってる子もいる。(お兄ちゃんなどは、もうすぐ崖になる端に座ってるし。)
今日はわりと良い天気で風もそこそこある。これから飛ぶぞ~という人が何人か待っていて、子供たちとテイクオフを見学した。さらに最後にスポーツクラブのお兄さんがタンデム飛行で飛び立つ。

次に車で下の練習場まで行ってパラグライダー体験になる。下の子は降りてくる車の中で寝てしまったので、練習場にあったタープの中で寝かせた。まずは子ども達がランディングと着地の練習をする。装備の付けパラグライダーに装着し、インストラクターのお兄さんお姉さんと一緒に走ってランディング。子どもはわりと軽いのでフワリと浮く、そして、すぐに着地。
体験は2回。お兄ちゃんは2回ともそれなりの距離(数10m)飛んでいた。
子ども達が終わると、体験したい親の番である。ママはちゃんと体験したいと料金も払っていた。しかし、親は体重もあるためそう簡単に飛ばない。まったく浮かない人多数。幅とびくらいしか浮かない人多数。一番飛んでも数mといった感じであった。ママも2回とも数mしか飛ばなかった。
最後に写真を撮ってまたバスに乗り帰る。(お兄ちゃん達は「パラグライダー体験修了証」をもらっていた。)

家に着くともう2時半だった。これから小学校の夏祭と幼稚園の夏祭がある。小学校の夏祭は3時からだが、昨日まで風邪で休んでいたお兄ちゃんが夏祭で走り回るのはどうか?という事で、4時になってからみんなで幼稚園の夏祭に出かける。受付をして出店で「魚釣り」をして「シンケンブルーのお面」を買ってとしていたが、やっぱりお兄ちゃんは小学校の夏祭に行きたいというので、ボクとお兄ちゃんだけ家に戻った。(今回幼稚園は臨時の駐車場まで用意していたので、この前のように車が出られない事はなかった。ココ参照。)

家に戻り、お兄ちゃんは小学校へ行く。小学校の夏祭は6時に終わり幼稚園のは7時なので、「迎えに行くから、終わったら早く帰ってきな」と言って送り出す。(ボクは、休憩)
6時ちょっと前にお兄ちゃんは、いくつか駄菓子を抱えて帰ってきた。
また幼稚園に行くと、これから園児の踊りが始まるところだった。下の子もちゃんと並んでいる。踊りが始まるとさすがに年少さんは、なんだかわからない子も多い感じである。次に集合写真の撮影。さらにはお神輿担ぎと進む。最後に花火を見て終了である。

お祭りでイロイロと食べているので夕飯は近くのマックですました。


「舞台の残響」

2009-07-10 | Weblog
「ゴッホ 星への旅」(下) 藤村 信 (読了09)

V 舞台の残響 登場人物の行方 テオ[テオドルス]・ヴァン・ゴッホ<1857-1891>、ヨハンナ[ヨオ]・ヴァン・ゴッホ‐ボンゲル<1862-1925>、ヴァンサンの弟妹たち、ポール・ゴーガン<1848-1903>、エミル・ベルナール<1868-1941>、アンリ・ド・トゥルーズロートレック<1864-1901>、シーン[クリスチーヌ]<1850-1904>、マルゴ[マルホート・ベーヘマン]、ルーラン一家、「アルルの女」のマリ・ジヌゥ夫人<1848-1911>、ポールウジェーヌ・ミリエ少将、アルル病院のフェリクス・レイ医師<1867-1932>、タンギーとっつぁン<1825-1894>、ポールフェルディナン・ガシュ博士<1828-1909>、ラヴゥ亭の娘たち、アントン・ヒルシフ

テオ[テオドルス]・ヴァン・ゴッホ
テオが、兄の急死による打撃から回復してとりかかった最初の仕事は、ヴァンサンの仕事と記憶を永久に保存しようとするこころみであった。

グルービー協会との不和、夫そして父親としての任務、亡くなった兄によせる痛惜と義務感、一挙にのしかかってきた三重苦はながく病身であったテオをうちひしいだ。一八九〇年十月、ピサロの想い出によれば、「テオはデカンの絵のことについてにわかにパトロンと猛烈な激論をはじめだし、激しい興奮の果てに辞表をたたきつけると、にわかに狂人となってしまった」

やがて錯乱は狂暴性をおびるようになり、ヨハンナと赤ん坊に危害を加える気配さえあらわれた。ヨハンナは小康をみはからって夫とオランダへ帰り、ユトレヒトの病院に入院させた。

テオはその同じ年の一月二十五日、ユトレヒトの病院で死んだ。最期は無感動の痴呆状態に陥り、病院の報告は「極度の過労と悲嘆による慢性的な病状、神経をすりへらす緊張にみちた生活を送った」と、ある。三十三歳。ヴァンサンが死んでから百八十日目であった。

ヨハンナ[ヨオ]・ヴァン・ゴッホ‐ボンゲル
テオの遺志をついで、ヴァンサンの作品を世に知らしめるうえに最高の貢献をはたした。夫のテオとはわずかに二年間の結婚生活しかしらない新妻が、奇跡的といってよいくらいの大事業をやしとげたのである。
しかし、彼女がはじめもとめていたのはヴァンサンの事柄ではなくてテオの追憶であった。テオの亡くなったあと、古い文書と手紙の整理をはじめた。「わたくしが探したのはヴァンサンではなくテオのことでした。わたくしはテオについての一言一句、こまかいディテールまで渇いた人間のようによみました。ヴァンサンからテオにあてた手紙を、わたくしは心ばかりか、全身全霊をかたむけてよみふけりました」
その仕事と孤独の環境は彼女にヴァンサンの≪孤独≫を教え、共感させた。そしてヴァンサンを≪発見≫した。

ヴァンサンの書簡集は一九一一年のエミル・ベルナールの編集した書簡集をはじめとして、さまざまなかたちで刊行されたが、一九五二年から五四年へかけて母の遺志をついだフィンセント技師によって編纂された決定版をもってほぼ集大成された。ヴァンサンの手紙はかれの作品を説明し、かれの精神と物質生活を物語って「ゴッホの世界」の深さをわれわれにうかがわせる第一級の資料であることはいうまでもないが、それ自体、ひとつの偉大な個性のビルドゥングスロマン(人間形成文学)を構成する作品である。


「オヴェール」4

2009-07-09 | Weblog
「ゴッホ 星への旅」(下) 藤村 信 

IV オヴェール 16,17,18,19,20,21

自分はいまあのテオからさえ離れようとしている。離れることがテオ夫婦を危機から救い出すただひとつの道であるようにさえ思われる。ゴーガンも去って、自分がブルターニュで合流することを喜ばないようである。ミディのアトリエもおしまいならば、長く夢みてきた芸術家の共同体も印象派画家の組合の結成もおしまいである。すべては幻想であったし、初めからむなしい努力であったのかもしれない。

ガシェ先生とヴァンサンとの間は、この不可解な一瞬間から一挙に遠くなった。先生は居留守を使うようになったらしい。

ただし、ヴァンサンがポケットにピストルをしのばせていたというのは、まったくありえないことではない。そのころ、かれは下宿のラヴゥ亭の主人の持物である古いピストルを身におびていたはずだからである。あるいは、だまって拝借していたというほうが正しい。

やけつくような日照りつづきであった。太陽は麦秋の畑を黄金色にやきつくした。
その運命的な日曜日 --- 一八九〇(明治二十三年)七月二十七日 --- の出来事についてはひとりの質朴な証人の回想にたよるほかはない。下宿のラヴゥ亭の姉娘、当時十七歳のアドリーヌが一九五三年に語った想い出である。ヴァンサンは彼女をモデルにして青い服の肖像などの三点を描いた。
ムッシュ・ヴァンサンはお昼をとってからすぐまた外へでかけていきました。・・・・・中略・・・・・
夜もおそく、闇(くら)がりのなかに、ムッシュ・ヴァンサンがおなかをかかえ、足をひきずっている様子に、母だけが気がつきました。上着はきちんとボタンをはめてあります。わたしたちの傍をあいさつもせず、影のように通りすぎていきました。「ムッシュ・ヴァンサン。お帰りが遅いので心配しましたよ。どうかなさいましたか?」と、母が尋ねました。しばらく玉突き台によりかかって身体の均衡をとりながら、低い声で、「けがをしただけ、なんでもありません」という返事です。
・・・・・・中略・・・・・・
父が「どうかなさいましたか?」とたずねると、ムッシュ・ヴァンサンは用心深げに父の方へ身体をねじりむけながら、抑えていた手をはなして「ほら」と言って血だらけの小さい傷痕を示すのです。「どうなさったのですか?」やっと返事がきました。「自分で撃ったのです・・・・・・。しくじらなければよいと思いましたが・・・・・」

ヴァンサンはテオの涙をみて言った。
「泣くなよ。ぼくはみんなのためになると思ってやったのだ」
やはり暑い午後であった。兄弟はだまりがちに、向い合いながら、時々、ふるさとのオランダの言葉でふるさとのことを話し合った。
ヴァンサンは「ガシェ先生が何と言っているのか」とたずねた。「大丈夫、たすかると言っている」とこたえると、つぶやくように洩らした。
「もう、むだだよ。悲しみは永遠につづくだけだ」

夕方から衰弱はめだって著しくなった。苦痛のあまりに大きい叫び声でうめいていたが、だんだんと弱々しいものになっていった。夜の更けるにつれて、もはや、なしくずしの果ての死を待つほかなかった。ヴァンサンはうわ言(ごと)のように、時々、「さあ、今度は帰りたいよ」と、つぶやいた。
ヴァンサンの生命は尽きはてて、埋み火の消えゆくように絶えた。

ベルナールの提議で、この告別の間の壁にヴァンサンの近作がいっぱい展示されることになった。沈鬱であった告別の間は一挙にして、そのかがやきとその天才によって栄光にあふれる芸術の神殿に変わってしまった。ベルナールのみごとな組織力はテオを感動させ、鳴咽させるばかりであった。ヴァンサンにとってそれは生涯の最後の、そして最初の展覧会であった。


「オヴェール」3

2009-07-08 | Weblog
「ゴッホ 星への旅」(下) 藤村 信 著

IV オヴェール 1,12,13,14

それは田園をおそう夏のあらしのようにやってきた。
ヴァンサンの生涯の最後の二十日間は、画家が破滅の淵へいく急坂を、目をつぶって、そうと知りながら、あえて滑り下りていった趣きさえ感じられる。
かれの生涯を閉ざす暗い雲は、己れの心象風景を画面にたたきつけた、鳥の飛ぶ、荒れ模様の空の麦畑を描くに先立って、七月六日日曜日、かれが招かれてパリのテオの住居で一日をすごすあたりから不吉な顔をのぞかせはじめた。
郊外からヴァンサンをたずねて、ひとも集まってきた。

ロートレックがそのような冗談話でヴァンサンとテオ夫妻を笑わせるのは、食卓につくまえからただならぬ緊張の気分が兄弟の間に張りつめているのを感じて、それをときほぐそうとする彼なりの思いやりからである。

テオと、かれのパトロンであるグルービル商会のふたりの支配人ブーソ氏およびヴァランドン氏との間は決定的にまずくなっていたのである。

ロートレックの機知にとんだユーモアも、はずまない沈んだ食卓の雰囲気をにぎわすことはできなかった。
七月六日日曜日の午後、モンマルトルのテオの家でおこった兄弟の間の争いについて正確に知ることはできない。・・・・・中略・・・・・
坊やの病気、ヨオの衰弱、そしてテオの当面する不安な話のなりゆきを暗く緊張した方向へみちびいていったようである。おそらくテオは、その内容は不明だが最後通告をブーソ、ヴァラドンの両氏に突きつける覚悟をヴァンサンに知らせたのであろう。その結果はテオの解職か辞任をもたらして、当面、テオの一家の生活は困難なものになるであろう。かねがねグーピル商会を呪ってテオの独立をとなえてきたヴァンサンえはあるが、さすがにテオの決意にはすぐに賛同できない。そこからけわしい言い争いがおこったようである。
おそらくテオはそうした瞬間に、不幸な一語を兄に洩らしたのかもしれない。兄の仕事をささえてきた仕送りの約束が、赤ん坊を抱えた新家族にとって日々に重い負担になってきたことを。

ヴァンサンの心のなかの負い目を衝いて、動顚(どうてん)させるような言葉のやりとりがあった。すっかり動顚したヴァンサンは「奇妙なことに、どういう条件で立ち去ったかを想い出せない」(書簡六四八)のような混迷の気分のなかに、テオの家を早々に離れて、オヴェール行きの汽車に乗ってしまった。


9263 位

2009-07-07 | Weblog
今日ブログのアクセスランキングをみると・…いつもとなんか違う!
そう、いつも -- しか表示されていなかったランキングに初めて順位が付きました。1256803ブログ中9263位だったみたい。

日付          閲覧数     訪問者数     ランキング
2009.07.06(月)  358 PV     151 IP      9263 位  / 1256803ブログ

閲覧数の358も訪問者数の151もいつもより多めである。ランキングはどうやってつけてるのかよく分からないが、どうやら10000位から表示されるとの事であった。

足かけ4年半ブログを書いていてやっと順位が付くところまできたみたい。