近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家ゆかりの地

2006年12月23日 | 歴史
顕家ゆかりの地は先ず、昨日も紹介した、「石津河原の戦い」で北朝方の高師直軍と戦い討死したと伝えられる、現在の堺市石津川沿いの顕家供養塔があげられる。
もう一つの説は、大阪阿倍野で戦死したとも云われている。

大阪市阿倍野区北畠にある、阿倍野神社は明治15年、建武中興に尽力した功績により、祭神・北畠親房公・北畠顕家公を祀る官幣社として建立された。



写真は大阪市阿倍野区の阿倍野神社、祭神・顕家公の銅像。
阿倍野神社参道の中央には、灯篭・百度石が並び、その奥には拝殿、後方には本殿がある。鳥居の脇には写真の通り、祭神・顕家公の銅像が立っている。

阿倍野区王子町には北畠公園があり、公園内には顕家の墓所がある。




写真は、上が大阪阿倍野区北畠公園の遠景、下が同公園内の顕家墓石碑で、現在周辺は閑静な住宅地。
太平記に登場する人物として、南朝方の武将でなくてはならない一人、北畠顕家が埋葬されていると伝わる墓所。

もう一つ顕家とゆかりが深い場所として、福島県伊達市の霊山及び霊山神社が挙げられる。



写真は、福島県伊達市の霊山神社。
当神社は、北畠家一門のうち、父・親房、長男・顕家、次男・顕信、甥・守親、陸奥にかかわる四柱を祀る神社。

僅か16歳で陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、南朝を奉じる後醍醐天皇の皇子・義良親王と共にやってきた、ここ霊山城を拠点に東北・関東から兵を集めて北朝と戦ったゆかりの場所。
当時霊山城は、山岳仏教の拠点として平泉と肩を並べるほどの隆盛を極めたが、南北朝争乱のため寺・僧坊は焼き尽くされてしまったと云う。



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