近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン “火焔型土器”の物語とは!そのⅡ

2007年10月01日 | 歴史
信濃川上・中流域で成立・発展した火焔型土器は、北陸と東北地方にも同様の土器構成文様があり、余りにも個性美・造形美に満ちた芸術作品に見える。



写真は、新潟県糸魚川市長者ガ原遺跡から出土した、火焔型土器。
火焔型土器は、胴部の半隆起線文を密に施す技法は北陸地方から、器形と四つの突起状把手を基準とした文様構成は東北地方から、それぞれ影響を受けたと云われる。

 鶏頭冠把手・トンボ眼鏡状把手、横S字形・波状形文様等が“火焔”のイメージを創り出しているが、はたしてそうであろうか?

“火焔”ではなく、“渦巻き”のモチーフを現わしているようにも見えるが?
“鶏頭冠”と見られる突起部分は“犬頭”のようにも見えるが?

鶏は、古墳時代以降には家畜として飼われていたが、縄文時代には、存在していなかった!

 一般的に土器製作者は男性との役割分担により、女性が主担当であったと見られるが、ダイナミックな男性的土器に見える火焔型土器製作に関しても、同じことが云えるのであろうか?
土器製作の専門プロが、専業としていたのではないか?

縄文時代中期中葉から後葉にかけて、僅か100~150年の存命に終わった背景・経緯について考えてみると、
1、火焔型土器文化が、信濃川上・中流域に限られていることから、この地方独自の神話・固有の信仰に根ざしていると思われる。





写真は上から、豪雪地帯を流れる信濃川及び津南町の信濃川河岸段丘。
 積雪平均年2.5mと云われる日本一豪雪地帯で、それが雪解して日本一の信濃川となり、日本一の河岸段丘を造り出した。

 信濃川は、食糧資源ソースとしての母なる川であったと同時に、度重なる水害により縄文人を苦しめた“猛威・呪い”をも意味していたと考えられる。
“信濃川神話”は、「火焔」ではなく「渦巻き」を物語っているように見える。
“S”字形文も、渦巻を意味しているのではないか?

2、鶏頭冠に見える突起部分は、犬頭をイメージして創られたもので、狩猟には欠かせない良きパートナーであった犬に対する感謝・崇拝・信仰があったように思われる。
 しかし狩猟から採集・漁労へ食文化の変化・多様化によって、犬信仰が次第に薄れていったと考えられる。

3、信濃川上・中流域地方は、東北・北陸・関東地方との文化交流が盛んで、それらの地域文化により少なからず影響を受けたと思われる。

火焔型土器製作プロ集団が、製作コンセプト・神話に関する内部抗争から次第に孤立していき、遂に外様文化により遂には追われる身となったと考えられるが??????

それとも、信濃川にまつわる度重なる水害が、ムラそのものを衰退させたのかも知れない。縄文中期以降の遺跡が激減していることからも、このことを裏付けているとも云える。

と云うように、火焔型土器にかかわる疑問は数多く、今日でもロマンに満ちた神秘的造形美なる由縁でもある。



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1 コメント

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紹介・リンクさせてもらいました (こしくわ)
2016-06-18 06:46:31
火焔土器、洪水説の者です。
検索し、この記事にたどり付き
とても興味深く拝読し、紹介・リンクさせていただきました。
http://koshikuwa.info/?p=6945
よろしくお願いします。
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