近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

静岡県沼津市高尾山遺跡の驚くべき新発見とは!そのⅡ

2014年11月24日 | 歴史
ここからは首題の第二弾として、更なる驚きの一端を紹介します。

高尾山古墳が近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたり、特にヤマト王権の象徴的墳形である前方後円墳に対して、前方後方墳であることは、独自性の強い、当地固有の古墳形態として、その歴史的意義付けや古墳発祥から発展の経緯を考える上で、貴重な発見と云える。

後方部の木棺跡に検出された、鏡・鉄鏃などの副葬品と土器の組み合わせからも、3世紀前半頃のものと分かったという。

次に出土遺物について、概観してみたい。





写真は、高尾山古墳から出土した高杯及び土器。

墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる、高さ約20cm・直径約25cmの高坏には円錐形の脚部があり、写真の通り、割れた状態で見つかった。古墳完成後の祭事に使われたものと推測できる。

脚部上方に“くし”で引いたような横しまがあることから、3世紀前半に作られたと見られる。これらの土器の様式は、ほぼ「纏向3式」と同年代ということになる。

何となく、古墳築造については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、西日本と東日本は、ほぼ並行していたと見られる。

沼津市には、本古墳から北西3kmほどに“清水柳北1号墳”と呼ばれる、8世紀前半築造の上円下方墳があるが、主体部には棺はなく、遺骨を納めた蔵骨器を入れる石櫃が確認された。

古墳築造にも、当時の仏教思想が反映され、土葬から火葬に移行する時代であった。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った上円下方墳が築造されていたことになる。

高尾山古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

一方で、高尾山古墳のように、同市教育委員会が「高尾山古墳は、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた!」としている。

と云うことで、沼津市には最古級の古墳と最新の古墳が揃っていたことになり、しかも同じ地域から、前方後方墳であり、上円下方墳であったりと、ヤマト王権の象徴・思想とは異なる、むしろ反逆とも取れる思想・行動は、当地の豪族が一大勢力を誇示していたからだとも云える。



写真は、本古墳から出土した銅鏡片。

本古墳からは、同時代のものと思われる銅鏡などの副葬品も多く出土したことから、3世紀前半から中頃の築造と見られる。

埋葬品は、鉄鏃を含めコンテナ30箱分にも上がったらしい。

本古墳の遺構は、幹線道路の計画ルートの真ん中にあり、いずれ消えてしまう運命にあるが、全国的にも、考古学上も大変貴重な発見だけに、何とか保存して欲しい。

「邪馬台国の時代に、東海から東方面では独自の文化が形成されていたことは分かっていた。古墳の位置は愛鷹山麓から見下ろし、駿河湾入江の最も深いところに位置していることから、豊かな湿地帯で人の流れが活発だったとみられることを証明する貴重な史料と見られる。

弥生時代には低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことになる。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は、大和地域を中心にヤマト王国として広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは、東海地方を中心に邪馬台国に対立していた狗奴国(くなこく)であったと云う説が有力だと云われている。

日本列島各地に点在した地域国家が、ヤマト王権によって徐々に統合され、古代国家が成立する過程で、前方後円墳に代表される首長の権威に対して、アンチ・ヤマト王権の象徴として、前方後方墳も並存したと考えられる。

卑弥呼が生きている時代に、前方後方墳を造るだけの有力豪族が、この地に存在していたことは、3世紀中頃の支配構造を考える上で貴重な史料であり、この地は狗奴国の勢力圏内の一つであったかもしれない。

今後の更なる発見・情報収集が待たれる。




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