近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎の4世紀と崇神天皇の出現

2014年01月14日 | 歴史
有史前古代日本の事情・様子が、多少なりともキャッチできる手段として、中国或いは朝鮮半島の歴史書などの間接的記述に頼らざるを得ない。

3世紀の邪馬台国や女王卑弥呼についての記述は「魏志倭人伝」で紹介され、又5世紀後半には中国南朝宋の歴史書「宋書」に讃・珍・済・興・武の5人の倭王が宋に使者を送ったという記述がある。

しかし3世紀半ばに邪馬台国から朝貢が行われて以来、約1世紀半にわたって中国の歴史書から姿を消していたが、唯一当時の情報ソースとして、高句麗の好太王碑の記述が参考になる。

そこで古代日本に関する記事が歴史から消えた空白の150年間の謎と5世紀の倭の5王時代の謎や足跡を、これから数回にわたって辿ってみたい。

先ずは謎の4世紀について、日本国土の統一・大和政権の誕生は4世紀頃とされているが、その成立時期は判然としていない。

「魏志倭人伝」の倭の記述から「晋書」に「倭の五王」の記事が現われる413年までのおよそ150年間は、古代日本の消息は歴史から消えている。

この謎の4世紀が解明されない限り、大和政権の成立も又謎のままとなってしまうが、4世紀後半に朝鮮半島北部で活躍した高句麗の王・好太王の偉業を讃える碑が、高句麗の古都・丸都城に建てられている。

この好太王碑に刻まれている、倭に関する記述に4世紀の倭の謎を解くカギがある。好太王碑の記述の中には以下のような倭に関する記事がある。

1、百済と新羅は高句麗の属国であったが、391年に倭が渡海・侵入して百済・加羅・新羅を制圧した。
2、396年好太王は百済に遠征して臣従させ、倭との関係を断ち切らせた。
3、399年、倭軍の圧迫を受けた新羅は高句麗に助けを求めたが、好太王は平壌まで南下して倭軍を破った。
4、400年に好太王は約5万人の兵を新羅に派遣して倭軍を追出し、任那にまで追い詰めた。
5、404年に倭軍は再び勢力を盛り返して帯方郡に侵入したが、好太王は再び倭軍を破った。

これらの碑文が史実であれば、4世紀後半の時期既に古代日本に海外に派兵する力を持つほど、強力な統一国家・大和政権が成立していたことになる。

この時期には巨大な古墳の築造が始まっていることからも、巨大古墳構築を可能にする富と権力を有する政権が成立してことを裏付ける。

畿内で勢力を持ち始めたのは、第10代の崇神天皇の頃ではないかとするのが一般的で、4世紀中頃に豪族を統合して大和政権が誕生し、崇神天皇が、実在したとされる初代天皇となったと推定されている。

そこで、第10代崇神天皇陵にスポットを当ててみる。

崇神天皇陵は、山の辺の道に沿った代表的な観光スポットにあり、全長240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半頃築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

この小高い丘陵から眺める大和平野(縄文時代は海)と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。

169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。



写真上の崇神天皇陵は長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分、直ぐ後ろには櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。



崇神天皇陵は、写真のように大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変。
実に見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つ。


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1 コメント

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Unknown (雄略ファン)
2014-01-26 21:33:49
空白の世紀の記述楽しみにしています。

現「雄略天皇」の墳墓は、
絶対に違うと信じて疑わない私ですが、
今後どのように解説されていくのか
本当に楽しみです。

宮内庁が、古墳の発掘調査を速やかに許可してもらいたいと願ってやみません。

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