堺市の南宗寺と徳川家康伝説について、更に続けます。
先ずは、家康の墓碑について、概観してみよう。


写真は、南宗寺内に再建された家康の墓所全容及び御廟内に配置された家康の墓石碑。
石碑は東照宮跡とされ、昭和20年戦災で焼失した堺東照宮の跡に、水戸徳川家の家老末裔・三木啓次郎が再建したもので、寄贈者には松下幸之助の名も刻まれている。
大坂夏の陣で、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに辿り着き亡くなったという伝説に基づく。
後藤又兵衛は、最初は播磨の別所氏に仕えていたが、のち、黒田如水親子に仕えて勇猛で知られていたと云う。
後藤又兵衛は、豊前国中津城主黒田氏の筑前入封後、1万6千石を領し筑前小隈城主となるが、黒田長政とはそりが合わなかったため浪人となる。
その後、大坂の陣の際に豊臣氏の招きを受けて大坂に入城。大阪柏原市の玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃ち、道明寺河原の戦いで戦死したとされる。


徳川墓陵には、写真のように、葵の御紋が残る瓦や大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康伝説が残る。
南宗寺史によると、大坂夏の陣の時、家康は、現在の大阪天王寺公園内にある茶臼山における激戦に敗れて、網代駕籠に乗って堺に逃げる途中、後藤又兵衛の槍に倒れた。
大坂夏の陣では豊臣方の毛利勝永は、徳川軍の先鋒である本多忠朝を討ち取り、家康の本陣向けて一気に突撃!
加えて、真田信繁(幸村)も家康めがけて一直線に突撃を開始。家康本陣に肉薄し、家康は「これはもうだめだ!」と、二度も自害することを考えたほど。
しかし家康が後藤又兵衛の槍に倒れたことは全て秘密にして、遺骸を南宗寺開山堂下に隠し、徳川の世になってから、久能山に改葬し、更に日光山東照宮に移送したと云う伝説が記載されている。

このことは、史実として、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで本寺を参詣しているところがこの伝説の面白いところで、写真のように徳川家の家紋・葵の紋が瓦に表現されている。
写真は、南宗寺内の坐雲亭。この鐘楼のような建物が、南宗寺で最も古い建物と云われている。
坐雲亭のパネルには、「徳川二代将軍秀忠が1623年7月10日に、1ヵ月後の8月18日に、三代将軍家光が相次いでこの南宗寺を訪れている」と云うことが書かれているらしい。
大坂夏の陣から8年が経過、復興なった堺の町を視察ながら、家康に将軍交替の引継報告に参ったかもしれない。
ところで、なぜ後藤又兵衛が輿を槍で刺したのに、家康の首を捕れなかったかというと、輿から抜いた槍に血が付いてなかったからと云われ、それは輿の中の家康が体から槍が抜ける時に服の布で槍に付着した血を拭きとったからという伝説が残る。
家康死亡の説はいくつかあり、通説では元和2年(1616)に駿府にて胃癌が原因で死亡となっている。他には鯛のてんぷらを食べすぎて死亡した説や大坂夏の陣で討ち取られて死亡した説等々、更には関ヶ原死亡説まである。
その中で関西地方には大坂夏の陣死亡説が江戸期から根強く残り、南宗寺の伝説もそのひとつ。
南宗寺の伝説は大坂方、真田幸村の猛攻にあい家康が女の輿に隠れて逃げる最中、豊臣方の後藤又兵衛が怪しいと輿に槍を入れ、その時に傷を負い大久保彦左衛門の手当てむなしく死亡、南宗寺に葬ったというものだが、詳細はいろいろな説があるらしい。
この伝説の後藤又兵衛は前日に戦死しているので本当?かどうか怪しいところでもある。
関が原にせよ、夏の陣にせよ、若し家康が死んでいたとしたら、その後、それを隠し通して、幕府開闢までもって行った家臣団の組織力はすごいもの。
また、徳川家康の墓と大書して憚らない寺の姿勢もまた、大阪らしくて、なんとなくユーモラスにも思える。
先ずは、家康の墓碑について、概観してみよう。


写真は、南宗寺内に再建された家康の墓所全容及び御廟内に配置された家康の墓石碑。
石碑は東照宮跡とされ、昭和20年戦災で焼失した堺東照宮の跡に、水戸徳川家の家老末裔・三木啓次郎が再建したもので、寄贈者には松下幸之助の名も刻まれている。

大坂夏の陣で、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに辿り着き亡くなったという伝説に基づく。

後藤又兵衛は、最初は播磨の別所氏に仕えていたが、のち、黒田如水親子に仕えて勇猛で知られていたと云う。
後藤又兵衛は、豊前国中津城主黒田氏の筑前入封後、1万6千石を領し筑前小隈城主となるが、黒田長政とはそりが合わなかったため浪人となる。
その後、大坂の陣の際に豊臣氏の招きを受けて大坂に入城。大阪柏原市の玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃ち、道明寺河原の戦いで戦死したとされる。



徳川墓陵には、写真のように、葵の御紋が残る瓦や大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康伝説が残る。
南宗寺史によると、大坂夏の陣の時、家康は、現在の大阪天王寺公園内にある茶臼山における激戦に敗れて、網代駕籠に乗って堺に逃げる途中、後藤又兵衛の槍に倒れた。
大坂夏の陣では豊臣方の毛利勝永は、徳川軍の先鋒である本多忠朝を討ち取り、家康の本陣向けて一気に突撃!
加えて、真田信繁(幸村)も家康めがけて一直線に突撃を開始。家康本陣に肉薄し、家康は「これはもうだめだ!」と、二度も自害することを考えたほど。

しかし家康が後藤又兵衛の槍に倒れたことは全て秘密にして、遺骸を南宗寺開山堂下に隠し、徳川の世になってから、久能山に改葬し、更に日光山東照宮に移送したと云う伝説が記載されている。


このことは、史実として、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで本寺を参詣しているところがこの伝説の面白いところで、写真のように徳川家の家紋・葵の紋が瓦に表現されている。

写真は、南宗寺内の坐雲亭。この鐘楼のような建物が、南宗寺で最も古い建物と云われている。
坐雲亭のパネルには、「徳川二代将軍秀忠が1623年7月10日に、1ヵ月後の8月18日に、三代将軍家光が相次いでこの南宗寺を訪れている」と云うことが書かれているらしい。
大坂夏の陣から8年が経過、復興なった堺の町を視察ながら、家康に将軍交替の引継報告に参ったかもしれない。

ところで、なぜ後藤又兵衛が輿を槍で刺したのに、家康の首を捕れなかったかというと、輿から抜いた槍に血が付いてなかったからと云われ、それは輿の中の家康が体から槍が抜ける時に服の布で槍に付着した血を拭きとったからという伝説が残る。

家康死亡の説はいくつかあり、通説では元和2年(1616)に駿府にて胃癌が原因で死亡となっている。他には鯛のてんぷらを食べすぎて死亡した説や大坂夏の陣で討ち取られて死亡した説等々、更には関ヶ原死亡説まである。

その中で関西地方には大坂夏の陣死亡説が江戸期から根強く残り、南宗寺の伝説もそのひとつ。
南宗寺の伝説は大坂方、真田幸村の猛攻にあい家康が女の輿に隠れて逃げる最中、豊臣方の後藤又兵衛が怪しいと輿に槍を入れ、その時に傷を負い大久保彦左衛門の手当てむなしく死亡、南宗寺に葬ったというものだが、詳細はいろいろな説があるらしい。
この伝説の後藤又兵衛は前日に戦死しているので本当?かどうか怪しいところでもある。

関が原にせよ、夏の陣にせよ、若し家康が死んでいたとしたら、その後、それを隠し通して、幕府開闢までもって行った家臣団の組織力はすごいもの。
また、徳川家康の墓と大書して憚らない寺の姿勢もまた、大阪らしくて、なんとなくユーモラスにも思える。

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