言の葉 ~つれづれの森~

“温もりの泉”離れ

哲学的に・・・(弐)

2008年04月07日 | 酔いどれ戯言
「よく生きる」
この言葉は古代ギリシアから人類のテーゼとして追究されてきた。そしてそれは往々にして「生」と「死」とがアンチテーゼとして配置され考えられてきた。しかし、「生」と「死」は本当にアンチテーゼなのだろうか。
ソクラテスは「よく生きる」ことを考えて毒杯を仰いだ。それは「死」を意味するものであった。もちろんそこには「ポリス」という組織があった背景は否めず、「ポリス」の意思に沿うことが愛国心でもあった。だからこそ、ソクラテスは裁判(民衆)の判決に従ったのだとも考えられる。
もちろんソクラテスは「死」を知らないと告白している。「善き」ものであるかも知れないとも云っている。しかし、それだけではない様な思いがする。ソクラテスは「生きている」ということを受け入れていたのではないだろうか。「生きている」ことを受け入れるということは、「生」や「死」の状態ではなく、今、自身が現象として観ているもの、感じているもの、目の前に在るものを受け入れることである。それが、例え苦痛であっても、それを受け入れることに拠ってこそ「生」があり「死」があり、「よく生きる」ということを考え得るのではないだろうか。
昨今、自殺や、理由なき殺人といった事件が見聞される。それは彼等自身の目の前に在るものを拒絶しているからではないか。それらを受け入れることが出来ない為、何かリセットしようとして事件を起こしてしまうのではないか。
そこで私はこう言いたい。目の前に在るものを受け入れて欲しい。受け入れてからこそ、次に進めるはずである、と。それはすなわち「生きている」ことを受け入れることである。「生きている」ということ実感できないのも「生きている」ことを受け入れていないからである。自身の目の前に在るものを受け入れてこそ、「生きている」ということが実感できるのである。ソクラテスは「ポリス」の裁きを受け入れたからこそ毒杯を飲んだのである。
そして「生きている」ということを受け入れることによって初めて「よく生きる」ということが考えられるのである。ソクラテスが毒杯を仰いだのも、「よく生きる」ことだったのである。何よりも毒杯を仰ぐことが、その瞬間、彼自身にとって「よく生きる」ことだったのである。「死」は結果である。そしてソクラテスの弟子、プラトンも師の「死」を受け入れることによって「よく生きる」ということを考えたのである。
自身の目の前に苦痛があっても、望まないことがあっても、それらを受け入れることが大切なのだ。それが「よく生きる」ことの発端であるから、「生きている」ことを受け入れることを前提として「よく生きる」ことを考えていかなければならないのである。