todonoinori

日常のささいなことの中に・・・・
神さまの愛が隠れています・・・☆”

※写真、文章等の無断転載はご遠慮ください。

1月も終わり~~

2010年01月31日 | Weblog

今日は親友Aさんのお父様の一周忌でした。
もう、1年が経つのだなぁ・・と、ミサの中で心を合わせて祈りました。
死後の整理をしていたら、やっと片付いた所で、
一周忌だったのを、私も思い出しました。
その頃になって、やっと、ホッとして涙が出たように思います。
きっと、残されたお母様も、この頃になって寂しさを
もっと、感じておられることでしょう。

人間の一生って、はかないものですが、
一人の存在の大きさは、その親族でないと分からないものです。

今日教会で、先日2人姉妹で、妹さんを先に亡くされたお婆さんに
声をかけました。
すると、何とも言えない表情で、その寂しさを訴えておられました。
年をとって、自分より若い人に先立たれるのは、辛いことでしょう。

また、今日は婦人会の新年会が行われ、
年間報告の後の会食に呼ばれました。
丁度、余興があっているところに入りましたが・・・
それぞれに、面白い出し物をされていました。
同じ信仰の仲間が・・・一緒に思い切り笑う・・・
そんな一時は、いいですね。そこに、神の国を感じました。
イエスさまも喜んでおられたことでしょう。

明日から2月です。
天気予報では、2月に入ると、寒波がやって来ると言っていましたが、
26聖人の記念日がありますからね・・・・。
7日は、2人の初聖体式があります。
準備は、これでいいのかなぁ・・と、思いますが、
後は、神さまの寛大さに委ねることにしましょう・・・。

この方は、どなた?

2010年01月30日 | Weblog

今日の朝ミサには、母と一緒に浦上教会に行きました。
朝はまだ暗いので、車も少なく、早く着くことが出来ます。
この教会には、本当に大勢の方が、
ミサに参加しておられるのには驚きます。
もちろん、近くの修道会のシスターたちもいらっしゃいますが・・・

今日の福音では、イエスさまが嵐を静められる箇所でした。
風も波も従う・・・「いったい、この方はどなたなのだろう」と、
弟子たちは不思議に思います。
そこで、神父様が「この質問は、弟子たちだけでなく、
私たちもイエスさまに対しての疑問だと思います。
そして、それは、イエスさまの姿を見ながら、
少しずつ分かっていくものなのです」とおっしゃいました。

イエスさまを知っていくのは、
そのみ言葉に触れる、み言葉を味わう度合いによるのではないでしょうか。
知っている・・・と思うと、何の進歩もありません。
「いったい、どなただろう」という疑問から始まって、
少しずつ分かっていきながら、
それでも、まだまだ「どなただろう」という疑問の中で、
もっと、イエスさまを深く知るようになるのでしょう。

それは、人を知ることと同じかもしれません。
長年付き合っていても、
なかなか、分かり合うものではありません。
「え?どうして?」という驚きの中で、
少しずつ知っていくことになるのですね。

「この方は、いったいどなたでしょう」
イエスさまを、もっと、深く知ることができる恵みを祈りましょう。

神の国!

2010年01月29日 | Weblog

どんより曇り空・・・・と思っていたら・・
晴れましたね~~~。

今日の福音で、イエスさまは、神の国について話しておられます。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔(ま)いて、
夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、
まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、早速(さっそく)、鎌(かま)を入れる。
収穫の時が来たからである。」

土の中にある生命を育てる力は、私たちの働きによるのではなく
そこに秘められている神さまの力によるのでしょう。
しかし、その力を知り、信じることも恵みですね。
種は、土と出会わなければ、芽を出すことも、伸びることも・・・
何もできないのです。
それを考えると、私たちの命は神さまとの出会いによって、
育まれていると言えるのではないでしょうか。
生きていることが当たり前のような顔をしていた状態から
生かされていることに感謝するようになるのは、
人間を超えた大きな力(神さまの存在)を
自分の中に感じるようになってからかもしれません。

また、ある箇所では、
神の国は、実にあなた方の間にあるとおっしゃっています。

今日一日、神の国を意識しながら、生かされていることに感謝し、
周りの人々に、神さまの愛を伝えていきたいものです。

小さな命・・・

2010年01月28日 | Weblog

5,6年生は・・・
「小さな命を守る勇気」というビデオを見ました。
マザーテレサの活動を取り上げて、
特に小さい子どもたちのことを
どのように守ってきたかに焦点が当たっていました。

富んでいる、満たされている状態にある私たちに
できることは、何か?と考えさせられるものでした。

「聞く耳のあるものだけが聞きなさい!」と
イエスさまは、今日の福音でおっしゃいましたが、
本当に、何か自分の問題として、考える必要があると思いました。
毎日の食卓に出されたものを感謝していただくとか、
取ったものは残さない、好き嫌いをしないでいただくなど・・・。
小さなことでも出来ることがあります。
意識して生活することの大切さを感じました。

♪主よ、今日一日~♪という歌があるように
自分に出来ることを頑張ってみる!
そんな小さなことから一歩を踏み出す勇気が欲しいものです。

今晩の聖体礼拝は、日本の創立当初から
長年日本のために特に学校使徒職に尽くしてくださった
ミッショネールのシスターがフランスで亡くなられたので、
感謝のうちに・・・その姉妹のために捧げました。
永遠の安息をシスターにお与えください。

いつもと違う・・・

2010年01月27日 | Weblog

人間の行動パターンって、大体決まっています。
私も朝起きると、同じような動線で、
身支度をして、ミサに行きます。
先日、ある姉妹が腰を痛めたので、
私が運転する車でミサに行っていました。
これは、いつもの行動パターンから外れたものなので、
免許証をポケットに入れて、車の鍵を持って・・・と、
考えながら、行動していました。
しかし、今度は、仕事に出かけるときに、
いつものところに鍵が入っていないので
「あれ?車の鍵がない」と大慌てです。
そして、よ~~く考えてみると、
コートのポケットに入れたままなのです。
少し違った行動をすると、
次には、よく考えなければなりません。

しかし、いつものパターンから抜け出ることは、
自分を変えるチャンスともなるのではないでしょうか?

誕生してから、今までの自分に備わっている性格は、
なかなか変わりません。
しかし、違った意味で変わることができるのです。
この可能性に目を留めたとき、希望があると思います。

私は、あるシスターから「自分に『まっいいか!』と言いなさい」と
言われました。
それは、私の完璧主義から、開放される良い言葉でした。

いつものパターンをしていたら、安心だし、時間も短縮できます。
しかし、進歩したり、変わることもないでしょう。
このいつものパターンと違う行動をとったとき、
見えなかったものが、見えるときがあるのではないでしょうか?

福音を、時々、いつもと違った角度から眺めると、
いつもと違ったイエスさまが見えてきたり、
み言葉の響きも違ってきたりしますね。
しかし、福音は、神さまからの生きたみ言葉ですから、
私たちの行動と同じように考えることはできないかもしれませんが・・・

今日はバス通勤でした。
近くの郵便局まで歩いて行って、
いつも乗るバス停より、3つ目のバス停でバスに乗りました。
歩きながら、いつもと違った風景も見ることができました。
感謝、感謝!

変換!

2010年01月26日 | Weblog

久しぶりに良いお天気になりました。
朝からも、星がきれいでした。

こんな日は、気持ちまで明るくなりますね。
風邪も、だいぶ良くなり、食欲も出てきました。
これで、大丈夫でしょう・・・。

昨夜、ローマ字のメールが届きました。
パソコンの調子が悪くて、日本語が打てなかったそうです。
しかし、本当に久しぶりの方からだったので、
必死で読みました。
こんな時に限って、メールを出したくなるものですね。
私は、日本語変換がどうなっているのかが
分かるようになったので大丈夫ですが、
分からない時は、「大変~」「たいへん~~」と、叫んでいました。

しかし、最近は、パソコンばかり使うので、漢字変換が分かりません。
研修会に行って、大切なことを書いていると・・・
ふと、どんな漢字だったかな?と、戸惑っているうちに
話はどんどん先に進んでいます。
そんなこんなで、仕方がないので、平仮名で書いて終わります。
なかなか漢字が浮かばないのです。
こういうのも、困ったものです。
文明の利器に慣れるのも、困りものですね。

変換で思うことは・・・
肯定的に変換できるといいなぁ・・ということです。
私の考えの中には、いつも、○○しかない!という捉え方です。
しかし、ある人は、○○もある!と言われます。
この違いで、どんなに大らかな生き方になることでしょうか?

また、「イエスさまだったら・・・」という変換が出来ると
そうか・・・と、もっと寛大な配慮や、優しさをもって
接することが出来るようになるのではないでしょうか?
と思ったりもしました。

おや?洗濯機も止まりそうですね。
今晩はここまでにしておきます。お休みなさい。

3人の少年!

2010年01月25日 | Weblog

朝から雨が降っていましたが、
すぐに上がってしまいましたね。

今日は聖パウロの回心の記念日でした。
劇的な回心とまでいかなくても、
一人ひとりの回心の時があります。


このイエスさまとの出会いが、信仰の原点になります。
私たちも自分の信仰を感謝する機会としたいものです。


そして、聖パウロのように、多くの人に
イエスさまを告げ知らせて生きましょう。

さて、2年生の勉強では、26聖人の中の3人の少年について学びました。
教会の敷地内にこの少年の記念碑が建っているにも拘わらず、
見ていない子どももいました。
勉強が終わって、その記念碑の前で祈りました。
「あ・・これ!」と、やっと結びついたようです。
来週は、西坂公園まで、歩いて巡礼に行こうと思っています。
すぐ近くに巡礼地があるのは、良いですね。
3人の少年の名前を覚えて、嬉しそうに帰って行きました。
夕食の話題に出たところもあったでしょう??

この少年たちは、神さまから特別の恵みによって、
小さくても信仰の大切さが分かって、命を捧げたのです。
素晴らしいですね。
いのちまで捧げることが出来なくても、
信仰の大切さ、素晴らしさを深く悟る恵みを祈り求めましょう・・・。

主の霊に満たされて~

2010年01月24日 | Weblog

今日の福音は、イエスさまが会堂で巻物を読まれたところでした。
子どもたちに福音で心に残った言葉をあげさせました。
すると・・・・
「主の霊がわたしの上にある」
「貧しい人に福音を囚われ人に開放を告げる」
「神は私を遣わされた」
「今日、実現した」と選びました。
これは、イザヤ書に書かれていた箇所です。
とても良いところに目を留めていると思いました。
そこで、イエスさまが、主の霊に満たされて、
これからいろんなところに行って宣教されることを話しました。

そして、パウロの書簡で・・・
目は耳に要らないとは言えない、
手が足に要らないとは言えない・・・と、
一つ一つの部分が、どんなに大切なものであるかを知りました。
そして、私たちがそれぞれの部分で、
イエスさまの体を形作っていることを話しました。
この箇所は子どもたちにも理解しやすかったようで
良く、聞いていました。

私たちの働きは小さなものですが、
主の霊に満たされて、自分がいただいている賜物を
十分に使っての奉仕に励んでいきたいものです。

あぁ・・今日は会議~会議~で、疲れましたね。
あぁ・・・それでも大切な会議でした。
私たちの奉仕を通して、次の行事がスムースに行われるのです。
この私たちの捧げものを神さまが喜んでくださったでしょう。
主の霊の働きを感謝しつつ・・・

西の風10メートル~~

2010年01月23日 | Weblog

伊王島近くの海上はすごい風です。
昨日は北北西の風8メートル、今日は10メートルと。
今日、伊王島から長崎へ来られたN神父様は、
「本土とは、全然違うなぁ・・」と話しておられました。
こちらの予報では、2メートルですからね。

さて、真冬に高島に行った時を思い出しました。
長崎から伊王島までは、まだ、何とか大丈夫だったのですが、
伊王島から高島に行く時には、
もう、ゼットコースターのように船が揺れるのです。
生きた心地がしなくて・・・
気分が悪くなるのも、分かりました。
帰りには、予定していた便の次からは欠航するというので、
遅れないようにと、急いで乗って帰りました。
その帰りも、揺れて~~揺れて~~~大変でした。

まだ、船の中で、眠っておられるイエスさまを
起こさなくても良かったですが・・・
本当に~~~大変でしたね。

5,6年生2人の勉強(補講)をしました。
すると・・・
今から、卒業式の練習をしているようで、
それぞれに話してくれました。
5年生は、送る立場なので、入場と退場の曲を練習していること。
6年生は、卒業証書の受け取り方を。
2人が共通しているのは、
卒業式は長くて、眠たい~~~ということでした。
「市長さんは来なくて、代理の人が何ダラ、かんたらしゃべって、
校長先生も・・・」と言ったので、
「校長先生がおめでとう!と言うのは、当たり前でしょう」と
私が言うと、
「それはいいんだけど、保護者会とかも・・・」と、
何しろ、聞くのが耐えられないことを話してくれました。
卒業式に、一人の子どもの小学校は、1年から全員の参加だそうですが、
もう一人の人数が多い小学校では、
3年から以上の子どもたちが参加するそうです。
目を輝かせて話してくれるので、聞いていて、楽しいでした。

そう、2メートルくらいの風がふいていたかな?

ダビデ!

2010年01月22日 | Weblog

今朝は、ミサが共同体でありました。
書簡の朗読が、今週は長い~箇所です。
今日も長いでしたね。
しかし、今週の旧約の話は、とても面白いです。
今日は、サウロとダビデの話でした。
この話は、人間の心理をよく表わしています。
自分を殺そうとしたサウロを殺すのに、
良いチャンスだったにも拘わらず、
最後まで忠実を守るダビデ・・・
神が油を注がれた者だからという尊敬を示すのです。

私たちカトリック信者も同じことがあります。
どんなに、人間的には、どうかな?と思える司祭に対して
そこは、神さまが選ばれ、聖別された方であることの
尊敬と忠実を最後まで守るのです。

ずっと、前に、壊疽(えそ)という病気で、長年入院され
亡くなられた神父様に対して、病院の看護婦さんたちが
最後まで、司祭としての尊厳を守ってくださった・・・と
葬儀の時に、大司教様がお礼をおっしゃっていましたが、
腐っていく体、臭いもすごかったそうです。
その司祭の壮絶な生涯を目の当たりに見られて・・・
十字架上のイエスさまの捧げ方に似ていると思われたそうです。

私たち修道者も、捧げた身分として、どんな時にも
最後まで神さまに忠実に生きたいと思っています。

私もこのダビデの神と人に対しての態度に倣いたいものです。