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 SF映画 インベージョン物

2019-09-09 23:31:47 | 日記・エッセイ・コラム


 背乗り(はいのり)の話があったので、前々から気になっていたSF映画を購入して鑑賞
してみました。「SFボディースナッチャー」です。合わせて「ヒドゥン」も手に入れて見
ました。
 侵略物のSFはかなり昔からあって珍しいものではなく古典的とさえ言えます。「ボディ
ースナッチャー」も最初はモノクロ映画で作られ、今回観たのは70年代にリメイクされ
た作品になります。原作は1955年のSF小説「盗まれた街」で最初の映画化は1956年、以降
「SF/ボディー・スナッチャー(1978年)」「ボディー・スナッチャーズ(1993年)」
「インベージョン(2007年)」と大体20年おきくらいにリメイクされています。(する
と5年後辺りにまたリメイクされるかも?)
 それぞれのリメイクごとにアレンジがあり、時代に適応したリアリティーがあります。
この映画以外にもインベージョンを扱ったSFはたくさんあって、「遊星からの物体X」等
も有名ですが、「ヒドゥン」の場合侵略側の生物が増殖しない特徴があり、結末が異なり
ます。
 「ボディースナッチャー」の侵略生物は胞子のような形で地球に飛来し、植物形態を経
て人間体になる描写があります。ただし直接人間体になれるわけではなく、ひな型になる
人物の情報を取得して成体になる過程でオリジナルの人物から養分や構成物を吸い取って
成り替わるようです。結果的にオリジナルの人間の記憶を大部分引き継いでいるものの、
考え方や本能の部分ではエイリアンのままで感情や表情に乏しいという特徴があります。
 この映画で人面犬が登場して異様な奇形的成長をにおわせますが、ただのハプニング的
要素以外の意味はないようです。この人面犬のイメージはその後一人歩きして都市伝説化
しました。
 「ヒドゥン」のエイリアンは物理的に人間を乗っ取るもので、無脊椎動物のような袋状
の外見に細い節足が何本かついている外観をしています。普段は人間の内部に入っていて
乗っ取られた人間はその時点で死亡しています。欲望に対する自制がなく、暴力や窃盗を
繰り返し、体が傷ついて使えなくなると他の体に乗り移り同じことを繰り返します。
 本作にはこのタイプのエイリアンが一体しか登場せず、それを追いかける警察役の方は
乗り移りの能力はあるものの光状の外観をしています。いずれにしても社会ごと乗っ取る
ような繁殖能力はなく、脚本では以後に逃げ延びて大統領になるべく去って行くという含
みがあります。つまり征服欲に目覚めたという暗示があるわけですが、映画では退治され
る方へ変更されました。
 
 ボディースナッチャーの原作が書かれた1950年代前半は共産主義の脅威が盛んに唱えら
れていた頃で、レッド・パージ(赤狩り)と呼ばれる共産党員やソ連スパイの排除運動と
マッカーシズムが横行していました。おそらくこうした背景が原作に強く影響していたと
考えられます。

 背乗りの説明でも書きましたが、ソ連のスパイが潜入先で活動するため現地の国籍を手
に入れる方法がその始まりであり、共産主義の浸透=背乗りという図式があります。ある
日、善良な隣人が突然別人のようになってしまい、やがて自分にその魔の手が迫ってくる
という恐怖がSFにおけるインベージョンの大体共通した流れになり、「思想やアイデンテ
ィティが別の何かに入れ替わる」と言う部分が核心となるように思います。それで日本で
は「洗脳」と言った方が「背乗り」より分かりやすいのかもしれません。
 SFですから、実際の背乗りの生々しい部分を別のロジックで置き換えて説明していて、
それが現実的なドラマでないので容認されるクッションになるわけです。つまり原作小説
は「1984」のようなアンチテーゼとして作られた物語であったのでしょう。1954年頃
からアメリカのCBS放送が反マッカーシズムのキャンペーンを開始しており、同年末には
レッドパージは終焉したとWikipediaには書かれています。

 しかし振り返ってみれば「共産主義の侵略」と「レッドパージ」は表裏一体の反自由主
義的な社会現象であったと見ることができます。個人個人の自由な考え方や人間的な感性
を奪ってしまい、全体主義的な社会に組み込んでしまうという恐怖が描かれていると思え
るのです。
 「ボディースナッチャー」ではその辺りの社会的な広がりがストーリーの流れの核にな
っていますが、「ヒドゥン」では個人対個人(宇宙人同士)の戦いに絞られています。

 「ヒドゥン」は1987年のSF映画であり「ロボコップ」と同じ年の作品です。過去にTVで
放送された物を録画して何度か見ており、その後ビデオも入手しましたが、今回はDVDで
出ていたのを改めて購入しました。
 何度も見ている名作がDVDでリリースされると、特典映像がついていたりするので入手
することが良くあります。今回は監督によるオーディオコメンタリー(解説)が入ってい
たので聞いてみました。それでいくつか面白い裏話を知ることができました。監督のジャ
ック・ショルダーはしきりと脚本を短縮して映像化した事を言っていましたが、最後には
脚本のおかげで思いついた映像も多々あり、脚本家のジムに謝意を述べていました。
 なぜか一緒にコメントしていたティム・ハンターという人物(やはりSF系の映画監督)
が最後のクレジットの所で、ヒドゥンとボディースナッチャーとの共通点について話始め
たのには少し驚きました。二つの映画がよく似ている事は分かっていましたが、監督も同
意しているので、二つを並べて観たのは成功だったと思えました。
 ティムが比較に持ち出したのは一作目の1956年版らしく、そちらはまだ未見なので機会
を見つけて鑑賞したいと思います。彼が言うには、個人の欲求を満たすために周囲の被害
を顧みない人物と無欲な人物の間には明らかに違いがあり、それが二つの映画の共通点だ
という話でした。

 つまりリメイク版の1978年版とヒドゥンでは侵略に対する見解や解釈が違っているのだ
と考えることができます。私はヒドゥンのエイリアンに関して非常にサイコパス的である
と考えていました。「個人の欲求を満たすために周囲の被害を顧みない人物」とはサイコ
パスを指しているとも取れます。侵略に対する概念的なとらえ方や対処の方法に変化があ
るとも取れます。
 何者が侵略者なのか、そしてどういう所が我々と違うのか。これは今後も変化を続けて
行くことでしょう。
コメント
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