東京文化財研究所保存修復科学センターの調査で12日、海龍王寺(同市華寺町)の「五重小塔」(国宝、奈良時代)の柱に、水銀を含む辰砂を原料とした希少な朱顔料が使われていたことが分かった。
創建当初は鮮やかな朱色に彩られていたとみられる。朱は古代から宮殿や寺院に施されているが、多くは鮮やかさの落ちるベンガラを使用している。朱顔料が古代の木造建造物で確認された例は少なく、最古級で、重要な成果となりそうだ。
同寺は平城宮跡の東北隅付近に位置し、奈良時代に開かれたとされる。西金堂内に安置されている五重小塔は高さ約4mで、精巧な造りとなっており、天平期の建立という。元興寺文化財研究所(同市)の「研究報告2008」によると、小塔は後世に修理され、さまざまな顔料が塗装されていたが、塔の最下部分の柱の当初材からは下地の上に朱顔料が検出されたとする。
朱顔料は、ベンガラに比べ鮮やかだが希少なため部分的に使ったと考えられ、確認例は平等院鳳凰堂(宇治市)や唐招提寺金堂(奈良市)などわずかという。
[参考:産経新聞]
<備考>
海龍王寺(かいりゅうおうじ)
奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。藤原不比等邸の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建された。
嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に、平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われた。[参考:海龍王寺HP]
続日本紀・天平神護2年(766)10月20日壬寅に「奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺」と記されるが、正倉院文書では、天平9年(737)に「隅寺」の存在が確認できる
五重小塔 (国宝)
高さ4.01mの小塔で、創建当時から西金堂内に安置されており、様式が薬師寺の三重塔に類似している。
細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。
限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にあったため、「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられている。[参考:海龍王寺HP]
會津八一の歌碑
奈良県内には15基の會津八一自筆歌碑が建立されているという。
海龍王寺にも、その一つの歌碑が立つ。歌は大正19年(1921)に詠まれた。
(原文) しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ
(読み) 時雨の雨 いたくな降りそ 金堂の 柱の真赭 壁に流れむ
(訳) 時雨よ、あまりひどく降ってくれるな。この金堂の柱の真赭(まそお・朱の顔料)がとけて、壁に流れてしまうから。
海龍王寺は、隅院(角寺)とも称せられている。光明皇后の立願にて建立。光明皇后が僧玄隈の入唐求法の安全を祈り、ここで《海龍王経》を読んだのに起因すると伝えられる。八一が歌を詠んだ明治から大正にかけて、海龍王寺は無住寺で、当時の奈良を偲ばせる。
[参考:新潟市會津八一記念館HP]
創建当初は鮮やかな朱色に彩られていたとみられる。朱は古代から宮殿や寺院に施されているが、多くは鮮やかさの落ちるベンガラを使用している。朱顔料が古代の木造建造物で確認された例は少なく、最古級で、重要な成果となりそうだ。
同寺は平城宮跡の東北隅付近に位置し、奈良時代に開かれたとされる。西金堂内に安置されている五重小塔は高さ約4mで、精巧な造りとなっており、天平期の建立という。元興寺文化財研究所(同市)の「研究報告2008」によると、小塔は後世に修理され、さまざまな顔料が塗装されていたが、塔の最下部分の柱の当初材からは下地の上に朱顔料が検出されたとする。
朱顔料は、ベンガラに比べ鮮やかだが希少なため部分的に使ったと考えられ、確認例は平等院鳳凰堂(宇治市)や唐招提寺金堂(奈良市)などわずかという。
[参考:産経新聞]
<備考>
海龍王寺(かいりゅうおうじ)
奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。藤原不比等邸の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建された。
嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に、平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われた。[参考:海龍王寺HP]
続日本紀・天平神護2年(766)10月20日壬寅に「奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺」と記されるが、正倉院文書では、天平9年(737)に「隅寺」の存在が確認できる
五重小塔 (国宝)
高さ4.01mの小塔で、創建当時から西金堂内に安置されており、様式が薬師寺の三重塔に類似している。
細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。
限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にあったため、「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられている。[参考:海龍王寺HP]
會津八一の歌碑
奈良県内には15基の會津八一自筆歌碑が建立されているという。
海龍王寺にも、その一つの歌碑が立つ。歌は大正19年(1921)に詠まれた。
(原文) しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ
(読み) 時雨の雨 いたくな降りそ 金堂の 柱の真赭 壁に流れむ
(訳) 時雨よ、あまりひどく降ってくれるな。この金堂の柱の真赭(まそお・朱の顔料)がとけて、壁に流れてしまうから。
海龍王寺は、隅院(角寺)とも称せられている。光明皇后の立願にて建立。光明皇后が僧玄隈の入唐求法の安全を祈り、ここで《海龍王経》を読んだのに起因すると伝えられる。八一が歌を詠んだ明治から大正にかけて、海龍王寺は無住寺で、当時の奈良を偲ばせる。
[参考:新潟市會津八一記念館HP]
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