初ちゃんの「ボチボチ生きようぜ!」

毎日の生活で出会った事をボツボツ綴っていきます。

日向灘を見ながら・・・

2015-08-31 | 家族

金曜日の午後、急にピンポーンとチャイムが鳴り、暫く夫が画面を見つめている。

「なっちゃんだよ~」と、急な帰省。

家に電話しても中学生の弟や妹はまだ帰っていないので我が家へ来たらしい。

玄関を開けたらそのままソファーになだれ込んで大きな荷物を玄関に置いたまま。

暫くして弟が来た。

今日は真ん中ちゃんは塾なので友人と一緒にいるほうがいいみたい。

最近は我が家に殆ど来ない。

みんな大きくなったものだ。

暫く死んだように寝ていた上の孫を起こして「さあ、今日は外食にしようと思っていたから何処へ行く?」と聞いてもぼんやり・・。

結局近くのイタリアンに。

いつもはさっさと出てくるのに今日に限ってマスター一人。きっと皆お盆休みに入ってバイトさんばかりなのかな?

どのテーブルも最後の休みを楽しむ家族連れ、小さな子供が多い。

上の子がポツリポツリ話すに、夏休みは毎日バイト。家庭教師は向こうからもう辞めると首になったそうだ。と言うのも自転車で1時間。雨などは大変でホッとしたそうだ。

殆どが居酒屋さんで今からお正月の出勤をお願いされてるのでお正月も帰れないみたいだ。

1か月近くバイトして家で眠ってTVとビデオを見てサークルにも顔を出していないそうだ。

そこで、看護学校に行った友人の誕生日会を広島でしたらすぐに戻って1か月休んでいるサークルの合宿に行こうとバイトを休まずお盆に休む仲間と交代でお休みを取ったそうだ。

たまには家から出て少し遊ばなければいけないと自分で思ったそうで申し込んだがどう頑張っても遅れて行くようになると。

聞けば我々も行ったことが無い伊予灘に面した風光明媚な所。

夫が「高速を通ると早く行けるから連れて行ってあげるよ」と、安請け合いをした。11時近くに出発して2時過ぎには着いた。涼しくて素晴らしい環境。

2泊3日の予定で4時にならないと修伯施設に入れないと言うので周囲を散策。

誰もいないので置いて帰るわけに行かず下に降りたら駅前に道の駅が。

やっと電話が通じ、今からそこに迎えに行くからと一安心していたら夫が手招きする。

そっと覗くと男の子5~6人に取り囲まれ談笑している。

あ~良かった。嬉しそうにしている。

と、今度は同じ色のTシャツの女の子が5~6人合流。

あっという間に孫が見えないくらい囲まれて、そっとこちらを見てくれたので手を振りお別れをしたらみんなが振り返って手を振ってくれた。

四国は何処へ行っても新鮮な魚を調理して売っている。

美味しそう~と思うが夫は見向きもしない。

以前来た海辺の道の駅で食べるから我慢しろと言う。

帰りは勿体ないからと一般道を通ったら松山まで渋滞。

やっと伊予灘に出て道の駅着。

でも、物凄い車と屋台。夏祭りが始まった。

いい匂い。足が痛いのを忘れ見て回った。

しかし、夫にお金を渡しているのでなかなか買えない。

やっと、鯛ご飯結び2個で100円を買い、鶏手羽の揚げ物を買った。

まだ始まったばかりで次はイカの丸焼き、次はさざえとホタテの焼いたの次は伊予牛のステーキ、高校生のコロッケ・・・全部スルーして全く相手にしない。

そして、椅子に座って鶏肉を食べ始めた。私は鯛めしの結びを二つ食べて鶏肉を食べたらトイレを済ますとすぐに車に乗って無言で出発。

あ~あ、海の幸を狙っていたのに又食べそこなった。

夫はイベントが苦手。

こういう会場では殆ど買うことが出来ない。

きつい一言「今度からは私がお金を持つからね!」

「俺が悪いんか」

「当たり前でしょ」

毎回こういう結果になるので私がうっかりしてしまった。

そう言えば、大朝のイベントの時も遠くにいて近寄らず「お昼ご飯どうするの?」と言っても荷物も持ってくれない。

私があちこち美味しそうなものを買いゆっくりと食べられる場所で分け合って食べた。

男性は苦手なのかなあ。私は足が悪くても要領よく買って、座って食べる所が無ければ車で食べる。

夫は「美味しい」と言って食べるので食べるのが嫌いではないが人が沢山いる場所は苦手なだけかもしれない。

伊予灘を眺めながら帰りは意外に早く着いた。

孫は車の中で今回の帰省でスマホを落としたこと、それで集合場所に遅れたこと、車で降りた所で落としたかもしれないとママが落し物の所へすぐに行ったらちゃんと届けてくれた人がいたことなど「親に怒られたけど自分でどうすればいいかについていっぱい学んだ」と言っていた。

こうして、一人暮らしを少しづつ学んで行けると話していた。

いくらバイトが忙しくても時にはサークルに顔を出して遊んだ方がいいと自分で考えたそうだ。

テニスのサークルは飲み会なしの優しい先輩(男女)がいて安心して参加できるそうだ。

遠くから見る限りみんなに可愛がられて幸せそうに見えて本当に良かったと思った。

夏休みは殆ど免許を取った人が多く、自分は今からお金を貯めて取るんだとか。

危ないけど今の社会運転免許は持っていた方が良い。

私のような鈍い人でも取れるからきっと大丈夫だろう。

心配は尽きないけど本が好きで車ではもっぱら本談義。

楽しい夏の旅であった。

 

 

 

 


山野草

2015-08-28 | 写真

先週は心が疲れてほぼ一週間寝ている日が多く、月曜日になってようやく眼科に行ってきました。本当は検診を兼ねて結膜結石を切って貰うために行きました。

いつもはそんなに痛くは無いのですが今回はかなり大きくなり、数も増えているので全部取ることはできなかたのですが薬が一週間出ました。

眼がコロコロしていつも痛いのですが全部取ることはできず、数年おきに切って貰います。

結膜結石は何処の眼科に行っても医師に嫌われます。

難しい技術なのでしょうか。

だから、こちらが何だか嫌な気分になりますが新しくできた眼科に初めて行った時、若くてちっとも悪い顔をせずにさっさと処置して下さって病名も教えて下さいました。

今回は大きくなったので赤い涙が出るかも・・・と言われて初めて点眼薬が出ましたが一日4回、飛び上るほど痛かったです。

今週はあまり出歩かなかったのですが、今日は結婚記念日なので美味しいものを食べるより写真を写しに行きたいとお願いして山口まで行ってきました。

昨年よりマツムシソウが少なくて車も2台しか止まっていません。

ワンコが迎えに来て上がると「先日の台風で花が随分やられてしまって・・・」と言われました。

「今、TVの取材が来ているから食事が終わってから花を写しに行くといいわよ」と言われ、ご主人が帰って来られたので「私、初めてなので大丈夫かな~」と、言うとご主人が先に立ってエスコートしようとされるので「あ、いいんですよ、主人がいますので」と、言って登り始めるとまだカメラさんが頑張っていました。今回は昨年より早いのでシラヒゲソウやシラサギソウが沢山咲いていました。上の方にはキレンゲショウマもまあまあでレンゲショウマは終わっていました。リンドウなど秋の花があちこちに咲いていましたがまだまだ上手に写せなくてそれに足がこわばって平地なのに足がひっくり返り「怖い怖い」の連続で汗と何故か鼻水がぐっしょりと出て30分位で降りました。

何せ脳の病気なので脳が怖いと感じるともう駄目です。我ながら悔しいのですが慣れると大丈夫だと思いますがちょっと情けないなと思いました。

先日、カメラ屋さんが安くするからと買ったマクロレンズも試してみました。

何とか撮りましたが勉強不足ですねえ。随分悩みながら、でも楽しくて嬉しい記念日になりました。

写真はダブルクリックすると大きくなります

    

    

 

 


「キャノン・ハーシー ヒロシマへの旅」

2015-08-13 | 思うこと

以下は先日NHK BSで放映された「キャノン・ハーシー ヒロシマへの旅」と言う番組を見ての感想です。長文になり言葉がおかしい所があるのですがお許しください。

1946年、原爆投下1年後に広島を取材に来たジョン・ハーシー記者

帰国後、その取材を基に「ヒロシマ」と言うルポルタージュを書きアメリカで出版。

原爆の「非人道性」についてありのままの広島の姿を「ニューヨーカー」に寄稿しアメリカ社会を始め世界中に知らしめた。

その、生々しい広島の惨状は原爆投下の是非についてアメリカが主張する「戦争を早く終わらせるため」だと信じていた国民に「人体実験ではないのか」とか「非人道的」とかアメリカ国民のみならず世界中から注目された。

10カ国語に翻訳され世界中の人に読み継がれ今でも増刷されていると言う。

 

彼の孫であるキャノン・ハーシーがこの春、広島長崎を訪問し、祖父の軌跡をたどった。そのルポルタージュ番組である。

 

最初はTV放映を知らず、後篇のみ見て、昨夜やっと前篇の再放送を見た。

「ヒロシマ」は6人の被爆者の体験記が中心でジョン・ハーシー記者が見たありのままの広島の姿、惨状を極秘裏に寄稿し、アメリカの人たちに「核の怖さ」を伝えた。取材した6人の被爆者は

 

佐々木とし子(東洋製缶工場の社員。爆心から1.5キロ。)

藤井正和(医師。京橋川の近くにある自宅(藤井病院)にて被爆(爆心地から1.4キロ)。

中村初代(幟町在の仕立屋の未亡人。爆心より1.2キロ。)

ウィルヘルム・クラインゾルゲ(イエズ会ドイツ人司祭。通訳、案内人。幟町の教会で被爆(爆心地より1.3キロ離れたところ。)

佐々木輝文(外科医。日赤広島病院にて被爆(爆心地より1.5キロ。)

谷本清(牧師。流川に教会。市街の知人の家で被爆(爆心地より3.2キロくらい)

 

ピュリツァー賞受賞作家でもあるジョン・ハーシー記者は「ヒロシマ」を自身が所属する「タイム誌」に載せず対抗誌である「ニューヨーカー」に掲載、発売と同時に長く身を隠し家族にも存在を知らせなかったらしい。

原爆投下後の広島に入れたのは彼の妻の実家が大富豪であり、軍部にも多くの知り合いがありそのつてで入国できたからだそうだ。

だが、その妻にも消息を隠し続けたらしい。

 

今回の取材でジョンの息子にもキャノンは聞きに行っているが画家である彼は殆ど興味も無く知らされてもいなくて「???」と言う感じ。

ジョンは家族にも口をつぐんできたようだ。

 

キャノン・ハーシーは芸術家だが、今回来日するにあたり、祖父の軌跡を訪ねジョンにゆかりのあった人々や場所などを訪ね、本を出版してから沈黙をした祖父の想いを知るために多くの調査をしていた。

私は「ヒロシマ」の本も読んでいなくてそんな方がいたのかとその勇気と事実に感動した。

原爆を発明したアインシュタインもこのルポルタージュを読んで1000部買ったそうです。

 ジョン・ハーシーは「ヒロシマ」発表以後、口を閉ざしました。

今回、キャノンの目的であった一つに「なぜ、本を出版後祖父は長く口を閉ざしたのか」の疑問に孫であるキャノンは「被爆者と同化してしまったから」という結論に至りました。

 

被爆者は被害者ですが、さらに日本国民からも差別を受けます。

放映の中で、ある女性が「異常な子どもが生まれるから」と結婚できません。

ですから、みな口をつぐんでしまいます。と言う場面があった。

キャノンは祖父がこれと同じ行動を取ったのだと理解しました。

 

この再訪に当たっては元広島市長である秋葉忠利さんが「アキバプロジェクト」の運動をされていたので橋渡しをされ実現したそうです。

その再訪時にも最初に取材した被爆者の方を取材され「ヒロシマその後」と言う本を出版されています。

ジョン・ハーシーは長い沈黙の後65年からエール大学の教壇に立ち、85年に広島を再訪、取材した被爆者の足取りを追って、「ヒロシマ その後」を出版し重い口を開いています。その時に発した言葉は「被爆者の受けた苦しみ出来事を語り継いで欲しい」という事でした。そして、93年に78歳で亡くなっています。

今回のルポルタージュは谷本清牧師の長女である「近藤紘子さん」との出会いから始まった。近藤紘(こう)子さんのお話は一度聞いた気がするのですが今回学生たちに話している内容から「被爆したことを隠すため高校は東京、大学はアメリカに行った」と言われている。

谷本清牧師もアメリカの大学で牧師の資格を取っている。

ジョン・ハーシーさんからすれば宗教的にも谷本清牧師は取材対象としては良かったと言うべきだろう。

そして、原爆乙女を渡米するにあたってもノーマン・カズンズさんたちの支援を受けて実現し、牧師、医師と言う人選はルポジュタージュに適していたと言えよう。

近藤紘子さんは今は被爆者として語り部をされているが被爆の事はずっと隠して生きてこられたと言っておられる。

今回とても心に残ったのは被爆しても救助活動され、最後は原爆症で亡くなったウィルヘルム・クラインゾルゲ牧師のことだ。

ドイツ出身で最後は向原教会で過ごされたと近くの信者さんが話されていた。

異国の地で辛い試練をされ亡くなった神父さんに心が痛んだ。

 

今回はTVを見ての感想なのでまだ書きたりない思いがするがここで一応終わり。BSでオンデマンド放送を見ることが出来ると思うので興味のある方は見て欲しいです。長文読んでいただきありがとうございます。本当にいいルポでした。

ぜひ、「ヒロシマ」も読んでみたいと思います。

 

 

 

 

 

 


SL

2015-08-10 | 写真

今年は猛暑と言われるけれど意外に家の中は涼しいです。

掃除機をかけたりバタバタすると汗がタラ~と出ますが食事の支度や食事中、孫たちが来たとき以外はあまりクーラーを付けることが無く、夜は風呂上り、アイスを食べて涼み、暫くすると自然の風がそよそよ~と来て、足元かお腹にタオルケットをかけて休みます。

タオルケットをかけないと夜中に足やお腹が冷えて目が覚めます。

明け方は冷たい風が吹き抜ける事があり夫は窓を閉めるそうです。

今の所熱帯夜になったことが無く、朝晩が涼しいのは救いです。

今日は朝から内科へ行き、午後からは整体へ歩いて行きました。もっと身体を動かさないと腕がこわばり動かすと痛い部分があり寒くなると動かしにくくなったら大変なので頑張っています。

整体が終わったらまだ日差しがきつそうでAシティの尾道珈琲へお茶をしに行きました。

お昼に沢山おかずを作りすぎて夕方帰ってから娘の所に持って行って貰いました。

さつまいもがちょっと芽が出ていたので切り取って活けました。

2本を天ぷらに、塩レモンに漬けておいた鶏肉も半分揚げてお昼に二切れずつ食べたらもう胃が持たれてダメです。

それに、田舎で大量に頂いたナス。

かなり日焼けしたりしたものもありましたので素揚げをしてから煮たら美味しかったです。

肉とサツマイモはもう食べられそうにないので子供たちに食べて貰います。

明日は台所の掃除です。

昨日津和野へ行きましたのでSLの写真です。

写す場所を間違えました。

自分で思ったより早くて炎天下待った甲斐なく今回はがっかりですが記念に載せます。

町内なら昔から鉄ちゃんと呼ばれる鉄道ファンがたむろしている場所は大体知っていたのですが今回は長門峡で待ち伏せしたのですが私のイメージと違いました。

 

 


平和を維持する・・・

2015-08-06 | 勉強

今日は「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に参加してきました。

毎年夫と参加していたのですが昨年は私が体調を壊し参加できませんでした。

今年は元広島市長の秋葉さんが基調講演されるので是非参加したいと体調を整えていました。

「夕べ」なので午後から始まりPm7時からは交流会ですがそんなに知り合いもいないし、立食だととても立っていられないのでいつも交流会はパスです。

最初のリレーートークは京都大学の小林先生のお話を楽しみにしていたのですがさわりだけで・・・リレートークですから仕方ないですが。その後は被爆ピアノ演奏など沖縄からのミュージシャンが入れ代わり立ち代わり、さすが芸達者と言うか楽しませていただきました。

河野美代子先生も「はだしのゲン」と「オキナワ」について報告されました。

それでなくても全国をかけずりまわって各学校で性教育の話を子供たちに語る活動、シンポジュウムなどで忙しいのによくぞここまで・・・と頭が下がります。

福島からも参加者があり、沖縄、福島、広島と繋がりお互いに励まし合い協力し合って行けるのではないかと思いました。

秋葉さんからは「アキバプロジェクト」に至るまでの経過や高校生からアメリカ留学してきて数学者としての思考方法など聞き、納得しました。

秋葉さんは広島市長の前に衆議院議員をされていて、出馬された時私は丁度仕事をリタイアしていたので選挙事務所のお手伝いをとある方から頼まれました。

選挙は現役時代腐るほどやらされていたのですぐに友人にもお願いして共に戦いました。

当時、兄も絡んでいましたが私は兄とは少し考え方も違いましたが私が見た限り秋葉さんは大学の先生であること、「アキバプロジェクト」を長く(10年くらい)されていたこと意外にあまり詳しく知りません。

しかし、選挙戦に突入すると「当選させる」ことでは全員一致して自分の与えられた仕事をこなすのに懸命になります。

でも、急ごしらえの選挙にしては自主的に出てこられる方が多く日々支持者が拡大していくのには驚きました。

特に被爆者からの絶対的な信頼を得てこれまでの活動を評価されての結果だと思います。

人間的にはマジメを絵に描いたような方ですがアメリカ生活が長く、自分の事は全部自分でされるので日本人社会で育った私は最初は戸惑いましたが今回の講演を聞いてアメリカ生活が長く、多分思考回路が我々とは違うのかもしれません。

今回は少し国際的な話をされたのですが正しい世界情勢をつかむことはとても難しい今日なので私を含めお話の時間が少なかったのは残念なことです。

そんな方が市長になられて(市長選挙の時は私は倒れて入院中でした)若い人たちが子供の保育教育などに関して色々な施策のおかげで子育てが楽になったと言う話はいくつか聞きました。

女性市長はITに関し沢山の施策を考え実行されて一挙に広島市もIT化が全国レベルにアップしました。

でも、広島市民は結局秋葉さんを選ばなかったのです。

安保について国民はとても怒っている、市民も抗議集会をしている、が、広島出身の議員には全く抗議しない、不思議だ。と言われました。

それは日本的だという事でしょう。

それは個人の考え方をオープンにすることが出来ない「風習?」のようなものなのでしょうか。

決して批判的にいうのでなく「不思議なんですよね~」と言われていました。

それと、「僕がここまでこだわって平和運動をするのには理由があるんです。学校で聞いた被爆者の事をずっと忘れられないからです。だから、アキバプレジェクトをし、被爆者の援護を支持してきた。あの壊滅的状況でひたすら苦しくても生きてきた、生き続けてくださった。尊敬します。」

少しお年を経られた、でも、穏やかに語られた。

いい8.6の一日を過ごした。