みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

念仏

2018年11月30日 | 俳句日記


11月30日〔金〕薄曇り

お釈迦様は、紛れも無く私達衆生が、心安らかに
人生を全うするためには、どう教え諭せば良いか
を身を賭して模索し続けた聖人でした。
然も、生身の人間としてです。

そこには何らの霊力も奇跡も介在させず、ただ心のあり様次第で悩みや恐れという“苦”から人を救う道を見つけ出されたのです。
“解脱=悟り”と言われるものです。

そのお釈迦様の生涯と教えを追体験しながら、我々衆生に分かり易く伝えて行こうと、菩提心を起こし得度されたのが“僧”と敬われる人々です。
これまで、いったいどれだけの僧が仏門をくぐったのでしょう。

平安期までの僧は、謂わばあの時代の最高学府に
学んだ学問僧でした。
最高学府を創り上げたのは比叡山延暦寺の開祖、
最澄です。

それに対して弘法大師・空海は、民衆の中にあって学んだことを社会事業等で実践することが布教の道と考えました。
天平時代に活躍した行基菩薩がその始まりです。

天平時代の仏教界は渡来僧の指導による日本仏教
の成長期でした。
それが平安期に入ると、最澄・空海の働きで独自
の発展を遂げます。

だがそれは、貴族社会と結び付いた平安文化の一部としての色彩が強いものでした。
そして、11世紀を迎えると前九年の役に始まる武家の伸張が徐々に藤原氏を圧倒し始めます。

ついに12世紀末、源氏の武家政権が誕生します。その頃から鎌倉と近畿では天変地異が頻発する。
特に、北条氏が執権を握ってからは平氏と源氏の怨霊が暴れ回っているような状態でした。

当然、庶民の暮らしは疲弊して末法思想が蔓延し始めました。
そこに登場したのが法然聖人の浄土宗で、その弟子が親鸞でした。

お二人は既存仏教からの弾圧を受けながらも庶民の救済の為に念仏仏教の布教に生涯を捧げます。
ここに来て仏教は、聖徳太子が意図した如くに庶民に普及して、国体の一部と成りました。

念仏を唱えるとは、難しい経典を読むことなく耳で聴いた仏の教えを反復すると言うことです。
救いを求めて念じることで、心の平常を取り戻す
習慣を身につけているのです。

例えば、東日本大震災の惨状をテレビで目の当たりにした時、自分も何かしなければ、犠牲者が不憫でならないと心が騒ぐ時に「南無阿弥陀」と唱えることにより自らの騒ぎを収めます。

今年の2月に結愛ちゃんの餓死事件がありました。
心底から憤りを感じた方も多くいたでしょう。
そんな時に、結愛ちゃんの冥福を祈り念仏することで、憤りの毒を消し去るのです。

これを“回向”と言います。
「結愛ちゃんの冥福を祈る」と言う善い行いが、即ち貴方の人格を高めているのです。
常に平常心で居られる貴方になって行くのです。

法然聖人と親鸞聖人の狙いはそこに有りました。
斯くして、難行苦行をする事なく、大事が生じても平然と列を作り、慌てる事なく救いを待つことの出来る日本人が誕生したのです。

お二人の天才が、生前には報われる事もなく布教
して下さったお陰だったと思います。
お釈迦様の教え通りの生涯を貫いた方々でした。
やや遅れて活動された日蓮聖人も同様の方です。

〈霜月の 晦日に贈る 回向かな〉放浪子
季語・霜月(冬)











親鸞忌

2018年11月29日 | 俳句日記

親鸞聖人

11月29日〔木〕冬晴れ

今日は天才親鸞聖人の忌日。
先日、日本の国体についてこう書いた。
縦軸に神道を、横軸に仏教を置いて座標を作り、
そのゼロ点に天皇を据えた。
据えたのは聖徳太子である、と。

詳しくは、11月8日の当欄をお読み下さい。
しかし、如何なる法理も教えも国民の納得が有ればこそ国の羅針盤と成りうる。
当時は国民の殆どが記号の様な“カタカムナ文字”
しか知らなかった。

先進国である支那から伝わった文字は難解な“漢字”であった、まだカナ文字は発明されてない。
だから太子は「十七条の憲法」を表し、まず漢字を知る知識人に国の方針をお示しになった。

一年ほど前に地上波のテレビで某憲法学者が、あれは官僚の“服務規定”で“憲法”では無い、などと言っているのを見てしまった。
当たり前のことではないか!

それまでは成文化された規範など無かったのであるから、まず「和」を示し、「仏法僧」を示し、
「早くまかで、遅く出でよ‥」と勤勉を説き、次に「事を独断してはいけない、衆と論うべし」と
官僚に説いている真意がまるで分かってない。

大衆の拠り所と成れ!と官僚(政治家)のあるべき姿を示しているのだ。
つまりは、まず知識人が理想の人間像を国民に示して、この新興国の行く末を明らかにせよ、と言っているのである。

皆さんも是非一度「十七条の憲法」に触れて欲しいものです。
7世紀の始めにこんな憲法があったのか⁈と思う位のソブリンローが日本にはあったのです。

この憲法を基礎として律令国家が形作られます。
ところが、仏教(小乗仏教)は難し過ぎました。
それを“念仏”と言う手法により、我々下々にまで降ろしてくれたのが法然と親鸞という天才です。

明日は“念仏”について書きます。

(つづく)

〈念仏の 心強さよ 親鸞忌〉放浪子
季語・親鸞忌(冬)

赤い鳥 小鳥‥‥。

2018年11月28日 | 俳句日記

トキワサンザシの実

11月28日〔水〕曇り 夕刻小雨

また、お詫びから稿を起こさなければならなくなりました。
いつもは読者の方からご指摘を頂き訂正していますが、今回は自分で見つけました。

昨日の“夕されば‥”を“発句”としてと書いたのは
“初句”の間違いのようです。
再度、古語辞典の付録を引き直しました。

[構造]
五→上五=上句=初句
七→中七=中句=二句
五→下五=下句=結句、とありました。

因みに“発句”とは、連歌.俳諧などの最初の一句と
ありますが、句会などで共通の題として使う場合
は発句でもいいのだそうです。
ややこしいですね、ま、楽しみましょう。

母の住む団地の表通りに常盤山査子の赤い実がびっしりと実が生っていました。
冬になる実の赤い物が多いですね。
そう言えば寒椿など冬場の花も赤い物が多い。

鳥や小動物に対する天の思し召しなのでしょう。
それとも“陰と陽”の調和なのでしょうか?
句作もその調和の中に遊べば良い句が生まれるのかも知れません。

〈赤い鳥 見ることも無し 冬の森〉放浪子
季語・冬の森(冬)

夕されば‥‥。

2018年11月27日 | 俳句日記


〈夕されば 鵯(ヒヨ)がついばむ 木守柿〉放浪子
季語・木守柿(冬)

11月27日〔火〕薄曇り

時折日の差すほどの天候だったが、気温はさほど
下がらなかった。
むしろ時節としては暖かい方だったろう。
日中はオタクして居た。

夕餉の支度に出て日足の速さを感じ、今日のお題を「夕されば」と決めて季語を探すことにした。
冬の日の短さを、短日・日短(ひみじか)・暮早し
等という、何れも季語である。

「夕されば」は季語では無い。
単に「夕方になると‥‥」と言う古語である。
これを発句として句作に挑むのである。
画像を得るのが難しいところに面白さがある。



〈夕されば 銀杏落葉も いと寂し〉放浪子
季語・銀杏落葉(冬)

日中の陽射しを照り返す銀杏の葉は黄金の華やかさがあるが、日が翳り出すと途端に精彩を無くし
薄ら寂しくなる。



〈夕されば 友待つ子供に 風邪の神〉放浪子
季語・風邪の神(冬)

通学路の角っこで、男の子が友達を待っていた。
直前まで身体を動かしていたのか、上着を脱いで
しまっている。
風邪をひくなと声を掛けた。

秋の夕暮れは静寂な空間の情趣があるが、冬の日暮れは侘しさと危険が潜んでいる。
年寄は物好きに出歩くものでは無い。(終わり)



秋冬の競演

2018年11月26日 | 俳句日記

11月26日〔月〕晴れ 時々 曇り

先週はゴーン騒動に明け暮れた。
毎日の報道を追いかけて居たら無性に腹が立って来たので、腹いせに「論語と算盤」を書いた。
書くとまた移民問題などが気掛かりとなる。

際限が無いので今日は季節を探しに出かけた。
どうやら季節も混乱しているらしくて、秋と冬が
同居している。
十日後の大雪まではどうやら紅葉の見頃らしい。



〈まだまだと イロハモミジの 主張かな〉放浪子
季語・イロハモミジ(秋)



〈猩々の 狂い燃えたる 冬始め〉放浪子
季語・冬始め(冬)

でもそこは冬は冬。



〈万両や 誰の手による 姿かな〉放浪子
季語・万両(冬)

千両は葉の上に実がなり、万両はぶら下がる。
千両の動に対して万両の静。
春の佐保姫や秋の竜田姫に負けず、冬の造化神も
どうしてやるもんだ。



〈山茶花や 一輪なれど これに在り〉放浪子
季語・山茶花(冬)

入り会い墓地の斜面に、一株の山茶花がしっかりと根付いていた。
数年ののちには祖霊を癒す銘木に成る事だろう。



〈日々好き日 ひょいと立ち寄る 寒参り〉放浪子
季語・寒参り(冬)

本当の寒参りは、寒三十日の間、夜間に神仏を詣でる事であるが、ことのついでであっても神仏は
お許しになるのです。
おばあちゃん、お元気で!