モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その75:江戸を歩く ③ 江戸の『出島』

2009-03-16 09:04:14 | ときめきの植物雑学ノート

江戸にもオランダの『出島』があった。
その名を『長崎屋』という。

17世紀初めに長崎から江戸に出てきた長崎屋源右衛門が開業し、1630年代にはカピタン宿として江戸の開国まで営業していたようだが、開国によって長崎の『出島』同様に寿命が尽きてしまった。
また、江戸は火事が多く長崎屋も何度か火事で焼けてしまい、記録となるものが存在しない伝説の江戸の『出島』のようだ。

本来の『出島』は、鎖国政策を取った幕府がヨーロッパ人を管理するために長崎の港に埋め立てて作られた人口の島で1635年に完成した。1641年からは平戸のオランダ商館をここに移し、1855年の開放令で自由に出歩けるようになるまで220年間閉じ込められた海外だった。
この『出島』は、長崎の有力者の出資で埋め立てられ、オランダ東インド会社に年間一億円程度で貸出したという。幕府も民間の資力を活用し小さな政府を心がけていた。

植物史的に見ると、1869年にスエズ運河が開通するがそれまでは、江戸→長崎出島→喜望峰→ヨーロッパ(オランダ)が世界に通じる道であり、この逆を通ってオランダ商館の医師としてケンペル(1690-1692年滞在)、ツンベルク(1775-1776年)、シーボルト(1823-1829,1859-1862年)が日本にやってきた。
日本の開国・スエズ運河の開通までがロマンのある植物史だと思う。

フランシス・マッソンとツンベルクは喜望峰で一緒にプラントハンティングを行っており、個人的には、喜望峰からツンベルクと共に長崎までくる予定でいたがなかなかたどり着けないでいた。何故かというと資料が豊富になり読みきれていないことと先人の研究で埋め尽くされているから手を出せないでいた。

ちょうど、柳沢吉保が作った六義園が綱吉の時代であり、ケンペルは五代将軍徳川綱吉と面会しているので、ここから始めてみるチャンスと思った。まずは手探りでそろそろと進んでみることにした。

(写真)長崎屋跡地に当たる場所


『長崎屋』は江戸本石町三丁目にあり、現在の中央区日本橋室町四丁目二番地にあたる。いまは、JR総武線新日本橋駅出口とその横に駐車場があるだけで、影も形も残っていない。
このあたりを歩いてみたが、立地としては、神田から新橋まで日本橋・銀座を通るメイン道路“銀座中央通り”に面した一角にあり、すぐ横の室町一丁目には日本橋三越、その裏側に日本銀行があり、またこの界隈は三井系のビルが結構多い。
かつての繁華街日本橋もだいぶ寂れてしまったが、丸の内を三菱グループが再開発しているように、日本橋は三井グループが再開発に取り組んでいるかのようだ。

『長崎屋』は、旅籠とばかり思っていたがそうではなかった。
江戸幕府御用達の薬種問屋であり、後には、韓国以外の唐人参、最後には輸入蘭書の独占販売権を持たせるなどの見返りを渡している。だがそれでも事業として維持できなかったので『長崎屋』は消えていってしまった。

参勤交代・江戸参府などは、大名・東インド会社・『長崎屋』などに体力を使わせる果てしない無駄の経済政策としてとられていたことはいまさらいうまでもないがちょっと確認をしてみよう。

(写真)高速道路に覆われた道の基点となる日本橋


カピタン(甲比丹)の江戸参府
1633年から年1回の江戸参府が始まった。(参勤交代制は1635年から始まる。)あまりにも体力とコストを使うので1790年からは4年に1回になった。ツンベルクはこの前に日本に来ていたので、運よく江戸に行くことができ、途中の箱根での植物採取や『長崎屋』での日本人学者との交流が出来、多大の影響を残しまた自分の研究の成果を強化することが出来た。
どのぐらい大変だったかを測るデータが多少残っている。

ケンペルは、2回江戸に来ているが、その1691年の第一回の旅程を見ると、
2月13日長崎発、3月13日江戸着、3月29日将軍綱吉に拝礼、4月5日江戸発、5月7日長崎着と83日約3ヶ月も旅行した。サクラの咲く頃にカピタンが江戸にやってきたことになる。
しかも総勢100名を超える大所帯で移動しているので、1日100万円かかったとしても1億円以上のコストがかかったことになる。

日本からの主要輸出品は銀であり、オランダ東インド会社にとって初期の日本貿易は魅力があったようだが、銀の輸出規制と輸入の規制が強まり、魅力ないものになっていったことは間違いなさそうだ。
“郷に入れば郷に従え”とはいえ、当時のヨーロッパの中で合理的なオランダ人がよくもこのようなルールに従ったものだ。競争のない独占には合理性というものさしが不必要なので、当事者はうれしいが、ライバルにとってはねたましく邪魔なものかもわからない。

しかも『長崎屋』などを含めた『出島』は、オランダに治外法権があるわけではなく、幕府の主権下で監視され、外出は出来ない、人と会うことも出来ない(許可が要る)という軟禁状態にある。
ケンペル、ツンベルク、シーボルトとも日本の旅行記・博物誌・植物誌を書いているが、江戸参府がなかったら後世に残るものとなったか疑問があり、彼らだけには意義のある江戸参府だったのだろう。

ケンペルが帰国後に著した『日本誌』(1727年)の中に彼が観察した日本があるので紹介しておくと、
「すべての技芸および手工業・商業その他の工業は繁栄しているが、非常に多くの安逸をむさぼる役人や僧侶らの存在が、この国のどんな地方よりも、すべての物価を一段と高くさせる原因となっている。」

これは1691-1692年の江戸の観察であり、いまではない。
役人はいまも昔も必要にして不要という問題を抱えていて変わっていないということがわかる。

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