(写真)ビオラ・ラブラドリカの花
「ビオラ・ラブラドリカ(Viola labradorica)」は、アメリカ合衆国北東からカナダにかけての湿っぽい森林地帯が原産地で、パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)が発見し採取した。
発見時期は定かではないが、パーシュは、1806年にフィラデルフィアがあるペンシルバニア州の山からニューハンプシャーまで、徒歩で銃を肩にかけ犬だけを連れてアメリカ北東部の探検旅行をしたので、この時期に採取したものであろう。
パーシュが発見した品種として9種が登録されているが、内8品種がビオラ属であり、可憐な「ビオラ・プリムリフォリア(Viola primulifolia)」も含まれている。
パーシュが活躍した時代背景
植民地への課税から端を発して重税感がある紅茶の焼き討ちが1773年にボストン港で行われ、植民地の権利と自由を求めてアメリカ独立戦争が始った。1783年パリでの会議でアメリカ合衆国の独立が承認され、1789年にはフランスでも自由・平等。博愛を旗印としたフランス革命が勃発した。この二つの革命は、貴族・僧侶・商工業者・農民という移動性が少ない階層的な社会に新しい概念の階層=市民が登場することになり、市民革命とも呼ばれる。
また折から始っていた蒸気機関を使った産業革命が進行しており、植民地と本国との資源とそれからできる製品・商品との新たな関係づくりが始り、これらを軸としたヒトとモノの移動が活発になった。
18世紀後半から19世紀の前半はこのような時代背景の下で、植民地或いは自国の資源調査が組織的に行われ、植物の世界でも無名のプラントハンターが活躍することになる。
組織的に行われたがゆえに、無名のプラントハンターでも痕跡・足跡がどこかに残っているので記録をさかのぼることが可能で、一匹狼的なプラントハンターは歴史に残れない。
またパーシュの活動期の北アメリカでは、イギリスとフランスの覇権争いがあり、東海岸から西海岸にいくにはまだ地図すら出来ていない広大な未開拓地が広がっていた。
アメリカのフローラを著した『パーシュ(Pursh, Frederick Traugott)』
パーシュには肖像画がない。
パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)は、ドイツで生まれ正規の教育を受けることなくドレスデン植物園で実践的な植物育成を学び、彼が25歳の時の1799年にアメリカに移住する。
アメリカでは当初幸運に恵まれ、ランドスケープデザイナーでフィラデルフィアの“The Woodlands Cemetery”を開発したWilliam Hamilton(1745–1813) アメリカの大ナチュラリスト John Bartram の息子でジェファーソン大統領の友人、大博物学者William Bartram (1739-1823) 植物学者Benjamin Smith Barton(1766-1815)等のもとで働くなど、当時のアメリカの知識ネットワークの中に入り込むことが出来た。
パーシュは、1805年には、Benjamin Smith Bartonのもとで植物採集などの仕事を得、彼のパトロンで二回のプラントハンティングの探検旅行を行った。バートンの目標は、北アメリカの植物相をまとめた大ミュージアムの建設と出版であり、そのためにパーシュをアシスタントとして採用したが、皮肉なことにこの目論見の一つがフランスからアメリカに植物探索で来たプラントハンター、ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)によって打ち砕かれてしまった。
※ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)に関しては文末に参照を掲載
ミッショーは、1802年にマダガスカル島で熱帯病で死亡しているが、アメリカ探検旅行に同行した彼の息子がまとめ1803年に「Flora boreali-Americana」として出版した。
ミッショーは1785年11月にニューヨークに到着し、1796年にアメリカを出発しフランスに帰ったので、1799年にアメリカに移住してきたパーシェとの接点はないが、アメリカ独立戦争でフランスを味方に引き入れた建国の父の一人ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)を中心にしてフィラデルフィアの同じ人脈につながっていた。
フランス革命後の新政府からの経済的支援がなくなったミッショーは、経済的に困窮し、1792年に新たなスポンサーとしてAmerican Philosophical Society及びジェファーソンに米国北西部探検計画を提案し1793年に受理されたが実現できなかった。原因は東海岸だけの米国が西海岸まで勢力を拡大することを望まない英・仏・スペインとの国際関係にあるようだが、ジェファーソン自体は、米国の内陸部の探検と西海岸の開発は、中国・アジアとの交易をにらんだ願望としてもっていたようだ。
ジェファーソンが大統領の期間(1801-1809)に、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition 1804-1806)としてこれが実現し、ミッショーの提案どおりにミズリー川上流から太平洋側に通商できる陸路を開拓することが出来た。
この副産物として、1805年にルイス・クラーク探検隊が集めた植物などの標本がジェファーソンのところに届き、この評価をバートン(Benjamin Smith Barton)が行った。
パーシュは、この頃からバートンにアシスタントとして雇われているので、この標本を間違いなく見たようだ。
しかし、バートンは動きが鈍く一向に取り組まないので、ルイス隊長にパーシュと会うように入れ知恵をするものが現れた。
パーシュは1807年にルイス隊長と会い、探検隊の採取した植物カタログを作成することで採用されるようになり、バートンがパトロンとなるパーシュの第二回の探検に出発するまでの限られた時間を含め、1808年までに採取された植物のイラストと説明を完成させた。
ミッショーが計画してから15年後にパーシュが米国北西部の植物の同定を完成させるが、いつの世も同じで、パーシュの成果を横取りするものが現れる。バートンを初めとした大学者のようであり、パーシュが完成したイラスト・説明などはこれらの人々が絡みその所在がわからない部分があるという。
名もなきプラントハンターが世に出るための大きな挫折を経験したようだ。
しかしながらパーシュも然るもので、これまで自ら採取した植物標本、バートンがスポンサーで採取した植物標本、ルイス・クラーク探検隊が採取した標本などの大コレクションとともに、キュー王立植物園を創立したバンクス卿健在のイギリスに1811年11月に到着した。
自らこの北米の新しい植物相の記述のセールスを行い、1788年にリンネ協会を創設しその理事長となったスミス(Smith, James Edward 1759-1828)がこれに乗り、1797年に北米の植物相探索のためにマッソン(Masson, Francis 1741-1805)をプラントハンターとして送り出したバンクス卿が関心を示さないはずがない。
パーシュは、当時の最先端の情報が集積されているバンクス卿、リンネ協会のスミス、オックスフォード大学などのライブラリー・植物標本を閲覧する権限を得、北アメリカの植物相の完成に屋根裏の小部屋に監禁されたような状態で取り組む。エネルギー源はビールでありアルコール中毒でもあったようだ。
1813年11月にパーシュは、北米植物相を記述した「Pursh's Flora」の原稿を完成させ、そのコピーを支持者に配布した。
印刷タイトルは「Flora americae septentrionalis」又は、「A Systematic Arrangement and Description of The Plants of North America,」
正規の教育を受けなかったパーシュが、世界の植物情報の総本山でもあったイギリスで、その中核に入り込み、ミッショーが記述した時より10年遅れて北米の植物相をまとめることが出来たのは、学歴・経歴よりも経験と情報量という現場主義がこの当時のイギリスにあったのだろう。パーシュ絶頂の時でもあった。
1816年にパーシュはイギリスを去りカナダに向かった。
しかし、いいことはなかった。
期待していた探検プロジェクトは、隊長が暗殺され中止となり、出版印税もライバルの新作が出たため減少するなど歯車が逆回転し始めた。追い討ちをかけるように、これまでの植物のコレクションなどがモントリオールの住居が火災になり消失した。
貧困とアルコール中毒で健康を害し失意の中で46歳の生涯を終えた。
パーシュは肖像画がないだけでなく葬式・お墓のお金もなかったようだ。
ロンドンに留まっていたら、出版後の講演などで食べていけたのかもわからないが、現場の匂いがしないところには本物のプラントハンターは居続けられないのだろう。
しかし、この時期からのプラントハンターは、珍しい植物を集めたいという願望を組織或いはシステムとして具体化しているので、植物園、博物館、園芸協会、園芸・育種会社などのニーズをとらえなければならなくなって来ている。
パーシュはロンドンに留まるかフィラデルフィアに戻ればよかったのだろうが、フィラデルフィアには戻れなかったのだろう。
(写真)ビオラ・ラブラドリカの葉と花
宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレア
・ スミレ科ビオラ属の耐寒性がある多年草。
・ 学名は、Viola labradorica Schrank 。英名は、アルペン・ヴァイオレット(Alpine violets)またはラブラドール・ヴァイオレット(Labrador Violet)と呼ばれ、流通名としては黒葉スミレとも言われる。
・ この品種は、原種ビオラ・ラブラドリカの園芸品種ラプラドリカ・パープレア(Viola labradorica purpurea)。
・ 原産地は、北アメリカ北東部でラブラドール、ニューハンプシャー、ニューヨクの湿っぽい森林地帯の樹の下に生息。
・ 草丈10cm程度で、黒ずんだ葉と紫色の花のコントラストが美しい。
・ 開花期は比較的長く、3~5月で夏場も咲くことがある。
・ ツツジとかツバキの木下の植え込みで半日陰が適している。
・ 腐葉土の多い湿った土壌を好む。
※ミッショーに興味があれば下記を参考
その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①
その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②
その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③
その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④
その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final
その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編
その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係
「ビオラ・ラブラドリカ(Viola labradorica)」は、アメリカ合衆国北東からカナダにかけての湿っぽい森林地帯が原産地で、パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)が発見し採取した。
発見時期は定かではないが、パーシュは、1806年にフィラデルフィアがあるペンシルバニア州の山からニューハンプシャーまで、徒歩で銃を肩にかけ犬だけを連れてアメリカ北東部の探検旅行をしたので、この時期に採取したものであろう。
パーシュが発見した品種として9種が登録されているが、内8品種がビオラ属であり、可憐な「ビオラ・プリムリフォリア(Viola primulifolia)」も含まれている。
パーシュが活躍した時代背景
植民地への課税から端を発して重税感がある紅茶の焼き討ちが1773年にボストン港で行われ、植民地の権利と自由を求めてアメリカ独立戦争が始った。1783年パリでの会議でアメリカ合衆国の独立が承認され、1789年にはフランスでも自由・平等。博愛を旗印としたフランス革命が勃発した。この二つの革命は、貴族・僧侶・商工業者・農民という移動性が少ない階層的な社会に新しい概念の階層=市民が登場することになり、市民革命とも呼ばれる。
また折から始っていた蒸気機関を使った産業革命が進行しており、植民地と本国との資源とそれからできる製品・商品との新たな関係づくりが始り、これらを軸としたヒトとモノの移動が活発になった。
18世紀後半から19世紀の前半はこのような時代背景の下で、植民地或いは自国の資源調査が組織的に行われ、植物の世界でも無名のプラントハンターが活躍することになる。
組織的に行われたがゆえに、無名のプラントハンターでも痕跡・足跡がどこかに残っているので記録をさかのぼることが可能で、一匹狼的なプラントハンターは歴史に残れない。
またパーシュの活動期の北アメリカでは、イギリスとフランスの覇権争いがあり、東海岸から西海岸にいくにはまだ地図すら出来ていない広大な未開拓地が広がっていた。
アメリカのフローラを著した『パーシュ(Pursh, Frederick Traugott)』
パーシュには肖像画がない。
パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)は、ドイツで生まれ正規の教育を受けることなくドレスデン植物園で実践的な植物育成を学び、彼が25歳の時の1799年にアメリカに移住する。
アメリカでは当初幸運に恵まれ、ランドスケープデザイナーでフィラデルフィアの“The Woodlands Cemetery”を開発したWilliam Hamilton(1745–1813) アメリカの大ナチュラリスト John Bartram の息子でジェファーソン大統領の友人、大博物学者William Bartram (1739-1823) 植物学者Benjamin Smith Barton(1766-1815)等のもとで働くなど、当時のアメリカの知識ネットワークの中に入り込むことが出来た。
パーシュは、1805年には、Benjamin Smith Bartonのもとで植物採集などの仕事を得、彼のパトロンで二回のプラントハンティングの探検旅行を行った。バートンの目標は、北アメリカの植物相をまとめた大ミュージアムの建設と出版であり、そのためにパーシュをアシスタントとして採用したが、皮肉なことにこの目論見の一つがフランスからアメリカに植物探索で来たプラントハンター、ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)によって打ち砕かれてしまった。
※ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)に関しては文末に参照を掲載
ミッショーは、1802年にマダガスカル島で熱帯病で死亡しているが、アメリカ探検旅行に同行した彼の息子がまとめ1803年に「Flora boreali-Americana」として出版した。
ミッショーは1785年11月にニューヨークに到着し、1796年にアメリカを出発しフランスに帰ったので、1799年にアメリカに移住してきたパーシェとの接点はないが、アメリカ独立戦争でフランスを味方に引き入れた建国の父の一人ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)を中心にしてフィラデルフィアの同じ人脈につながっていた。
フランス革命後の新政府からの経済的支援がなくなったミッショーは、経済的に困窮し、1792年に新たなスポンサーとしてAmerican Philosophical Society及びジェファーソンに米国北西部探検計画を提案し1793年に受理されたが実現できなかった。原因は東海岸だけの米国が西海岸まで勢力を拡大することを望まない英・仏・スペインとの国際関係にあるようだが、ジェファーソン自体は、米国の内陸部の探検と西海岸の開発は、中国・アジアとの交易をにらんだ願望としてもっていたようだ。
ジェファーソンが大統領の期間(1801-1809)に、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition 1804-1806)としてこれが実現し、ミッショーの提案どおりにミズリー川上流から太平洋側に通商できる陸路を開拓することが出来た。
この副産物として、1805年にルイス・クラーク探検隊が集めた植物などの標本がジェファーソンのところに届き、この評価をバートン(Benjamin Smith Barton)が行った。
パーシュは、この頃からバートンにアシスタントとして雇われているので、この標本を間違いなく見たようだ。
しかし、バートンは動きが鈍く一向に取り組まないので、ルイス隊長にパーシュと会うように入れ知恵をするものが現れた。
パーシュは1807年にルイス隊長と会い、探検隊の採取した植物カタログを作成することで採用されるようになり、バートンがパトロンとなるパーシュの第二回の探検に出発するまでの限られた時間を含め、1808年までに採取された植物のイラストと説明を完成させた。
ミッショーが計画してから15年後にパーシュが米国北西部の植物の同定を完成させるが、いつの世も同じで、パーシュの成果を横取りするものが現れる。バートンを初めとした大学者のようであり、パーシュが完成したイラスト・説明などはこれらの人々が絡みその所在がわからない部分があるという。
名もなきプラントハンターが世に出るための大きな挫折を経験したようだ。
しかしながらパーシュも然るもので、これまで自ら採取した植物標本、バートンがスポンサーで採取した植物標本、ルイス・クラーク探検隊が採取した標本などの大コレクションとともに、キュー王立植物園を創立したバンクス卿健在のイギリスに1811年11月に到着した。
自らこの北米の新しい植物相の記述のセールスを行い、1788年にリンネ協会を創設しその理事長となったスミス(Smith, James Edward 1759-1828)がこれに乗り、1797年に北米の植物相探索のためにマッソン(Masson, Francis 1741-1805)をプラントハンターとして送り出したバンクス卿が関心を示さないはずがない。
パーシュは、当時の最先端の情報が集積されているバンクス卿、リンネ協会のスミス、オックスフォード大学などのライブラリー・植物標本を閲覧する権限を得、北アメリカの植物相の完成に屋根裏の小部屋に監禁されたような状態で取り組む。エネルギー源はビールでありアルコール中毒でもあったようだ。
1813年11月にパーシュは、北米植物相を記述した「Pursh's Flora」の原稿を完成させ、そのコピーを支持者に配布した。
印刷タイトルは「Flora americae septentrionalis」又は、「A Systematic Arrangement and Description of The Plants of North America,」
正規の教育を受けなかったパーシュが、世界の植物情報の総本山でもあったイギリスで、その中核に入り込み、ミッショーが記述した時より10年遅れて北米の植物相をまとめることが出来たのは、学歴・経歴よりも経験と情報量という現場主義がこの当時のイギリスにあったのだろう。パーシュ絶頂の時でもあった。
1816年にパーシュはイギリスを去りカナダに向かった。
しかし、いいことはなかった。
期待していた探検プロジェクトは、隊長が暗殺され中止となり、出版印税もライバルの新作が出たため減少するなど歯車が逆回転し始めた。追い討ちをかけるように、これまでの植物のコレクションなどがモントリオールの住居が火災になり消失した。
貧困とアルコール中毒で健康を害し失意の中で46歳の生涯を終えた。
パーシュは肖像画がないだけでなく葬式・お墓のお金もなかったようだ。
ロンドンに留まっていたら、出版後の講演などで食べていけたのかもわからないが、現場の匂いがしないところには本物のプラントハンターは居続けられないのだろう。
しかし、この時期からのプラントハンターは、珍しい植物を集めたいという願望を組織或いはシステムとして具体化しているので、植物園、博物館、園芸協会、園芸・育種会社などのニーズをとらえなければならなくなって来ている。
パーシュはロンドンに留まるかフィラデルフィアに戻ればよかったのだろうが、フィラデルフィアには戻れなかったのだろう。
(写真)ビオラ・ラブラドリカの葉と花
宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレア
・ スミレ科ビオラ属の耐寒性がある多年草。
・ 学名は、Viola labradorica Schrank 。英名は、アルペン・ヴァイオレット(Alpine violets)またはラブラドール・ヴァイオレット(Labrador Violet)と呼ばれ、流通名としては黒葉スミレとも言われる。
・ この品種は、原種ビオラ・ラブラドリカの園芸品種ラプラドリカ・パープレア(Viola labradorica purpurea)。
・ 原産地は、北アメリカ北東部でラブラドール、ニューハンプシャー、ニューヨクの湿っぽい森林地帯の樹の下に生息。
・ 草丈10cm程度で、黒ずんだ葉と紫色の花のコントラストが美しい。
・ 開花期は比較的長く、3~5月で夏場も咲くことがある。
・ ツツジとかツバキの木下の植え込みで半日陰が適している。
・ 腐葉土の多い湿った土壌を好む。
※ミッショーに興味があれば下記を参考
その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①
その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②
その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③
その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④
その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final
その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編
その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係
色が赤みを帯びた紫で可愛らしいですね♡