赦しがたいと思う人がいる人へ。
*******************************2017・1/27
少し引用する:
”私(神)は(小さな魂に)言った。
’自分の中で自分として自分を通して、神性のどんな部分を
体験したいか選びなさい’と。
小さな魂は言った
’それでは私は、完璧な赦しを体験したいです。’
さて、この願は少々難題だった。
なぜなら、だれも赦すべき対象となる相手がいなかった。
なぜなら、創造されたものはすべて完璧だった。”
これはまだ、人間が二元論を知る前の話であろう。
神は続ける:
”’赦す相手がいない!
それではどうしたらよいのですか?’
すると、それを聞いていた完璧な一つの魂が進み出て、
’私を許せばよい’といった。
’何を赦すのですか?’
すると、
’私は次の生であなたの物質的人生にかかわり、
その時、何かをするから、それをあなたが赦せばよいのだ。’
と進み出た魂は言った。
’どうしてそんなことをしてくれるのですか?’
わざわざ、完璧な魂が、その小さな魂のために悪いことを
すると約束した 完璧な魂の申し出が解せなかった。
友好的な完璧な魂は小さな魂に言った。
’あなたを愛しているから。 あなたは赦しとして
自己を体験したい。
そして覚えていないかい?
あなたも私も、みんなその一部だ。
私たちはその中の上昇で下降、左で右だった。
それぞれが神の最も偉大な部分を体験しようと、決めているのだ。
あなたが存在するためには、あなたでないものが存在
しなければならない。’
’寒さがなければ暖かさはない。
悲しみが無ければ幸福はない。
悪がなければ善はない。
あなたがあなたであるためには、このように、それと反対
の何かが、あるいは、誰かが存在しなければいけない。’
このように友好的魂は小さな魂に説明した。
それから最後にこう言った。
’一つだけお願いがある。
私があなたを襲い、暴力を振るい、想像し得る
かぎり最悪のことをしたとしても、した瞬間に、
本当の私 を思い出してほしい、。”(538)
さて、この小さな魂とは 今生きている私たちのことだ。
協力的な完全なる魂とは、赦しを得たい小さな魂のために
相手に不幸を注ぐ役を買って出る。
実際、私たちの周りで あの人さえいなければ・・
と思わせる人物がいるとしたら、その人こそ、今、自分の
人生に出現している 協力的な完全なる魂 だ。
その人は、まるで、自己演出し自演する俳優のようなものだ。
演技とは思えないほど、つまり、想像しうる限り最悪のこと
を自分(あなた)に投げかける場合があるかもしれない。
その時、自分~小さな魂~あなたは、怒りながら、悲しみ
ながら現実に対処するだろう。
えてして、怒りには怒り、悲しみには復習などを通じて、
程度の差こそあれ、人間関係はこじれていくことが多い。
が、神は言う。
心して、小さな魂がやるべきことは、ただ一つ、
相手の本当の姿、演じているその役ではなく、その相手の
本当の愛を思い出してほしいということだ。
なぜなら、思い出し、気づくとき、小さな魂の奥底に
流れる感性で感じられた時、そうしたときに、小さな魂は
真理に気づく。
自分にとっては、疎ましい存在と思っていた相手の中に
見えていた、非難すべきことは、むしろ、小さな魂の反映して
いるものだということを・・
自分の中にこそ、咎(とが)、裁きや思い込み、独りよがりや
非難、などの小さな埃をみつけることができるだろう。
裁きを赦しに変えなさい、
思い込みを本当の真理の言葉に照らしてみなさい、
独りよがりを捨て大きな心を思い出してください、
非難をやめ、愛に変えてください・・・と
神は言っているのだろう。
その時、小さな魂が自らを振り返って内省し、相手の
本当の姿を観たとき まさに、状況は変わる。
そこには 赦しと愛 の体験しかない。
赦しを与える。
感謝をもって、たぶん、それこそ、小さな魂が本当に
この生を受けて、体験したかったことだと神はいうのだ。
そのためには、自分以外の価値観を持った人が必要だ。
正反対の価値観も必要だ。
ちょうど、刃物には砥石(といし)が必要なように、
自分の心を磨くには、価値観の違う相手が必要なのだ。
さらに神はこういう。
”小さな魂のした約束は、あなたへの私の約束だ。”(538)
私たちが 善悪、幸不幸、悲喜こもごもの感情の中で
日常生活を送っているとき、いつも、相手、自分の中にある、
本当の魂の完全な姿を思い出すことが、この世においての
今生きる私たちの 最も大きな仕事 のひとつかもしれない。
そのような仕事こそ、私たちがこの肉体を脱いで、自分の
一生を振り返るとき、最も、価値ある仕事として、天では
評価されるに違いない。
だから、二元論的世界、私たちの住んでいる、多様性のある
清濁併せ持った世界をけがれた世界と観る必要はなく、
そこに生きるそれぞれの立場の人たちは、相互に磨きあう
ために存在していると考えても 一元論と、矛盾はしないと思う。
本質はあくまで、魂は神の子として造られているという
ことだから。