自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

二元的世界の意義とその価値

2017年01月27日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

赦しがたいと思う人がいる人へ。

*******************************2017・1/27

少し引用する:

”私(神)は(小さな魂に)言った。 

’自分の中で自分として自分を通して、神性のどんな部分を

体験したいか選びなさい’と。 


小さな魂は言った

’それでは私は、完璧な赦しを体験したいです。

さて、この願は少々難題だった。

なぜなら、だれも赦すべき対象となる相手がいなかった。 

なぜなら、創造されたものはすべて完璧だった。”


これはまだ、人間が二元論を知る前の話であろう。 

神は続ける:

”’赦す相手がいない!

それではどうしたらよいのですか?’ 

すると、それを聞いていた完璧な一つの魂が進み出て、

’私を許せばよい’といった。


’何を赦すのですか?’ 

すると、

’私は次の生であなたの物質的人生にかかわり、

その時、何かをするから、それをあなたが赦せばよいのだ。’

と進み出た魂は言った。


’どうしてそんなことをしてくれるのですか?’ 

わざわざ、完璧な魂が、その小さな魂のために悪いことを

すると約束した 完璧な魂の申し出が解せなかった。

友好的な完璧な魂は小さな魂に言った。

’あなたを愛しているから。 あなたは赦しとして

自己を体験したい。

そして覚えていないかい? 

あなたも私も、みんなその一部だ。 

私たちはその中の上昇で下降、左で右だった。

それぞれが神の最も偉大な部分を体験しようと、決めているのだ。 


あなたが存在するためには、あなたでないものが存在

しなければならない。’ 

’寒さがなければ暖かさはない。 

悲しみが無ければ幸福はない。 

悪がなければ善はない。

あなたがあなたであるためには、このように、それと反対

の何かが、あるいは、誰かが存在しなければいけない。’


このように友好的魂は小さな魂に説明した。

それから最後にこう言った。

’一つだけお願いがある。

私があなたを襲い、暴力を振るい、想像し得る

かぎり最悪のことをしたとしても、した瞬間に、

本当の私 を思い出してほしい、。”(538)

 

さて、この小さな魂とは 今生きている私たちのことだ。

協力的な完全なる魂とは、赦しを得たい小さな魂のために 

相手に不幸を注ぐ役を買って出る。

実際、私たちの周りで あの人さえいなければ・・

と思わせる人物がいるとしたら、その人こそ、今、自分の

人生に出現している 協力的な完全なる魂 だ。 


その人は、まるで、自己演出し自演する俳優のようなものだ。

演技とは思えないほど、つまり、想像しうる限り最悪のこと

を自分(あなた)に投げかける場合があるかもしれない。


その時、自分~小さな魂~あなたは、怒りながら、悲しみ

ながら現実に対処するだろう。

えてして、怒りには怒り、悲しみには復習などを通じて、

程度の差こそあれ、人間関係はこじれていくことが多い。 

が、神は言う。

心して、小さな魂がやるべきことは、ただ一つ、

相手の本当の姿、演じているその役ではなく、その相手の

本当の愛を思い出してほしいということだ。


なぜなら、思い出し、気づくとき、小さな魂の奥底に

流れる感性で感じられた時、そうしたときに、小さな魂は 

真理に気づく。 


自分にとっては、疎ましい存在と思っていた相手の中に

見えていた、非難すべきことは、むしろ、小さな魂の反映して

いるものだということを・・

自分の中にこそ、咎(とが)、裁きや思い込み、独りよがりや

非難、などの小さな埃をみつけることができるだろう。 


裁きを赦しに変えなさい、

思い込みを本当の真理の言葉に照らしてみなさい、

独りよがりを捨て大きな心を思い出してください、

非難をやめ、愛に変えてください・・・と

神は言っているのだろう。 


その時、小さな魂が自らを振り返って内省し、相手の

本当の姿を観たとき まさに、状況は変わる。 

そこには 赦しと愛 の体験しかない。

赦しを与える。

感謝をもって、たぶん、それこそ、小さな魂が本当に

この生を受けて、体験したかったことだと神はいうのだ。 


そのためには、自分以外の価値観を持った人が必要だ。

正反対の価値観も必要だ。 

ちょうど、刃物には砥石(といし)が必要なように、

自分の心を磨くには、価値観の違う相手が必要なのだ。

さらに神はこういう。

 

”小さな魂のした約束は、あなたへの私の約束だ。”(538)

 私たちが 善悪、幸不幸、悲喜こもごもの感情の中で

日常生活を送っているとき、いつも、相手、自分の中にある、

本当の魂の完全な姿を思い出すことが、この世においての 

今生きる私たちの 最も大きな仕事 のひとつかもしれない。


そのような仕事こそ、私たちがこの肉体を脱いで、自分の

一生を振り返るとき、最も、価値ある仕事として、天では

評価されるに違いない。


だから、二元論的世界、私たちの住んでいる、多様性のある

清濁併せ持った世界をけがれた世界と観る必要はなく、

そこに生きるそれぞれの立場の人たちは、相互に磨きあう

ために存在していると考えても 一元論と、矛盾はしないと思う。 


本質はあくまで、魂は神の子として造られているという

ことだから。

 

 

 

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神との対話3巻 で 私の傍線部分

2017年01月22日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

アートマセラピーに関係する 神の言葉

******************************2017.1/22

 

 先々回 友人の傍線部分のご紹介をしたので、今回は私自身

以前読んだとき傍線を引いてい有る箇所をご紹介したい。

すべて三巻からで 引用文最後のカッコ内の数字はページ数で

ある。

 

1・”精神は身体のすべての細胞に存在する。”(271)

言い換えれば、すべての細胞には精神が宿る ということ

だから、私たちの自然治癒力は.頭で考えたりする可能性を

はるかに超えている。

それぞれの細胞が一番良かれと考えている方法が 最も強烈な

自然治癒力を生みだすということか。

 

2.”脳は知の源泉ではない。データの処理装置に過ぎない。

脳は五感と呼ばれる受容器を通じてデータを取り込む”(528)

五感とは、聴覚・視覚・触覚・味覚・臭覚 で、私たちが日常

当たり前に受け取っているその感覚は.テータであるならば、

人によって、あるいは脳を持つ生物の種によって微妙にその

データ変換が異なってくるだろう。

そのデータプロセッサーの働きが脳であって、脳自身が知恵の

源泉ではない。 

では、知恵はどこから来るのか?

 

3・”私は存在だ。 存在はモノではなく、プロセスだろうう。 

それは思考の存在だ。

私はプロセスの結果ではない。プロセス自体だ。”(531)

知恵は’あなた’という存在。’あなた’はプロセスの結果でなく、

プロセス自体、つまり、脳を働かせているプロセッサーを動か

しているその力(エネルギー)だ。

エネルギーは英語でenergy, 動きはmotion, 感情は だから、 

二つ合わせた言葉、e-motion という英語になる。

本当の感情、心から湧いてくる感情を あなたは、いつ持てたか? 

周りに合わせたり、とりつくろったり、怒りや悲しみは表現

すべきでないと抑え殺したり・・静止しているものはない、

動きを持っている、それが感情の特性でもあるから、感情の

選別コントロールは確かに必要かもしれない。 

その感情がアートマ(本来の自分の資質)を動かすとき、感動 

となる。 

感情と感動は違う。 感動を大切にする心が、アートマへ到達

する心へと続いていく。

 

5・”どんな神の一部になりたいか・・・それによって、人生の

目的と個別化が生まれる”(535)

私たち一人ひとりは結局手のひらから出ている指のような

存在で、親指のできる仕事、人差し指のできる仕事、

それぞれが協力して指の機能が万全となるのと同様、

私たちも組織になって,全体的に生産性を高める働きを

しながら、個別化して生きている。

それは神の資質の中でも、どの資質、例えば、エンジニアや

芸術家、有能な商社マンや職人な一人ひとり、生かす分野

異なり、その選択次第で人生の目的も異なるように見える。 

が、結局は神につながっているということではどの人たちも

同じだ。

指が手のひらにつながっているように・ 

アートマセラピーが効くのは、その認識が前提になっているから。

施術しても、あの人には効果的だが、この人には効かないと

いうのは、同じ条件下であるとしたら、施術する側にその

観方が徹底されていないことが原因のような気がする。

 

御年80歳のヒマラヤに住むヨギ、軽々と身をこなし、

上にも下にも神は自分の周りに満ち満ちてご自身を

包んでいると語ってくださった。

 

 

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神と人の関係:神の資質を受け継ぐ とは?

2017年01月17日 | 健康と直結する”一元論”について

1月08日の12時28分に更新したブログの続きです。

宣言することの深い意味            2017/01/17

****************************************

 

“はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり。” という有名な聖書の言葉。 

言葉が創造の第一歩に発せられた。 その言葉とは何か~が今日のテーマ。

まず、宇宙は混沌としていた。 

そこで、神は“光あれ”と言って、光が生み出されたという。 

混沌というのはケオスといわれる。

ケオスのもともとの意味は何か?

創造的言葉の宣言により、具体的に現象に顕現しようと、常に待機

している深い霊的実存”の事だと、ヒマラヤの大師は教えている。 

先回1月8日のブログ記事で、神との対話 の一説、

宣言することの大切さ に触れたところで投稿記事が終わっていたが、

なぜ、宣言することが大切なのか、尻切れトンボになっていた。

神とは無限で全能なる創造主と定義する。 

その神が、現実世界を創造するにあたり、まずしたことは、何か? 

それが聖書にしるされている。

まず、ケオスの中から 何を生み出そうかときちんとにヴィジョンを描き、

それが光なら、”光あれ” という明瞭な言葉をケオスに投げかけた。

こうして、次々に神の心のヴィジョンの対象なるものを 言葉を出すことに

よって、生み出し、最後に“それでよし”と神は最後の宣言の言葉とともに

創造を終えた。

その順序をまとめると、

1)      心の中で形の原型をしっかり想像し、理念として、意識の中に置く 

2)  それを保ち続け、時が来て、言葉を発することにより、その理念を

具象化させる。

この(1)と(2)のプロセスが“創造”に不可欠だった。

 

そして、神は人を作り給う。 その時の、神の宣言の言葉

わが像(すがた)に象り(かたどり)て造り、もの、皆の上に君臨せしめん” 

だった。 

こうして人は万物の長となった。 

アダムとイブの逸話に見られるように、人は知恵の実、つまり、二元論の

アイデアを知らない間は 楽園に、そこでは、善のみ、良きことのみが存在

する環境にいた。

が、二元論の価値観、良い悪いの、善悪の 相反する二つの価値観の概念を

描き始めたとき、人は天国を追われたとある。 比喩的に、蛇がイヴを誘惑

して知恵のリンゴを食べるように勧めた-とある。 

そのリンゴを食べたとたん、自分たちを客観的に見て、裸であることを

恥ずかしく思い、楽園を追われたという。 

が、実際、追われわけではないだろう。

そこに住めなくなったのだ。 

なぜなら、人が二つの反対の、相対的価値観を持った時、善の裏には悪、

美の裏には醜さがあることを、比較する知恵を得たからだ。

こうして、悪を思い、悪を見据えはじめ、その存在を甘受したとき、実際、

悪が作り出された。 

それは神が宇宙を創造したときの 同じ仕組みが働いているからだ。

人は神の資質を受け継いでいる。

そう、神は宣言された。善のみならず、悪をも、作り出すことができる、

創造の力を受け継いだということだ。

思念、想念し、心に凝視し、ヴィジョン化すれば、天地創造の神と同様、

その人間の周囲には、その概念やアイデアが言葉とともに具現化されると

いう仕組みだ。

私は弱い人間だ”そう声にだしている人は 弱い自分に対面する。

私は貪欲だ”そう、心に自分を描きつぶやけば、貪欲な面が具現化されると

いうように。

破壊的な人という形容詞が似合う人がいる。 

それは裏を返せば、創造的な人でもあるという。

どちらの面に自分の心の目のヴィジョンを合わせているか、それによって、

創造的な人ほど破壊的な人になる。

だから、先日08日のブログの最後に書かれた、“宣言”の意味が出てくるのだ。 

1)      自分に必要なモノ、好ましいもの、確かめたうえで、その型を、

できるだけ細かく鮮明に心にヴィジョン化する

2)      そのヴィジョンを持ち続ける~それが祈りの基本

3)      そして、言葉で宣言する。 “すでに、それは実現している” “良し” 

というように。

これは全く神の創造方法と同じである。 

そうはいっても、理屈としてはわかるが、実践となると、なかなかうまく

いかない。

ついつい、弱気が出てきたり、実現できそうもないとあきらめたり、

私には無理だと自己暗示をかけてしまったり・・・


ヒマラヤの大師はいう。“大きな信念が必要だ 一歩一歩目の前にあること

から始める。

それは音楽や数学の勉強のように、根気強く、方程式に忠実に時には研修

しなければならないかもしれない。

が、それを続けていくこと。もちろん、心には崇高なヴィジョンを、自分は

こうであるという心のひな型を明確にして。”

そうこうして、神に任せ、自分は自分でできる範囲で毎日を送っている内に、

いつか、自由自在の境地、つまり、自我でものごとを進めようとしなくても、

自然とことが運んでいくという境地に達すると、言う。

人事を尽くし天命を待つ という日本のことわざにあるとおり、宇宙の

調和の中で物事が動くようになるには、最終的には、意思や思念などは、

あまり役にたたないらしい。

それらは、結局 自我の心だから・・ 

ヒマラヤの大師は希望の言葉を投げかけている。

”あなたたち地上の人間から見ると、泥沼の闘いの毎日であっても、本来、

あなたたちが居た場所、天国は、神の目から見れば、今も 変わらず厳然

として存在している”

つまり、考えたり、念じたりしたところで、それは、また、自分の思う

ところの世界を作り出すだけなのだから、まず、自分が直(すなお)に戻り

たい場所を思い描く(ヴィジョン化)することから天国への道は始まるようだ。

 

 

 

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自然治癒力の具体的働きとして現れる症状 。

2017年01月12日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 

免疫不全、喘息、結核、肝硬変、花粉症など:

医師(医療関係者)の言葉の力の大きさ

***********************************************

"自分の生き方を人に押し付けることはできないし、

押し付けようとも思わない。 

人間の生き方は皆、自由で、それぞれ行きたい道を

行けばよい。

ただ、今まで自分がやってみて、満足が行く、簡単な道

を示そうとしているだけです。"


この言葉は 敬愛する聖者の言葉であるが、

自然治癒力セラピー協会でお勧めしたいことも 

この言葉に言い表されている気がする。


さらに、

”内なる愛の力を、十分に発揮するものは、害を外から

受けることはない。” 

私はあえて、この言葉の”愛の力”を ”生命の力”と

言い換えてみたい。 

以下はその生命の力を医療現場で十分生かそうと診療

してきたある内科医の体験の言葉である。

 ***********

私は医療現場で体と心のつながり、自然治癒力の

大きさを患者を通してみてきた。

たとえば、子供の喘息は お母さんが変われば子供の

アレルギー症状がどんどん治ることが数多くあった。


花粉症 は杉やヒノキの花粉で目がしょぼしょぼしたり、

くしゃみや鼻水が出るという症状。

が、昔からこれらの花粉は同じように空中に春先、

飛び回っていたはずだが、花粉症という名前を

耳にしたことはなかった。


結局、花粉の問題ではなくて、食生活の変化と、

精神的な問題であって、ストレスの多い、現代社会の中で、

心と身体の調和が保てない結果だろうと思う。


免疫不全症~免疫反応の異常~体に侵入した物質が

善悪と判断するというより、異物と判断して、

それを攻撃する抗体が血液のリンパ球細胞から

作り出される。

体は本質的に異質のものを退けようとする。

異種の蛋白や異物をどのように、肉体細胞が容認して

いるかまだ明確ではないが、容認するという働きは

人の心の働き、心の問題であるので、人間の心が

大きく関与していると考える。


例えば、膠原病(こうげんびょう)の患者を

扱ったことがある。 

心の問題を解決して改善された数例を体験した。 

精神要素と体の調子とは並行的に関係があるということ

を知り、患者の抱えている心の問題を解決し、

体の自然治癒力を信じて回復する自信をもつことが大切だ。” 

 

そして、その例を次のようにあげている。

“右肺は、高度の肋膜癒着と肋骨の肥厚(ひあつ)がみられ、

もう一方の肺は異常がない。

この患者さんM氏はかつて、重症の肺結核で過去十数年の間、

寝たきりの療養生活を送った。


入院当初、10年間、喀痰結核(かくたんけっかく)菌は

毎月の検査では強度の陽性だったが、ある時点で菌が

陰性になって、それ以来 陰性が続いている。 


‘ある時点’に何があったかを過去のカルテで調べてみると、

38度5分以上の熱が3年間毎日続き、その結果、結核菌が

陰性化したことが分かった。 


化学療法と三年間の高熱が菌を全滅させたと思えた。

M氏の奥様は高校の数学の教師だったが、寝たきりのM氏の

看病のために、教師を辞めて昼間は病人の看護、夜は

近くの工場で働き生活を支えていた。

 

その夫婦愛に胸を打たれた私は、何とか、M氏が元通りに

元気になれるよう、心の面から治療を働きかけた。

本人と奥様の前で病状を詳しく説明し、排菌陰性後、

数年経た現在では、右肺は断層写真でも、完全に病変は

治っていて、全体に肋膜癒着があるために呼吸機能は

無くなっているが、左肺は全く異常がなく、血液検査成績

を見ても、肝臓や腎臓そのほかの機能にも全く異常が

ないから、回復の見込みがあることを説明した。 


しかし、M氏はひどく衰弱し、呼吸障害が強く、悲観的に

寝たきりの長期療養患者になっていて、私の説明は

‘寝耳に水’であったようだ。


“良き言葉の力は繰り返し、駆使する”をモットーとしている

私は、繰り返し説明した。 

医療担当者はこうした信念のある、明るい、希望に満ちた

光明面を認め診療することが大切で、M氏の心は次第に

氷解し始めた。 


食事を見ると、M氏には偏りがあり、小食だった。 

体力回復の原動力である食事の大切さを説明すると、

ほとんど残さず食べるようになり、蒼白の顔に赤みが増した。 

深呼吸を練習した。ベッドに起き上がることから、立つ

練習とリハビリも好調に進んだ。 

毎日2,3歩ずつ、歩行を増し、次は階段を毎日一段ずつ

増やし昇降した。 


主治医、本人、家族が一体となり、6か月後には、病院の

玄関まで、一年後には外泊できるまで回復した。 

2年後ついに喜びの退院をした。“ 


ここでは内田医師が積極的な言葉、必ず、良くなるという

言葉を信念もって、言い続けたこと、食事に気をつけたこと、

がM氏の奇跡的退院を実現する要因だった。


次は肝硬変の患者の例だ。

”肝硬変~数年来、肝臓の治療を受けていた40歳の男性が

高熱のために入院。 

39度前後の発熱が約2週間続き、その上、体一面に黒褐色

の発疹が出た。 

過去の肝臓機能検査や腹部CTでは、明らかに肝硬変の様相

を呈していた。


今回、高熱は自然治癒現象の一つである。

発疹というのは、体内の毒素が発熱によって皮膚に浮き

出したものだから、麻疹(はしか)の発疹と同じように、

出るだけ出して、内向しないほうがよいのだ。


この患者にもこのように説明すると、病人はもとより、

家族も安心し納得してくれた。

高熱の間は食欲が低下、発汗(はっかん)が多いので、

点滴による肝臓の治療と栄養、水分補給に私は務めた。


2週間の高熱が出ると、発熱は階段状に下がり、全身の

発疹は色が薄くなり、数日の内にすっかり消えて、

美しい皮膚に変わった。 

自然の解熱とともに、食欲は回復、血液の肝臓機能検査は

良くなり、三か月後にはほとんど正常になった。“  

 

自然治癒力の大きさを知っている医師にかかった患者は

幸せだ。 

症状を必要以上に不安材料とすることなく、異常とみられる

症状の中に、自然に体の機能が回復するための働きがある

ことを患者に説明することができ、患者は医師のいう

ことを体の弱っているときほど、素直に納得しやすい。 


自然治癒力を掘り出そうとする、医師の言葉で 安心を

あたえられ、恐怖がうすらぐことで、体の回復機能が増すと

いうことになるので副作用なしに、潜在的な生命力で

治癒に結びついていきやすい。

 

 

参考*生命医療を求めて 内田久子 日本教文社 平成7年

 

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今年の目標の道しるべ

2017年01月08日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 

祈りは宣言、宣言は実現の一歩、究極の癒しの源  2017/01/08

******************************************

 

1月1日に投稿した記事の続きです。 

神との対話~3の12章からです。


さて、友人が送ってきてくれたのは11章と12章のみで、これらがこの

シリーズの中で、一番インパクトの強い本質をついていると 友人は言う

のである。


皆様にご紹介して、友人が傍線を引いたところを 一緒に考えてみたい

と思う。


まず、その前に、こうした主観的な言葉、神の言葉というタイトルに

抵抗を感じる方は、いるということだ。

私も実は、その一人だった。

この神の言葉は、著者の意識下の意識であるかもしれない、

回教の開祖モハメッドが洞窟の中で、自動手記で書かされて、

後にコーランとなった、“神の言葉”と 同格であるはずはない

と思った。

そう、思っているのは読者のみならず、著書本人が、自分の

意識水面下深く埋もれる、気が付かない自分自身の創作した

考えという、恐れをもっていたことは、本著にも書いてある。


が、すでに世界中でこの本は24か国語に翻訳されて、

数百万の人たちが手にしているという事実、読んでみると、

直観的に伝わる真摯さから、そのまま、真理の表現として

受け入れられるような気がする。

あまり、先入観念なしに、とりあえず、読んでいただければ嬉しい。

**********

1.“自分にしてほしいと思うように、人にしてあげなさい。・・

ぶつかる問題、紛争、困難のすべては、あなたがたがこの単純な教えを

理解せず、従わないためなのだ。”


キリストの言葉の裏返しのようだ。 

“あなたがして欲しくないことを人になすなかれ”だったか? 

が、人にかまわれるのが好きな人、放っておいてほしいのが

好きな人、人それぞれの、好みがあることを、自分の価値観で

決めてよいのだろうか? 


たぶん、良いのだろう。 

そこに、気づかいがあるかどうかが大切なのだろう。

今は、そうして欲しいと思うことをすればよいのだろう。

相手にそのとき与えるものは さまざまだ。

思いやりや労力、エネルギー、金銭的なものもあるかもしれない。


2)“与えるものを失うことはない。” 

失ったということはないのかもしれない。

与えようと捨てようと略奪されようと、少なくても、失ったと

いうより、移行したと考えたほうがよさそうだ。 


どんな小さなものも 自分で作ったものはないのだから。

自分のものというレッテルはどうやって貼られるのだろう? 

自分のものというのは、その時間その場所で自分の場所に

存在した品物ということに過ぎないのに。

与えるにせよ、紛失するにせよ、騙されて略奪されたものにしろ、

執着なしに見送ることで、自分自身の周りの、モノの

循環サイクルが良くなることはあるらしい。

とかく執着している人は出さない代わりに、入るものも少ない

というのが世の常だ。


3)“あなた方は人生は‘闘い’だと考えている。 

  

だが、本来はそうではないし、そんな必要は全くないの ・

そうならないのは、信じられないから、現実がそうならないのだ、

あなたが信念を現実にするのだから。”


唯心所現の考え方だ。 

心でただ思うこと、念じることが、現実に現れるという。 

人生を闘いと思えばそうなるし、外部には、そう見えても、

思っていない人には闘いという意識と無縁の人生を

送っているのだ。


闘いでなければ、人は何を動機に人生を生きているのか?

神は薦める

“インスピレーションによって、動かされる者、それを恐れげ

もなく大衆と分かち合うもの、そういう人たちは私が遣わした、

偉大な師たちだ。”


インスピレーション、直観、が自分を駆り立ててやまない事柄を、

追及し、自分の恥さらしを恐れず、大衆にさらけ出しながら、

良いものであるからこそ、共有しようという強い信念を

持つ人たち。


そういう人は勇気をもって、自分の言葉を実行する。

否、実行しようと試みるだろう。


私たちがそうなるかそうならないかは、これも、私たちの

決断で十分だ。

インドで海軍将校の奥様である、友人は極めて優雅な生活を

送っているが、心優しき、純粋な彼女が〝今世は今まで生きてきた

ご褒美として神様に与えられているのだから、心穏やかに、

この富を受け入れ、現実を楽しく心安く、甘んじて生きて

いるの“ と私に語った言葉を思い出す。 

それも人生。 


富を楽しむ、特に、人生に肩を張らず、与えるという心は

云々という理屈を考えず、今を楽しく享受するのも、

一つの生き方だろう。 

が、それだけでは物足りない人たちがいるのは確かだ。


真理とは? 生きる目的は? 

考え考え、先のように、’自分の口に出す真理の言葉’を完全に

実行している人たちは君子と呼ばれるようになる。 

自分の言葉を大衆と分かち合うが、時々行動が伴わず、

人間的な姑息な一面をのぞかせれば、先生とは、呼ばれる

だろう、博学な学者たちのように。 


それでも神様は、現状の自分をまず、受け入れて、

”それで良い” とひとまず、肯定することも大切だと

言っているような気がする。


4)“(これまでの人生の行動は間違いだらけで、師

という資格はないと思う)

そういうのなら、これまで現れた師の半分は資格がない

ということになる。 


ヘレンシューマンは‘奇跡のコース’という本の中で、

‘人は学ばなければならないことを教える。’と。(引用以上)

 

自分が君子でも先生でもないことに 肩を落とす必要は

ないということ。 

自分がこうありたいと願うこと、ひそかに希望していることを、

公然と宣言すれば、そうなる第一歩が刻まれると次のようにいう。


5)”公然たる宣言は、最も高い形のヴィジョンだ。・・・

あなたの最も偉大なヴィジョンとは私だ。

自分の最も偉大な部分を否定すれば、私を否定することになる。・・

仏陀、イエス、クリシュナ、みんな公然と師であった。”


自然治癒力協会ではアートマという言葉をよく使う。 

それは自分の本来持つ、完全なる性質をさす。

アートマは誰にでもあり、それを自分が認めるか、

見ようとするか、引き出そうとするか、アプローチの違いが

今の自分の現状と密接に関係していると考える。

病にしても、精神的不幸にしても。


反対に、病が癒えるのも、精神的に安寧でいるのも、

そのアプローチ次第である。 どのようになりたいのか、

最も、自分の掲げる一番高い目標の自分を自分として認め、

それを言葉で公然と宣言する。 


それで自分はその理想に一歩足を踏み出したことになる。

こうなりたい、ではなく、”こうなる”と宣言する、のだ。 

これがほしいではなくて、これを選択する、という

意思表明だ。 


よく、祈るとき、“お願いします”というのでは効き目がない

と聖者は教える。

“~を与えて下さり、ありがとうございます。すでに、

それは成立しています”、

とか、

“実現しました、ありがとう”と 祈りの言葉として、

発することがポイントだ。


神は続ける: 

誰でも、心では本当の自分を知っている。

偉大なバレリーナ、偉大な法律家、偉大な俳優、偉大な一塁手だ。 

偉大な刑事、偉大な親、偉大な詩人、偉大な指導者、

偉大な癒し手だ。

それぞれが偉大な人間なのだ。”(以上引用)

 

偉大な自分になる~という宣言。 

では、本当の偉大な自分は?

6)“本当の自分を宣言したあなたは、本当の私を宣言しただけだ。 

常に私を源として宣言しなさい。あなた自身として、宣言しなさい。

あなたは、私のすべての源だ。”

“私たちは一つである”。(以上引用)

 

この意識こそが究極の癒しの源であり、悟りであり、ゆるぎない

自己の発見でもあるのだ。

まだまだ自分は そんな大それたことは言えないし、神様と

一つだなんて恐れ多いことをいうほど傲慢ではない~と

謙遜するあなた。


本当の神の姿は本当のあなたの姿に重なるという真実を 

それではいつになったら認めるのだろう? 

それこそ、今!でなければ、永遠に絵に描いた餅同様、

こうした言葉を読んでも、実体のない観念で終わってしまう。 


まず、”宣言”comes first ~  宣言が第一に来ることなのだ。

あとのことは時間に任せれば、自然についてくる。 

宣言、の力はそれほど、大きいらしい。否、大きいのだ。

 

 

 

 

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