タイメン鉄道:巡礼の旅 2016・8・31
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“握手できる ただ一人だけの日本人” と言いながら老齢のイギリス紳士が
一人の頬のこけた日本人に手を差し出す。
“あなたはすでに我々の間ではレジャンドだから”とつけ添えて。
その老紳士はかつて第二次世界大戦に捕虜となり、日本軍の泰緬鉄道建設に
従事した兵士だった。
1942年7月から1943年10月の間、足場のない岩場とジャングルを切り開いて、
タイとビルマの間415キロ㍍かけて走る鉄道だ。
それは、インパール作戦(印度北東部)に向けて人員・物資を運ぶための目的
だったから 日本軍は一刻も早く完成させるために、捕虜たちを“消耗品”のよう
に心なく扱った。
かかわった捕虜の総数、6万人、現地アジア労務者25万人、20世紀初頭、
イギリスが10年はかかるとその鉄道建設をあきらめた同じルートを わずか
一年3か月ほどで完成させた。
少なくても捕虜たちは1万3千人の犠牲者を出したといわれ、“死のレイルウェイ”
と呼ばれた。
捕虜として多くを占めていたイギリス人、オーストラリア人、オランダ人たちは
帰国後、その時に受けたトラウマをかかえ、心身症、ノイローゼ、精神病などに
悩まされ、日本軍、ひいては、日本国、日本人に対して、許せない感情を
抱き続けて生きてきたという。
以前ブログでもご紹介した、イギリス人元捕虜、エリック・ロマックスの自伝映画
“レイルウェイ・運命の旅路”(2013年)では、 当時日本軍に受けた拷問を夜な夜な
悪夢で繰り返しみて、妻を驚かすほどの奇声を発し苦しみ続けたすがたが、
描かれている。
さて、拷問を受ける捕虜の傍らで通訳をした人物、映画では 俳優 真田広之が演じた
永瀬隆氏こそ、冒頭の“レジャンド”と呼ばれるその人であった。
映画ではドラマチックな演出とロマネックス氏の苦しみと憎しみに焦点があてられて
いたので、事実とは多少違う点があり、永瀬氏の元捕虜とのその後の関わり合いの
点では、少しピントがずれていた感があった。 この点は永瀬先生の半生を知る人は、
共通の意見であり、むしろ永瀬先生がこの映画をご覧になる前に他界されたので、
ご覧にならずに良かったかもしれないという意見も出たりした。
さて、今回、新たに 忠実に永瀬氏の足跡を描いたドキュメンタリー映画が完成した。
長期にわたり、永瀬先生の活動を密着してまとめてきた瀬戸内海放送のディレクター
満田氏が監督して、とても胸を打たれる作品となった。
冒頭の言葉、永瀬氏がレジャンドといわれた理由はこうだ。
通訳として人間的に許され難い行為(日本軍による捕虜に対する虐待や拷問など)に
かかわった永瀬氏は その事実にクリスチャンとしても1人の人間としても、日本軍の
捕虜に対する非人間的扱いに加担したという深い苦しみを背負っていたに違い。
ドキュメントの中で永瀬氏は言う。
“戦争から帰ってきて 心身ぼろぼろだった。
そんな自分を立て直すための努力が、反戦運動になり、個人的な
戦後処理になって、ここまで来たのです”
戦後間もなく、連合軍の元捕虜の墓地捜索隊の協力を乞われ 戦没者の無残に散らばった
骨を収集しながら、鉄道建設元捕虜の慰霊を生涯の目的とすることを決意する。
妻の佳子さんとともに、1964年から2009年まで135回の巡礼を行い、その間、クワイ河鉄橋
で元捕虜との和解活動も行った。
この和解活動は決して平たんの道のりではなかったことは言うまでもない。元イギリス軍
の中には 日の丸を焼いて、女王陛下が日本を訪れる際、抗議したほどの日本への憎しみ
があったからだ。
彼らは捕虜として、人間として 正当に扱われないどころか、イヌ畜生にも劣る待遇で、
完全に人間性を抹殺された生活を余儀なくされ、多くの同胞が手当も受けずに、栄養失調
や過酷な労働の中で倒れていった体験はトラウマとなり、永瀬氏同様、深い心の傷跡を
残していた。
ドキュメンタリー映画の中で語る元捕虜の言葉がそれを示す:
“敗れた軍隊として我々はもう少し、人間的な扱いを受けてしかるべきだった。
戦闘中なら立場は対等かもしれないが、降伏したなら、それ以上踏みつけられる
べきではなかった。
捕虜になってから 医療品はたたれました。 数えきれない命が救えたはずなのに、
赤十字からの医療品は我々の元に届きませんでした。
食糧も届きませんでした。 日本は我々を死ぬまで働かせようとしていたからだと、
みなそう信じています。
なぜなら、捕虜が亡くなるたびに、名誉なことだと日本人に教えられたのですから。
天皇ヒロヒトのために死んだのだと思ったものです。 とても信じがたい。
絶対に絶対に許せません。”
天皇のために捕虜が死んだということを その元捕虜に日本軍が教えたのか
どうかわからない。
少なくとも、日本軍兵士たちは “捕虜”となり、生きながらえることは恥だと
軍の洗脳を受けていたから その意味で連合軍元捕虜に使った “死は名誉” という
言葉だったのかもしれない。
永瀬氏は、元捕虜たちが こうした苦しい体験のさなか、手を差し伸べる立場で
なかったにせよ、日本軍の通訳として、かかわった”贖罪”をしたいという思いを
亡くなるまで抱いていた。
贖罪をすると同時に、少なくても、元連合軍捕虜達と同様に、苦しみ続けてきた、
元日本軍の通訳がいることを示そうとしていた。
結果的には、永瀬氏の人生をかけての、終始一貫した贖罪の心と、元捕虜達に対する
真摯な姿が彼らの心を和らげ、その後、実際、幾人かの捕虜たちと会って、和解する
きっかけになった。こうして、少しずつ、地道な努力を続け、敵であった捕虜たちの
憎しみを同胞の友情(愛)に替えたのだった。
さて、この物語の背景を詳細に書いたのは 妻の佳子さん{以後、奥様と書く}の
最後の慰霊の旅をよりよく理解していただくためだった。
奥様は135回に及ぶ夫 永瀬氏の慰霊の旅に、体を悪くする前までは毎回同行された。
が、肝臓病で、2006年~2009年の間 肝炎のため入退院を繰り返していた。
私も夫と2008年に倉敷市の川崎病院にお見舞いに伺ったことがある。
1994年に 奥様が仏教巡礼の旅の途中ニューデリーの拙宅に泊まって
以来のゆっくりした時間が流れた。
永瀬先生とは何度かお会いする機会があったが、裏方に徹した奥様のことは個人的
に知る機会はあまりなかったが、今回*ドキュメンタリー映画の中で奥さまの言葉
に何度も涙した。
そして強い愛に支えられた生命力を映像を通してまざまざと感じたことだった。
次回は ドキュメンタリー映画の内容の展開をお伝えしたい。
続く)
* ”クワイ河に虹をかけた男” 満田康弘監督 上映時間 約2時間
東中野西口から徒歩2分 ”ぼれぼれ東中野”(tel:03-3371-00で
9月16日まで上映中