自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

敬愛する永瀬先生のドキュメンタリー完成~

2016年08月31日 | 協会ホームページ

 

タイメン鉄道:巡礼の旅 2016・8・31

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握手できる ただ一人だけの日本人” と言いながら老齢のイギリス紳士が

一人の頬のこけた日本人に手を差し出す。 

あなたはすでに我々の間ではレジャンドだから”とつけ添えて。

その老紳士はかつて第二次世界大戦に捕虜となり、日本軍の泰緬鉄道建設に

従事した兵士だった。

1942年7月から1943年10月の間、足場のない岩場とジャングルを切り開いて、

タイとビルマの間415キロ㍍かけて走る鉄道だ。

それは、インパール作戦(印度北東部)に向けて人員・物資を運ぶための目的

だったから 日本軍は一刻も早く完成させるために、捕虜たちを“消耗品”のよう

に心なく扱った。

 

かかわった捕虜の総数、6万人、現地アジア労務者25万人、20世紀初頭、

イギリスが10年はかかるとその鉄道建設をあきらめた同じルートを わずか

一年3か月ほどで完成させた。 

 

少なくても捕虜たちは1万3千人の犠牲者を出したといわれ、“死のレイルウェイ”

と呼ばれた。

捕虜として多くを占めていたイギリス人、オーストラリア人、オランダ人たちは 

帰国後、その時に受けたトラウマをかかえ、心身症、ノイローゼ、精神病などに

悩まされ、日本軍、ひいては、日本国、日本人に対して、許せない感情を

抱き続けて生きてきたという。

 

 以前ブログでもご紹介した、イギリス人元捕虜、エリック・ロマックスの自伝映画 

“レイルウェイ・運命の旅路”(2013年)では、 当時日本軍に受けた拷問を夜な夜な

悪夢で繰り返しみて、妻を驚かすほどの奇声を発し苦しみ続けたすがたが、

描かれている。

 

さて、拷問を受ける捕虜の傍らで通訳をした人物、映画では 俳優 真田広之が演じた 

永瀬隆氏こそ、冒頭の“レジャンド”と呼ばれるその人であった。

 映画ではドラマチックな演出とロマネックス氏の苦しみと憎しみに焦点があてられて

いたので、事実とは多少違う点があり、永瀬氏の元捕虜とのその後の関わり合いの

点では、少しピントがずれていた感があった。 この点は永瀬先生の半生を知る人は、

共通の意見であり、むしろ永瀬先生がこの映画をご覧になる前に他界されたので、

ご覧にならずに良かったかもしれないという意見も出たりした。

 

さて、今回、新たに 忠実に永瀬氏の足跡を描いたドキュメンタリー映画が完成した。 

長期にわたり、永瀬先生の活動を密着してまとめてきた瀬戸内海放送のディレクター 

満田氏が監督して、とても胸を打たれる作品となった。

 

冒頭の言葉、永瀬氏がレジャンドといわれた理由はこうだ。

通訳として人間的に許され難い行為(日本軍による捕虜に対する虐待や拷問など)に

かかわった永瀬氏は その事実にクリスチャンとしても1人の人間としても、日本軍の

捕虜に対する非人間的扱いに加担したという深い苦しみを背負っていたに違い。 

 

ドキュメントの中で永瀬氏は言う。

“戦争から帰ってきて 心身ぼろぼろだった。

そんな自分を立て直すための努力が、反戦運動になり、個人的な

戦後処理になって、ここまで来たのです”

 

戦後間もなく、連合軍の元捕虜の墓地捜索隊の協力を乞われ 戦没者の無残に散らばった

骨を収集しながら、鉄道建設元捕虜の慰霊を生涯の目的とすることを決意する。 

妻の佳子さんとともに、1964年から2009年まで135回の巡礼を行い、その間、クワイ河鉄橋

で元捕虜との和解活動も行った。

 

この和解活動は決して平たんの道のりではなかったことは言うまでもない。元イギリス軍

の中には 日の丸を焼いて、女王陛下が日本を訪れる際、抗議したほどの日本への憎しみ

があったからだ。

彼らは捕虜として、人間として 正当に扱われないどころか、イヌ畜生にも劣る待遇で、

完全に人間性を抹殺された生活を余儀なくされ、多くの同胞が手当も受けずに、栄養失調

や過酷な労働の中で倒れていった体験はトラウマとなり、永瀬氏同様、深い心の傷跡を

残していた。

 

ドキュメンタリー映画の中で語る元捕虜の言葉がそれを示す:

“敗れた軍隊として我々はもう少し、人間的な扱いを受けてしかるべきだった。 

戦闘中なら立場は対等かもしれないが、降伏したなら、それ以上踏みつけられる

べきではなかった。

捕虜になってから 医療品はたたれました。 数えきれない命が救えたはずなのに、

赤十字からの医療品は我々の元に届きませんでした。 

食糧も届きませんでした。 日本は我々を死ぬまで働かせようとしていたからだと、

みなそう信じています。 

なぜなら、捕虜が亡くなるたびに、名誉なことだと日本人に教えられたのですから。 

天皇ヒロヒトのために死んだのだと思ったものです。 とても信じがたい。 

絶対に絶対に許せません。”

 

天皇のために捕虜が死んだということを その元捕虜に日本軍が教えたのか

どうかわからない。 

少なくとも、日本軍兵士たちは “捕虜”となり、生きながらえることは恥だと

軍の洗脳を受けていたから その意味で連合軍元捕虜に使った “死は名誉” という

言葉だったのかもしれない。

 

永瀬氏は、元捕虜たちが こうした苦しい体験のさなか手を差し伸べる立場で

なかったにせよ、日本軍の通訳として、かかわった贖罪”をしたいという思いを

亡くなるまで抱いていた。

贖罪をすると同時に、少なくても、元連合軍捕虜達と同様に、しみ続けてきた、

元日本軍の通訳がいることを示そうとしていた。

結果的には、永瀬氏の人生をかけての、終始一貫した贖罪の心と、元捕虜達に対する

真摯な姿が彼らの心を和らげ、その後、実際、幾人かの捕虜たちと会って、和解する

きっかけになった。こうして、少しずつ、地道な努力を続け、敵であった捕虜たちの

憎しみを同胞の友情(愛)に替えたのだった。

 

さて、この物語の背景を詳細に書いたのは 妻の佳子さん{以後、奥様と書く}

最後の慰霊の旅をよりよく理解していただくためだった。

奥様は135回に及ぶ夫 永瀬氏の慰霊の旅に、体を悪くする前までは毎回同行された。

が、肝臓病で、2006年~2009年の間 肝炎のため入退院を繰り返していた。

私も夫と2008年に倉敷市の川崎病院にお見舞いに伺ったことがある。 

1994年に 奥様が仏教巡礼の旅の途中ニューデリーの拙宅に泊まって

以来のゆっくりした時間が流れた。

永瀬先生とは何度かお会いする機会があったが、裏方に徹した奥様のことは個人的

に知る機会はあまりなかったが、今回*ドキュメンタリー映画の中で奥さまの言

に何度も涙した。 

 

そして強い愛に支えられた生命力を映像を通してまざまざと感じたことだった。

次回は ドキュメンタリー映画の内容の展開をお伝えしたい。

 

続く)

 

* ”クワイ河に虹をかけた男” 満田康弘監督 上映時間 約2時間 

東中野西口から徒歩2分 ”ぼれぼれ東中野”(tel:03-3371-00で 

9月16日まで上映中

レール上の葉 無料写真

 

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菊の花が皇室のご紋章として使われている背景は?

2016年08月20日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

815日の戦没者追悼式の檀上一面に

飾られていた黄色い菊の花にちなんで

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 菊の花イラスト に対する画像結果菊の花イラスト に対する画像結果

今、自然治癒力セラピー協会で

続けている"秀真(ほつま)伝え輪読会" 

は早一年半を迎えている。 

この頃は原文も読みながら、

第15綾に入った。

以下、須田真紗子女氏の 

”超古代史秀真伝 上”からの意訳を読むと、

 

“楠日(尊)よく聴け

菊桐(ここり)姫(ひめ)の語ることあり。

国常立尊(くにとこたちのみこと)

は千万歳の間、尽(ことごと)く

地球八面(やおもて)を巡りて、

睹(と)補(ほ)珂(か)味(み)柍(え)

微(ひ)汰(た)佲(め)の八神を生み給う。”

 

国常立尊(くにたちとこのみこと) 

は 地球のあらゆるところを

廻って、それぞれの地を治めるべく、 

ト ホ カ メ ミ エ 

ヒ タ メ とそれぞれ呼ばれる

8神を生み、地球上各地に配置した。

 

それぞれの神々は、いわゆる、

古代における文明の栄えたところ、

たとえば、メソポタミアや黄河

などのそうした地域ゆかりある

神たちだろうということを 

姑は話していたが、15綾では

その延長線で

考えるとわかりやすい。

 

つまり”カ”の神が統治した、

中国(現代の)では、”くろづみこく” 

と呼ばれる国が秀真時代に

存在し、その国からその国王

の娘が日本に渡り 天照大神

の祖父で師でもある、

玉杵(たまきね)の尊(みこと)

に 師事したと書かれているのだ。

 

玉杵の命(たまきねのみこと)は 

トの神、別名、国狭土

(くにさづちの尊)の5代継承者、

子孫にあたり、別名 豊受神

(とようけのかみ)と呼ばれて

いる。

その神様は、天照大神が若かりし頃、

現在の仙台付近の多賀の宮で、

天成神道(あまなるかみのみち)

を教えた神でもある。

 

その道は奥が深い、天なる君

として人民を統制する心構えから、

ヒトとしての道を説いたもので、

ここから、東北地方を、”みちのく”

つまり、”道奥と、呼ばれるよう

になったといわれる。

 

”カ”の国は、”華の国” と漢字で

書かれ、中華人民共和国の華も

その由来からきているのではないか

と思える。

 

さて、このあたりを、秀真伝え

では次のように記述している:

“其の中の一子は玄圃積国

(くろづみのくに)を治めしむ。

玄圃積国は元「力国」に当る故

赤県神洲と名付けり。”

 

さらに、

“此の時承(うけ)洲壹(すて)王(きみ)

の女(むすめ)は海を渡りて、

我が国の白山根(しらやまねの)国(くに)

に来たりて玉杵尊に良く仕えたり。

東王(ひがしのきみ)は感じ給いて、

菊桐(ここり)姫(ひめ)の妹と為して、

神仙の秘法を授(さづ)けます。”

 

東王とは、玉杵尊(たまきねのみこと)

をさし、白山根国には 玉杵尊の

従弟 アワナギ尊が住み、その長男

が天照大神の父上にあたるイザナギ尊

である。

ココリ姫は、イザナギ尊の妹である。

 

玉杵尊は、海を渡って天なる道を

学びに来た、”カ” の国の王女を、

ココリ姫の妹の立場を与え、教え

を授(さず)けた。 

王女はその教えを受け 嬉々として、

帰国するが、再び、日本に来て、

次のような相談をする。 

秀真伝意訳では次のように描写される。

 

“喜び帰る承洲壹王の女は、後に

崑崙(ころひん)王(きみ)に嫁(か)して

一子を生み、玄圃(くろその)積王 

(つみおう)と名付くなり。

 

其の後、西王母(さいおうぼ=

王女が嫁いでからの称)は再び海を

渡りて来朝し、歎(なげ)きて曰く、

 

「我が崑崙(ころひん)山本(やまと)

国(くに)の人々は、天成道を

教えんとすれども遇(おろ)かにして、

獣肉を嗜(たしな)み、過半の民は

穢食に堕(お)ちて、万民は日夜殀殕

(はやかれー早死)するなり。

 

故に百歳や二百歳の寿命に短縮し、

稀には千歳・万歳の寿命を得る

者あるも、平均千歳を保たず。

西王母はこれを歎(なげ)きて

警(いまし)むるも、日々肉(しし)を

食(く)いて止まず、然れども

支那(しな)王(ぎみ)と云う者

在りて、千代見草の如き

ものを尋ね求むと云えり。

 

朕が心身も、この愁(うれい)話

(ばなし)を聴くも耳(みみ)垢(あか)

つきて穢れたり。

よって潮(うしお)に洗い滌(すす)ぎ

て禊(みそぎ)をなすなり。

寿(ことぶき)を観(み)て歓(よろこ)ぶ

も天道にして、また殀(かる)を

聴(き)きて、哭くも地(つち)の

理(ことわり)なり。“

 

現代訳にすると、

”中国の崑崙山のふもとにある、

カの国の国民は 

玉杵尊から伝授された天成道

(あまなるみち)を玉杵尊

から授けられ、

戻ってきた王女を通して教えられる。

 

が、人民たちは、獣肉を食する

ことは、穢れ多く、短命になる

ことを学んだにもかかわらず、

改めることなく、不摂生がもとで 

天命をまたず死んでいくものが

多いことを憂い、再び、

王女は来日して、嘆いた。”

 

寿命が短くなったといっても、

当時の人間寿命は、現代人よりはるかに

長生きである。

平均千歳というから驚きだ。 

さて、天照大神は以下のように

王女の悩みに答える;

 

“故に朕(われ)は長寿の道を

授けんと欲す、宜しく思え。

生命は一身の宝なり。

諺(ことわざ)に云(い)う試(こころ)み

にも毒を食(くら)う勿(な)かれと。

今万人の主君も一人の生命に

代る者なし。

 

而して時の来たらぬ殕(か)れは、

心苦しみ身(み)悩(なや)みて

神緒の縒(もつ)れて解けず、

魂魄は天の元宮に帰らず。

齡(よわい)を保ちて天命の時

来たりて、自ら殕(か)るる者は

苦しみ無くして、楽(たのしみ)なり。

この楽を得んと欲するには、

性(こころ)を養うにあり。

性(こころ)を養う楽の種なればなり“。

 

現代訳では

”それでは、長寿の道を授けよう。 

命は宝であるから、毒素を出す

食べ物(穢れ、縮み、命を短縮させる

食べ物~例:四足の肉など)は 

とらない事。 

 

寿命(天命)を全うして死ねない

要因、つまり、悶々とする心や

体の不調は 神とつながっている

コードがもつれて解けていない

からだ。

そのために、死後、魂は 

本来行くべき”天の本宮(もとみや)

に帰ることが難しい。

 

  菊の花イラスト に対する画像結果菊の花イラスト に対する画像結果

次に 天照大神は菊の花の意義

を説く。

 “それ菊花(ここなし)は期(とき)を

待ちて殕(か)るる故に、

花の匂(におい)芳(かんば)しきなり。

人の身もまた是の如し。

常に清(すが)糧(かて)・

清(きよ)菜(な)を食(は)み、

寿命万歳を永らえて生命尽きる

者は、屍(おもむろ)の匂(におい)

芳(かんば)しきなり。

菊花の匂の如しなり。“

 

意訳は、

菊花は 枯れるべき時まで、

花を保ち、枯れる時に放つ、

花の香りはさわやかで香ばしい。

人も同様で、きよらかな材料

(汚染されていたり添加物がない

新しい食材)で 菜食を

中心にした食生活をしていれば、

天命は万歳に達し死んだ

あともその屍(しかばね)は

死臭なく、菊の花のような、

さわやかな芳ばしいものである。“ 

 

インドに15年もいると、死者の

葬儀(遺骨は必ず、聖なる河=

ガンジス河やヤムナ河に

持っていき、流す)にも

何度か呼ばれた。

 

特に、聖人といわれる人の

死体は あの真夏50度にも達する

外気の暑さにかかわらず、

腐食せず、まるで生きて

いる人のように 皮膚はなめらかで、

光沢があり、肉も硬直して

いなかったという話は

何度か耳にした。

 

その方たちの生きていた時の

食生活はと聞くと、菜食で、タンパク質は 

木の実や豆類、ヨーグルトは

自家製で、ナッツを食し、油はギー

(牛乳の純粋脂肪)、主食は

アタと呼ばれる 全麦粉の一種で

作られるチャパティで少量いただく

程度であった。 

 

夕食は日暮れを過ぎるととらず、

一日に多くて2食、シンプルな食事

だったと聞く。

 

天照大神はさらに続けて 菊の花の

”見えざる日と月”の要素の関係

を以下のように教示される。

“稉(うるち)は日の種にして、

菜(な)は月の種なり。菊は日(ひ)・

月(つき)を以って化生(なる)故に

清(きよき)香(かおり)あり。

 

人の両眼(めのたま)は

日と月に配する故に、菊を

食えば眼晴清明(めたまあきらか)

となる。

これ菊と日・月は同気を感ずるによる。 

而して天成道を以ってすれば、

人と神と同気を感ずる故に、朕は常に

菊を愛(め)ずるなり。“

 

意訳すると、

日本のコメは 粳(うるち)と

呼ばれるが、これは陽の波動を含む。

菜っ葉は陰の波動、”うるち”

は日の陽の波動、これは、菜っ葉は月の

元が含まれ、コメには陽の波動が含まれる。

 

一方、菊の花はといえば 日と月の

両要素を含むという意味で、

価値ある花なのだ。食用菊は 

眼に善いという。 

それは ヒトの眼もまた、

菊と同様、陽と陰からなるからで、

波動の気が合うからだ。

 

この食生活の教えも 天成道では

大切な教えで、人と神とは 

天成道を生きてこそ、同質の気

をもち交流できるので、 

天照大神は 菊の花を 愛する

のである。”

(秀真伝15綾より)

 

菊のご紋章というように、

古来より日本の皇室と菊の花

は深い関係があったのだろう。

このようなホツマツタエの話

を読むと、天照大神がこよなく、

菊の花をめでていらしたと

いうところに、日本人が菊の花に

対して特別な想いを抱く理由が

わかる。

菊の花が、ご紋章に使われている

起源も、太古の昔のこうした

お話の伝承にあるのかもしれない。

 

  菊の花イラスト に対する画像結果菊の花イラスト に対する画像結果

 

 

 

 

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絵に描いた餅ではない、真理が与える癒しの解明

2016年08月15日 | 健康と直結する”一元論”について

 

キリスト教科学に見る形而上的癒しとは?   2016/8/15

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ステンド グラス, スパイラル, 円, パターン, ガラス, 宗教

 

ギータを意訳しながら、これを意訳する意味を考えていた。

ヒンズー教の理解でも、異文化の古代史紹介でもなく、ただ、

真理が癒しとしての働きをなすということを体感していただく

ためだった。

どのような宗教でも 哲学と異なる点が一つある。

宗教は 全人格的にその人の生活に影響を与えるものだが、

哲学は論理や倫理という範疇に留まりやすいということだろう。

マルクス論は宗教ではないが、一つのイデオロギーだから、

中核派などの過激な思想を生む背景になる。

イスラム国は、イスラム教の聖典、コーランをそのような全人格的な

洗脳の手段として使い 全世界の敬虔な穏やかなイスラム教信者が

眉をひそめる。

だから、宗教とは 全人格的にその人の行動や規律に影響を与えると

ともに、幸せ、調和、繁栄をもたらすもので本来あるべきなのだろう。

ギータの内容はクリシュナ神が 人間の存在論にあたる真理を 

アルジュナに戦場の中で語るのだが、その内容は人間とは?という

本質論に応えを出している。

人は 人生の中で、いつかは自分自身の内面を、全面的、包括的に

見つめる時期を知る。

時期が尚早か遅いかの違いがあっても。

そのときにその答えのよすがとして語られたのが ギータであった。

ギータを真に読み込めば、必ず、病、精神的、身体的の症状が軽減

されると私は信じる。  

ギータだけではなく、そのような真理 を説く、先人たちを信じた

人々は、実践的体験をしている人が少なくない。

キリスト教科学 を創立したエディ夫人もその一人だ。

I have set forth Christian Science and its application to the treatment of 

disease just as I have discovered them. I have demonstrated through 

Mind the effects of Truth on the health, longevity, and morals of men; 

and I have found nothing in ancient or in modern systems on which to 

found my own, except the teachings and demonstration of our great

 Master and the lives of prophets and apostles. 

訳)私は キリスト教科学とその病気治療への関連性を確立した。 

いわば、発見したと言える。 

真理が心の働きを通じてもたらす健康、寿命、人類の道徳性への

影響を実証してきた。 その確立はキリスト、預言者、使徒たちの

命を賭した実証的教えによるもので 過去未来のいかなるシステムも

私にそこまでの影響を与えるものではなかった。

 

ここでわかるように、エディ夫人は徹底的に聖書の中の言霊を

現代の生活に生かす方法を解説し多くの信者たちの病を癒したことは

有名だ。

その手段はただ、キリストの言葉、生き様、であったとここで述べて

いる。 それは 聞いた人達に、意識の変革をもたらすだけの強さに

満ちていたのだろう。

The point at issue between Christian Science on the one hand and 

popular theology on the other is this: Shall Science explain cause and 

effect as being both natural and spiritual?

訳)キリスト教科学と他の神学の教えでは次の論点で対立している。 

科学では原因と結果は双方自然かつ霊的であると説明できるか否か?

 

ここで多く存在するキリスト教を背景とした派の教えと 

クリスチャンサイエンスの違いを述べている。

一般的キリスト教では、神秘的かつ霊的なイエスの奇跡は 

一般的ではなく、超越的であり、はるかに我々の一般的肉体能力を

超えたものであるととらえていたから 科学は科学、宗教は宗教と 

一線をひくものだった。

が、エディ夫人は(物質的感覚を超越した原因があっても、それは 

超自然的、あるいは オカルト的な存在ではなく自然に存在している

ものととらえてる。

それがイコール霊的であるという以上、霊的存在も自然な存在という

ことになると捉えた。

だからこそ、真理の言葉はキリストの聖書に書かれた言葉のとおり、

真理は汝を自由にする という、

その病からの自由、不幸からの自由、霊的苦しみ束縛の自由を実現

させた。

ここで クリシュナの話に戻れば、クリシュナの言葉はその後、

印度の多くの聖者たちにとりあげられ、そのエッセンスをくみ取られ、

伝えられ教えられてきた。

そして、それによって、年をとらない人、病を超越した人、常に心に

至福を感じていられる人、つまり、そういう人たちはヨギ と呼ばれ、

古代から存在し続けていた。

エディ夫人の伝えたキリストの真理とクリシュナの述べる存在の真理

とどこが違うのだろう? 

違いはない・・・ 真理は一つだから すべての存在を網羅している

から 真理といえるのだ。 

ここだけにしか通用しない、この言葉でしか語られていない、

こういう条件の人にしかあてはまらない~という限定は

その真理が真理ではないというパラドックスを生む。 

それはまるで神は ~神 だけが唯一無二の神だ と主張すれば、

その神を その概念内で限定し、実に小さな神にまとめてしまうに

似ている。

真理は変わらない。 すべてに適応できる。 それはある意味 

科学である。

だから エディ夫人は “All science is divine.”(すべての科学は聖な

るものである)と言う。

エディ夫人がクリスチャンサイアンスを創立して 多くの信者たちの

病が癒されたのは真実だった。 

それは “意識で病は造られているから、意識をキリストの光に

満たせば、病は消える”という徹底した信仰だった。

その意識の改革、中途半端ではなく、徹底した努力と疑いのない

信仰に基づいていた。

 

真に健康になる、ということは、薬だけではなく、医師のケアだけ

ではなく、自分の心の転換 、そのための エネルギー、が必要なの

だろう。

そのエネルギーこそ、“自分は誰か?” “自分は聖なる存在である”と

いう質問、つまり、自分の内側に向き合うことそして、どの宗教の

根底にもある、

“人間神の子、無限力、無限生命”という真理を受け入れることに

生まれる、意識転換から生じる

エネルギーに他ならないと 実践の場、現場の体験、から 

切に感じるのだ。

 

 注 )引用部分は原著”Sciene And Health With Key To The Scriptures"

by Mary Baker Eddy,1982 published by The First Church of Christ. Scientist,

 Boston, Massachusetts, U.S.A

 Chapter 6,”Science Theology, Medicine” line-126

 

修道院, ガラス, 宗教, アーキテクチャ, 教会, 建物, ウィンドウ, 染色

 

 

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クリシュナのいう、カルマヨガの意味

2016年08月04日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

2016.8.4

****************

第三章はクリシュナがアルジュナに、ヨガについて語る章だ。

ヨガとは、ここでは、神と一体になる術(すべ)を指している。 

呼吸法体操として一般的になっているヨガ体操も、本来は“ヨガ”行為の一つだ。 

クリシュナはこの章の冒頭でヨガには大きく分けて、二つあると言う。

一つは智慧(聖なる知識)を得ることによって、もう一つは仕事や行為によって

得られる'行動によるヨガ'だ。  

この二つのヨガは一人でじっと自分の世界に浸ることを好む人と

誰かと一緒に行動しているほうが楽しい人、 

じっくり考える人と直情的に行動する人、

社交的・内向的な人 などにも伺える人の二面性に基づいているようだ。

クリシュナはアルジュナに問う

“He, who controls his senses but mentally is mulling over the objects

 of the senses,

 is called hypocrite, But Arujuna, he, who controls his senses with his mind 

focused on divinity and uses his senses of action to begin doing action 

dispassionately , is really an exalted person.”(原文3-6,7)

訳)

五官を制しているも、気持ち的には感覚の対象物の周りから離れられない人は

偽善者と呼ばれる。 

が、アルジュナ、五官を制したうえに、 

心を聖なる存在にぶれずに焦点を合わせている人は 

五官の機能を駆使した行動は 控えめに行うもの、そういう人こそ、高潔と

いえよう。

さらに続けて

you  must carry out the action allotted to you. Being active is better than 

being  inactive – don’t you agree?  Inaction makes it difficult for the body 

to carry out its basic functions.  Look, Arujuna, in this world actions that are 

done without giving up the desire for results, bind one to further actions. 

Therefore, unconcerned with the result , do your allotted action very well.”

(原文3-8,9)

訳) 

決められた分担としての仕事は果たさなければならない。 

活動的なのは非活動的より望ましい。 

そう思わないか? 非活動的だと、時には、身体の基礎的働きすら困難に

なりがちだ。 

ご覧、アルジュナ、 この世で 何かを為す時、結果を求めず、行ったとき 

次の行動へとつながる。 

だから、どういう結果になるかを気にせず、今与えられている仕事を十分に

果たすことだ。

***

クリシュナによれば、創世期、人は神に 犠牲の精神 を植え付けられて

誕生したという。

犠牲という言葉は ここでは’人のために自分の利害を置いて何かを行う’

という意味のようだ。 

神は人を祝福し、“その犠牲の精神の中に己を確立し、それがために汝の望みは凡て

叶うように。 

その心にて、神の働き(五官の機能も、本来は神の働きでこれによって、

五感が生まれ、行動し、さらに、身体のチャクラで象徴される

7つの精神的段階も生まれる)を崇め、喜び、守るが良い。 

その代わりに天使たちは汝を崇め、喜ばせ、守るだろう。 

この相互関係の働きで汝は高貴なものを得れる。 

そのような犠牲の心をもって 崇められた神の働きは、その心を喜び、

汝に望む喜びの源を与えるだろう。”

(原文 3-10、から 3-12)

 

人は考えれば、無意識に犠牲的精神を活用して人生の喜びを得ている

ような気がする。 

赤子時代はほとんど記憶が無いにせよ、その無垢な微笑みや行動一つ一つが

周囲の大人たちを喜ばせている。

義務教育を受ける年頃から、親の期待に沿うように、外

で遊びたい年頃の余暇時間を、

犠牲にして、塾や習い事で満たす。 

こうして教育期間を終えて、社会に出れば、会社のために自己を犠牲にして、

心身 すり減らすストレスを組織の中で受けながら、会社の利益向上の

ために働く。 

結婚すれば、家庭ができ、親たちは住むに良し、勉強するに良し、

心身発育に良しという環境をつくりあげるために 犠牲的に献身する。

日本語の犠牲という言葉は、悲哀感があるが、まわりを喜ばせるために愛のために

自ら 進んで、他利のために心身のエネルギーを投じるという意味でクリシュナは

使っているのだろう。 

クリシュナの言葉によれば、それは、本来 ヒトが持っている、性質であるから、

’人のために、喜んでもらうためにそうしたい’という意欲がそこにはあるからだ。

統計的には事実かどうかわからないが 独身者より、世帯を持っている人たち

の方が養う家族がいるにもかかわらず、貯蓄や、財産が多いという。

こうした 犠牲的精神で家族のために働き、倹約しながら貯蓄するという生活が 

クリシュナ的に言えば、神が喜び、自然と、望みが叶う生活に連鎖する。 

親になって、愛する家族のために 働き甲斐もでるし、家族の団欒に、

疲れも癒され、新しい気持ちでまた頑張れるという体験は、どの親も共通だろう。

献身的な妻の効力で 負の財産を立て直したり 投資運用で器の大きな家に

10年ごとに移り変わっている知人もいる。 

妻を養うと自分の自由になる時間も金も減るという人より、

夫婦一体で頑張っていると、資産は増えるケースが多いと聞く。

 

結果を案ぜず、今与えられている仕事に全力をつくす。 

この大切さをクリシュナは何度も語る。 

どのような結果になっても、今、全力を尽くして出てきたのなら、

それはそれで 次の仕事や行動につながることができるからだと、言う。 

私たちは 予定をたてても、その予定通りに行かない事を多々経験している。 

様々な要素、その予定を成功させる条件、タイミングなど、すべてを計り

うることは不可能だ。 

予定をたて、シミュレーションをたてることはできても、現在意識で

考えられることはたかが知れている。

’人の意識下にある、潜在意識’が その人の行動を ほぼ、コントロール

しているという心理学的観方から言えば、今、意識しているこの心の持つ

情報量は、潜在意識にためられている1%にも満たない。 

だとすれば、今の行動の結果、働きの結果が仮に予測できたとしても、それが 

将来にどのようにつながっていくかは予測はできないだろう。

悪い結果が出たとしても、今の時点で、悪く見えるのであって、時間がたてば、

その失敗のおかげでこうなったという成果がわかるときが来るだろう。

 

今 為すべきことを一生懸命に誠意をもって、行う大切さは 

そういうことなのだろうと感じる。

そして、人に奉仕するときは、仕事でもボランティアでも、

常に神に対して向き合うよう誠意を尽くすこと、それが、クリシュナのいう、

’カルマ・ヨガ’(行動のヨガ)に通じるのだろう。

 

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