自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

聖書とヴェーダの共通語”AUM”

2015年02月27日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 3つのグナ(属性)とAUM   2・27・2015

 ******************************************

一元論哲学をサンスクリット語でADVAITA と呼ぶ。

以前 ブログでも書いたように"すべては一つの大元に帰一する"

という考え方が一元論の根底にあるが、現象的には様々な形で

顕れ、特に、3化という表現体をとるとされる。

サンスクリット語の、Mithya(unreal)=非実存的で、

maya(illusory)=幻影的なこの現象世界での最終的ゴールは

”悟り”ということだ。

悟ると、この非実存的、幻影的事象に惑わされずに、実質を観て

この現象世界に再び生まれかわることはないという。

 

その悟りのエッセンスの波動が、”Aum”に凝縮される~と先覚者たちは

教える。

 

つまり、Moksha(Salvation)=輪廻転生を繰り返さない

ための智慧を得て悟りを得ると言うことは、現象の奥に存在する本当の

実在と智慧者を被う殻を破ることに他ならない。

 

話を戻して、この”三つで一つ”の例を出せば以下のようになる:

.創造神、維持神、破壊の神 

~ それぞれ、Brahama, Vishunu, Shiva と呼ばれているが

この三神の要素は私たちの本髄、Atman[アートマを体現した人]に

帰結する。

・覚醒、夢、熟睡 ~の三つの段階は、覚醒した意識あるいは、

 超越意識の中で一つに帰る

 ・事象物の三つのグナ(属性)、Tamas, Rajas, Satva*1)は 

人間の持つ神性の中で一つになる。

 身体、話す言葉、心、は本来一つだ ~つまり、心で思う想念は言葉に

なり発せられ、言葉による波動が体調に影響を与え、心身一如であるという

東洋的考え方につながる。

 

AUMがなぜこうした 一成るものの象徴の波動 といえるのだろう?          

ヴェーダ(*2)によると:

”I am One; let Me become Many”

“私は壱なるもの、私をして多岐に成れ“。

一つなる生命が生きとし生けるものの中に流れ、一個の星が無数の星と連なり

延久無辺の一つの宇宙を為す。

風や空や、水や土といった自然の元素は多岐にわたりさまざまな現象を

もたらすがそれも、大自然という一つの営みの中の変化にすぎない。

一成るものは無数に姿を替えて、その本来の姿をくらましながら私たちの

身の回りに多様性をもって存在する。

そういう、私たちの体も然り、皆同じ本質でつくられているのにもかかわらず

一人ひとりの個性は現前と存在する。

地球上に自分とまったく同じ人間がいないのに、人類という大きな枠組みに

くくれば、一つのまとまりにまる。

 

先に上げた言葉と並行して ヴェーダには

”Prajapati vai idam agra asit”(With whom was the Word=言葉はともに在り). 

“Vag vai Paramam Brahman”

(And the word was verily the Supreme Brahman

=その言葉は全能の神にあり), とある。

この言葉の真髄こそ、AUM の波動だ。

 

ここで多くの方は旧約聖書の一節を思い浮かべるに違いない。

まさに そこにも同様のことが書かれている:

These things saith the Amen, the faithful and true witness, 

the beginning of the creation of God”(Revelation 3-14) ~ 

これらの物はAmenという、信仰深き真なる目撃者、神の創造の始まり

でもある。 

これらのモノ、つまり、創造物はすべてAmen(AUM)の波動を言う

(放出して)神の創造されたことの証しをするために、天地創造を神は

創り上げていく。

 

聖書の他のラインには、

”In the beginning was God…All things were made by him 

(the word of OM), and without Him was not anything 

made that was made” (John 1:1,3)

~すべての始まりは神だった・・万物はOMという言葉である神によって造られ、

創造主以外に造られるものは何もなかった。“

ともある。

こうしてみていくと、聖書と Vedaに記述された 神の波動、言葉がAUM

Amenであったと記述され 共通認識が見つけられる。

 

最後に、近代のヨギの中で最も有名な一人、ヴィヴェカナンダの言葉も

参考にご紹介したい。

”神は言葉なり、OMなり”

“原子段階の物質を構成する秩序ある世界を作り上げた力と意識こそ、

AUM の言葉の波動である。それは万物の生きとし生けるものの中に貫く、

神の意思に等しい。”*

 

 

(*1)Tamas~タマスは、鈍感で怠惰、無知で闇、という属性を持ち、

時間帯でいえば、夜7時以降日の入り後自然界が眠りに入る時間帯にあたる。 

Rajas~ラジャスは劇性を持ち、行動的、熱、火、などの属性を持つ。

一日の時間帯では人間が活動的に社会的に働く時間帯にあたる。 

Satva~サットヴァは、純粋、光、聖なる静けさを象徴し、日の出前、

日の入り前の寺院での宗教的儀式が行われる時間帯にあたる。

(*2) Chanodgya Uapnshad6・2・3;Taittiriya Ypanishad 2・6

(*3) 

”To enable the spirits to enter into this process, 

 God breathes forth His own Self as the Power 

 from which is manifested all the realms of relative existence, 

from the most subtle worlds of nearly perfected beings

is the most objective worlds of atomic matter"

from the “OM” by G.Sridhara lyer Omkar Offset Printers,2010



 

 

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普通人?超越人?

2015年02月24日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

  宇宙意識に満たされた身体的特徴      2.24.2015

*********************************************

 

ヨギの最高段階の意識を サピカルパ・サマディ と呼んでいる。

瞑想の中で意識を宇宙意識の中に完全に一致させた状態だ。

この時 身体の特徴的兆候がある。

肉体は死んだように硬直している。一方、魂は、その肉体を忘れることなく

意識している。

 

さらに 進んだ境地を ニルピカルパ・サマディ と呼ぶ。

この域に達すると、肉体的硬直はともなわず、日常普段の生活を

しながら、宇宙意識に溶け込むことができる。

傍目に見ていては、一般の生活者と変わりないように見えるが

そのヨギの心は完全に超越意識に達しているのだ。

 

シュリ・ユクテスワは ヨギになる夢を持つ弟子たちに次のように

説明している。

ヨギは 呼吸を不必要にする独特の技法によって、普段、

心臓の鼓動を維持するために消費されている生命力を心臓から解放し、

この解放された生命力を霊的進化の促進というより高い目的のために

利用するのである。”(引用終り)

 

生命力の利用、余剰に蓄えたプラーナを全身にはりめぐらすヨギの手法がある。

いわゆる、クリアヨガ と呼ばれる。

”クリヤを行うと生命力は意思によって、内的宇宙に導かれ、霊妙な

脊髄のエネルギーを再び合流する。

こうしてヨギの肉体と脳の細胞は生命力を補給され、この霊的不老薬

によって活力を更新する。”(引用終り)

 

どんな偉大で巨大な富と権力を持ってしても、購入できないものの

一つに 息 がある。

息をする、”呼吸を規則的に行う” ことで生命は維持されるが、呼吸が

薄いからとまとめ買いはできない。

身体が”車体”なら、ガソリンが息にあたるだろう。

車の走行には、切らすことができないガソリンに代わる”呼吸”を死ぬまで

し続ける、当たり前だが、どんなに偉大な人でも破ることができない法則だ。

 

一方、ヨギは 大自然に隷属せざる得ないこの呼吸の法則を 超えようと

している。

肉体と心の支配者になること、心を感覚器官から切り離し、直接生命力を

制御して、死をも征服できるようになるという

 

心を常に脊髄中枢の超意識レヴェルに置くことのできるまdのクリヤヨガの熟練者は

過去のカルマに操られることもなく、新たに因果の種をまくことがないため

迷妄(五感の妄想で創り上げられる世界)に影響されず、永劫の生命の中に自意識を

持つことができる。

肉体を持っている以上、その魂の皮袋を脱ぐときはくる。

それを持って 死とするのではなく、ヨギにとっては、この世にいながらにして、永劫の

自意識を持ったとき、迷妄に死に、新たな意識に生まれたいうのだろう。

それが 死の征服という意味でもあるだろう。

 

不二一元論、ヴェーダの真髄を現代的にわかりやすく説いたシャンカラ哲学で

有名な、シャンカラ翁は ’百詩選 ’を著書として残している。

そこに、ヨガを霊的探究として深めてきた先人や聖賢の意図を記している。

師は言う:

”叡智のみが無知を破壊する。

その叡智は 探究によってのみ得られる。

どのような探究か?

’自分は何か?

この宇宙はいかにして創造されたか?

これを構成している物質とはいかなるものか?’

と探究を重ねて、無知を破壊する叡智を生み出す。

人間の知能は これらの疑問には何の回答も与えられない。

ただ、心の探訪、霊的探究 によって得られる”(引用終り)

 

インドの古代から存続するヨガにはこのような深淵な目的がある。

いつの時代にも、心の探訪者によって掘り下げられ実践されてきた。

ヨギは常に、道にはずれることのないよう、神に祈り、そしてまた、

宇宙意識と一体になれる方法を与えてくれるように神に希った。

自分の中に神を見出すことは、傲慢になることでも優越意識に

ひたることでもない。

それは、他者、そして、身の回りすべてに対し、自分の中に流れる

大生命の祝福を見出すことでもあり、エゴという小自我がいかに

小さいものかを思い知ることかもしれない。

 

ヨギの求めに応じて与えられた道は、神の祝福とともに神からの、

コミットメント(約束)として人類に示された 大覚を得るための

一つの、手段ともいえるだろう。

 

 

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母の壮絶な気合と脳梗塞

2015年02月21日 | 協会ホームページ

インドに行ってまいります

***********************

介護などという言葉は畏れ多い。

 

母の自力の生命力、それが阻止されないよう少しでも

横から介添えしてきたという言葉の方が正しい。

それを見せつけられたのが、今回の母の回復ぶりの速さだった。

2月初旬土曜日、午前11時、アートマサロンを開ける前に

母に昼食を届けにいったときのこと。

母は倒れていた。 大便が床に転がり、汚れた下着をつけて

唸っている。

肋骨をおっているらしく、体の位置を替えられない。

しかも、上半身を起こそうとしたとき、少量だが茶色の液体を吐いた。

頭を打ってはいたとすれば、要注意だ。

すぐ救急車を呼ぶ。

 

ほどなくして救急隊が到着した。

係り員が母に聞く

おばあちゃん、意識あるの?大丈夫?”

母は明瞭な声で”痛い、痛い、”

と応える。

意識があるので、ほっとしたのか、10分ほどかけてあちこちの病院に

電話をして受け入れ先を探す。

まず、整形外科に運ばれた。 

レントゲンの結果、肋骨の先端が2本折れていた。

 

整形外科医師に、”倒れて吐いたのですが・・”というと、

”もう数時間たっていますが、これから

まだ吐くようだったら、脳外科に行ってください

と言われ、”特に何もなければ数週間で自然に骨もつきますから~”と言われた。

 

母はぐったりはしていて、徒歩も想うようにならず、自宅の階段を登れるかと

考えあぐねていたが、入院するほどではないと言われ、帰宅しようと、車いすで

駐車場まで来たとき、母は”気持ち悪い”と、言うや否や、思い切り 再び

吐き気に襲われてた。

 

すぐさま、再び、救急車が出動。

市内の総合病院の脳外科へアポがとられた。

 

MRIをとり、その結果を聞く。

”別に、脳に支障はないようですね。”

”脳梗塞だとしたら、こんなに元気なはずないですよ”

という医師に

”4年前、国立S病院でMRIを取ったとき、動脈瘤があり、

いつでも くもまっか になってもおかしくない状態”と診断されたというと、

”?そうですか? 何もないですよ”

と医師。

 

その動脈瘤が今回、破裂したかもしれないという可能性は全く

考えていないみたいだ。

 

母は、頭が割れそうに痛いとつぶやき、のどが渇いた水が欲しいと訴える。

水は飲ませれば誤飲につながり肺炎を起こしかねないから

上げる必要はないという医師に、あえて、点滴をお願いした。

自然治癒力一筋の体は、人の脳智以上に何が必要でいつ必要かも

分かって要求してくれるものなのだ。

 

吐き気ももうないし、脳梗塞だったら、こんな元気なはずはないから

吐き気は胃腸にヴィールス疾患があったのかもしれない~という判断が

下され、点滴をつけたまま紹介していただいた 総合病院へ救急車で

搬送された。

 

そこで血液検査など2回にわたって、精密検査の結果、

”異常ないですよ。 

数値はどれも皆正常。 白血球が多いのはヴィールス性の

何かではいた原因によるものでしょう。”と。

脚はふらつき、たっているのがやっとの母に、一日だけでもペッドを提供

してほしいと思いながら、

”歩けないのなら、どこか近場のホテルで泊まったらどうですか?”

という医師に、言葉もなく、母を連れて、筆者の家に連れて戻った。

 

夜は30分ごとの頻尿。

そのたびに、起こされる。

喉が渇いたとカルピスをコップに何杯か飲む。

そうこうして、3日目、いざってトイレまで行った母が相変わらず私を呼ぶが

こちらもさすがに睡眠不足と、施術をして休息が必要だったせいで、

半分体が動かず、じっと様子を見ることにした。

すると、”なんとしても、便器に立ち上がる!”と 声。

腰が立たない母、しかも肋骨が折れている痛みでまず、無理と

寝ながら考えた。

つかさず、分娩室の妊婦のような声でうなって、何度も力む声がした。

”う~ううんん” ”wuuuuuunnnn!痛い痛い!よいしょもう一度 うううううんん"

母は強し。

こうして子供を産み育ていくのかと夢うつつにまどろみながら考える。

 

数分後 トイレから物音がしない。

こちらも心配で眠気が覚めて、トイレのそばで様子をうかがう。

心配で覗き込むと、当たり前のように便座に腰かけている母。

それを見て、さらに、驚かされた次第だった。

 

こうして 絶対良くなる という本人の意思のおかげで、

3日目でデーケアにも行けるようになった。

車いすであまり、元気にいつものように大きな声ではきはきと活動して

いなかったけれど・・・と職員さんのその日の感想だった。

 

職員さんが 迎えに行った筆者に、不思議そうに聞く。

”お母さん、脳梗塞じゃないですか。

今日はよだれが出ていました。

右側の唇も モノを噛むとき噛みにくそうで”と所見を述べられたが、この症状は

すでに 家に戻って数時間後から、出ていたのだ。

セラピーをしながら、顏の数か所を軽く爪で叩いて痛いかどうか聞くと

何も感じないという箇所が唇の周り、目の周辺にみられた。

 

肋骨のせいで前かがみ、足もあがらないのかと思いきや、どうやら、軽い脳梗塞で

不自由になったらしい。

 

毎晩、添い寝しながら、セラピーをしていくうちに、少しずつその症状も和らいできた。

インドへの航空切符をすでにひと月前に購入していたがそれも半ばキャンセル

しようとあきらめていたが、主人がバンコクから 母が倒れて1週間後に、帰国した。

”今しか行けないかもしれないから、回復も早いし、自分が協力するから行ってらっしゃい”

と言ってくれる。

母が毎日デーケア―に行くのを見届け、夕方も母が帰って来る前に

迎える体制をとってくれるという。

”後から後悔したくないし、この体験は自分にも必要だとわかっているから。

次のステージに上るために”

と 有り難い覚悟を決めてくれた。

 

現在、2週間たって、母は、すでに食欲も出てきて、よちよち歩いて台所へいって、

洗い物ぐらいはできるようになった。

着替えも 服を種分けしておいておけば、スカート、セーター、上着と

気に入ったものを自分できれるまでになった。

認知症のスイッチが時々はいるので、混乱することはあっても

接する主人の優しい気性には 母も素直になるらしい。

日ごろ、自然治癒力 を念頭に自分をはじめ、家族に推奨してきたが、

このバに及んで、母の自然治癒力~ 治りたい、絶対治る、頑張れる~という

そのバロメーターの信念を含めて 衰えていないようだ。

 

アートマサロンは 来月半ばまで休業させていただき、インドへ予定通り

出国することにした。

ケアマネさん、施設の職員の皆様、他、友人や家族に支えられ感謝の一語に

尽きる。

 

関係諸氏にはご迷惑をおかけしますが、よろしく ご理解のほど、お願いいたします。

 

 

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王子と乞食/西洋的因縁論 

2015年02月18日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

シュタイナーの神智学と因縁説   2015・2・18

*****************************************************

 

2012年10月18日のブログに次のようにある:

”袖すりあうも他生の縁”は場所にも言えると思う。世界で南米、

北欧、日本、ヒマラヤの4か所に地球の地下王国である、

魔王の国の入り口があると”鞍馬山歳時記”に書かれている。

 

実際、地球の内部にあるかもしれない世界を考えると、

とても神秘的だ。

フランスの19世紀後半空想科学小説家の開祖といわれる、 

ジュール・ヴェルヌ も ”地底旅行”という題名で、地下世界に

ついて書いている。

UFOは宇宙から飛んでくると思っている方が多いが、基地は

地球の内部にあるという説もある。

魔界かどうかは別として、確かに、地球の内部にそうして世界

が広がっている可能性は全くゼロではないと思う。

 

先週のブログ”鶴川の秋”にも書いたように、ヒマラヤはシバ神

の故郷である。 

そのヒマラヤにも地底世界へと続く入り口があると、

鞍馬山・初代管主が書かれているのは興味深い。 

密教修験者が鞍馬山を目指したように、シバ神を信仰する

修行者はヒマラヤを目指す。

 

ヒマラヤと鞍馬山、護法魔王尊とシバ神、そして御不動様と

護法のお役目、などなど考えながら、鞍馬山に漂う霊気を

想いだしていた。

鞍馬山にはここのところしばらくご無沙汰している。

シバ神の聖地 ガンジス河にはデリーに毎年行くたびに訪れる

機会はあった。

そしていよいよ、今年、3月にはヒマラヤに行けたらと思うのである。

袖刷りあうも他生の縁 ~ 人が住むところ、訪れるところ、

心ひかれる場所などはきっと、前生に何か所縁のある、

魂がまだ記憶を潜在意識の奥底に残している場所なのに違いない。

インドに15年住み、そこで自分のアイデンティティーを発見できた

筆者にとっては、やはり、切っても切れないなにかが 印度大地に

介在している。


何が起こるか、誰と会うのか?

また皆様にレポートを投稿できれば、幸いだ。

 

他生の縁を知りたくて、

人は前生のチャンネリングや退行催眠術などで生まれる前の

意識に惹かれる。

もしかしたら 過去の自分はドラマティックに生きたのかもしれない、

勇敢な武士で戦に名をはせたのかもしれないし

歴史を動かした人達の仲間だったのかもしれない。

実際、小説”王子と乞食”(*1)のような体験を人は繰り返して

いるようだ。


今世では 五感の意のままに放蕩に近い意識をもって

快楽を楽しむ人が実は、前世では ストイックな戒律に一生を

ささげた人であることも珍しくない。

逆もまた真なりで、こうして、人は幅広い体験を積み重ねながら、

何代も生まれかわる中で、欠けている要素(奔放だったり、

ストイックな生活だったり)を欲して、欲したままに

その舞台を演じきる。

 

今世で有能なビジネスマンは来世では、純粋な子供たちを

相手にして、先生に、今、大家族で家事にてんてこ舞いの主婦は、

その前の生では、カリスマ的な存在を謳歌して生涯、人も

寄せ付けないほどの、目に見えないバリアを自分の周りにつくり、

孤独を通したのかもしれない。


これを一般的にはカルマの法則とか因縁の法則とかいうらしい。

カルマの法則は、仏教的観念では受け入れられても、

西洋のキリスト教世界では認められていないと長い間思っていた。

なぜなら、人は死んだら、神の審判を受けるまで、眠り続けると

教えられているからだ。

ところが、シュタイナーという教育者としても有名な哲学者は

因縁説を徹底的に受け入れていることを知り興味をもった。

著書(*1)から一節を引用する:

うちにあるものは、外にあらわれなくてはならない。

カルマの結果が現れるのなら人間は常に高次元に進化し合ていく。”


”多くの人々が若くしてあるいは子供のうちに死ぬことは

どのようなカルマ的問題があるのだろうか?

神智学には良く知られた次のような例がある。 

早く死んだ子供につして、前世との関連で探究することができる。


前世において、その子はほんとうによい素質を持ち、人間社会の

有能な一員であった。

しかし、やや病弱だった。

弱視のために正確に見ることができなかったので、その子の経験は

特殊な色合いをおびた。


弱視でなかったら、すべてをもっとよく成し遂げることが

できたはずだった。

弱視のために、才能を十分に発揮することができなかった。

もしよい視力を持っていたら非常に大きなことを成し遂げて

いたはずなのである。

その子は死に、その後、まもなく、善い母を持って生まれるか、

数週間しか生きることができない。

しかしこの短い生をとおして、いかに人は健康な日を得るかを

その子の構成要素は経験する。

自分に欠けていたものを得るために短い人生を生き、

前世を改めるのである。

両親の悲しみは埋め合わされる。

両親はこの子が前世を改めるための道具にならなければ

ならなかったのである。”

 

この短い一節では、シュタイナーの意図したことが十分に

表現されていないかもしれない。

アンダーラインの部分、自分に欠けていたものを得るために

人は今世を生きているというのは事実のようだ。

それがなんであるかは一人ひとり異なるだろう。

そして、その目的を果たすために、協力してくれる人達が

身の回りの家族であり友人でもある。

 

だからシュタイナーは次のように言葉をすすめる:

”それでは どのようにして、カルマは埋め合わされるのだろうか?

誰かが他の誰かに何かをしたら、その二人の間でカルマの清算が

なされなくてはならない。

そのためには、当事者が再び同じ時代に生きなければならない。”

 

そして かなり極端でもあり、わかりやすい例をシュタイナー

は挙げている:

”例を挙げてみよう。神智学では良く知られた例である。

ある人が5人の裁判官から死刑を宣告された。

何があったのだろうか?

この人物は前世で この5人の裁判官を殺したのである。

そして、カルマの力がこの6人の人々を カルマを清算させるために

出会わせたのである。”

 

そろそろ、このカルマの世界を卒業したい。

”為せばなされ、為されれば、為すと”いう、”欲界”、もしくは、

”現象界”はいはば”目には目を”の世界でもある。


国と国との戦争もこのカルマに支配され、一個人の軋轢

(あつれき)も、前世のカルマに影響を受けている。

”病気”もまた、このカルマの延長線上にある。


カルマの世界を そろそろ卒業したい。

それは死を意味するのではなく、生きながらにして超越も

可能らしい。

そのためには、真の自分を見出すほか、ほかに道はない

と大師たちは言う。

仏教思想に影響を受けて育ったことのないシュタイナーは

”カルマとなる因”があるから縁を機に、その結果が生じて心身に

苦楽悲悩が生まれるという。


だとしたら、やはり、今からでも、過去生の因縁にとらわれない

心持で新しい自分自分の持つ隠れた可能性と見えない本性(仏性)

に舵を合わせて毎日生きていたい。


執着を持つなと言われる。

過去の自分の行為やその行為の代償、心象、などが自分の潜在的

記憶にしっかりと残る。

それに対する執着を意識して切って行かない限り、前を見て

新しい自分を発見することは難しいだろう。



 

 

 

 

*1)『王子と乞食』

(おうじとこじき、The Prince and The Pauper

アメリカの作家マーク・トウェイン

1881年に発表した児童文学作品である。

16世紀イングランドを舞台に、

実在の若き国王エドワード6世を主人公とした

冒険譚で、トウェインはこの作品を通して、

子どもの視点で16世紀のイングランドの世情を痛烈に皮肉った。

なお、題名の「乞食」が差別用語に当たるとして、

近年の日本語訳では「こじき」と平仮名表記したり、

『王子と少年』としたりする例も存在する。

1899年(明治32年)巌谷小波らにより

『乞食王子』の邦題で文武堂から、1927年

(昭和2年)村岡花子により

『王子と乞食』の邦題で平凡社から公刊された。

(ウイキペディアより掲載)

 

*2”神智学の門前にて”2003年、ルドルフシュタイナー 

西川隆徳範訳 イザラ書房

 

 

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頭と心は一人の主人に従う

2015年02月12日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

これも一つの自己セラピー     2015.2.12

*************************  

Sさんの投稿が一段落ついて、

自己セラピーとは何だろう?と

疑問を持たれた方への一つの回答も

出ていたと思う。

今まで オ・ポノポのヒューレン博士の

癒しと問題解決について、たびたびブログで

ご紹介してきたが、特に病で苦しんでいなくても

精神的に不安定な方達に、ぜひ次のセラピーを

再度お勧めしたい。

 

4つの言葉を唱える。単純な4つの言葉、たとえば、 

”I love you" とか

’I am sorry" という、愛してます、ごめんなさいの言葉を

無言有言にかかわらず、つぶやくとき、感情が伴っていなくて

効果があると博士はいう。

 

不可解かもしれない。

その理由は、その言葉をかける方向は、もしくは対象が

相手ではないからだ。

それは、自分の内側、あるいは、自分のゼロリミッツ

(原点)に向かってと 投げかけられる言葉だ。

 

この簡単な行為の中で、一番 難しくて 納得でき難い点は、

”何か問題が起きたとき 自分の内側にすべて原因がある”

とヒューレン博士の考え方かもしれない。

ほとんどの場合、その原因は

自分にもあるが他者にもある”と想いがちだ。

しかし、博士の方法によれば

”すべて100%自分自身の内側に責任がある~

受け入れる事なのだ。"

受け入れたとき、為すべきことは、その自分は過去の記憶に

寄って造られた模造の自分であることを知ること。

本当の自分は、Sさんの体験に書かれているように

愛なのだから。

 

たとえば、ごめんなさい。I am sorry

自分自身がその責任を100%負うということは、

自分自身を100%浄めていく姿勢ということになる。

 

人は二人の主人に仕えられない。

今日はA会社に 明日はB会社に働くというのは不可能だ。

今日はA家の主婦で 明日はB家の主婦というのも不可能。

家政婦さんやパートタイムの人は別として専業主婦や

正式社員として無理である。

同様に、人は次の二つの相反する価値観を全うする

行為はできない。

どちらの価値観かでしか行動できない。

言い換えれば、人はなかなか一人の主人に仕えることは難しい。

誰もがパートタイマー的な心の振り方が常になっているようだ。

その二つの主人に喩えられる、価値観とは何だろう?

 

1.記憶 or 霊感 スピリチュアルな直観のこと~須田注)

2.過去の恨みがましい(悲しい、悔しいといった)

マイナスの記憶 or  か?

3.自分の記憶が造ったプログラム or

新しい空点(ゼロ地点)を考えた発想

4.思考 or 赦し

5.他者への責任転嫁 or、自己に向けられた責任感

 

前者すべてに共通するのは、記憶 

[マイナスのエネルギーを持った]からくる意識、

後者は、自分の神格を受け 入れる事になる 

ゼロリミッツ(空点)からの発想 だ。

人は誰でも、いつでも、この 前者か後者の

スタンスで行動を取っていると 博士は言う。

 

ヒューレン博士のセミナー研究会では 

こうして’癒しのプロセス’を勉強するようだ。

それに出席した人の手記を引用すると:

 

ほとんどの人は圧倒的に 記憶の範囲内 

に生きている。

我々はそのことを意識していない。

なぜなら、我々は本質的に無意識だからだ。

世界の観方が変われば、神格はあなたの心に

メッセージを送ってくる。

 

それを ヒューレン博士は霊感と呼ぶ。

記憶が再生中の心では、大抵はその状態に我々はいるが、

霊感が働いても、それを自覚できない。

結果、神格の声は聞こえないl

頭の中での再生中の雑音にさえぎられてしまう。”

”我々が瞑想したり、沈黙の行に入るのは、きっと、

この神格(アートマ)の声をキャッチできる、平静な心、

潜在意識の波が騒ぐことのない穏やかな心持に

リセットするためだろう。”

 

さらに 体験者はこう書いている。

”ヒューレン博士はそのことをわかりやすく

するために、イラストを書いて説明した。

まず、三角形、これは ”あなた”だと博士はいう。

つまり、一個人だと言った。

その核には、神格以外何もない

それがゼロ状態。ゼロリミッツといわれるものがある。

 

神格より人は霊感[霊的直観~須田注)を受ける。

霊感は神格から降りてくるが、

記憶は集合的な人類の潜在

意識に潜んでいるプログラムである。

プログラムとは信念のようなものであり、

それが他人の中にあると気づいたときに

他人と共有するようにプログラミングされている。

 

我々の目標は すべての記憶を消去して、

霊感を受け止めるためのゼロ状態に戻ることだ

ヒューレン博士はたっぷりと時間をかけて

記憶とは共有されるものだということを

説明した。”

 

私たちの目標は博士の言うところのゼロリミッツ、あるいは

空の点、を基調にして行動できるよう、古いマイナスの

記憶を消すことだと セミナーで教えられた。

記憶とは共有されるもの~という博士の真意は

共有される、シェアーする記憶だからこそ、

一方の心で消してしまえば、それにかかわっている

人の記憶にも影響を与え、同時に クリアランス(清浄)

をシェアーすることができるという意味だろう。

 

だから、自分を清めていく。

他の言葉でいえば、自己セラピーを行う。

人を疑って、嫉妬して、憎んで、悲しんで、心が痛くなる。

人とうまく意思疎通ができず、誤解が募り、関係が混沌としてくる

許せといっても赦し難い!

報復せずにはいられない!

 

ちょっと待って!

そこで、静かな場所に座って、目を閉じて、5分だけ、何も考えずに

ただ4つの言葉を繰り返す。

ただ繰り返す。

意味はない。

もうその言葉の言霊が動き始める。

私たちの心をリセットし始める。

 

報復すればカルマを造るだけだ。 因果の法則の因の上塗りだ。

それが過去の積もった”記憶”としてこびりつき、また、

自分の心をコントロールされて

同じ境遇を造りだすだけなのだ。

 

         

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