迷い悩みつ、現実のブロック 2015・8・30
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毎年、ある月に限って 大きな変化が起こるという体験を
もっていらっしゃる方達はいるかもしれない。
自分の場合は 6月、7月に何かしら それなりの小事件や取り込みが多い。
去年は店の大掛かりな修繕工事やら テナントさんの契約違反営業発覚に
より 管理会社を巻き込んで 裁判沙汰でもめた。
水漏れは、香取やの店の天井に大きなシミマークを作り、
ぽたぽたと水漏れとなって床を濡らしていた。
天井をはがし原 因を探ることは難しく、店の設計当時の大工さんを
探し当てて、当時、建設現場を知る人達が、推理しながらその2ミリほどの
亀裂箇所を探り当て 水漏れは抑えられた。
管理会社とはテナント問題がきっかけで双方信用を失い、その管理会社と
ご縁を切ることになった。
さて、
今年は母の介護の問題だった。
これまで、介護関係に携わっている方達以外にも 筆者のささやかな介護体験を
発表させていただくと、興味や反応が解析数値として現れ 介護が一般の生活に
密着した問題であることが感じられた。
個人的な話とはいえ、いずれ、若い読者の方達にも ご自身や家族の
身近な問題として 介護問題は避けて通れないと思うので、何かのご参考になれば
と 主観的 個別的見解になるのを承知しながら、投稿させていただいてきた。
この夏、7月に入り 母も私も熱中症に似た症状が出た。
母は 夜中(よなか)じゅう 起きて動き回っているので冷房の部屋には落ち着いて
いることがない。
めまいがする、部屋が回っている、トイレも一人で行けない、手を貸して・・・
私も一晩中 神経を逆立てて、母の動向を体全体で感じ取り、咄嗟に何度も 起きては母に手を
差し伸べたり、トイレに同行したりしているうちに、昼間 吐き気やめまいが起こるように
なった。
思えば、母が肋骨をおり、2月に救急病院へ搬送、3月には大腿骨を骨折して手術。
退院後、さらに、母の認知症状に拍車がかかったのだが、身体的には、体の順気は
整っているので、回復もはやく、血圧の上昇も安定していた。
そのために、”デーケア―”には 骨折以前に通っていた施設に、通うことができた。
3階の階段も ゆっくりだが 難なくのぼり下がりできたからだ。
精神的にも、母と毎朝 灯明をあげ、仏様に向かい、一日の挨拶と般若心経を読む
毎日。 夜の得たいの知れない活動以外は穏やかに、”有難う”も連発して口からでる
常套句になった。
夕食をおいしくいただけば、”有難う。こんなにホットして家で過ごせるのはありがたい”
涼しい風が窓からはいれば ”有り難い。こんないい風が吹いて。”
ベランダには たくさん 花木のポットを置いた。
朝顔の大輪の紫が毎朝、母の枕元から見える窓辺に咲いた。
”きれいだねえ。有り難いねええ”
認知独特の症状は、夜11時過ぎごろからでていた。
センモウと種分けされる認知症の特徴として 血栓ができたり軽い
脳梗塞のために 脳神経に影響があるためか、数分前のことも記憶がなく、
夜はふらふらと ほとんど体を動かしていないと不安にかられるようだ。
トイレも10分間隔になる。
睡眠時間は 母も私も、平均 2~3時間、中にはほとんど体を
休められ無い夜もあった。
幸い 昼間 体が重いときは 数時間昼寝ができた。
母も デーケア施設でうとうとしていたようだ。
母は変わっていった。 同時に、私自身が変わっていった。
母がどんな暴言を吐いても、これは ”母の言葉ではない”と確信が持てたので
以前のように振り回されることが少なくなった。
何より、そうした 人格が変わる母への恐怖心が無くなった。
3月には妹の部屋に鍵をかけて寝ていた私。
7月には母のすぐ横で 安楽椅子に寝ていた。 狭かったが、飛行機のビジネスクラスの席だ
と思えば、体を横たえなくても 何とか うとうとできた。
いつでも突発的に起き上がることができるように 床には眠らなかった。
こうして毎日が過ぎていくのは ある意味私にとって楽しいことでもあった。
ただし、体は悲鳴を上げ始めていた。
心臓は不整脈が起き、血圧が160になっていたり、幾人かの知り合いから
”一回り小さくなりましたね” という正直な意見をもらった。
辛辣に ”私の知っている貴方は元気なお姉さんのようなイメージだったが
ねえ が ばあ に代わってしまったようで、一見したとき、わからなかった”
と言う人がいたほどだったから、 自分が思うほど体はやはり、”大丈夫”では
なかったのかもしれない。
’認知症の人がいると誰か家族に必ず病人が出ます”とグループホームのホーム長は
私に 何度か箴言してくれ それを思い出した。
これは十分睡眠をとるほかない。 そのために、
”母を 一週間に一度で良いから、夜間、預かってもらえる場所を探してほしい”と
所謂、母のショートステーができる場所を ケアマネさんに探してくれるよう
頼んだのは、6月下旬だった。
その可能性を探ってくれたが ”11月まではどこも一杯だそうで。。。”と言われがっかりした。
直接、一番可能性の高い、特別老人養護施設の責任者に電話して、意向を聞いた。
すると、顔見知りの信頼している その人はこういった。
”彦田さんは 正直、難しいのです。
それは、ご本人が 職員にもっと自分をケアしてほしいという
要望をもってらっしゃるので、うちのような、大人数の利用者さんが
いると、まともに彦田さんと向き合って時間をとることは難しいのです。
彦田さんもとても不安になるようです。
お母さんのためにも グループホームをぜひ、考えてあげてください。”
と意見され、再び、グループホームの可能性を真剣に考えざる得なくなった。
デーケアがあるのなら ナイトケア― なるサービスが有れば 本当に助かると思った。
ショートステーできる人、 あくまでこれは デーケアーの参加者、しかも 母のように
10分置きにトイレにたったり、夜通し起きて、他の利用者さんを起こす迷惑をかけない
職員さんの手が回る範囲の利用者に限られるようだ。
夜だけ、余所で母を預かってくれる、これなら 私の体もなんとか持ちこたえられ理想的な
自宅介護が続けられるかもしれないと想った。
残念なことに、母を良く理解してくれる、通いなれた、デーケア施設には
ショートステーのサービスは設けていなかったし、あっても、断れる可能性が高いと
判断した。
こうした背景のもと、母はグループホームの御世話になることになった。
ある種の渾然とした想いが私の心に残っていたが、共倒れにならないためには
致し方なかった。
7月26日日曜日の午後のことだった。
続く~