自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

いよいよ~母 グループホームへ~

2015年08月30日 | 介護と自然治癒力

迷い悩みつ、現実のブロック     2015・8・30



***********************************

毎年、ある月に限って 大きな変化が起こるという体験を

もっていらっしゃる方達はいるかもしれない。

自分の場合は 6月、7月に何かしら それなりの小事件や取り込みが多い。

去年は店の大掛かりな修繕工事やら テナントさんの契約違反営業発覚に

より 管理会社を巻き込んで 裁判沙汰でもめた。

 

水漏れは、香取やの店の天井に大きなシミマークを作り、

ぽたぽたと水漏れとなって床を濡らしていた。

天井をはがし原 因を探ることは難しく、店の設計当時の大工さんを

探し当てて、当時、建設現場を知る人達が、推理しながらその2ミリほどの

亀裂箇所を探り当て 水漏れは抑えられた。

管理会社とはテナント問題がきっかけで双方信用を失い、その管理会社と

ご縁を切ることになった。

さて、

今年は母の介護の問題だった。

 

これまで、介護関係に携わっている方達以外にも 筆者のささやかな介護体験を

発表させていただくと、興味や反応が解析数値として現れ 介護が一般の生活に

密着した問題であることが感じられた。

個人的な話とはいえ、いずれ、若い読者の方達にも ご自身や家族の

身近な問題として 介護問題は避けて通れないと思うので、何かのご参考になれば

と 主観的 個別的見解になるのを承知しながら、投稿させていただいてきた。

 

この夏、7月に入り 母も私も熱中症に似た症状が出た。

母は 夜中(よなか)じゅう 起きて動き回っているので冷房の部屋には落ち着いて

いることがない。

めまいがする、部屋が回っている、トイレも一人で行けない、手を貸して・・・

私も一晩中 神経を逆立てて、母の動向を体全体で感じ取り、咄嗟に何度も 起きては母に手を

差し伸べたり、トイレに同行したりしているうちに、昼間 吐き気やめまいが起こるように

なった。

 

思えば、母が肋骨をおり、2月に救急病院へ搬送、3月には大腿骨を骨折して手術。

退院後、さらに、母の認知症状に拍車がかかったのだが、身体的には、体の順気は

整っているので、回復もはやく、血圧の上昇も安定していた。

そのために、”デーケア―”には 骨折以前に通っていた施設に、通うことができた。

3階の階段も ゆっくりだが 難なくのぼり下がりできたからだ。

精神的にも、母と毎朝 灯明をあげ、仏様に向かい、一日の挨拶と般若心経を読む

毎日。 夜の得たいの知れない活動以外は穏やかに、”有難う”も連発して口からでる

常套句になった。

夕食をおいしくいただけば、”有難う。こんなにホットして家で過ごせるのはありがたい”

涼しい風が窓からはいれば ”有り難い。こんないい風が吹いて。”

ベランダには たくさん 花木のポットを置いた。

朝顔の大輪の紫が毎朝、母の枕元から見える窓辺に咲いた。

”きれいだねえ。有り難いねええ”

 

認知独特の症状は、夜11時過ぎごろからでていた。

センモウと種分けされる認知症の特徴として 血栓ができたり軽い

脳梗塞のために 脳神経に影響があるためか、数分前のことも記憶がなく、

夜はふらふらと ほとんど体を動かしていないと不安にかられるようだ。

トイレも10分間隔になる。

 

睡眠時間は 母も私も、平均 2~3時間、中にはほとんど体を

休められ無い夜もあった。

幸い 昼間 体が重いときは 数時間昼寝ができた。

母も デーケア施設でうとうとしていたようだ。

 

母は変わっていった。 同時に、私自身が変わっていった。

母がどんな暴言を吐いても、これは ”母の言葉ではない”と確信が持てたので

以前のように振り回されることが少なくなった。

何より、そうした 人格が変わる母への恐怖心が無くなった。

3月には妹の部屋に鍵をかけて寝ていた私。

7月には母のすぐ横で 安楽椅子に寝ていた。 狭かったが、飛行機のビジネスクラスの席だ

と思えば、体を横たえなくても 何とか うとうとできた。

いつでも突発的に起き上がることができるように 床には眠らなかった。

 

こうして毎日が過ぎていくのは ある意味私にとって楽しいことでもあった。

ただし、体は悲鳴を上げ始めていた。

心臓は不整脈が起き、血圧が160になっていたり、幾人かの知り合いから

”一回り小さくなりましたね” という正直な意見をもらった。

辛辣に ”私の知っている貴方は元気なお姉さんのようなイメージだったが

ねえ が  ばあ に代わってしまったようで、一見したとき、わからなかった”

言う人がいたほどだったから、 自分が思うほど体はやはり、”大丈夫”では

なかったのかもしれない。

  

’認知症の人がいると誰か家族に必ず病人が出ます”とグループホームのホーム長は

私に 何度か箴言してくれ それを思い出した。

これは十分睡眠をとるほかない。 そのために、

 ”母を 一週間に一度で良いから、夜間、預かってもらえる場所を探してほしい”と 

所謂、母のショートステーができる場所を ケアマネさんに探してくれるよう

頼んだのは、6月下旬だった。

 

その可能性を探ってくれたが ”11月まではどこも一杯だそうで。。。”と言われがっかりした。

直接、一番可能性の高い、特別老人養護施設の責任者に電話して、意向を聞いた。

すると、顔見知りの信頼している その人はこういった。

 

”彦田さんは 正直、難しいのです。 

それは、ご本人が 職員にもっと自分をケアしてほしいという

要望をもってらっしゃるので、うちのような、大人数の利用者さんが

いると、まともに彦田さんと向き合って時間をとることは難しいのです。

彦田さんもとても不安になるようです。

お母さんのためにも グループホームをぜひ、考えてあげてください。”

と意見され、再び、グループホームの可能性を真剣に考えざる得なくなった。

 

デーケアがあるのなら ナイトケア― なるサービスが有れば 本当に助かると思った。

ショートステーできる人、 あくまでこれは デーケアーの参加者、しかも 母のように

10分置きにトイレにたったり、夜通し起きて、他の利用者さんを起こす迷惑をかけない

職員さんの手が回る範囲の利用者に限られるようだ。

夜だけ、余所で母を預かってくれる、これなら 私の体もなんとか持ちこたえられ理想的な

自宅介護が続けられるかもしれないと想った。 

残念なことに、母を良く理解してくれる、通いなれた、デーケア施設には

ショートステーのサービスは設けていなかったし、あっても、断れる可能性が高いと

判断した。

 

こうした背景のもと、母はグループホームの御世話になることになった。

ある種の渾然とした想いが私の心に残っていたが、共倒れにならないためには

致し方なかった。

7月26日日曜日の午後のことだった。

 

続く~

 

 

 

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宗教と触れ合う心療内科の癒しの基盤

2015年08月27日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

全体性の中の一(神)を自分の身体の中に見出す     2015・8・27

**********************************

先回の続き・・・

 

例えば、心療内科を日本で初めて創設した 池見酉次郎医学博士だ。

博士は 心理学、宗教学、哲学 などすべての道を深く極められて、画期的な医療への

提言をされてきた方でもある。

セルフ・コントロール することで、健康になるという、癒しの鍵を知っていた方だ。

セルフ・コントロールについては 次回に譲るが、セルフ(自分)を知り、様々な自分

をその本当の自分に照準してバランスを保っていくということになる。

池見博士はさまざまな宗教の真髄も勉強されたのだろう。

”仏教であれ、キリスト教であれ、そのほか諸々の宗教、宗派であれ、洋の東西を

問わず、あらゆる宗教の中心をなすものは、一体性、ないし、全体性の概念と

体験であると思われる。”と言っている。(*1)

一体性というのは、森羅万象、すべての人や事象と、自分 とは切り離せない存在で

あるということだろう。

先にブログで話題にしたように、自分の念や想い、などのエネルギーは必ず

目に見えない、波動体として瞬時に宇宙に向けて放出され、それがもとで

現実にコトを起こしたり、自然災害をも引き起こすという話だ。

つまり、自分とまわりのすべてとは、そういう意味で無関係ではないということ。

’全体性の概念と体験’というのは、こうした自己と全体との位置づけを知ったうえで

その体験を重ねる。

愛と不安 どちらかに分類される感情や想念しか存在しないと ’全体を知るもの”は言う。

愛(プラス思考、思いやりやオープン性、明るさ)を標準とした想いで行動していけば

それがひきつける環境、協調や助け合いなどの行為をともなった状況を引き寄せるだろう。

不安は それと反対のマイナス想念、嫌悪、過剰プライド、嫉妬、悲しみなどに心を

支配させていると、いつの間にか 健康も損なわれ、環境の改善はなかなか計れない

ということになる。

そういう、全体と自分、環境と自分の想念、何よりも、宇宙を支配している

同様の想念(創造性と宇宙的法則やルール)と自分とが一体であるという

’一体感’が 悟りにつながるということなのだろう。

 

仏教でいうところの 悟り、については 博士は、以下のようにのべている。

”’悟る’とは、自分と自分が住む世界の実体に目覚める事である。

これを私どもは、医学心理学の立場から、’意識の拡大’と呼んでいる。

そこで、人間が自らを知ろうとするためには、

その生みの親である自然(地球と宇宙)を知らねばならない。”

 

自然や宇宙に内在する隠された秩序を知ると、人間は自然と協調して生きていく

存在であることがわかる。

自然を統括し支配する立場として人間の横暴や傲慢な態度を容認せざる得ない

矛盾をはらむ、西洋文明から 近代医学は生まれた。

だから人間不在の医学 とか、人間性を忘れた医学的治療 という言葉が生まれ

るほど、機械的なマニュアル的な、データ中心で 細部に専門が別れるがために

検査続きの診療となるのだろう。

池見博士は、自然と一体化して生きる人間性を重んじる東洋的医学と対比している。

西洋的近代科学は”分析的な思考の上に推し進められてきたために、

自然と人間との関わり合いを全体的に理解しようとする 総合的思考に欠けやすい”と 

致命的弱点として掲げ、分析心理学のマスター ユングの言葉を引き合いに博士は出している。

 

”西洋人は自然に対して悪魔のような優越性を持とうとしている。

しかし、自分自身が自然の支配下にあることを見落としている。

このままだと、彼自身の自然が彼を滅ぼすだろう。

東洋人は自己の自然を知るのみならず、自己がどの程度にまで自然そのものであるか知っている。”

 

さらに 博士は現代科学のこうした盲点のもとに’人間不在の医学’となった近代の医学

に対して、古代の医学を "人間を心身一如の存在としてとらえ、全人的治療を行うものだった”

と心身一如という観方の大切さを強調する。

この点が心療内科が生まれる原点となったのだろう。

 

さて、冒頭の話、私たちの想念エネルギーが物質化して現象的にさまざまな様相で

目の前に現れているというお話しと

池見博士の心身一如の話との共通点を探ってみたい。

同著から引用する:

”当科に入院してからも なお堅固に不定感情を訴え続けていたが、交流分析(平易な

精神分析)の集団指導に参加するようになって、これまでの感情に走り過ぎた反応のありかた

についての自己分析が始まった。

其の後は、長い間抑圧していた、夫に 対する不満や憤りについて、主治医を交えて

夫とも話し合えるようになってきた。

これによって、夫婦間の感情のしこりがほぐれるにつれて、次第に症状は好転。

半年後には退院して、東京の夫のもとに還ることができた。

難聴と耳鳴りが突然消滅したのも、このような夫婦間の軋轢(あつれき)がほぼ解消

した当時のことである。”

 

この女性は夫に対して不満や憤りを心に抑えながら暮らしていた。 

そのマイナスの想念が飽和点に達し、体に不調和をきたした。 

そして 話し合い理解すること、心を解放するという 愛 の一行為によって、

退院したあと、同時に それまでの難聴 が解消したという。

難聴は”聞きたくない”という心の顕れといわれる。

夫人は、夫の行動に不満があり、そういう時の心境では、どんな夫の言葉も

’聞きたくない’という潜在意識が働き、耳触り なものであったのだろう。

 

博士はこの例をとりあげた理由として、”医学的な処置に際して、人間性への

適切な配慮がいかに必要であるかを感じさせられた”

からとして、次のような感慨を述べている:

”この例を通して、私どもが感じたことは、夫婦間の感情問題もさることながら、医学的に

できるということと、それによって、患者が幸せになるということは必ずしも一致しないという

ことだった。”

 

医学的な 通常多くの医者や患者に支持されている常識が必ずしも、その患者に適応

されるかどうかという疑問だ。

一般患者の対処療法として効果が出ても、それが根本的な治療になっているのかどうか?

セルフコントロール の大切さを説く池見博士にとって、

医療は、”心身一如”という観方を基盤にして ”心”の部分にしっかりと”切り口”をいれない限り、

本当の治癒が見られないということになるのだろう・

 

 

*1)セルフ コントロールの医学 日本放送出版協会刊 昭和58年

 

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原爆と身体を支えるエネルギーは同質

2015年08月24日 | 健康のための心の波動

自然災害は人災 のもう一つの意味 24・8・2015

***********************

終戦記念日を機に さまざまな事を想った。

先回のブログで書いたように、”愛”とは何か?

 

そして、一昨日24時間のテレビの特別番組に 愛をつなぐためのさまざまな

エピソードやドラマなどが流されていた。

ジャニーズのメンバーの一人が主演した脳腫瘍の息子と 

共に団結して前向きに戦う家族の話しには涙した。

母親がさまざまな手をつくしたあとに、息子の命があと、

2か月と宣告されるシーン。

母は病室に戻らず、心配した息子が院内から母の携帯電話に”大丈夫、

母さん?”

と電話する。 母は息子の幼いときを回想しながら、三人兄弟の真ん中

で甘え上手な兄と、病気を持った弟の間で、甘えることなく、

距離を置いていた息子に

”小さいときから、そんなに、母さんから、離れて(遠くに)いたかったの?

いつもそうだった・・・元気な体であなたを産んであげられなくてごめんね”と

涙ながらに言うシーンは 息子を持つ母として実に胸に響いてきた。

 

一人の家族を失うだけでも辛い想いをする母親、母も子も親さえ失った

人がいる悲劇、戦争・・・

話しを戻すと、広島長崎の特集も何度も戦後70年の区切りのせいか

数々の、マスコミでとりあげられていた。

 

原爆の製造された元となる理論は次のように言われている(*1)

”物質は純粋なエネルギーから創られる。

それどころか 物質ができるには、それしか方法はない。

エネルギーがいったん、物質になれば、反対のあるいは似ていない

形のエネルギーに破壊されない限り、物質としてとどまる。 

この似ていないエネルギーは物質に働きかけて、それを解体し、

その物質を創り上げていたエネルギーを放出する。

これが 原爆のもとになる理論の初歩的な説明だ。

アインシュタインは宇宙の創造の秘密を発見し、説明し、利用する

のに誰よりも(彼以前の時代も、以後の時代も含め)

近いところにいた。”

 

物質は純粋なエネルギーからできている。

これはどういう意味だろう?

唯心所現 と仏教では言う。

ただ、心が思うところが 現れる という意味だが、 

心で思うということはそれほど

大きなエネルギーを持っているということだ。

先回も 人の思想の根源は 愛からか? 不安からか? 

の二極しかないということを書いた。

 

不安から恐れが生まれる。恐れは恐怖の感情だから、その感情が高まれば

恐怖した同じレベルの波動を吸い寄せる。

同じ波長の人や事柄を引き寄せるのは、

朱に交われば朱くなる という諺(ことわざ)の通りだ。

その波動を持つ実態が 悲しみや嫉妬、怒りなどのマイナスエネルギー

生み出す現実を作り出す。 

その鎖を断ち切らない限り、本当の自分の心情である’愛’を思い出さない

限り、悪循環は続いていくだろう。

 

自分の関わる目の前の問題として、顕れたものは、自分の想念の結集した、

凝結したものに過ぎない。

すべては”自分の心の鏡” と先人はうたった。

 

相手に不満を見出したその内容は実は自分自身の心に潜む、

要素だということ。

なぜなら、自分の中にあるものしか、人は相手の中に見いだせ

ないものだから。

 

祈りはこの原理を応用している。 

人が長い期間、心の中にためている想い、 それは一定の

方向に向かって流れ、その流れはその人の信念(必ず成就できる、

してみせる)が加味され強いエネルギー体になっていく。

同種のエネルギーを引き寄せるという原理から、祈りが成就した

ように見える瞬間がくる。

エネルギーの錬金術のようなものだ。

想念と信念、そして思念がある。

思念はさらに純粋なエネルギー、精妙な波動を放射する。

こうしたエネルギー、各人が出したそれは、お互い似た波動同志、

結び合い大きくなり、塊となって、その塊同志が引き合い、

ぶつかり合い、見えないところで確実に変容が

起こっているという。

自然界に対して、宇宙に向かって、そして、ミクロの世界では

自分自身の身体細胞に向かって・・・

原爆を作り出すエネルギーも、自然界に起こる様々な

変化、そして、身体の細胞に働くエネルギーの質も結局は

同質なのだろう。

 

人間がどうすることもできないとされている、自然災害は 

本当は、人災だ。 

不断に自然災害への対策を講じていれば損害も小さくなると

いうことで人災というのは確かだが、形而上的意味合いでも

これは本当だ。

 

神も仏もないという前に、私たちも、神の ”想像(念)

による創造物”ということ、そして、神と同様、私たちの

持つ念のエネルギーが 環境をつくり、物事を生み出すという

事実を知る人は少なくないはずだ。

 

私たちが 破壊的な想念を作り出して塊となり、それが飽和状態

に達したとき、水蒸気が水としておちてくるように、現実に

私たちの目の前に 自然災害となって姿を現す。

自然災害は他人事ではないだろう。

或いは 事故災難 もそうだろう。

明日は我が身 かもしれない。

自分も人類の一人として 毎瞬 思う想念や思考が

放出されたエネルギーによって、こうした事柄を引き起こして

いると知れば、愛の波動を出すことにもっと真剣にならざる

得ないだろう。

 

このことを知っている医療の達人もいる。

次回は 全体の中の一部である人間、全体と繋がっている人間、

自然の一部である人間、自分の本質を知らない限り、

本当の意味で医療は行えないということを知っている医者の

お話しをさせていただきたい。

 

*1 神との対話 (1) 

二―ル・ドナルド・ウォルッシュ 

吉田利子訳、サンマーク出版、1998年 

 

 

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不安と戦争(社会的に身体的に)//愛の対極

2015年08月21日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

一、二、三 の隠れた意味と純粋創造について  

8・21・2015

*****************************************

先回の続きになるが 一、二、三 の数には、

一(創造主)~愛と平和~、 二(対極)~不安と戦争、

そして 三(反作用)~純粋創造を続ける~という意味がある

というのが今日のお話し。

三の持つ意味を考える前に、一と二の持つ意味をもう少し考えてみたい。

一は在って在るもの、存在するもの、という意味だから、

”一元的”というのは、”唯一絶対なる創造者が宇宙を創造し、

万物は、その’一’の現れ 

顕現されたもの”とする見方だ。

 

ここでよく質問されるのが、創造主が善ですべての力をもつのなら、

何故、人生苦しみが多いのか? 世界には戦争、個人には

不幸があるのか? この世は神も仏もない“ という疑問だ。

 

この疑問の裏には、

”神のみが存在するのなら、そんな不幸をつくるはずがない。 

やはり、悪があるから戦争や悲惨なことが起こる”という、

暗黙の同意を求めている。

そうなのだろうか?

悪があるというのは ”二”つめの存在を認めている。

それは、”一”の神に対立する存在を指す。 

神と悪魔、善と悪、幸と不幸、美と醜、高低、悲喜、などなど。

それへの解答として、一つの答を ある本から引用させていただきたい。 

ご紹介したい。

8月15日のブログに書いたように、その出所は、

このシリーズの最後に出典させていただく。

先入観念なしに、読者が自分の言葉に置き換えながら読んで

いただきたいためだ。

 

“素朴な関係は常に二元的である。 

崇高な領域の関係は必ず三元的である。

左右、上下、大小、寒暑、など、被造物の中では最も偉大な

ニ元的要素、男女。

これらの二者には その間 というものはない。 

一方が他方より比重が大きい小さいかの違いがみられるだけだ。

日常生活の体験のほとんどは二元的な関係があてはまる。

一方、崇高な領域の関係では対極はない。 

すべては一つであり、一方から他方へと変転しても、終わりのない

循環を繰り返す。“

 

現在の世界にもそれは当てはまるのか?

世界が今のような状態なのは、ほかの在り方ができず、物質的に

素朴な領域にあるからだ。

地震やハリケーン、洪水、竜巻など、天災と呼ぶものは、一方の

極から対極への要素への移動にすぎない。 

病や不調は健康と快調の対極の間の行き来きだが、あなたがたの

要請に応じて現実になる。”

 

自分たちの要請とは?

どこかのレベルで(対極の移動中)自らが引き起こさなければ

病気にはならない。

元気になろうと決意さえすれば、快くなる。 

個人的失望も自分で選んだものだし、世界的災厄や世界的な

意識(人類意識)の結果である。”  (*1)

 

なぜ、戦争があり、常に不幸な状況が人には起こり得るのか?

自分で選んだものなのか?

一という 善なる、オールマイティといわれる創造エネルギーは

それを望んでいるのか? 

あるいは その一なる存在が、実際、創りだしているのか?

“あなたは幻想の中で生きそのために不安を感じる”

 

創りだされたものではない。

私たちの 不安が嵩じて、名実化して現実になる。

幻想といえども、夢芝居の中のように、私たちはそれに踊ら

されているだけだ。

この話は以前何度も聞いたことがある。

それは ヴェーダ哲学の中に・・

サンスクリット語でいわれる ”マーヤー”と呼ばれる幻想だ。

別名 神の遊戯(play) リーラ とも呼ばれる。

私たちは顛倒夢想の中で生きていると般若心経の中でも

言われているではないか。

その不安が戦争をもたらす?

資源を確保する、勢力を増す、多大なハイエナ的儲けをねらう

武器商人(多国籍企業)の存在、

彼らの頂点に立とうとする、一握りの権力者のエゴが脅か

されないように・・

 

こうした人々がいることを知っている地球族と、地球族を

コントロールしようとする大きな欲望、それが脅かされるかも

しれないという不安がある以上、戦争は起こり得るという。

 

私たちの行為の定石の一つ、繰り返されていること・・・

“一番大切なものを愛し、次に破壊し、それから再び愛する。”

 

 どういうこと?

“深く探ってみれば人間の行動には二つの動機しかない。

不安か、愛か?

実は感情の源もこの二つだけだ。

魂の言語にはこの二つの言葉しかない。

是が‘相対性’というシステムを可能にする二点、α(アルファ)

でありΩ(オメガ)だ。

この二点、物事に対するこの二つの思考がなければ、

ほかの思考は存在しない。

人の思考も言動もすべて、愛か不安かどちらかを根拠としている。

他の考え方はすべて、この二つから派生したものだ。“

 

その二つの対極の想念が人間の存在の動力源でもあるわけ

ですね?

“人が何度も何度も同じ体験を繰り返す理由もここにある。

人が愛し、次に破壊し、そして愛するのもそのためだ。

常に一方の感情から他方の感情へ揺れ動くからだ。

愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その循環の繰り返しだ。”

 

戦争と平和もそのカテゴリーに入るのですか?

“人間の行動のすべては、愛か不安に根差している。

人間関係だけではない。

ビジネスや産業、政治、宗教、子供たちの教育、国家の社会問題、

社会の経済的目標、そして戦争と平和、襲撃したり、防衛したり、

攻撃すること。 ・・・

団結したり、分裂したり、すべての意思決定は存在しうるただ

二つの考えから発している。

愛か不安か。“

 

愛と不安の定義をもう少し・・

“不安は縮こもり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、

傷つけるエネルギー。

愛は広がり、解放、送り出し、とどまり、明るみに出て、分け合い、

癒すエネルギー。

・・・不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。

不安はつかみ、愛は解放する。

不安はいらだたせ、愛はなだめる。

不安は攻撃し、愛は育む。“

 

戦争は不安に基づき、平和は愛に基づいているのですね?

“愛が存在するためには、そして純粋なる愛である自分を知るためには

対象となるものが存在しないことを知っていた。

正反対のものが存在する必要があった。

そこで神は偉大なる極~愛の絶対的対極~にあるもの、愛ではない

あらゆるものを造りあげた。

それが現在‘不安’と呼ばれるものだ。

不安が存在した瞬間、愛もまた、体験し得るものとして存在し始めた。“

 

それではなぜ人は不安の最大の現れである 戦争を起こすのでしょう?

“それは神の無数の部分に(霊を持つすべての存在に)神と同じ

創造力を与えられたから。

あなたがたの宗教の中では、‘人間は神の姿をかたどり、

神に似せて造られた’というのはその意味だ。

物質的な似姿ではなく、本質的なものの継承者として。

つまり、あなたたちの能力には、宇宙から物質的な現実を

創出する力が含まれているということだ。“

 

戦争はだから不安の要素(自分の権威にしがみつく政治家たち

や様々な欲望が満たされるための手段)を

満たすために、戦争が現実化するのですね。

そして、その戦争の悲惨さと体験を通して人類は平和への

渇望を知るということですね?

“愛を示す(理解する)ためにはまず、愛さない(愛が無い状態)

があるということが可能でなければならない。 

完全無欠の一元的絶対世界は別として、それ以外では対極

の存在なしには、なにも存在し得ないのだ。”

 

戦後70年を迎え多くのメディアが戦争の爪痕、犠牲者たち

の家族の声、命を賭した特攻隊の番組などを組んでいた。

その当時の現場の中に引きずられ、当時の人たちの想像そ絶

する苦悩と辛抱、忍耐、人間性を無視した当時の

不条理の社会を目の当りにして、現在の平和と対比してみた 

戦争を知らない人たちは大勢いたことだろう。


犠牲になった一人ひとりの命に築かれている現在の平和を

実感したことだろう。

そして永遠に生きる生命体として 彼らは今も天国で

穏やかな愛に包まれていることだろう。

現象世界、私たちが生きている この地球上の社会では 

対極の存在なしには、何も存在し得ないという上記の言葉、

死も生もそういう意味では同じだけの重みをもったものとして

受け止められる。

そして、何よりも、戦争や平和を論じる際に、私たち一人

ひとりの心にどれだけ愛があるのか、不安はないのか、

それを見みつなおす、良い機会なのかもしれないという気もする。

 

*1) 

記事内の、本文(  )内の言葉は 

須田の補足です。

 

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戦争はなくならない?~詩人谷川俊太郎の言葉

2015年08月18日 | 健康のための心の波動

三という数字の持つ意味と生の揺らぎの意義     2015・8・18・

***************************************************

先日 詩人谷川俊太郎氏が テレビの中で次のような言葉を発した。

”結局、戦争はなくならないんじゃないんでしょうか?”

質問が来る:

’何故?’

”いやあ、そこから 端を発して考えた方が 平和を考えられやすいし

平和のアプローチをしやすいのではないか・・・”

録音していたのではないが、このような意味合いの返答が返ってきた。

人類歴史上、戦争は繰り返され、破壊、そしてその次に新たな創造という

過程を何度繰り返してきたのだろうか?

 

歴史は繰り返す~

どうして、創造のみ、平和だけ続く世界であり得ないのだろう?

 

以前ブログで次のような内容を書かせていただいた。

少し長いがすでに読んでいただいた読者には恐縮だが再度、

引用させていただく。

 

ここで千島学説の中から “生命弁証法”の項目を振り返ってみたい。

千島学説の研究家 枠山紀一氏はその著(*1)で10項目を挙げて

そのうちの一つが

“すべての事物は矛盾対立を内包し、その葛藤が進歩や変化の

原動力となる”


さらに、“生命の形態はアシンメトリーである。”というのがある。

生命の形態とは言い換えれば大自然の形態ともいえるだろう。


電子の小さな極点の形態から宇宙のしくみにいたるまで左右対称、

陰陽のエネルギーが上手にバランスを取りながら全体として

平衡状態を保っている。


私たちがたとえば歩くとき、右足に全体重を預けるとき左足は上に

上がっている。

左足を前に一歩進めてそれから右足を挙げれば左足に全体重がかかる。

こうして交互に左右不対象の動きを続けることで前進できる。

・・・・・・・

一、二、三、という数は象徴的だ。

もともとすべては一である。 


一から始まる。 

それが二つに分裂したかのように見える。

違う言葉でいえば 二つの相反する価値観が生まれる。 

美と醜、善と悪、などなど・・

今の私たちの二極化された精神世界の中で 私たちは無意識のうちに 

判断を下す。


好きか嫌いか、良い感じ、悪い感じ、できるかできない、楽しいか

苦しいかなどなど・・・

でも長所と欠点がほんのわずかな裏表の判断で決まるように、

この二極化された価値観がアンバランスの中の前進を生む

役目をするのだろう。

 

君子は豹の如く変化する~と言ったのは孔子だっただろうか?

マニュアル的に一つの意見に固執するのではなく、その時その時、

人は変わっていくのも生きている証なのだろう。

それがたとえ振り返ってみて、誤った選択だったとしても、

だからこそ得られたものもあるのだろう。

生命も同様で生物の中の矛盾対立とよばれるように、

完全な平衡状態というのはあり得ることではなく、多少なりとも

どちらかが,より力を持ったり、無くしたりして、生体は保たれている。

 

風邪をひくのもその一つの矛盾対立が引き金になる。

体の中のアンバランスが崩れて、より良い平衡をつくろうと、

熱や鼻水、咳や痛みが伴う。体の自然治癒の働きの一つと

生体を知る人は考える。


水がたまるといって、心配する人がいる。

癌患者は腹水がたまる。 末期的症状といわれる。 

これも、考えてみれば腹水をためて、芯の体温が上昇して

いくのを下げようと生体の自然治癒力が必要性に応じて

働いているからだ。


私たちが一口に症状が出ているからどこが悪いのだろうと

言う前に,生体はこうしてアンバランスを創りだして体を整えよう

とする働きがあることを認め、その力を、信じたい。 


実験室で研究を重ねても、マウスと人とは異なる。 

物理的法則は試験管内では100%外れはないだろうが、

生命は 物理的法則を取り込みながら生命法則を生かす。


外科手術で片方の腎臓や肺臓を切り取っても、片方が

大きくなって、その不足を補う。

そこには生命の力が動いているからで、こればフラスコや

試験管の中では知りえない生命の法則の一つだろう。“

 

千島博士の弁証論によれば、1と2という対極にある

価値観(症状)の間を揺れ動く、生命の揺らぎがあるから 

三 という次の向上線に向かうことができるという

ことだった。


破壊と創造、戦争と平和、身体の崩れとその癒し、

常に二極双方のバランスを取りながら 人間の歴史は

時を刻み、生体は生命を保つための働きを休むことなく

行っている。


それを さまざまな観点から 先人たちは、三という

数字をもって顕わしてきた・

 

話が、前後するが、先回の記事で “正しい・誤っている”

というのは二元論の世界の言葉で、

”何にせよ、間違ったことは何もない。

間違っているというのは相対的な言葉で あなたがたが ’

正しい’と呼ぶことの対極を示しているだけだ。”


本来正しいとか、誤っているという観念は無いのだと 

ホップ、ステップ、ジャンプ’ という動作にも

あらわれているように、三という数字には”発展”と

”展開”が”破壊”を通して起こり得る、展開して

新たな”創造”を生み出す象徴的数字ということになる。

クリスチャンは 三位一体を ’父なる神’、息子なる’イエス’、

そして’聖霊’と表現する。

心理学者の中には、それを、’超越意識、顕在意識、潜在意識’ 

と分別する。

心霊学者たちは、’精神と肉体と霊魂’ という分け方をする。

科学者たちは ’エネルギーと物質、エーテル’と分類する。

哲学者は ’思考と言葉と行為によって、真実が図られる’という。

インドのヒンズー教では ’創造の神ブラフマ、破壊の神シヴァ、

維持の神ヴィシュヌ’という神の三つの側面をとらえている。

ヒューレン博士が世界的に有名にしたホ・オポノポノでは 

’息子と母親と父親’というように精神を分けている。

 

私たちの日常の中にも、時間は、’過去と現在と未来’ と

三つに観念的に区別されるし、それを、’以前、現在、以後’

というように、分ける。


詩人谷川氏が詩人の直観でとらえたように、確かに、戦争

があるから、平和があるわけで、戦争と平和という2極を

乗り越える”何か”が問われるために、それをみつけられる

までは 戦争は無くならないだろうという自説も、こうした

考え方を含んでいるのだろう。


次回、もう少し掘り下げて 一、二、三 次元論をもとに、

戦争と平和について考えてみたい。

戦争は、国家間の不協和音である。 

私たちの生体の不協和は病気と呼ばれる。

戦争を語り、実は 私は体の細胞の中の分子レベル、

量子レベル、そして波動レベルの原因を探っている。

次回に譲りたい。

 

 

続く~

 

(*1)“蘇る千島学説 

”2004年 なずなワールド発行

 

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