京都ごろごろ案内

どこへ出かけるでもなくごろごろと暮らしています。
生活向上を目指して日記をかきます。

闇の職安拉致殺人事件

2007-08-28 11:33:36 | Weblog
ネットで見知らぬ者が集まって強盗の話をまとめ実行した人間がいる。



今までも、人間の仕業ではないと思うような事件がたくさんあり、そのつど思うことなのだが



日本は被害者より加害者に対する配慮の方がよほど大きいのではないか。



最近は被害者への配慮を!という声も大きくなり、映画やドキュメンタリーのテーマとしてあがって



きている。



それでも、加害者への配慮は依然として被害者へのそれに比べて大きすぎると思う。



少年犯罪法に関していろいろ言われているが、

例の酒鬼薔薇でも



週刊誌の見出しを拾い読むだけでも相当手厚く更正してもらっている。



私が被害者の親族だったらわが子を殺され、



殺した人間はというと、



手厚い保護を受け、社会復帰の強い武器となる資格も取らせてもらえ、普通の市民に戻っている…

ということを知るだけでも気が狂いそうになるのだけど、



ふつう、そんなことを思ってはいけないのだろうか。



人を殺しました。けど、、更正しました。



…というのが本当なら、生きているうちは絶対笑えないはずだ。



ほんとに更正したのなら、人を殺したという事実に耐えられないはずだ。



穏やかに市民生活を送れるはずがない。



正当防衛での過失の殺人でさえ、人を殺してしまったなら精神的におかしくなると思う。



戦争で仕方なく人を殺してもトラウマが残り神経症になっているイラク帰還兵、ベトナム帰還兵が



たくさんいる。



人を殺すということはそれぐらい尋常ではないことなのだ。



私は目には目を歯には歯をというイスラム教典が自分に一番近い考えだと思っている。



但し、盗まなければ飢えて死んでしまうという盗みに関しては経典どおりではなく、



盗まざるを得なくなった背景を考えるべきだと思う。



今回の拉致強盗殺人や、北海道の集団暴行や保険金殺人など、自分の生命の危機があるわけ



ではなくなぶり殺しそのものが目的、自己の利益が目的で殺意を持って人を殺した場合は



殺された者の無念を思えば



「人を殺したなら自分も殺されなければ公平ではない」

と思う。



死刑廃止論の人たちがどんな理由で一律に廃止といってはるのかは知りませんが



私は自分の身を守る正当防衛(これは相手に殺意がある)や交通事故で人の命を奪ってしまった



という場合と、



殺人(殺意を持って人を殺すこと)とは分けて考え、



殺人の場合は死刑にすべきだと思う。