今日、東京はみぞれだったが、私の方はというと、相変わらずペルシアの乾いた大地をおもっている。
☆ ☆ ☆
「もしも知識だけがそっくり人の内にあって、無知が全然なかったなら、人はたちまち燃え尽きてしまうであろう。だから、人間の存在がそれに依っているという意味で、無知にもそれなりの価値がある。一方知識は、それが神を識るための方便となるという意味で価値がある。とすれば、知と無知とは互いに相補い相助けるものとしなければならない。そして、すべて反対のものはそうである。例えば夜は昼の反対だが、それで昼を助け、昼と同じ一つの仕事をしているのである。いつも夜ばっかりだったら、人はなんの仕事もできないだろうし、なんの成果も生まないだろう。逆に、いつもぶっ続けに昼間だったら、目も頭も脳もふらふらになり、気が狂って、ものの役にも立たなくなってしまうのが落ちだろう。だから夜になると人々は休息し、安らかに眠って、その間に脳も思想も、手も足も耳も目も、あらゆる器官が元気を恢復する。そして昼間、貯えたその力を使うのだ。こういうわけで、全て我々にとって反対と見えるものも、真の悟達の人にとっては一つことをしているのであって、決して反対なのではない。世の中のいわゆる悪で、善を内に含んでいないような悪があったらお目にかかりたい。」(『ルーミー語録』~談話其の59)
反対のものは一つ、そうでなければ二元論になってしまうとルーミーは強く主張する。そしてその先で、「我こそは神」と、神と一体化した境地を言語化し、それゆえに処刑されたイスラーム神秘思想の先達ハッラージュ(857年頃~922年)を称賛する。
「例えばマンスール(偉大な神秘家ハッラージュのこと)だが、神への思慕の情が極限までに達した時、彼は己れの敵となり、己れ自身を無にした。そして絶叫した、「我こそは神!」と。すなわち、「私は消滅した。神のみがあとに残った」という意味だ。これこそ自己を卑下するの極みであり、神に対する恭順の至りである。神が在る、神のみが、というのだから(「我こそは神」は普通、傲慢不遜の極致と考えられている。またその故にハッラージュは処刑された)。実は、「汝は神、私は僕」と言うことこそ真の傲慢不遜なのである。なぜなら、これは人間が自分自身の存在を神と並べて措定することだから。そうなれば当然、二元論である。「彼こそは神」と言うこともまた二元論である。なぜなら、我が立てられない限り彼は立ちようがないからである。だから、(ハッラージュの場合)「我こそは神」というのは神自身の発言である。神以外には一物も存在せず、マンスールは完全に消え失せてしまっているのだから、神自身の言葉でしかあり得ない。形象の世界は、概念や知覚の世界よりはるかに広漠たる世界である。人間の心に浮ぶ一切のものは全て形象の世界に淵源するものであるから。しかし、その広漠たる形象の世界も、全ての形象が淵源してくるかの世界に比すれば狭いのである。言葉で説明できるのは、またこの程度までだ。実在の真相は到底筆舌を以て説き明かせるようなものではない。」(談話其の52)
ルーミーによれば、このようにして、蝋燭を前にした蛾のように自己を無化することができる者でなければイスラームの信仰に入ることはできない。そうではなく、あくまでも自己を放擲できない者にとり、信仰の真理は幾重もの幕帳でしっかりと閉ざされている。
「(神と人との間には)暗黒の幕帳(とばり)が七百もあり、光の幕帳が七百もあるというが、およそ形象の世界に属するものは暗黒の幕帳であり、霊的実在の世界に属するものはすべて光の幕帳である。形象の織りなす暗黒の幕帳は、全て黒一色で区別がつかない。違いがあまり微妙で見分けることができないのである。だが、霊的実在の方も、実に深遠な違いがそれぞれの間にあるにもかかわらず、この相違を識別することはできない。」(『ルーミー語録』~談話其の64)
信じない者にとって神は幕帳、しかし信じる者にとっても幕帳。その違いはその幕帳が暗黒からなるか光からなるでしかない。それゆえ、世界のなかに幕帳の存在しか見ず、みずから幕帳のなかに踏み込むことをしない者には、コーランの秘密は永遠に開示されない。
「それにしてもコーランというものは実に不思議な魔術師だ。秘密は絶対に知らさない。敵意を抱く者と見るやたちまち魔術にかけ、耳にはっきり分るように語りかけるのに、それでいて、相手は全然意味がつかめない。一向面白いとも感じない。ちょっと興が湧いても立ちどころに取り上げてしまう。「アッラーは封緘をもって彼らの心を閉ざし給うた」(コーラン2章6節)とある通りである。なんたる優雅さか、聞いても分らず、喋っても意味が分らぬ人の心を封緘で閉ざし給うとは。神は優雅だ。憤怒も優雅、閉ざすも優雅。だが一たんおろした錠前をはずして下さる、その優雅さに至っては、もう筆舌に尽せるものではない。」(『ルーミー語録』~談話其の35)
それでは、以上のような魔術的秘密という事実を前にして、言語表現はいったいなんの役に立つのか、だいいち、ルーミーの言葉もしくは言語的行為はなにを指し示しているのか。
「言葉の機能は人を鼓舞して探求に駆り立てることにある。探求の対象まで言語で捉えられるわけではない。もしそうでなければ、何もこんなにまで苦労して、自己を無化したりする必要がどこにある。言葉というものは、譬えば遠くに何やら動くものを認めた人が、はっきり見定めたいと思って、走って追いかけてゆくようなものだ。ただ向うが動いているだけでは、それが何であるのかつかめはしない。人間の言葉も内的には正しくそうしたもの。目には見えぬ何かを、見えないながらも追い求めてゆくように人を駆り立てる力、それが言葉である。(中略)或る人々にとっては、薔薇の蕾が開いて花が咲くのが楽しい。だが、薔薇を構成するすべての要素がばらばらになって、一切がその根源に還ってゆくのを見ることに無上の楽しみを味わう人々もある。つまり、友情も恋も愛も不信も信仰も、全てが存続することをやめて、根源に還ってしまう有様が見たいという人があるのだ。なぜなら、すべてこういうものは、畢竟するに、目隠しの塀であって、狭苦しさと二元性のもとであり、これに反して、かの世界は限りなき広袤と絶対的一者性のもとだからである。」(『ルーミー語録』~談話其の52)
☆ ☆ ☆
しかし、ここまでくると、この絶対的一者の探求は、どこかしら仏教思想の無の探求とも似た様相をおびてくるのではないかというおもいが、ふと私の意識をよぎる。それは単なる雪の中の妄想であろうか。
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「もしも知識だけがそっくり人の内にあって、無知が全然なかったなら、人はたちまち燃え尽きてしまうであろう。だから、人間の存在がそれに依っているという意味で、無知にもそれなりの価値がある。一方知識は、それが神を識るための方便となるという意味で価値がある。とすれば、知と無知とは互いに相補い相助けるものとしなければならない。そして、すべて反対のものはそうである。例えば夜は昼の反対だが、それで昼を助け、昼と同じ一つの仕事をしているのである。いつも夜ばっかりだったら、人はなんの仕事もできないだろうし、なんの成果も生まないだろう。逆に、いつもぶっ続けに昼間だったら、目も頭も脳もふらふらになり、気が狂って、ものの役にも立たなくなってしまうのが落ちだろう。だから夜になると人々は休息し、安らかに眠って、その間に脳も思想も、手も足も耳も目も、あらゆる器官が元気を恢復する。そして昼間、貯えたその力を使うのだ。こういうわけで、全て我々にとって反対と見えるものも、真の悟達の人にとっては一つことをしているのであって、決して反対なのではない。世の中のいわゆる悪で、善を内に含んでいないような悪があったらお目にかかりたい。」(『ルーミー語録』~談話其の59)
反対のものは一つ、そうでなければ二元論になってしまうとルーミーは強く主張する。そしてその先で、「我こそは神」と、神と一体化した境地を言語化し、それゆえに処刑されたイスラーム神秘思想の先達ハッラージュ(857年頃~922年)を称賛する。
「例えばマンスール(偉大な神秘家ハッラージュのこと)だが、神への思慕の情が極限までに達した時、彼は己れの敵となり、己れ自身を無にした。そして絶叫した、「我こそは神!」と。すなわち、「私は消滅した。神のみがあとに残った」という意味だ。これこそ自己を卑下するの極みであり、神に対する恭順の至りである。神が在る、神のみが、というのだから(「我こそは神」は普通、傲慢不遜の極致と考えられている。またその故にハッラージュは処刑された)。実は、「汝は神、私は僕」と言うことこそ真の傲慢不遜なのである。なぜなら、これは人間が自分自身の存在を神と並べて措定することだから。そうなれば当然、二元論である。「彼こそは神」と言うこともまた二元論である。なぜなら、我が立てられない限り彼は立ちようがないからである。だから、(ハッラージュの場合)「我こそは神」というのは神自身の発言である。神以外には一物も存在せず、マンスールは完全に消え失せてしまっているのだから、神自身の言葉でしかあり得ない。形象の世界は、概念や知覚の世界よりはるかに広漠たる世界である。人間の心に浮ぶ一切のものは全て形象の世界に淵源するものであるから。しかし、その広漠たる形象の世界も、全ての形象が淵源してくるかの世界に比すれば狭いのである。言葉で説明できるのは、またこの程度までだ。実在の真相は到底筆舌を以て説き明かせるようなものではない。」(談話其の52)
ルーミーによれば、このようにして、蝋燭を前にした蛾のように自己を無化することができる者でなければイスラームの信仰に入ることはできない。そうではなく、あくまでも自己を放擲できない者にとり、信仰の真理は幾重もの幕帳でしっかりと閉ざされている。
「(神と人との間には)暗黒の幕帳(とばり)が七百もあり、光の幕帳が七百もあるというが、およそ形象の世界に属するものは暗黒の幕帳であり、霊的実在の世界に属するものはすべて光の幕帳である。形象の織りなす暗黒の幕帳は、全て黒一色で区別がつかない。違いがあまり微妙で見分けることができないのである。だが、霊的実在の方も、実に深遠な違いがそれぞれの間にあるにもかかわらず、この相違を識別することはできない。」(『ルーミー語録』~談話其の64)
信じない者にとって神は幕帳、しかし信じる者にとっても幕帳。その違いはその幕帳が暗黒からなるか光からなるでしかない。それゆえ、世界のなかに幕帳の存在しか見ず、みずから幕帳のなかに踏み込むことをしない者には、コーランの秘密は永遠に開示されない。
「それにしてもコーランというものは実に不思議な魔術師だ。秘密は絶対に知らさない。敵意を抱く者と見るやたちまち魔術にかけ、耳にはっきり分るように語りかけるのに、それでいて、相手は全然意味がつかめない。一向面白いとも感じない。ちょっと興が湧いても立ちどころに取り上げてしまう。「アッラーは封緘をもって彼らの心を閉ざし給うた」(コーラン2章6節)とある通りである。なんたる優雅さか、聞いても分らず、喋っても意味が分らぬ人の心を封緘で閉ざし給うとは。神は優雅だ。憤怒も優雅、閉ざすも優雅。だが一たんおろした錠前をはずして下さる、その優雅さに至っては、もう筆舌に尽せるものではない。」(『ルーミー語録』~談話其の35)
それでは、以上のような魔術的秘密という事実を前にして、言語表現はいったいなんの役に立つのか、だいいち、ルーミーの言葉もしくは言語的行為はなにを指し示しているのか。
「言葉の機能は人を鼓舞して探求に駆り立てることにある。探求の対象まで言語で捉えられるわけではない。もしそうでなければ、何もこんなにまで苦労して、自己を無化したりする必要がどこにある。言葉というものは、譬えば遠くに何やら動くものを認めた人が、はっきり見定めたいと思って、走って追いかけてゆくようなものだ。ただ向うが動いているだけでは、それが何であるのかつかめはしない。人間の言葉も内的には正しくそうしたもの。目には見えぬ何かを、見えないながらも追い求めてゆくように人を駆り立てる力、それが言葉である。(中略)或る人々にとっては、薔薇の蕾が開いて花が咲くのが楽しい。だが、薔薇を構成するすべての要素がばらばらになって、一切がその根源に還ってゆくのを見ることに無上の楽しみを味わう人々もある。つまり、友情も恋も愛も不信も信仰も、全てが存続することをやめて、根源に還ってしまう有様が見たいという人があるのだ。なぜなら、すべてこういうものは、畢竟するに、目隠しの塀であって、狭苦しさと二元性のもとであり、これに反して、かの世界は限りなき広袤と絶対的一者性のもとだからである。」(『ルーミー語録』~談話其の52)
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しかし、ここまでくると、この絶対的一者の探求は、どこかしら仏教思想の無の探求とも似た様相をおびてくるのではないかというおもいが、ふと私の意識をよぎる。それは単なる雪の中の妄想であろうか。