前回も履歴書&就職活動をまくらにした記事だったが、この就活がなかなかうまくいかない。
去年の秋は、ハローワーク(職安)を拠点にして、歳をとってもまだ可能性があるのではないかとの幻想から正社員での雇用を目ざしていたのだが、公共媒体に掲出される求人情報と現実の違い(公的な求人情報には年齢不問と記載されていても、実質的には年齢制限がある)に気づき、今月からはハローワークにはたよらず、民間の就職情報誌を中心にしてアルバイトやパートでの雇用を目ざすことに活動方向を転換した。私はここ数年アルバイトで生活しており、正社員での採用はのぞましくはあるがアルバイト、パートもやむなしと考えているので、この路線変更自体には特に落胆はしていない。媒体の変更も、パート、アルバイトなら就職情報誌の方が手っ取り早いという感触がある。現に、就職情報誌のパート募集の求人(その多くは派遣)に問い合わせの電話をかけると、ハローワークが紹介している求人と異なり、まず登録・面接に来て欲しいという返事が返ってくる。そこで今月に入り、3件の面接をこなしたというわけ。
結果からいうと、この3件、いずれも不採用なのだが、ともかくこちらと会ってくれて、私の希望をきき、能力をテストしてくれているということで、不採用になってもそれなりの手応えがあり、これをバネに来週以降また新たな求人に応募してみようとおもっている(一概に比較はできないが、ハローワークをとおした求人の手続きのほとんどは、まず履歴書を郵送してほしいというものので、履歴書を送っても採用見送りとして履歴書が返送されてくるだけで、面接までこぎ着けたのは一回だけだった。いわば門前拒否の連続で、これにはさすがに失望した)。
☆ ☆ ☆
で、最近は就活のあいまにベートーヴェンの初期、おおむね1795年頃から1800年頃にかけて、つまり彼の25歳から30歳にかけて作曲された曲をメインにCDを聴いている。曲目でいうと、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第2番、ピアノ・ソナタ第1番~第8番、ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番等。ベートーヴェン初期のピアノ・ソナタなど、きちんと聴くのはこれがはじめてという気もするが(鍵盤の獅子王といわれたドイツの大ピアニスト、バックハウスのCDが昨年末に再発されたので、まずはこれを聴いている)、じっくり聴くまでどれもこれも同じような習作ばかりでハイドンやモーツァルトの亜流の域をでないとかってにおもいこんでいた曲が、よく聴いてみると一曲一曲個性的で、とてもおもしろくなってきた。
まずベートーヴェンの曲や彼の「個性」の問題だが、古典的なソナタ形式にしたがっているかという問題を別にすれば、初期の曲、とりわけピアノ・ソナタのいくつかの緩徐楽章は、彼の晩年の曲がもっている曲想とよく似ている。だからこれらを聴いていると、ベートーヴェンがほんとうにつくりたかった曲というのはどのようなものだったのか、つい考えてしまう。つまり、通常最もベートーヴェンらしいと考えられているダイナミックな曲想をもつさまざまな曲(『熱情』『運命』など)は、時代に合わせてつくり、大成功した曲ではあるが、それは彼ほんらいの個性や彼がほんとうに表現したかったものとは違うのではないかということだ。
ベートーヴェンの初期、中期という時代は、フランス革命勃発(1789年)からナポレオン没落、ウィーン体制による社会秩序の固定化(1815年)とすっぽり重なる時期であり、先行きもわからず変動していく社会のなかで、なにかしら新しい秩序を求めるという社会的期待感(もしくは不安感)に合致したのがベートーヴェン中期の音楽ではなかっただろうか。だから、これを古典派からロマン派への橋渡しという音楽様式の変化やベートーヴェンの個性という狭い範囲のなかだけでとらえることは無理があるのではないだろうか?要は、激しく変わっていく時代に敏感で、それを無意識のうちに強く反映したものがベートーヴェン(中期)の音楽ではないかということだ。
(ちなみにこのことは、日本の戦後文学、たとえば三島由紀夫の文学作品のあり方を私におもいおこさせる。つまり、『仮面の告白』など、終戦直後に発表された三島作品は、彼の個性を反映したものなのか、時代を反映したものなのかというだ。)
そんな風におもいながらいろいろな曲を聴いているうちに、ものすごく好きになったのがピアノ・ソナタ第7番とそのなかでも特に第二楽章「ラルゴ・エ・メスト(ゆっくりと、悲哀に沈んで)」。
この曲、実はバックハウスの録音をきいてすばらしいとおもったのではなく、それとは対照的なホロヴィッツの録音を聴いてすばらしいとおもった。ホロヴィッツのベートーヴェン演奏、オネエさん的というか、一般的にはあまりにも線が細くて私の好みではないのだが、このラルゴに関しては、ホロヴィッツで聴いているとベルカント・オペラのアリアをピアノ用に編曲した繊細で悲劇的な音楽に聞こえる。だからそれは、いわゆるいかついベートーヴェンのイメージからはものすごく懸け離れているのだが、ここでベートーヴェンがベッリーニ的な繊細さを探究したのでないと、どうして断定できるのだろう?
ホロヴィッツの演奏は、そういう意味で、とても新鮮で刺激的だ(同じ曲にいかつく野性的な悲劇を求めるならばリヒテルがそういう演奏をしている)。で、肝心のバックハウスの演奏はものすごく淡泊で、ホロヴィッツの洗練ともリヒテルの野性味ともまた違う。悲劇性などどこ吹く風というさらっとした演奏だ。
今はどうかしらないが、日本では、バックハウスのベートーヴェン演奏はほとんど神格化されて称揚されているようにおもうが、私がCDで聴いているバックハウスの演奏はそうしたイメージからはほど遠い。バックハウスがステレオでベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したのはその最晩年にあたる70歳代後半から80歳代にかけてのことだが、この時バックハウスは、完全無欠なベートーヴェン演奏を目ざすということからはほど遠い心境にあったのではないだろうか。つまり、年齢的にいって、完全無欠な演奏など不可能だから、演奏のなかから可能なかぎり不必要な要素をそぎおとし、自分が本質と考えるものだけでベートーヴェンを演奏してみよう。どうも私にはバックハウスのステレオ録音はおしなべてそういう演奏にきこえるのである。それをもう少し具体的にいえば、曲のなかで強弱の変化をつけることやフレーズによってテンポを変化させることが非常に少なく、部分的な悲劇性といったものを強調することもない。
だからこれは、初心者にはききずらい、とても難しい演奏だというのが、現在の私の感想である。
去年の秋は、ハローワーク(職安)を拠点にして、歳をとってもまだ可能性があるのではないかとの幻想から正社員での雇用を目ざしていたのだが、公共媒体に掲出される求人情報と現実の違い(公的な求人情報には年齢不問と記載されていても、実質的には年齢制限がある)に気づき、今月からはハローワークにはたよらず、民間の就職情報誌を中心にしてアルバイトやパートでの雇用を目ざすことに活動方向を転換した。私はここ数年アルバイトで生活しており、正社員での採用はのぞましくはあるがアルバイト、パートもやむなしと考えているので、この路線変更自体には特に落胆はしていない。媒体の変更も、パート、アルバイトなら就職情報誌の方が手っ取り早いという感触がある。現に、就職情報誌のパート募集の求人(その多くは派遣)に問い合わせの電話をかけると、ハローワークが紹介している求人と異なり、まず登録・面接に来て欲しいという返事が返ってくる。そこで今月に入り、3件の面接をこなしたというわけ。
結果からいうと、この3件、いずれも不採用なのだが、ともかくこちらと会ってくれて、私の希望をきき、能力をテストしてくれているということで、不採用になってもそれなりの手応えがあり、これをバネに来週以降また新たな求人に応募してみようとおもっている(一概に比較はできないが、ハローワークをとおした求人の手続きのほとんどは、まず履歴書を郵送してほしいというものので、履歴書を送っても採用見送りとして履歴書が返送されてくるだけで、面接までこぎ着けたのは一回だけだった。いわば門前拒否の連続で、これにはさすがに失望した)。
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で、最近は就活のあいまにベートーヴェンの初期、おおむね1795年頃から1800年頃にかけて、つまり彼の25歳から30歳にかけて作曲された曲をメインにCDを聴いている。曲目でいうと、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第2番、ピアノ・ソナタ第1番~第8番、ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番等。ベートーヴェン初期のピアノ・ソナタなど、きちんと聴くのはこれがはじめてという気もするが(鍵盤の獅子王といわれたドイツの大ピアニスト、バックハウスのCDが昨年末に再発されたので、まずはこれを聴いている)、じっくり聴くまでどれもこれも同じような習作ばかりでハイドンやモーツァルトの亜流の域をでないとかってにおもいこんでいた曲が、よく聴いてみると一曲一曲個性的で、とてもおもしろくなってきた。
まずベートーヴェンの曲や彼の「個性」の問題だが、古典的なソナタ形式にしたがっているかという問題を別にすれば、初期の曲、とりわけピアノ・ソナタのいくつかの緩徐楽章は、彼の晩年の曲がもっている曲想とよく似ている。だからこれらを聴いていると、ベートーヴェンがほんとうにつくりたかった曲というのはどのようなものだったのか、つい考えてしまう。つまり、通常最もベートーヴェンらしいと考えられているダイナミックな曲想をもつさまざまな曲(『熱情』『運命』など)は、時代に合わせてつくり、大成功した曲ではあるが、それは彼ほんらいの個性や彼がほんとうに表現したかったものとは違うのではないかということだ。
ベートーヴェンの初期、中期という時代は、フランス革命勃発(1789年)からナポレオン没落、ウィーン体制による社会秩序の固定化(1815年)とすっぽり重なる時期であり、先行きもわからず変動していく社会のなかで、なにかしら新しい秩序を求めるという社会的期待感(もしくは不安感)に合致したのがベートーヴェン中期の音楽ではなかっただろうか。だから、これを古典派からロマン派への橋渡しという音楽様式の変化やベートーヴェンの個性という狭い範囲のなかだけでとらえることは無理があるのではないだろうか?要は、激しく変わっていく時代に敏感で、それを無意識のうちに強く反映したものがベートーヴェン(中期)の音楽ではないかということだ。
(ちなみにこのことは、日本の戦後文学、たとえば三島由紀夫の文学作品のあり方を私におもいおこさせる。つまり、『仮面の告白』など、終戦直後に発表された三島作品は、彼の個性を反映したものなのか、時代を反映したものなのかというだ。)
そんな風におもいながらいろいろな曲を聴いているうちに、ものすごく好きになったのがピアノ・ソナタ第7番とそのなかでも特に第二楽章「ラルゴ・エ・メスト(ゆっくりと、悲哀に沈んで)」。
この曲、実はバックハウスの録音をきいてすばらしいとおもったのではなく、それとは対照的なホロヴィッツの録音を聴いてすばらしいとおもった。ホロヴィッツのベートーヴェン演奏、オネエさん的というか、一般的にはあまりにも線が細くて私の好みではないのだが、このラルゴに関しては、ホロヴィッツで聴いているとベルカント・オペラのアリアをピアノ用に編曲した繊細で悲劇的な音楽に聞こえる。だからそれは、いわゆるいかついベートーヴェンのイメージからはものすごく懸け離れているのだが、ここでベートーヴェンがベッリーニ的な繊細さを探究したのでないと、どうして断定できるのだろう?
ホロヴィッツの演奏は、そういう意味で、とても新鮮で刺激的だ(同じ曲にいかつく野性的な悲劇を求めるならばリヒテルがそういう演奏をしている)。で、肝心のバックハウスの演奏はものすごく淡泊で、ホロヴィッツの洗練ともリヒテルの野性味ともまた違う。悲劇性などどこ吹く風というさらっとした演奏だ。
今はどうかしらないが、日本では、バックハウスのベートーヴェン演奏はほとんど神格化されて称揚されているようにおもうが、私がCDで聴いているバックハウスの演奏はそうしたイメージからはほど遠い。バックハウスがステレオでベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したのはその最晩年にあたる70歳代後半から80歳代にかけてのことだが、この時バックハウスは、完全無欠なベートーヴェン演奏を目ざすということからはほど遠い心境にあったのではないだろうか。つまり、年齢的にいって、完全無欠な演奏など不可能だから、演奏のなかから可能なかぎり不必要な要素をそぎおとし、自分が本質と考えるものだけでベートーヴェンを演奏してみよう。どうも私にはバックハウスのステレオ録音はおしなべてそういう演奏にきこえるのである。それをもう少し具体的にいえば、曲のなかで強弱の変化をつけることやフレーズによってテンポを変化させることが非常に少なく、部分的な悲劇性といったものを強調することもない。
だからこれは、初心者にはききずらい、とても難しい演奏だというのが、現在の私の感想である。