ここのところずっと抽象的な議論ばかりが続いたので、この辺で思い切って視点を変え、今度は逆に、実際にイスラーム諸国のスラム街を遍歴した石井光太氏の体験的ノンフィクション『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』(新潮社、2007年)から、イスラームの性のなまなましい実態をみておくことにしよう。石井氏は、マレーシア、インドネシアからレバノン、ヨルダンまでさまざまなイスラーム諸国とインドのイスラーム社会を訪ね、その最底辺に生きる男女(もちろん、そのなかには同性愛者もいる)の生き様を記しており、私も、イスラーム社会の性や差別の実態について、本書ではじめて知ることが多かった。今回はそのなかから、バングラデシュのダッカで売春をしている浮浪児たちとのやりとりを抜き出して紹介してみたい。
☆ ☆ ☆
「次の日の午後、レジミーの案内で2キロほど離れたところに向かった。この二日間できいた話から、浮浪者に客を紹介されるケースが多い、と知った。私は、そんな大人たちがどんな人間かを、見てみたかったのである。やってきたのは、広い空き地のような場所で、ここが連中の溜まり場だった。木や草が生い茂り、ビニール袋や新聞紙などのゴミが、散らばっている。地べたには百人を超す路上生活者が、たむろしていた。ここは昨日訪れた公園と異なり、ほぼすべてが路上生活者で占められている。彼らは公然とパイプに詰めたマリワナを吸い、独り言をいったり、薄目をあけて寝そべったりしていた。レジミーはそんな大人たちを一人一人指さして、「パパ」という。大人たちのなかには、浮浪児と仲良くしている者も多かった。(中略)ガイドが横目で見ながら、いった。「あれはみんな浮浪者だ。だけど、子供たちにとっては唯一、頼れる大人なんだよ。普通の大人は、誰も見向きもしないからな」「でも、なぜ彼らは子供たちに売春を斡旋するんでしょうか」「彼ら自身が浮浪児だったから、事情をよく知ってるのさ。子供たちが体を売らなければメシも食えないこと、それに抱きしめられて嬉しがることも理解してるんだ。それに、自分たちだってそうしなければ生きていけない。すべてが必要悪、ということだよ」子供といっても、おそらく12歳にも満たない者ばかりだ。なかには幼児といえる子さえいる。それでも、彼らにとってそうすることが唯一の生きる手段なのだ。そう考えていると、レジミーが私のシャツの裾を引っぱって、木陰にたむろする少年たちを指差した。10歳前後の子供たちが4人集まって、木の根方にすわっていた。近づいてみると、注射器でもって透明なピンクの液体を肩に注入している最中だった。ドラッグだ。(中略)彼らが差しだす腕は、傷だらけだった。手首から肩の辺りまで何十、何百という切り傷があったのだ。傷が多すぎて、まるで火傷の痕のようになっている者もいた。「男の子たちは体に傷をつけて、そこにドラッグをすり込むんだよ。気持がいいんだって」子供たちの足元には、錆びて黒くなった剃刀が落ちていた。これで切るのだという。私は、注射器を手にしている男の子に向かって尋ねる。「ねえ、どうしとてパパは君にドラッグをくれるの?」「男に抱かれると、尻が痛くなるでしょ。その痛みを和らげるためにくれるんだよ。僕らを抱く大人がくれることもあるよ。これはそうやってもらったんだ」この男の子たちも売春をしているのだ。理由はどうあれ、ドラッグを覚えるのも売春を通じてなのだ。「ねえ、君はなぜ売春をするの?君を買う男のことを憎んでる?」我ながら往生際が悪い。この期に及んでまた、同じような質問をしている。しかし、この子も首をふるのだった。「そんなこといわないでよ。彼らはいい人だよ。いや、かわいそうな人なんだ」あまりにもきっぱりしていて、思わず耳を疑った。その言葉が信じられない。「君を暴行する人が、どうしてかわいそうなの?本当にそう思ってるの?」「彼らは彼らなりに、苦しんでるんだよ。自分が変なことも、痛い思いをさせてるってこともわかってる。だから、すべて終った後に、ごめんね、ごめんねって謝ってくるんだ」「そんないい人が、君にドラッグをくれるのかい?」「彼らは、僕に痛い思いをさせまいとしてくれるんだ。だから僕は『まったく平気だぜ』って答えてあげる。そうすれば、安心してくれるからね」大人びた口調でそういった。みんなまだ、本当の子供なのだ。なのに、大人たちの身の上を哀れんでいる。自らの境涯を嘆くより、加害者の現実を許し、受け入れ、慰めようとしているのだった。彼らは物心ついた時から虐げられてきた。だからこそ、人の痛みを我がこととし、相手を思いやることができるのだろうか。気がつくと、男の子はピンクの液体を注射していた。注射器の中で液体は少しだけ逆流してから、ゆっくりと皮膚の中へ入っていく。彼は薬液を半分残して、隣の友人に回しながら、じっと私を見つめている。瞳は次第に焦点が合わなくなり、輝きを失っていった。」(石井光太氏『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』、266頁~269頁)
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「次の日の午後、レジミーの案内で2キロほど離れたところに向かった。この二日間できいた話から、浮浪者に客を紹介されるケースが多い、と知った。私は、そんな大人たちがどんな人間かを、見てみたかったのである。やってきたのは、広い空き地のような場所で、ここが連中の溜まり場だった。木や草が生い茂り、ビニール袋や新聞紙などのゴミが、散らばっている。地べたには百人を超す路上生活者が、たむろしていた。ここは昨日訪れた公園と異なり、ほぼすべてが路上生活者で占められている。彼らは公然とパイプに詰めたマリワナを吸い、独り言をいったり、薄目をあけて寝そべったりしていた。レジミーはそんな大人たちを一人一人指さして、「パパ」という。大人たちのなかには、浮浪児と仲良くしている者も多かった。(中略)ガイドが横目で見ながら、いった。「あれはみんな浮浪者だ。だけど、子供たちにとっては唯一、頼れる大人なんだよ。普通の大人は、誰も見向きもしないからな」「でも、なぜ彼らは子供たちに売春を斡旋するんでしょうか」「彼ら自身が浮浪児だったから、事情をよく知ってるのさ。子供たちが体を売らなければメシも食えないこと、それに抱きしめられて嬉しがることも理解してるんだ。それに、自分たちだってそうしなければ生きていけない。すべてが必要悪、ということだよ」子供といっても、おそらく12歳にも満たない者ばかりだ。なかには幼児といえる子さえいる。それでも、彼らにとってそうすることが唯一の生きる手段なのだ。そう考えていると、レジミーが私のシャツの裾を引っぱって、木陰にたむろする少年たちを指差した。10歳前後の子供たちが4人集まって、木の根方にすわっていた。近づいてみると、注射器でもって透明なピンクの液体を肩に注入している最中だった。ドラッグだ。(中略)彼らが差しだす腕は、傷だらけだった。手首から肩の辺りまで何十、何百という切り傷があったのだ。傷が多すぎて、まるで火傷の痕のようになっている者もいた。「男の子たちは体に傷をつけて、そこにドラッグをすり込むんだよ。気持がいいんだって」子供たちの足元には、錆びて黒くなった剃刀が落ちていた。これで切るのだという。私は、注射器を手にしている男の子に向かって尋ねる。「ねえ、どうしとてパパは君にドラッグをくれるの?」「男に抱かれると、尻が痛くなるでしょ。その痛みを和らげるためにくれるんだよ。僕らを抱く大人がくれることもあるよ。これはそうやってもらったんだ」この男の子たちも売春をしているのだ。理由はどうあれ、ドラッグを覚えるのも売春を通じてなのだ。「ねえ、君はなぜ売春をするの?君を買う男のことを憎んでる?」我ながら往生際が悪い。この期に及んでまた、同じような質問をしている。しかし、この子も首をふるのだった。「そんなこといわないでよ。彼らはいい人だよ。いや、かわいそうな人なんだ」あまりにもきっぱりしていて、思わず耳を疑った。その言葉が信じられない。「君を暴行する人が、どうしてかわいそうなの?本当にそう思ってるの?」「彼らは彼らなりに、苦しんでるんだよ。自分が変なことも、痛い思いをさせてるってこともわかってる。だから、すべて終った後に、ごめんね、ごめんねって謝ってくるんだ」「そんないい人が、君にドラッグをくれるのかい?」「彼らは、僕に痛い思いをさせまいとしてくれるんだ。だから僕は『まったく平気だぜ』って答えてあげる。そうすれば、安心してくれるからね」大人びた口調でそういった。みんなまだ、本当の子供なのだ。なのに、大人たちの身の上を哀れんでいる。自らの境涯を嘆くより、加害者の現実を許し、受け入れ、慰めようとしているのだった。彼らは物心ついた時から虐げられてきた。だからこそ、人の痛みを我がこととし、相手を思いやることができるのだろうか。気がつくと、男の子はピンクの液体を注射していた。注射器の中で液体は少しだけ逆流してから、ゆっくりと皮膚の中へ入っていく。彼は薬液を半分残して、隣の友人に回しながら、じっと私を見つめている。瞳は次第に焦点が合わなくなり、輝きを失っていった。」(石井光太氏『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』、266頁~269頁)