闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

人間の美徳とは?--16、『神の棄てた裸体』から

2008-08-21 20:05:03 | テクストの快楽
ここのところずっと抽象的な議論ばかりが続いたので、この辺で思い切って視点を変え、今度は逆に、実際にイスラーム諸国のスラム街を遍歴した石井光太氏の体験的ノンフィクション『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』(新潮社、2007年)から、イスラームの性のなまなましい実態をみておくことにしよう。石井氏は、マレーシア、インドネシアからレバノン、ヨルダンまでさまざまなイスラーム諸国とインドのイスラーム社会を訪ね、その最底辺に生きる男女(もちろん、そのなかには同性愛者もいる)の生き様を記しており、私も、イスラーム社会の性や差別の実態について、本書ではじめて知ることが多かった。今回はそのなかから、バングラデシュのダッカで売春をしている浮浪児たちとのやりとりを抜き出して紹介してみたい。

     ☆     ☆     ☆

「次の日の午後、レジミーの案内で2キロほど離れたところに向かった。この二日間できいた話から、浮浪者に客を紹介されるケースが多い、と知った。私は、そんな大人たちがどんな人間かを、見てみたかったのである。やってきたのは、広い空き地のような場所で、ここが連中の溜まり場だった。木や草が生い茂り、ビニール袋や新聞紙などのゴミが、散らばっている。地べたには百人を超す路上生活者が、たむろしていた。ここは昨日訪れた公園と異なり、ほぼすべてが路上生活者で占められている。彼らは公然とパイプに詰めたマリワナを吸い、独り言をいったり、薄目をあけて寝そべったりしていた。レジミーはそんな大人たちを一人一人指さして、「パパ」という。大人たちのなかには、浮浪児と仲良くしている者も多かった。(中略)ガイドが横目で見ながら、いった。「あれはみんな浮浪者だ。だけど、子供たちにとっては唯一、頼れる大人なんだよ。普通の大人は、誰も見向きもしないからな」「でも、なぜ彼らは子供たちに売春を斡旋するんでしょうか」「彼ら自身が浮浪児だったから、事情をよく知ってるのさ。子供たちが体を売らなければメシも食えないこと、それに抱きしめられて嬉しがることも理解してるんだ。それに、自分たちだってそうしなければ生きていけない。すべてが必要悪、ということだよ」子供といっても、おそらく12歳にも満たない者ばかりだ。なかには幼児といえる子さえいる。それでも、彼らにとってそうすることが唯一の生きる手段なのだ。そう考えていると、レジミーが私のシャツの裾を引っぱって、木陰にたむろする少年たちを指差した。10歳前後の子供たちが4人集まって、木の根方にすわっていた。近づいてみると、注射器でもって透明なピンクの液体を肩に注入している最中だった。ドラッグだ。(中略)彼らが差しだす腕は、傷だらけだった。手首から肩の辺りまで何十、何百という切り傷があったのだ。傷が多すぎて、まるで火傷の痕のようになっている者もいた。「男の子たちは体に傷をつけて、そこにドラッグをすり込むんだよ。気持がいいんだって」子供たちの足元には、錆びて黒くなった剃刀が落ちていた。これで切るのだという。私は、注射器を手にしている男の子に向かって尋ねる。「ねえ、どうしとてパパは君にドラッグをくれるの?」「男に抱かれると、尻が痛くなるでしょ。その痛みを和らげるためにくれるんだよ。僕らを抱く大人がくれることもあるよ。これはそうやってもらったんだ」この男の子たちも売春をしているのだ。理由はどうあれ、ドラッグを覚えるのも売春を通じてなのだ。「ねえ、君はなぜ売春をするの?君を買う男のことを憎んでる?」我ながら往生際が悪い。この期に及んでまた、同じような質問をしている。しかし、この子も首をふるのだった。「そんなこといわないでよ。彼らはいい人だよ。いや、かわいそうな人なんだ」あまりにもきっぱりしていて、思わず耳を疑った。その言葉が信じられない。「君を暴行する人が、どうしてかわいそうなの?本当にそう思ってるの?」「彼らは彼らなりに、苦しんでるんだよ。自分が変なことも、痛い思いをさせてるってこともわかってる。だから、すべて終った後に、ごめんね、ごめんねって謝ってくるんだ」「そんないい人が、君にドラッグをくれるのかい?」「彼らは、僕に痛い思いをさせまいとしてくれるんだ。だから僕は『まったく平気だぜ』って答えてあげる。そうすれば、安心してくれるからね」大人びた口調でそういった。みんなまだ、本当の子供なのだ。なのに、大人たちの身の上を哀れんでいる。自らの境涯を嘆くより、加害者の現実を許し、受け入れ、慰めようとしているのだった。彼らは物心ついた時から虐げられてきた。だからこそ、人の痛みを我がこととし、相手を思いやることができるのだろうか。気がつくと、男の子はピンクの液体を注射していた。注射器の中で液体は少しだけ逆流してから、ゆっくりと皮膚の中へ入っていく。彼は薬液を半分残して、隣の友人に回しながら、じっと私を見つめている。瞳は次第に焦点が合わなくなり、輝きを失っていった。」(石井光太氏『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』、266頁~269頁)

人間の美徳とは?--15、理解と寛容

2008-08-20 20:44:22 | テクストの快楽
小ブログの前回の記事を読んだ方のなかには、イスラーム社会(法)の性的不寛容にあきれ、どうしようもないとおもわれた方も多いのではないだろうか。そういう人に対しては、まあそれも当然の反応だとおもうし、ここでそれを非難するするつもりはない。
またそれとは逆に、イスラームを擁護する立場から、そうした非難が生じることはあらかじめ予測できることではないか、とすればなぜ前回のような記事を書くのかと問う人に対しては、当事者にとって都合の悪い事実を明らかにせずに第三者から当事者に有利な反応を引き出そうとすることは、最終的に当事者の利益にならないのではないかと私は考えているということを明言しておきたい。
結局、異なる価値観、世界観をもつ相手と対峙するときに重要なのは、相手が何を考えているか、あるいはどのような考え方(思考パターン)をするのかを知り、そのうえで相手と向き合うことではないだろうか。このことは、話し合いなどの手段によって、最終的に双方が同じ考えをもつようになるということを意味しない。それはたとえば、異性愛者が同性愛者を理解するというときに、異性愛者が同性愛的感覚をもつようになるだろうかということと同じである。要するに、どのように好意的であっても、異性愛者は結局同性愛者になることはできないし、なる必要もない。そうではなくて、自分には理解できない自分と異なった性的指向や感覚が存在するということを異性愛者が容認すればよいという、それだけのことである。
それゆえここで最低限強調しておきたいのは、イスラーム社会は同性愛に対してとりわけ敵対的なのではなく、西洋社会や日本と比較したとき、相対的に、性的事象全般に対する禁忌が厳しく、同性愛禁忌は、そうしたイスラーム的な性的禁忌のなかに包括されているということである。この点を見逃して、イスラーム的な性的禁忌のなかから同性愛問題に関する事実だけをとりだし、イスラーム社会(法)は同性愛者に対して死刑を執行しており同性愛に敵対的であるといってみても、事実は事実として否定することはできないが、問題がいたずらに感情的になるばかりで、その事実を変えていくにはどうしたらいいかという点では、少しも有効な議論を行うことはできないのではないだろうか(まったく極端で文字通り非現実的な仮定であるが、イスラーム国家が同性愛者に敵対的な法を撤回し、ただし異性愛であれ同性愛であれ、肛門性交は禁止という法を厳守するとしたら、こうした措置は、はたして同性愛に対して好意的なのであろうか敵対的なのであろうか?)。

すなわち、こうしたイスラーム社会の性的禁忌が提示するのは、いわゆる「文明の衝突」なのであろうか。とすればわれわれは、イスラームに対して、明確に敵対的行動をとるしかないであろう。
しかしそうではなくて、イスラームがわれわれに提示しているのは、いわゆる「グローバリゼーション」の限界、さらには誤りではないかと私にはおもわれる。世界規模での普遍主義、共通価値観、世界観の模索という虚構は、イスラーム社会の現実を前にしてもろくも崩れざるをえないのである。
こうしたもう一つの事実を目の前にして、われわれは、身体的なものも含めた自己の価値観、世界観を相対化し、それをもう一度、構築しなおす必要があるのではないだろうか。
このように考えていくとき、イスラームからの問いかけは深い。

とはいえ、現実には、われわれがイスラーム社会に対して寛容であることが必要なだけでなく、イスラーム社会にもわれわれに対する協調と寛容を求めることは、あながち不当な要求とはおもわれない。しかしそれを実現するためには、これまで何度もくりかえしたように、イスラームに対して頭ごなしに敵対的な態度をとるのではなく、まず彼らの行動原理、思考原理を知ることが必要ではないかと私にはおもわれる。

人間の美徳とは?--14、イスラームと性

2008-08-17 12:24:21 | テクストの快楽
さてここから、イスラームと同性愛禁忌、もしくはセクシュアリティの問題をより具体的にみていくことにする。ただし、以下の記述ならびに私の考え方は、現在私がもっているイスラームに対する僅かの知識にもとづくものであるので、別の認識によって、議論全体の流れも私の考えも変化しうるものであることをあらかじめお断りしておく。

まずは『コーラン』と同性愛(男色)禁忌ついて、とりあえず目についた二箇所の記述を引用する。

「次はルート(ソドムとゴモラの説話で有名な『旧約聖書』の「創世記」のロトであるが、『コーラン』では彼は託宣を伝えるべく遣わされた預言者となっている)。彼がその民に向ってこう言った時のことだ、「これ、お前たち、世界中の誰一人いまだかつて犯したこともないような破廉恥(男色)をしておるのだな。お前たち、女のかわりに男にたいして欲情を催すとは。まことに言語道断な奴」と。その時、彼らの答えたことといえば、「ただ、おい、みんな、彼ら(ロトとその一家)を邑から叩き出してしまえ。何んと清浄ぶる奴らだ」と。そこで我ら(アッラー)は彼とその家族を救い出した。但し彼の妻だけはぐずぐずしてしていたので駄目だったが。」(井筒俊彦氏訳『コーラン』第7章、78-81)

「ルート(ロト)の一族も使徒を嘘つき呼ばわりした。彼らと同じ血を分けたルートがこう言ったときのこと、「お前たち神を懼れないのか。わしは特にお前たちのために遣わされた誠実な使徒ですぞ。アッラーを懼れなされ。わしの言うことをききなされ。わしは何もこれでお前たちから報酬を貰おうとは思っておらぬ。わしの報酬は万有の主に一切をお委せしてある。これ、お前たち、人もあろうに男ばかり相手にして(ロトの民すなわちソドムの住民の男色好きについては前出)、せっかく神様がお前たちのために創って下さった己れの女房を見向きもしないとは何事か。いや、まったくお前たちは罪深い人間だ」と。「これ、ルート、いいかげんによさないと、追い出されるぞ」と一同が言った。「わしはお前たちのしていることがつくづく嫌だ」と彼が言う、「主よ、私と私の一家をこの者どもの所業より救い出し給え。」そこで我ら(アッラー)は彼とその一家を救い出してやった。但し(一家の中で)老女一人(これはロトの妻である。この説話は前出にも出た)だけは残留組の仲間に入ったが。それから我らはあの者ども(ロトとその一家以外の住民)」を叩きつぶした。彼らの上に沛然たる(石の)雨を降らせた。前々から警告を受けていた人々だけに、それは大変な雨であった。これこそれっきとした神兆ではないか。それなのに大抵の者は信じようともせぬ。それにしても、神様は実にお偉い、慈悲ぶかいお方。」(井筒俊彦氏訳『コーラン』第26章、160-175)

すぐにわかるように、この同性愛嫌悪は『旧約聖書』の記述をほとんどそのまま受け継いだものであるが、これを読む限り、『コーラン』ならびにイスラーム教は、同性愛を明確に嫌悪し、それに対しては「石の雨」を降らせるのが当然としているのがみてとれる。
では、実際のイスラーム社会は、こうした記述を日常の性行為やセクシュアリティにどのように適用しているのだろうか。そこで次に『イスラーム辞典』から「性」「セクシュアリティ」および「ズィナー(姦通)」の項目をみてみることにしよう。

「クルアーンは<われ(アッラー)はすべてのものを男女の対に創った>とし、雌雄の交わりによって生物一般および人間が繁殖することを自然の理としている。イスラーム法における成人の規定も、次世代を生産する生殖能力を基準として、禁欲を称揚せず、合法的に性欲を満たすことを奨励する点に特徴がある。合法的性行為とは、婚姻契約を交わした男女が、断食中など性行為が禁じられた特定の時を除いて、性交およびそれに関連する行為を行うことをさす。(中略)性交は、法学的には”男性器(ペニス)の亀頭部が女性器(膣)内に挿入された場合”に成立する。(中略)夫婦間の体位は、正常位・後背位・座位等どのような体位も可である。肛門性交は禁じられている。(以下省略)」(「性」~『イスラーム辞典』)

「性器結合と直接・間接に関連する人間行動、社会関係、制度。イスラームにおいては、人間の性交は生殖を第一目的としながらも、その行為における快楽も肯定的に捉える。ただし、それは法的に裁可された結婚関係にある者同士の間に限定される。それ以外の性的関係は、ズィナー(違法な性関係)として法的に罰せられる。だが、かつては女奴隷との性的関係は公認され、子供が生まれると彼女はウンム・アル・ワラドという地位につくことができた。とはいえ、異性間の婚外性関係も現実にはさまざまな形で生じ、公認・非公認の売春制度も存在してきた。ただし、妊娠などによって婚外性交が世間に露呈しそうになると、一族の名誉のために近親者が妊婦を殺害するケースもみられる。また、獣姦、同性愛などはイスラーム法上は禁止されているが、地域によっては現実には行われてきた。(以下省略)」(「セクシュアリティ」~『イスラーム辞典』)

「姦通。イスラーム刑法のハッド刑が科せられる。イスラームにおける姦通とは、合法的婚姻関係以外で性的交渉をもつことをさす。その刑罰である姦通罪のハッド刑は、既婚者と未婚者の場合に分けられる。合法的な婚姻をしている健全な成人ムスリム(男性および女性)が姦通罪を犯した場合には石打ちの刑が科せられる。(以下省略)」(「ズィナー」~『イスラーム辞典』)。」

以上を読めばわかるが、イスラーム法ならびにイスラーム社会は、さまざまな性行為のなかで同性愛だけを特に強く断罪しているのではなく、生殖(子供を産むこと)につながらない性行為(たとえば肛門性交)やその子供が非嫡出子となる可能性のある性行為をすべて禁圧しているのであって、イスラームと同性愛禁忌の問題は、それだけをとりだして部分的に考えるのではなく、イスラームと性行為という文脈全体のなかで考えるべきだとおもう。つまり、同性愛者に対する死刑などの刑罰を残虐だとする場合、たとえば、婚外性交によって妊娠した女性の殺害をどのように判断するのかということである。誤解を避けるためにあえて明言しておくが、私は、イスラーム社会における同性愛者への刑罰を不当ではないと言っているのではない。ただそれは、イスラーム社会の性行為に対する考え方全体のなかで扱わないと、問題の所在が明確に見えてこない可能性があると言いたいのである。

人間の美徳とは?--13、多元主義が問うもの

2008-08-16 17:17:59 | テクストの快楽
イスラーム問題に関するここまでの論点を、もう一度整理しておこう。

問題の核心は、われわれは「複数の文化の共存を認める多元主義」の立場をとるか否か、より直接的には、この立場にそって、イスラームとの共存を肯定するか否かということである。ゆえにこれは、「信仰の自由」をどこまで容認するかという問題でもある。
すべての宗教はまやかしであり、宗教の存在は一切認めないといった立場にたつならば、この問題に対するこたえは容易だが、私には、この立場は非現実的であまりにも教条的なものとしかおもえない。
より現実的に考えるならば、自分がどのような立場に立つにせよ、他者の信仰を尊重するということが必要ではないかとおもわれるのだが、そこで次に問題となるのは、信仰の自由を容認するという立場をとった場合に、イスラーム的社会慣習をどこまで容認するかということである。
ここまでの小ブログの説明で、大まかな状況はおわかりいただけているのではないかとおもうが、ムスリムにとって信仰と社会行動を分離することはほぼ不可能であり、ムスリムに対して、「あなたたちの信仰の自由は認めましょう。そのかわりあなたたちも社会行動において、西欧的もしくは「理性的」な一般的基準に従ってください」と要求することは、一見寛容でごく当然の態度のようにみえながら、ことイスラームに関する限り、少しも信仰の自由を認めることにならないのである。真にイスラームに信仰の自由を認めるならば、もう一歩踏み込んで、ムスリムがムスリムとして行動できる自由を容認したうえで、包括的な自由を容認する必要があろう。そうでない条件付きの容認は、イスラームにとって「口先だけの容認」に過ぎず、言葉とは裏腹に、実態的には信仰の自由を大きく制限していることにほかならない。
西欧的な民主主義、もしくは人道主義の陥りがちな落とし穴は、実はこのあたりにあるのではないだろうか。また阪口正二郎氏が指摘しているように、「ムスリムのスカーフ着用行為は「市民的挑発」、「良心的拒否」といわれるように、既存のリベラル・デモクラシーのありように対する「発言」だと理解することができる。ムスリムのスカーフは、リベラル・デモクラシーがどれだけ魅力的な「共生」の形を構想しうるかを試している」(阪口正二郎氏「リベラル・デモクラシーにとってのスカーフ問題」~『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』所収)と考えるのが正当ではないだろうか。
要は、イスラームを対象にして信仰の自由を問題にするとき、われわれは、われわれがよってたつ社会行動やその合理性の根拠を、自分に対してもう一度根本的に問いなおす必要があるということである(ゆえに、イスラームの問題は、その対象そのものの存在によって重要であるだけでなく、「民主主義」を標榜する社会が、その民主主義の根幹を問い返すきっかけになるという意味においても重要なのである)。

ところで、なぜ私がこの問題にここまでこだわるかというと、これは、同性愛に対する差別や同性愛者の自由の問題と、深くかかわる問題ではないかと考えるからである。つまりこうしたことを問題としたとき、マジョリティの側から仮に、「同性愛者の性行動の自由や種々の権利は認めるが、包括的な社会行動においては、理性的な一般的基準に従って欲しい(要するにこれは、例えば人前でオネエ言葉を使うなとかクネクネするなといったことなのよ♪)」というような反応がでてきたとき、こうした要求を覆して、同性愛者のより完全な自由を要求することを可能にする論理が、このイスラーム問題のなかには含まれていると考えるからである(ちなみに、自分たちの行動を制限したり、あるいは不本意な告白をとおして、とりあえず社会的権利をかちとろうという立場を私はとらない。そうではなくて私は「自分らしく生きたい」だけなのだ)。
少なくとも、西欧社会におけるムスリムの要求が不当であるとか他人事であるとか、私にはおもえない。

人間の美徳とは?--12、イスラームの法概念から

2008-08-15 00:33:21 | テクストの快楽
小ブログのイスラーム関連の議論は、実は、イスラーム社会と同性愛の問題をどう考えたらいいかを最終的な射程においているが(現時点でのこの問題に対する私の考え方は、おそらく大半の同性愛者とはかなり懸け離れているとおもうが、それを強制するつもりはない)、この問題に性急に結論を出すのではなく、イスラームという宗教およびその法学の特徴をもう少しじっくりみてみたい。

まずは、具体的に、イスラーム女性が頭髪をスカーフで覆う根拠とされている『コーラン』の記述から。
「それから女の信仰者にも言っておやり、慎みぶかく目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分はしかたがないが、そのほかの美しいところは人にみせぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう。自分の夫、親、舅、自分の息子、夫の息子、自分の兄弟、兄弟の息子、姉妹の息子、自分の(身の廻りの)女達、自分の右手の所有にかかるもの(奴隷)、性欲をもたぬ供廻りの男、女の恥部というものについてまだわけのわからぬ幼児、以上の者以外には自分の飾りを見せたりしないよう。」(井筒俊彦氏訳、『コーラン』第24章31節;井筒氏訳の『コーラン』は岩波文庫として刊行されているが、以下、私が同訳を引用する場合は『井筒俊彦著作集』<中央公論社>による)
この『コーラン』の表現だけではかなり曖昧だが、内藤正典氏によれば、イスラーム女性が頭髪をスカーフで覆うのは、頭髪を陰部と考えるかどうかという判断によるという。そして内藤氏は、「女性の頭髪が、コーランで言うところの「陰部」もしくは「身の飾り」に当たると認識して自らスカーフを着用している女性に、「脱げ」と命じることは、公権力によるセクシュアルハラスメントである」(内藤正典氏「ドイツの政教分離 ルデイン裁判は何をもたらしたか」、『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』所収)と断定している。

このスカーフ問題をめぐるイスラームと西欧社会の対立は根深いが、それはやはり、西欧社会が、イスラームにおいては、宗教、規定(『コーラン』およびイスラーム法)、社会習慣が複雑に絡み合っているということをどう理解し、どう評価するかということにかかわってくるように私にはおもわれる。そうした評価を一切おこなわず、あくまでも西洋的合理主義や西洋的法概念の枠のなかでこの問題を捉えるならば、前に紹介したような女性差別という観点からこの問題を考えるという議論が出てくるのはある意味で当然のことであり、こうした議論にもそれなりの正当性は認めなくてはならないだろう(それに、この種の議論はある単純さとわかりやすさをもっている)。しかし問題は、こうした一方向的な議論や法的強制によって、対立はほんとうに解決できるのだろうかということである。

ここであらためて、イスラーム法についての、別の説明を読んでみよう。
「イスラームの法は、アッラーによって定立された、ムスリムが遵守すべき規範の体系である。日本語および欧語で”イスラーム法”と理解されているのは、シャリーアないしフィクフである。シャリーアには通常”イスラーム法”という訳語が当てられるが、その本来の意味は”まっすぐな道””水場に至る道”である。通説的見解によれば、シャリーアという言葉は、啓示という形式で下されたアッラーの命令をさす。シャリーアは、アッラーの命令であるがゆえに従わなくてはならないものであり、その遵守はムスリムにとって根本的な義務である。ムスリムの学者によれば、シャリーアは、絶対者アッラーに由来する完全性を備えており、人定法たる実定法にみられる欠陥をもたないとされる。また、人間生活のあらゆる側面に関する規定(来世における賞罰をも含む)を置いているという意味での包括性、そしてあらゆる時代・地域において拘束力を有するという意味での一般性をその特徴とする。この点で、西欧近代法が、法を道徳、宗教、習俗などとは区別されたものとして扱い、その効力の主たる根拠を、真理の適合性といった正しさにではなく、所定の手続に従い(人間によって)措定されたという実定性(この実定性は同時に可変性を意味する)に求めるのとは、事情が異なる。(中略)20世紀の後半になると、イスラーム復興が顕在化し、”法の再イスラーム化”を求める動きが強まった。同時に、イスラーム法自体の現代化をはかる法学的な事典の編纂、新しいイジュティハード(法解釈)の実践、法学のタジュディード(革新)の試行などがある。イスラーム法を復活させようとする流れは、いきすぎた西洋化の歪みを、固有文化に根ざした法概念によって修正する側面をもっている。」(「法学」~『イスラーム辞典』、岩波書店)

イスラームの法概念は、単純なグローバリゼーションを厳然と拒んでいるといえる。
こうしたイスラーム的法概念を理解しようとせず、西洋的な世俗的法概念や政教分離原則をイスラーム社会の事象に一方的におしつけ、それを断罪してみても、まさにフォーマットの違いによって、イスラーム側からすれば、自分たちの何か非難されているのかまったく理解できず、その非難に応ずることもできないという悪循環がくりかえされるだけではないだろうか。

次の発言は、内藤正典氏が紹介しているベルリンの外国人問題の受任者(オンブズパーソン)バルバラ・ヨン氏の発言であるが、私はこの発言はやはり貴重だとおもう。
「ドイツには、いろいろな宗教が共存することを認めないという問題があります。私はそういう考えには決して同意しません。私は少数派ですが、そんなことは気にしません。私が守りたいのは、複数の文化の共存を認める多元主義であり、何の悪意もなくスカーフを被っているだけで罵られている人びとなのです。」(内藤氏「ドイツの政教分離 ルデイン裁判は何をもたらしたか」、『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』所収)

人間の美徳とは?--11、イスラームの戒律と西欧社会

2008-08-11 22:36:10 | テクストの快楽
イスラームが戒律に厳しいことはほとんどの人が知っているといっていいだろう。
イスラームが外部世界とのあいだにさまざまな摩擦や衝突を引き起こしており、そのなかには戒律重視の姿勢から生じるものが少なくないので、外部からは次に、イスラームといえどもそう頑なに戒律主義を叫ばず、時代や社会情勢にあわせて戒律を変えればいいのではないかという声が生じるのもある意味では当然といえるかもしれない。そうした人のなかには、イスラーム社会が目に見えて戒律重視を打ち出してきたのは近年のこと(1979年のイラン革命はその象徴的なものといえるだろう)と指摘する人もいるようだ(これは要するに、イスラーム社会を、一部の親米的特権階級だけが主導権を握って西欧風の世俗主義を奨励していたイラン革命以前の政治状態に戻せばいいという主張なのだろうか?)。
ところで、視点を逆転させてイスラームの立場にたって考えれば、戒律とは、井筒俊彦氏の指摘する「ムカッラフ(mukallaf、責任を負わされた存在)」と深く関係してくる。直前の記事の最後の方でも分析したが、ムスリムにとっては、個々の戒律が社会において妥当なものであるかが問題なのではなく、まずはその内容を問わず戒律を守ることがムスリム的態度なのである。
故にこれは、個々の戒律の社会的な適否を論じさえすれば解決できるような単純な問題ではない。

ところで、直前の記事で内藤正典氏の文章を引用した『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』(内藤正典・阪口正二郎編、日本評論社、2007年)は、最近のヨーロッパで生じているムスリム女性のスカーフ着用禁止問題(特に学校という公共の場で)をテーマに、信仰の自由と政教分離原則をどのように考えたらいいかを、フランス、ドイツ、ベルギー(そして比較的世俗的なイスラーム国家であるトルコ)を例に分析した論集であり、当ブログにとっても興味深い論点を多く含んでいるので、その内容を少しじっくりみてみたい。
憲法学、社会学など研究分野の異なる複数の著者が執筆したこの本全体の基本的主張は、イスラーム女性にとって、スカーフを被る(スカーフで頭髪を蔽う)というのはみずからの信仰から生じた自発的行為であり、ヨーロッパ社会(とりわけフランス)が公共の場で信仰を象徴するスカーフを禁じるのは、政教分離原則をイスラーム排除のために拡大解釈しているのではないかという指摘である。
本書で興味深かったのは、フランス、ドイツ、ベルギーがともに信仰の自由原理を国是として採用しながら、ドイツ、ベルギーは政教分離政策をとっておらず(たとえばドイツではキリスト教民主同盟のメルケル氏が現在の首相であり、キリスト教擁護の立場から政権を運営している。こうしたタイプのキリスト教政党はフランスには存在しない)、必ずしも政教分離政策をとらなくても信仰の自由は保障できると考えられること、にもかかわらず、フランス比べると寛容なドイツ、ベルギーでもイスラームのスカーフ排除の動きが広がっているという事実である。
実はこの問題をめぐる議論はかなり複雑で、ヨーロッパでも、男女平等原則の立場からイスラーム女性のスカーフ着用に反対する見解があるという。
本書によってその代表的見解を紹介すれば、それは、「ムスリムの女性は自らの意思でスカーフを被っているわけではなく、女性は貞操を堅く守って目立ってはならず、善き妻、善き母として家庭に閉じ込めておこうとする男性たちによってスカーフを被らされている。イスラーム社会は女性の婚姻相手が家長である男性によって決定されるような家父長社会である。スカーフは、女性を独り占めし縛りつけておきたいと考える家父長制に基づくイスラーム社会の女性抑圧のシンボルである。男女平等というリベラル・デモクラシーの価値にコミットした西欧社会において、そうした意味を有するスカーフは寛容の対象とされるべきではない」といった見解である。
しかしこうした議論に対して、本書は次のような反論を紹介している。
「スカーフをもっぱら女性抑圧のシンボルと理解することは妥当だろうか。実は、ムスリムの女性の中でもスカーフに対する意見は分かれている。ムスリムの女性の中で、スカーフを女性抑圧のシンボルと考え、スカーフを脱ぎ捨てる女性がいることも事実である。しかし同時に、自らの意思でスカーフを被るムスリムの女性も多い。こうした女性からすればスカーフは抑圧のシンボルではない。それどころか、スカーフの着用は、ムスリムとしての自らの宗教的アイデンティティを表明したり、男性からの性的な視線を逃れるための行為である。ムスリムの女性によるスカーフの着用は、抑圧の産物ではなく、逆に、積極的で自律的な立場表明であり、自らを解放しようとする行為ですらありうる。スカーフを被ることの意味は自明ではない。スカーフは、一方から見れば、差別、抑圧のシンボルであるが、他方から見れば、自立性、解放のシンボルでもある。こうした中で、スカーフを一律に禁止して、自発的にスカーフを被るムスリムの女性を無視することは、あたかも彼女たちは「虚偽意識」を有しているのだというに等しく、あまりにも偏見に満ちたパターナリスティックな見方である。」(阪口正二郎氏「リベラル・デモクラシーにとってのスカーフ問題」)
阪口氏は、ムスリム女性のスカーフ着用問題を、女性抑圧といった限定的視点でとらえるのではなく、デモクラシーとはなにかを問う、より大きな問題としてとらえることを提案している。
「ムスリムのスカーフ着用行為は「市民的挑発」、「良心的拒否」といわれるように、既存のリベラル・デモクラシーのありように対する「発言」だと理解することができる。ムスリムのスカーフは、リベラル・デモクラシーがどれだけ魅力的な「共生」の形を構想しうるかを試している。」(阪口氏)

人間の美徳とは?--10、イスラームの視座から

2008-08-06 08:53:33 | テクストの快楽
議論全体の流れからすると少し寄り道となるが、ジャンセニスムと浄土仏教についてふれたついでに、これとは違うタイプの宗教についてふれておく。イスラームである。

ジャンセニスムや浄土仏教が、神や仏(阿弥陀仏)を無限に偉大なものと想定した結果、人間はきわめて卑小なものとなり、その内面も外的行為も、救済という観点からは無に等しいものとなってしまうということはすでにみた(このことはとりもなおさず、彼らの主張にもとづけば宗教は人間道徳を根拠づけることができないということであり、ジャンセニスムや浄土仏教の立場に立つかぎり、人間の社会道徳は宗教とは切り離して考えるべきものとしてその自律を促すという思考プロセスを想定させる。ちなみに、浄土仏教は道徳や社会秩序を破壊するものとして鎌倉時代に強く弾圧され、法然も親鸞も流罪になっている)。
イスラームも、神(アッラー)の偉大さを強調する点ではジャンセニスムや浄土仏教にひけをとらないが、論理としては、信仰を人間の内面性によって規定せず(この点はジャンセニスムや浄土仏教に似ている)、人間行動によって規定するという方向をとっている。つまり、人間の内面など知りようもないから(神からすれば、知っても意味がないから)、そのかわりに人間行動にさまざまな外的規定(行動規範)を与え、その規範に従っていることを信仰の証しとするという、徹底した行動主義の立場である。端的に言えば、神が定めた行動を遵守することがすなわち神を信じることであるというのが、イスラームの基本的主張である。イスラームに対する誤解は、それに好意的なものも敵対的なものも、この基本点をおさえずに一般論として発言されているものが多いように私には感じられる。
ともかく、他の宗教のように、内面において信仰をもってさえいれば、外的行動に関しては信仰者の自由裁量にまかせるという考え方をイスラームは絶対にしない(できない)。イスラームにおいては、人間の外的行動を束縛するということそのものが、信仰と不可分なのである。ゆえに、ある外的行動(たとえばスカーフを被る)の善悪を人間が自律的な原理から判断するという考え方は、イスラームとは相容れない。それらは、信仰者である限りその理由を問うことなく従わなくてはならない人間行動の形式的原理であり、また聖典によって禁じられている行動を、その行動に即した自律的な原理によって廃することもできない。言い換えると、イスラームに特徴的な行動規範はいくつかあるが、それらは、単にその規範の内容がイスラーム的であるというにとどまらず、人間はそれがいかようなものであれ神が定めた行動規範を守らなくてはとするところに、イスラームという宗教の特徴があるのである(その行動規範を批判することは、それを定めた神に対する批判となってしまう)。

以上の原則を二人のイスラーム専門家の文章から確認しておく。

まずは、イスラーム神秘思想(スーフィズム)の世界的な権威であった井筒俊彦氏による理論面からの考察。
「神学的人格ーー神にたいして、また共同体にたいして責任を負わされた存在、神のコトバによって宗教的・倫理的に義務づけられた存在。この「ムカッラフ」ということが、イスラームにおいては、ほとんど人間の本質を規定するほどの重要性をもつ。人間が本質的にいかなるものであるか(あるべきか)は、全て彼が「ムカッラフ」であるというところから来る。そしてまた「啓示」を通じてこのような事態が成立するということそれ自体から我々は、イスラームにおける「啓示」の本質的機能がいかなるものであるかを知ることができる。他の宗教、特にいわゆる密儀宗教などによく見られるような秘儀開顕的な事態はここには全く見られない。イスラームにおける「啓示」の機能は、「隠れた神」の秘儀、玄義を開示するところにあるのではない。「啓示」は人間に一定の宗教的・倫理的義務を課し、「責任を負わせる」ことをもって第一次的機能とするのである。」(『超越のことばーーイスラーム・ユダヤ哲学における神と人』、岩波書店、1991年)

続いて社会学の立場からイスラーム研究を行っている内藤正典氏による社会実態に即した考察。
「イスラームという宗教は、内面的な信仰の要素と、信徒とその社会が求められる行為規範の体系からなる。行為規範の体系とは、イスラームのことばで言えば、法(シャリーア)である。スンナ派においては、神から預言者ムハンマドを介して人類に下された啓示を集めたコーラン(アラビア語では、アル・クルアーン)を最高の法源とし、預言者の生前の行動や習慣(スンナ)、イスラーム法学者の合意によって得られたもの(イジュマー)、さらに、上位の規範から論理的に類推できるもの(キヤース)という四つを基本の法源とする。イスラームは、内的思惟としての信仰と、外からみてもわかる行為規範としての「法」とを分離することはできない。しかも、行動規範としての法は、信徒のみならず、ムスリム社会を拘束する。つまり、ムスリムによって構成されている社会は、原理的には、イスラームの法、すなわち「神の法」に従わねばならないということになる。つまり、原理的に言えばイスラームには、政教分離の発想がない。もっと広げて言えば、聖俗分離の観念がない。人間とその社会のうち、宗教的規範から切り離しうる領域があるとは考えないのである。絶対者である神が立ち入れない領分というものを人間社会に認めてしまうと、そのことがすなわち、神の絶対性を否定してしまうからにほかならない。」(内藤正典氏「スカーフ論争とは何か」~『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』、日本評論社、2007年)

いずれにしても、当ブログの現在の課題である「人間の美徳とは何か?」という点に関しては、イスラーム的には、人間はそれを判断したり議論することができず、すべては神に委ねられるということになる(この点は、ジャンセニスムと似ている)。この点を無視して、イスラームにモラリティについての自律的判断を求めることは、イスラーム側からすれば、イスラームの立場をまったく考慮せず最初から回答できない方向で議論を設定していることに他ならず、問題解決にはほとんどつながらない。
モラリティや行動規範についてイスラーム側と何か有効な議論を行おうとするならば、議論のあり方をイスラーム側も論じることができるようなフォーマットで設定する必要があるのであり、それを無視した外部からの議論の要求は、イスラームの側からすればフォーマットの押しつけ以外のなにものでもなく、おうおう、不毛な平行論とならざるを得ないのである。

人間の美徳とは?--9、社会の多元化の視点から

2008-08-04 22:01:58 | テクストの快楽
この辺で、「人間の美徳とは何か?」をテーマにしてはじめた一連の記事を、自分なりにいちおう整理しておこう(まあ、無理に整理する必要もないともいえるのだが…)。

さてこのシリーズは、サド侯爵の『悪徳の栄え』を読んだことをきっかけに書き始めたわけだが、その基本的な視点は、人間の美徳、社会正義にはさまざまな捉え方があるのであり、美徳とはこのようなものである、正義とはこのようなものであると、あえて明確に断定する必要があるのかという疑問にあった。
その疑問を追求するプロセスのなかで、パスカルやキリスト教信仰の問題に言及し、また17~18世紀にかけてのフランス思想の特性と19世紀思想の違いにも言及した。
それは、一方でキリスト教的および反キリスト教的に考え方のなかにもさまざまなバリエーションがあることを示すためであり、他方ではまた、フランスという単一な社会にあっても、時代によって思想のあり方が変化し、18世紀思想が19世紀思想を準備した(さらは19世紀思想が20世紀思想を準備した)などと単純には断定できないことを明らかにするためであった。
こうした一連の作業は、最後にカントの宗教観について簡単に触れることで、当面の目標を一応クリアすることができるのではないかとおもっている。

ところで、私がこうした思想解読の作業をすすめているのには、もう一つの射程がある。それは、同性愛者として、同性愛者と異性愛者が共存する社会をつくりあげるにはどうしたらいいかを、思想の流れ全体との関連のなかで考えてみたいということである。それはつまり、さまざまな思想が共存したり断絶したりする状況を、性行動もしくはジェンダーの問題に投影し、その共存とはどのような状態なのかを考えてみるということである。
そのときそれは単に、異性愛を正常(美徳、正義)と断定し、同性愛を異常(悪徳、不正義)と断定してきた近代社会の分類法を断罪し、同性愛を正常(美徳、正義)のカテゴリーに繰り込むことで解決する問題ではなく、正常(美徳、正義)と異常(悪徳、不正義)という二分法の根拠を問い、そうした二分法そのものを無効化する方向で考えていくべきなのではないかと、私は考えている。つまり、正常(美徳、正義)というカテゴリーを保持したまま、そのカテゴリーの部分的な見直しを提案することは、結局、そうした見直しからはずれたものをまた新たに異常(悪徳、不正義)と見なし、社会から排除するだけに終わってしまうのではないかと、私にはおもえるからである。
問題を同性愛をめぐる事象に限定するならば、そうしたカテゴリーの見直しもしくは適正化的な発想からは、変態(クィア)、ハッテン場、売り専あるいそれ以外のさまざまな性的要求などは、いつまでたっても異常(悪徳、不正義)のままにとどまり、生活要求などの美名のもとに、ややもすれば、それらの「汚れた部分」を切り捨てた上澄みだけの「差別解消」が進んでしまうのではないかと、私はおそれるからである。そもそも、人間の性行動のなかには、それが自然だからそうした行動を行うというだけでなく、いやらしいことだから、禁じられたことだからそれをやってみたいという文字通り「よこしまな」欲望も、相当大きな比重を占めているのではないだろうか。
ところで、性的なものをも含めた社会の多面性のあり方について考えるという私の当面の課題からははずれるが、私が行っているような議論はあくまでも抽象的なものに過ぎず、そうした議論とは無関係の局面で同性愛者に対する差別や権利の侵害は厳然として存在するではないか、同性愛者としてそれにどう対応するのかと問いかける人がもしいるとしたら、それらの問題は、モラリティの問題とは切り離し、純然たる権利問題として論ずるべきではないかと、今私は言いたい。
(またその訴えの対象も、権利を侵害されている同性愛者ではなく、権利を侵害しているマジョリティに対して行うのが本来のあり方ではないかと考える。現実問題として、同性愛者の結束をどれほど固めたとしてそれが社会のマジョリティになるということは考えられず、政策転換や法律改正を目ざすならば、マジョリティが考え方を変えうるような論点を見いださなくてはならないのではないかと思うからだ。しかしそれは、マジョリティと対決することでも、マジョリティに同情を求めることでもありえないのではないだろうか。)
要するに、同性愛は異常ではないと主張することのなかに、どうしても私は、「異常」対「正常」という発想が潜在しているのではないかと感じてしまう。だから私としては、社会(マジョリティ)が同性愛を異常と見なすのであればあえてそれには反対しないし異常のままでかまわない、ただ、何か異常で何か正常かは知らないが、そうした異常をも含めた社会の多元化こそが、現代社会(マジョリティ)にとって必要となっているのではないかと、問題の方向を転換することが重要なのではないかとおもっている。

拙い訳で恐縮だが、もう一度、『人間の精神について』の一節を引いておこう。
     ☆     ☆     ☆
「もし物理的世界が運動の法則に従っているとすると、道徳的世界はそれにおとらず利益の法則に従っている。地上において、利益は、すべての被造物の目にすべての対象のかたちを変化させる有能な魔術師である。平野で草を食んでいる平和な羊は、穀物の葉の茂みで生活する知覚できない昆虫にとって、恐れと恐怖の対象ではないだろうか。昆虫たちは言う。『その口で僕たちと僕たちの町を同時に呑みこんでしまうこの大食で強暴な動物、この怪物から逃げるんだ。なぜ羊はライオンや虎を見習わないんだろう。これらの善良な動物は、僕たちの住まいをけして破壊しない。僕たちの血をすすることもけしてない。彼らは犯罪への正当な報復者であり、羊が僕たちにふるう残虐さを罰するんだ。』異なった利益は対象をこのように変様させる。ライオンはわれわれの目には残虐な動物であるが、昆虫の目には羊が残虐である。それゆえ、道徳の世界に対し、ライプニッツが物理的世界について言ったことを適用できる。つねに運動しているこの世界は、各瞬間に、その住民のおのおのに新しくまた異なった現象を提供すると。」