ニュースは踊る

ニュース、その他に関する個人的感想です。「正しいこと」、など書きません。私は名は「三太郎」。

核廃絶について

2006-11-03 | Weblog

核廃絶、核武装

こういう問題を論じる時はいくつかの態度がある。

①なるべく現実的に厳粛に論じる姿勢

②冗談をまじえて、笑うように論じる姿勢

核とか皇室とか拉致とかいう問題はとかく①に傾きがち、というか、①じゃないといけないという傾向がある。もっとも皇室関係は週刊誌などでは随分と②になってはいるが。

ただ僕らの日常を考えた時、「解決」は①の場合より②の姿勢のもとに突然おとずれる場合が多い。「真面目な冗談」というものが必要な場合がある。①はとかく隘路に陥りやすいからである。人生には真面目な冗談が必要なのだ。

前回はちょっとだけ「冗談」をまじえてみた。そしたらいやがらせが増えた。ひまな人もいるもんだ。

「反戦老年委員会」さんのご意見は正鵠を得ていた。引用させていただく。

しかし流れは変わった。「北朝鮮がミサイルと核爆発の実験をした。ミサイルが東京の中心に到達し核爆弾を破裂させると何十万人の犠牲者がでる。そうさせないためには、アメリカの核の傘で守ってもらうしかない。そのアメリカとの同盟関係を強固にするには、集団的自衛権行使のじゃまになる憲法9条を改正しなければならない」。この俗論をどう止めるか。

実は、というと「後付け」のようだが、僕もこの「俗論」への対抗軸を考えていた。

核アレルギーを捨ててきちんと議論せよというが「反戦老年委員会」さんの主張である。

まさにその通りだと思う。

が、昨日僕がとった姿勢はちょっと違っていた。かなり意図的にこう言ってみた。

僕は東京に住んでいます。核を持って生きるぐらいなら北朝鮮の核で死んだほうがいいと思っています。僕の命を守るために核を持つ必要はありません。

もちろん奇をてらった意見で、まあ僕自身は本当にそう思っているのだが(むろん死にたくはない)、「意見のてい」はなしてはいない。ただ中川氏の憂国志士めいた芝居がかった顔があまりにおかしく、腹をかかえて笑ってしまい、その気分をそのまま表出したというが実態である。

ちなみに精神文化において誇るものがない日本において、戦争放棄と非核の精神だけは世界に冠たるものである、という昨日書いた意見は冗談ではない。あと「もったいない精神」もあるようだが。

核廃絶は各国の個別交渉では無理であることは明白である。方向性としては各国が自国のもつ防衛権または防衛力の一部を放棄し、国連に委託するしかないであろう。現実の国連がいかに「だらしなく」みえようが、軍事力もふくめた「国連の力の強化」が必要に思われる。

「平和」は歴史的に見れば「帝国主義」(帝国という言葉が誤解を招くなら権力の集中)のもとで達成される。アメリカはその「帝国」になろうとして失敗した。アメリカに代わる「国」はない。中国も難しいであろう。とすれば「国連による支配」以外に道はない。理想論としてはこうであろうか。

現実的には「戦争はもっとも愚かな外交手段」という至言を生かすこと。つまり、外交による解決を図ること。最も平凡なこの意見がもっとも現実的であろう。「おとなの話し合い」である。すぐに北朝鮮が核で攻めてくるというのは「幼児的反応」であり、そういう反応をする政治家に日本をまかせていては実に危険である。

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核を持つぐらいなら死んだほうがいいと思うが。

2006-11-02 | Weblog

中川政調会長が日本の核武装(論議)をちゃらちゃらと話している。

参議院のドン、片山氏いわく、「論議まで駄目だというのはどうだろうか」

この片山氏、「NHKへの放送命令というのは違和感があるが、反対するのも大人げない」とも言う。

何が大人げないのか。選挙対策として大人げないのか。片山氏は、なしくずし型政治家の典型で、こういう手合いが一番たちが悪い。それにしても拉致問題で異論を唱えることは自民党内では一種のタブーとなっているらしく、実に危険である。まあこれはまた別に書こうと思うが。

一昔前なら非核三原則に抵触することを政治家が言えば「一大騒動」になったもんだが、凄い状況だな、とあきれてしまう。中川氏にまともに反論する気にもならない。ただただ驚いている。まともじゃないことなら言える。中川さん、君は欧米か。インドか。中国か。イスラエルか。我ながら全く面白くもないが、芝居がかった顔して漫才のボケみたいなこと言い出す中川さんにはタカアンドトシの突っ込みがお似合いであろう。

明治の初頭、こんなことが言われた。日本は西洋と比べて誇るものは何一つない。ただ武士道の精神だけは、世界に誇るべきものだ。

戦前、東条たちが唱えた「えせ武士道」と違い、本当の武士道は他から強制されない内面倫理で、その「本当の武士道」なら誇ってもいいかな、と思う。

今世界の現状を考えた時、日本には経済力以外ほとんど誇るものがない。

かつて沖縄に核はあり、今も日本周辺の米潜水艦には核が搭載されている。それでも大義としての非核の精神だけは、世界に誇るべきものだったのではなかろうか。唯一の被爆国として核廃棄を保有国に迫る正当な権利を日本は有している。その権利を「経済大国である日本」が行使することは、おそらく多くの世界市民が望むことであろう。米国民の中ですら望むものは、少数派であるとしても存在しよう。

僕は核を持って生きるぐらいなら、持たないで死んだほうがましだが、むろん日本人全部がそう思うわけもなく、思う必要もない。

ただ非核という日本が世界に誇る文化を、軽々に捨てようと言い出す中川氏は、一片の誇りもない日本人だと思うばかりだ。

僕はだたそう思うというだけである。

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耐震偽装で篠塚被告に無罪

2006-11-02 | Weblog

僕は別に極端な人権派ではない。

各マスコミは「耐震偽装で篠塚被告に無罪」と書くべきである

姉歯自身が「篠塚からの圧力というのは保身のための嘘」と言っている。そのことは裁判所も明確に認定している。

耐震偽装で有名な篠塚被告に、粉飾決算で有罪

とすべきなのに、見出しでそう書いているメディアはあまりに少ない。内容をよく読むとわかる「仕掛け」になっている。

姉歯の「嘘」に踊らされて、さんざん篠塚氏をたたいたマスコミのありようは明確に間違っていた。冤罪であり、私刑である。

謝罪すべきマスコミが、意図的に「耐震偽装で有罪」という印象の見出しをつけて報道している。

耐震偽装での有罪は僕の考えでは一に国交省、二に国交省、三に姉歯。そして冤罪をかけた罪で四にマスコミである。

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安倍内閣は教育現場を知らなすぎる

2006-10-29 | Weblog

単位読みかえ問題。

これは果たして「問題」なのだろうか?昨日、今日起こったことではなく、全国の自称進学校では「常態化」していた。生活科や社会科などのうち、その個人の受験に関係のない必修科目は、「他の科目によみかえて」、たとえば「英語の授業をやって」、その成績を「世界史」の単位として認定する。

むろん違法だが、もうずっと行われてきたということを、僕は知っている。高校教師の友人が数名いるからだ。どこでもやってるよ、って感じで話してくれたことを思い出す。「あきらめ」た風にも見えた。守秘義務でもなかったようだ。

文部科学省は「今になって現場の実態を知った」ようなことを言っている。ふざけた話である。嘘もたいがいにしてほしい。僕でも昔から知っていることを何故文部科学省が知らないのだ。ありえないではないか。

ただ本当に知らなかったらしい新任の伊吹大臣は「高校教育の根本がわかっていない」と発言した。

伊吹文部大臣の発言を僕なりにはこう受け止めた。

伊吹氏のいいたいこと

学校は予備校ではなく、全人教育、または全人教育に近い教育を行うところだ。受験に関係ない科目だからといって、その人の人生に関係ないわけではない。だから必修にしている。その趣旨を現場の校長、教員は全くわかっていない。

たぶん、こういいたいのだろう。全人教育が「きれいごと」として受験という現実の前で無力になっている現状が問題なのですよ。

伊吹氏に単純にこう聞きたい。「あなたは教育行政に多少の知見をお持ちらしい。また教育改革をかかげる安倍内閣の文部科学大臣である。そのあなたが、僕でもしっているような現場の実態、矛盾、そして、悩みを知らなかったのですか。」

文部省は当然知っていただろう。しかし「今になって知ったような素振り」をしているのだろう。ただし伊吹大臣は本当に知らなかった可能性がある。

当然、安倍氏も知らなかっただろう。

これは「細かい問題」ではない。受験の重圧から違法行動に走っているわけで、まさに現場の実態、苦悩、そして堕落を象徴的に示した事態である。

しかも文部省はたぶん「黙認」していた。さらに言えば自分たちの怠慢を棚にあげて、「現場の堕落」をアピールしている。そうじゃないよ。君らが作り出した問題であり、全ての責任は文部官僚にあるのだよ。君らが「知らなかった」わけないではないか。

僕は踊る捜査線の青島刑事ではない。それでもいいたい。安倍さん、伊吹さん、現場をみてほしい。「視察」なんて「行事」で見るのではなく、「心眼」でみてほしい。

君ら「ど素人」が教育について語るのはその後でいい

日の丸君が代問題しか知らない君らの「教育基本法改正論議」なんて、「哀しい冗談」にもならない。

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藤田社長の「正論」

2006-10-24 | Weblog

イーホームズの藤田社長は有罪だったが、それは耐震偽装とは何の関係もない「別件での有罪」であった。藤田社長はこれを国策逮捕ととらえ、安倍総理に直訴を申し出ているらしい。大手マスコミは全くと言ってよいほどこれを報道していない。

事件は姉歯の「単独犯行」という線で固まりつつある。では組織犯罪として彼らを追及した証人喚問はなんだったのか。とんだ猿芝居。いや残酷な「私刑」ということになる。

藤田社長の当初からの主張はこうだった。

「国土交通省のつくった検査基準では、このような偽装は見破れない。実際自治体でも他の民間検査機関でも見破れなかった。国土交通省が作った検査プログラム、マニュアルに欠陥があるからだ。」

これは実に正しい。筋が通っている。

当初から僕はこれは実に正論だと思っていた。だからイーホームズに対する論調に危ないもの(国家犯罪)(マスコミによる私刑)を感じていた。

現時点ではイーホームズが意図的に偽装を見逃したという判断は司法によってしりぞけられている。「見逃した」こと自体が罪なら、各自治体の担当もすべて逮捕されるべきである。いや大本をつくった国交省の役人こそ最初に逮捕されなくてはいけない。

姉歯の犯罪は単独らしい。しかし藤田社長らの抹殺によって事件を風化させようという動きは、国交省、マスコミによる「組織犯罪」である。

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北朝鮮人を救おう

2006-10-19 | Weblog

社会主義が失敗して、北朝鮮は困窮している。体制が壊れると怯えている。困ったあげく、偽札とか麻薬に手を出している。悲惨だ。

人が飢えている。人が死んでいる。

拉致家族を除けば、北朝鮮に身内を殺された日本人はいないはずである。

そういう人はもっとも近い隣国で人が多く死んでいることをどう感じているのだろう。

拉致問題を認めないから、核爆弾を作ろうとしているから、そういう政府のもとにいる国民はいくら餓死しても病死してもいいのだろうか?

僕にはそうは思えない。古くからつきあってきたアジアの隣人だ。韓国、日本、北朝鮮。米中露を抜いて、この三国が北朝鮮人の命を救うという一点で大同団結できないものだろうか。

現実的に書けというなら、国連軍の中立化、大国の意思に左右されない国連軍の秩序回復行動、もしくは北朝鮮市民による内部革命が望まれてならない。

しかし、けれども、しかしながらも

中国にも、米国にも配慮することなく、日本と韓国で北朝鮮を救う。素敵なシナリオだと思えてならない。

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福岡のいじめ自殺について

2006-10-17 | Weblog

いじめ自殺異論」という題名で文章を載せていたのだが、いささか非情すぎる内容であった。コメントもなにもないのを良いことに削除した。

僕には教員の友人がいる。連絡は随分とっていない。大学出て教員になって、大学時代愚痴の一つもいわなかった男が徐々に愚痴っぽくなり、精神的に衰退していくのをみるのが辛かった。それで連絡も途絶えがちになった。

精神的衰退と書いたが、その友人の場合、具体的には言葉からデリカシーがなくなっていった。彼から聞いた教育現場の実態は悲惨であった。生徒の問題より、むしろ利己的な保護者のあり様、教員間の人間関係、無能な上司。そういったものに彼は悩んでいた。デリカシーなど存在できないような「現場」の空気は僕にも分かった。

今度の福岡の中学生の自殺を聞いた時、僕は今責任を追及されている教員は病気だと感じた。もちろん本人にその自覚はなかったろうし、日常生活はごく普通に送ってはいただろう。だが精神の深いところが病んでいるのだ。

学年主任をしていたと言う。無能な管理職の目には、彼は「生徒になめられない立派な教員」として映っていたのかもしれない。

校長は何をしていたのだろう。何故彼を主任にしたのだろう。そして両親は子供とどうコミュニケーションをとっていたのだろう。

断片的で「整理された」情報しかないので、わからない。だたこの教員に責任の全てを押し付けて、ことが済んだようにしてはいけない。

マスコミは残酷に彼をいたぶるだろう。それは正義のためであって、「いじめ」ではないと言うのだろう。しかしそのような態度では、いつまでたっても事件の本質に迫ることはできないと僕は考えている。

学校は社会の縮図である。学校がゆがんでいるなら、それは社会全体が歪んでいるからだ。小泉総理が残した負の遺産を浄化するにはまだまだ時間がかかりそうである。

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北朝鮮問題、何かおかしくないか。

2006-10-16 | Weblog

①今回北朝鮮に核の廃棄を迫った国のほとんどは核兵器を持っている。日本海周辺の米原子力潜水艦には核兵器が搭載されているから、日本も間接的に核を持っている。どうして北朝鮮はもってはいけないのか?単純に公平という面からすれば、ひどくおかしな論理である。

まあ、それは現在の先進国中心の世界秩序を崩すからである。現在の世界秩序は根源的に不公平である。そのことへの不満を先進国は軍事力と核と経済支配によって押さえ込んでいる。

別に北朝鮮が悪でもないし、善でもない。安保理も善ではない。どっちかというと常任理事国は「悪」であろう。とんでもない世界の格差があり、多くの人が飢えている。この社会構造を必死に「維持」しようとしているのだから「悪」である。アメリカは当然だが、日本も中国もロシアもむろん「悪」である。

こんな当たり前のことをマスコミがぜんぜん言わないのは何故?

②「拉致問題の解決と被害者の救出に向けた動きが加速することを期待します」

と、TVのキャスターは口をそろえて言う。

これって全体主義的報道、大本営じゃなかろうか。

9割以上の確率で被害者は生存していない。大衆はともかく、キャスターが「生きている」と考えているわけはない。なのに「しらじらしいこと」を言って平然としている。

ほとんど生存の見込みはないでしょうが、家族の心情を考えた時、「生きているという前提」にたって行動するのは仕方ないでしょうね。

と本当のことを言うべきだ。

でもどうやらそれを言うのはタブーらしい。タブーは皇室関係のことだけでよい。

③北朝鮮ではとんでもない数の人間が栄養失調や災害によって死んでいるらしい。いつもは「うるさい」ぐらいの人道団体とかが、「北朝鮮の人民を救おう」と言い出さないのは何故?

とにかく北朝鮮問題は欺瞞ばかりである。「おかしくないか」と思っているのは僕だけなのだろうか?

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「世界共和国へ」「国家の品格」「最後の親鸞」

2006-08-20 | Weblog

気になっている3冊の本がある。

「世界共和国へ」 柄谷行人

「国家の品格」 藤原正彦

「最後の親鸞」  吉本隆明

「世界共和国へ」と「最後の親鸞」に比べれば、「国家の品格」はまるで「小学生の作文」のような文章である。でもやはり一回目と二回目、それから三回目の読後感は多少違っていて、なんの参考にもならない文章という印象が多少変化してきている。どうしてこんな「小学生の作文」みたいな文章を書いたのか、が気になって仕方ない。その稚拙さそのものに凄く興味がある。

「最後の親鸞」にこういう表現がある。

「知」にとって最後の課題は、頂を極め、その頂に人々を誘って蒙をひらくことではない。頂を極め、そのまま寂かに「非知」に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の「知」にとっても最後の課題である。

吉本氏の全著作を通じて考えてみても、一番心にすっと入ってくる文章である。こういう「大愚」という姿勢が身についている知識人は日本には皆無に等しい。それを藤原氏が実践しているような、していないような、そんな興味で読むのだが、まだ見極めがついていない。ただの愚かもしれない。それはそれで素晴らしいが。

「世界共和国へ」は柄谷さんの思考のエッセンスがぎゅっと詰まったような本で、読むのにいささか時間をかけている。この本自体はたかだか230ページの本だが、とにかく「圧縮度」が高いので、「解凍」するのに時間がかかる。なにしろ主題が「国家の止揚」なのである。大愚といえばこれほど大愚な本はなく、氏が一流の知識人であることを改めて深く感じる。いつかこの本について書けたらと思っているが、なんだか一年以上かかりそうな予感がする。

柄谷さんには一度だけお会いしたことがある。大学で亡き中上健二さんの世話係をしていて連れていかれたバーにいらした。「現代思想」の当時の編集長もいて、「おまえら、柄谷の本なんか読んでないだろ」というので、もっていた氏の本を4冊とりだして「読んでますよ」と真剣に言ったら驚いていた。あんなことで真剣になるなんて若気の至りである。どうせならサインもらえば良かった。そのぐらいの「しゃれと余裕」がなかった自分が恥ずかしい。

そういえば博士君みたいな変な若い男もいた。あとで気がついたが浅田彰さんだった。かなり変だった。

柄谷さんには「物語はエイズだと思わないか」と言われた。一応「ちょっと思います」と答えた。この人もかなり変である。知の頂を極めて非知に至るとはこんなことなのかな、とふと思った。懐かしい記憶である。

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イラク戦争とオウム真理教

2006-08-20 | Weblog

オウムの土谷被告に二審でも死刑の判決が下った。

地下鉄サリンは1995に起きている。11年前だ。

終末宗教というのは「終末が来る」ことを前提に成り立っている。逆に言えば「終末」がこないと成り立たない。麻原はノストラダムスに乗っかって、すぐにでも終末がくるようなことを言っていた。こういう教祖というのはだいたい自分が詐欺師であることを認識してるのだが、麻原は困ったことに自分が詐欺師だとは思っていなかった。自分の言葉と「現実」を強引に合わせようとした。それで自分で「終末」を演出してしまった。

キリスト教も終末宗教である。終末がきた時キリスト信者だけは神の手によって救われるとか、まあ救いの具体的形は様々だが、とにかく「終末がこないと困る宗教」の一つである。

もっとも「困る」のはキリスト教原理主義者で、一般の信者は別に困らない。終末がこない方がいいと普通のキリスト教信者は考えている。(だろう)

「キリスト教原理主義者」たちは、ずっと待っているんだがなかなか世界が滅ぶ様子はない。これは困った事態である。

なぜかというと「ヨハネの黙示録」では終末は「すぐにくる」ことになっている。この「すぐ」というのは日本語だから、原文のギリシャ語でどうなっているのかは知らないが、まさか2000年後が「すぐ」ではないだろう。これは困った事態である。

聖書というのは250年間ぐらいに書かれた様々な文章の「つぎはぎ」である。ヨハネの黙示録を正典にするかはずっと議論があったようだが、結局正典に加えられた。

「正典」である以上、終末が起こってくれないと、原理主義者にとっては非常に都合が悪いのである。

で、ブッシュは自分で「終末」を演出している。

つまり麻原とブッシュの間にはそれほど差はない。というが結論である。

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誰がために競争やあらん

2006-08-20 | Weblog

格差社会か。

どうも世界の格差のほうが気になる。人類主義ではない。格差がテロを生むから、つまり直接自分にかかわっているから、気になる。

昭和40年代の貧乏も結構なもんだったが、戦前、明治の貧乏はしゃれにならない。「日本の下層社会」。読んだのはもう20年も前だから細かい記憶はないが、とにかくしゃれにならなかった。

僕自身はと言えば、中小企業の専務の家に生まれ、中学の時会社が倒産、親父が自殺未遂。高校時代は極貧。で今はやっと中流程度。でも昔を考えれば今の「中流」は「貴族」みたいなもんだ。温水シャワーはあるし、エアコンはあるし、PCはあるし、携帯だって全然使わないのに持っている。メタボリックを気にしながら、なるべく食べないように生活をしている。国内では中流の中だが、完全に貴族だ。

とか思っているせいで、日本の格差については「貴族間の争い」程度にしか認識できていないようだ。東京に住んでるせいもあるだろう。地方の現状を知らない。少し真面目に考えたほうがいいか、と思いつつある。

さて「競争」について。

ゲームとしては楽しいが、マジな競争は嫌いだ。

勝ったものが負けたものに手をさしのべるような競争はいいが、さらに突き落とすような競争は嫌いだ。

ビルゲイツが引退して慈善事業をやるという。マイクロソフトの路線転換という面もあるが、彼個人としては「怖く」なったのだろう。「勝ちすぎた」ことに。最初はゲーム感覚だったはずだ。それがいつのまにかマジな競争になり、しかも一人勝ちをしてしまった。怖くもなるだろう。

高校時代、土曜になると「麻雀」を友人とした。金は一切賭けなかった。金を持っていなかった。けどそれが最大の理由ではない。金を賭けると、ゲームがせこくなって、楽しめない。時に人間関係が壊れる。だから絶対金は賭けなかった。純粋にゲームとして楽しんだ。勝利者には名誉号を与えた。楽しかった。負けても楽しかった。「くやしい」と思って、けど楽しかった。それからみんなで勝負の分析をした。何故勝ったか。負けたか。素人分析をしてわいわいやっていた。それも楽しかった。

経済競争。どうやらゲームではなく、マジである。勝っても負けても楽しくない。僕個人の感覚では。

人間は競争がなくては動かない動物である。

半ば合っていて、半ば違っている。

「競争」ということ。勝つとか負けるとかいうこと。

先人の知恵が東洋には沢山ある。西洋にだってある。少し学びなおしてみようと思っている。

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格差社会または論破しない人間

2006-08-19 | Weblog

僕は理論武装と論破が嫌いである。理論武装ができないのは集中力がなく、広く浅く本を読むためである。

論破。昔ロンパールームってあったけど、あのロンパーってどういう意味だろ?

本当に若かった頃は論破に多少の快感も感じた。今は相手を論破してもされても虚しい気分にしかならない。人間は半分以上感情的な部分で生きているから、相手を理論的に論破しても、それは勝利にはならない。相手に恨みが残る。「舞姫」の最後の表現みたいなもんだ。一点の恨み我に残れり。

むしろ最後にわざと降参したほうが、相手の心に言葉が届く場合があるとすら考えている。

ネット右翼という人たちがいる。若い人に多いようだ。でも政治ブログ投票でいつも想像を絶する投票数をもっている(きっとカラクリがあるのだろうが)、まあその人は顔写真ものせていて、僕より年上である。この間は加藤紘一氏の自宅焼き討ちを支持するとか凄いこと書いていた。マジなのか冗談なのか。なんだかマジみたいだ。どんな人生を歩んできたらこういう風になるのか。むしろそっちが気になった。

「支那人」と「共産主義者」が嫌いらしい。あまりよくは読んでいないのだが、本当に嫌いなのはマスコミらしい。というかマスコミが怖いらしい。自分は凄い弱者で、マスコミは強者なんだ。だから弱い自分はブログでこんな「とんでもないこと」書いても許されるんだ。弱いのだから。という論法だった。被害者意識も強い。

こういう方はもう本当に感情が先行してるし、「ガラスのように繊細で壊れやすい心」を持っているから論破なんてしようものなら大変である。まして論破に成功したらもっと大変である。「恨み」だけが残る。

もしどうしても関わるのなら、感情に訴えるのが一番だと思う。でも今のところ関わらなくてもまだ大丈夫だろう。彼らは彼ら自身が思っているように、少数派であるし、これからも多数派にはきっとなれない。

というわけで、僕はコメントにはコメントしない。論争が苦手なのである。恨まれるのも嫌いだし、勝つのも負けるのも嫌いである。もっと言えばブログの例の「コメントありがとう」とかいう「挨拶」も苦手である。苦手だからしたことない。

でも前回のブログに非常に熱心にアドバイスを下さる方がいるので、一応「何か」書かないと失礼だと思った。

えーと、社会民主主義。ぜんぜん念頭になかった。これは降参。

格差社会。考えはあるけど、まとまってないから書けない。

社会主義。何故必然的に暴君のような存在を生んでしまうのか。何故「現実的に崩壊した」という「事実」が存在するのか。資本主義が生んだ悪と社会主義が生んだ悪。どっちもどっちだが、ポルポトやスターリン粛清を考えると社会主義の悪はインパクトが強い。資本主義の悪はボディーブローのように、じわじわ効いてくる。インパクトは弱いが、しつこくてたちが悪い。どっちも欠陥だらけである。

とにかく共産党でも自民党でも「党派」は苦手である。個人的性格だから矯正できない。

以上です。コメントありがとうございました。参考にします。


「共産党宣言」を読んでみた。

2006-08-18 | Weblog

僕は人文系の大学に通っていて、プロレタリア文学なんぞも扱っていたので、マルキシズムについて「考えなくてはいけない」ような環境で育った。もっとも僕の頃は、もう大学は遊園地化していたから、みんなが考えていたわけではない。でもまあ僕は、文学の側から考えた。

だからマルクスの原書にあたるなんて真似はしてないし、日本語訳だって読んではいなかった。宮本さんの「敗北の文学」とか小林秀雄の「様々なる意匠」とかをよんで、「蟹工船」なんぞを青っぽく論じていた。広松渉さんとか、吉本隆明さんなんぞも読んだが、どうもよく分からなかった。不勉強だから丸山さんは読まなかった。

そしたらソ連がなくなって、もう今更マルキシズムでもないという社会になって、その上大学は修了してしまったから、結局マルクスの本なんてまともに読むことなく生きていた。

で、この間昔の本を整理したら、「共産党宣言」がでてきた。これはとても「厚さが薄い」ので、流石に一回は読んだことあったが、すっかり内容は忘れていた。

で、さっと読んでみた。むろん正確に読もうとはしていない。不謹慎だが流し読みである。

ヨーロッパを共産主義という妖怪がうろついている。という感じの出だしである。

この部分は「文学的」で好きだった。

社会の歴史は階級闘争の歴史である。

日本にはもう歴然とした「階級」はなくなってしまった。だから日本一国を考えた場合は、この定義にあまり意味はない。けれど世界を考えた時は貧困階級と富裕階級が存在する。

テロの温床が貧困であることは誰でも知っている。そして貧困国家の大部分はそこから抜け出せない。そういう「しくみ」があるのだ。中国、インド、ブラジルなど今先進国のマネーが流入している物的および人的資源がある国は別として、その他のほとんどの国は貧困からは抜け出せない。そういうようになっている。

とすると、まだこの定義は「活きて」いるということになる。テロが悪であることは間違いない。が、階級闘争の一面をもっていることも事実である。

つまり貧困を解決または改善しない限り、テロという階級闘争はいつまでも続くということになる。まあ、誰でも分かっていることで、書くべきものでもないが、久々に「社会の歴史は階級闘争」という言葉をみて、そんなことを想った。

日本共産党の最近の活動はよく知らない。ただ「日本」というレベルで活動しているかぎり、支持者はもう増えないだろう。日本社会の格差だけでなく、世界の格差を改善し、そのことによるテロの防止に邁進すると言えば、少しは人をひきつける政党になれるかもしれない。「ちゃんとやっています」とお叱りを受けそうだが、結構ニュースは見ている僕の耳に入ってこないのだから、やってるならもっとうまく伝達しないといけないだろう。と、ここで日本共産党のHPを見てみた。いろいろとつっこみを入れたい言葉が並んでいた。国連主義でテロを追いつめる、とか書いてある。「追いつめ」たらもっと事態はひどくなる。国連主義は残念ながら世界の貧困に対しては非力すぎる。

それでも日本共産党には「抵抗勢力」として頑張ってもらわないと困る。社民にも民主にもがんばってもらわないと困る。小泉的翼賛政治はもうこりごりである。安倍翼賛政治の嫌な予感もすることだし。あ、加藤紘一も頑張れだな。

ソビエトの壮大な実験は失敗したが、ソ連の存在は西側の福祉政策を強く刺激していた。冷戦はまた「どちらが福祉を向上し、より平等で豊かな社会を実現できるかの競争」でもあった。ソ連が崩壊して、西側に福祉向上への努力をする必要がなくなった。そしてむきだしの競争社会の中で豊かであるはずの我々の多くは疲れ果てている。

そこそこ豊かで、ほどよく平等で、心が荒廃するほど忙しくはない社会(世界)が僕はよい。マルクスもそう思ってこの本を書いたのだと僕は思っている。

社会主義はそれを実現できなかったが、資本主義も実現できなかった。共生社会という概念もまたあやふやである。

思えば資本主義も社会主義も「経済的豊かさ」を第一の目標とした点では全く同じものであった。時代背景がそれを要請したとはいえ、そこに「何か」間違いがあったのだ。

社会主義の実験は失敗したが、資本主義も世界全体でみれば格差と貧困とテロを生み出してしまったわけで、決して「勝利」などしていない。

「何か」が欠けていたのだろう。

いまのところ資本主義に対抗できる概念は「共生社会」しかないが、まだそれは「空想」「理想」の段階である。

共生社会が「空想から現実的政策へ」となる日はいつのことだろうか?

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敵もまたお国の民であり

2006-08-16 | Weblog

最後の「実質的な大奥の指導者」であった「天障院」は薩摩の出身です。この人、今度NHKの大河の主人公になるそうです。民放の「大奥」にも出てました。菅野美穂がやってました。数回見ましたが、個人の争いばかりを描いていました。あまりに卑小化されていて、天障院のために涙したい気分になりました。

本当の天障院はたぶん、資料で調べる限り、全く違う人間です。個人の問題を超えたもっと大きな問題を背負っていたし、考えてもいました。

西郷にこう伝えたと言われています。

徳川の民もまたお国の民である。今は人心をまとめ、外敵に備える時である。それゆえ徳川慶喜以下みな恭順をしている。それでもなお官軍は徳川を責めるのか。

江戸時代は国民意識そのものが薄く、「藩ナショナリズム」の時代でした。が、天障院はそれを超えて広く寛容なナショナリズムを身につけていました。

「敵」といえど「お国の民」

西郷と天障院は二人とも夭折した島津斉彬の薫陶を受けていました。西郷は生粋の藩ナショナリストでしたが、感情を頭でおさえることができたのでしょう。天障院の言葉の直接的な影響とは言えないでしょうが、結局彼女の言葉通りに徳川を責めて国民同士が争うという事態を回避しました。

むろん戊辰戦争は起きましたが、徳川との全面戦争をした場合は完全な内戦になっていたでしょうから、「人心がまとまる」にはその後長く時間を要したでしょう。

その後西郷は日本最後の内戦を起こします。しかし西郷をかばうなら、彼は全く戦術に口出しせず、ずぶの素人である中村半次郎らに全てを任せ、当然のように負け、結局不満士族と共に滅び、最終的な「人心の統一」が達成されます。明治政府もそれ(不満士族と共に滅んでくれたこと)が分かっていたから上野に銅像を立てたのでしょう。

西郷、大久保、天障院、徳川慶喜。昔のナショナリストたちは偉かったと思います。

今、ナショナリストを自称する人たちは小泉首相をはじめ、みなわざと「敵」を作って、時におとしめあい、時に本当に殺しあったりしています。

いつから日本のナショナリストはこんなちっぽけな、卑小な存在になったのでしょうか。

韓国に行ったら西郷は朝鮮侵略の旗手として極悪人の扱いを受けていました。韓国人の心情はよくわかります。僕が韓国人なら当然そう思うでしょう。

でも僕は西郷は好きですね。最後は彼の政敵になってしまった大久保も好きです。大きな人間たちです。

特にまとめはないのです。

敵もまたお国の民。敵もまた人間。

いい言葉だと思います。

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加藤氏邸放火右翼の醜悪さ

2006-08-16 | Weblog

加藤氏は小泉の靖国参拝を批判していた。

15日に田舎の自宅が放火された。97になる母親は外出していて無事だった。

犯人は自称ではあるが「右翼団体」に属しているそうである。

彼が右翼であろうとなかろうと、いったい右翼というのは日本人なのか。僕にはずっと疑問であった。品格、寛容、謙譲といった日本的美徳をあれほど「身につけていない人間たち」のどこが日本人なのか。あんな醜い人間たちを日本人とは認めたくない心情がどうしても消えない。でも日本人なんだろう。真の日本人と本人たちは自称しているし。彼らが日本人なら僕は日本人でなくともよい。

さてこの犯人。

①放火をしている。(放火は懲役10年以上もざらに下る重罪である。)

②意見が違うものを暴力で封じ込めようとしている。

③97になる母親が外出していなかったら死んでいた。弱い人間。97の「おばあさん」を殺すことが彼の「やり方」なのか。

切腹をしたらしいが、もちろん死んではいない。人間は切腹ではなかなか死ねないのだ。だから頚動脈を切る。たぶん知っていて、とりあえず切ったのだろう。知らなかったとしたら「切腹の作法」すら知らない間抜けということになる。

醜悪である。卑劣である。卑怯である。恥知らずである。

かつて二二六事件の時、昭和天皇が決起将校たちに言った言葉がある。

「自殺するならば勝手になすべし」

醜い日本人である犯人」にはこの言葉がよく似合う。

(もっとも、二二六の将校には貧困への義憤があり、同じ暴力でも同列には置けない。この犯人のほうがずっと醜く卑怯である。)

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