ニュースは踊る

ニュース、その他に関する個人的感想です。「正しいこと」、など書きません。私は名は「三太郎」。

「世界共和国へ」「国家の品格」「最後の親鸞」

2006-08-20 | Weblog

気になっている3冊の本がある。

「世界共和国へ」 柄谷行人

「国家の品格」 藤原正彦

「最後の親鸞」  吉本隆明

「世界共和国へ」と「最後の親鸞」に比べれば、「国家の品格」はまるで「小学生の作文」のような文章である。でもやはり一回目と二回目、それから三回目の読後感は多少違っていて、なんの参考にもならない文章という印象が多少変化してきている。どうしてこんな「小学生の作文」みたいな文章を書いたのか、が気になって仕方ない。その稚拙さそのものに凄く興味がある。

「最後の親鸞」にこういう表現がある。

「知」にとって最後の課題は、頂を極め、その頂に人々を誘って蒙をひらくことではない。頂を極め、そのまま寂かに「非知」に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の「知」にとっても最後の課題である。

吉本氏の全著作を通じて考えてみても、一番心にすっと入ってくる文章である。こういう「大愚」という姿勢が身についている知識人は日本には皆無に等しい。それを藤原氏が実践しているような、していないような、そんな興味で読むのだが、まだ見極めがついていない。ただの愚かもしれない。それはそれで素晴らしいが。

「世界共和国へ」は柄谷さんの思考のエッセンスがぎゅっと詰まったような本で、読むのにいささか時間をかけている。この本自体はたかだか230ページの本だが、とにかく「圧縮度」が高いので、「解凍」するのに時間がかかる。なにしろ主題が「国家の止揚」なのである。大愚といえばこれほど大愚な本はなく、氏が一流の知識人であることを改めて深く感じる。いつかこの本について書けたらと思っているが、なんだか一年以上かかりそうな予感がする。

柄谷さんには一度だけお会いしたことがある。大学で亡き中上健二さんの世話係をしていて連れていかれたバーにいらした。「現代思想」の当時の編集長もいて、「おまえら、柄谷の本なんか読んでないだろ」というので、もっていた氏の本を4冊とりだして「読んでますよ」と真剣に言ったら驚いていた。あんなことで真剣になるなんて若気の至りである。どうせならサインもらえば良かった。そのぐらいの「しゃれと余裕」がなかった自分が恥ずかしい。

そういえば博士君みたいな変な若い男もいた。あとで気がついたが浅田彰さんだった。かなり変だった。

柄谷さんには「物語はエイズだと思わないか」と言われた。一応「ちょっと思います」と答えた。この人もかなり変である。知の頂を極めて非知に至るとはこんなことなのかな、とふと思った。懐かしい記憶である。

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イラク戦争とオウム真理教

2006-08-20 | Weblog

オウムの土谷被告に二審でも死刑の判決が下った。

地下鉄サリンは1995に起きている。11年前だ。

終末宗教というのは「終末が来る」ことを前提に成り立っている。逆に言えば「終末」がこないと成り立たない。麻原はノストラダムスに乗っかって、すぐにでも終末がくるようなことを言っていた。こういう教祖というのはだいたい自分が詐欺師であることを認識してるのだが、麻原は困ったことに自分が詐欺師だとは思っていなかった。自分の言葉と「現実」を強引に合わせようとした。それで自分で「終末」を演出してしまった。

キリスト教も終末宗教である。終末がきた時キリスト信者だけは神の手によって救われるとか、まあ救いの具体的形は様々だが、とにかく「終末がこないと困る宗教」の一つである。

もっとも「困る」のはキリスト教原理主義者で、一般の信者は別に困らない。終末がこない方がいいと普通のキリスト教信者は考えている。(だろう)

「キリスト教原理主義者」たちは、ずっと待っているんだがなかなか世界が滅ぶ様子はない。これは困った事態である。

なぜかというと「ヨハネの黙示録」では終末は「すぐにくる」ことになっている。この「すぐ」というのは日本語だから、原文のギリシャ語でどうなっているのかは知らないが、まさか2000年後が「すぐ」ではないだろう。これは困った事態である。

聖書というのは250年間ぐらいに書かれた様々な文章の「つぎはぎ」である。ヨハネの黙示録を正典にするかはずっと議論があったようだが、結局正典に加えられた。

「正典」である以上、終末が起こってくれないと、原理主義者にとっては非常に都合が悪いのである。

で、ブッシュは自分で「終末」を演出している。

つまり麻原とブッシュの間にはそれほど差はない。というが結論である。

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誰がために競争やあらん

2006-08-20 | Weblog

格差社会か。

どうも世界の格差のほうが気になる。人類主義ではない。格差がテロを生むから、つまり直接自分にかかわっているから、気になる。

昭和40年代の貧乏も結構なもんだったが、戦前、明治の貧乏はしゃれにならない。「日本の下層社会」。読んだのはもう20年も前だから細かい記憶はないが、とにかくしゃれにならなかった。

僕自身はと言えば、中小企業の専務の家に生まれ、中学の時会社が倒産、親父が自殺未遂。高校時代は極貧。で今はやっと中流程度。でも昔を考えれば今の「中流」は「貴族」みたいなもんだ。温水シャワーはあるし、エアコンはあるし、PCはあるし、携帯だって全然使わないのに持っている。メタボリックを気にしながら、なるべく食べないように生活をしている。国内では中流の中だが、完全に貴族だ。

とか思っているせいで、日本の格差については「貴族間の争い」程度にしか認識できていないようだ。東京に住んでるせいもあるだろう。地方の現状を知らない。少し真面目に考えたほうがいいか、と思いつつある。

さて「競争」について。

ゲームとしては楽しいが、マジな競争は嫌いだ。

勝ったものが負けたものに手をさしのべるような競争はいいが、さらに突き落とすような競争は嫌いだ。

ビルゲイツが引退して慈善事業をやるという。マイクロソフトの路線転換という面もあるが、彼個人としては「怖く」なったのだろう。「勝ちすぎた」ことに。最初はゲーム感覚だったはずだ。それがいつのまにかマジな競争になり、しかも一人勝ちをしてしまった。怖くもなるだろう。

高校時代、土曜になると「麻雀」を友人とした。金は一切賭けなかった。金を持っていなかった。けどそれが最大の理由ではない。金を賭けると、ゲームがせこくなって、楽しめない。時に人間関係が壊れる。だから絶対金は賭けなかった。純粋にゲームとして楽しんだ。勝利者には名誉号を与えた。楽しかった。負けても楽しかった。「くやしい」と思って、けど楽しかった。それからみんなで勝負の分析をした。何故勝ったか。負けたか。素人分析をしてわいわいやっていた。それも楽しかった。

経済競争。どうやらゲームではなく、マジである。勝っても負けても楽しくない。僕個人の感覚では。

人間は競争がなくては動かない動物である。

半ば合っていて、半ば違っている。

「競争」ということ。勝つとか負けるとかいうこと。

先人の知恵が東洋には沢山ある。西洋にだってある。少し学びなおしてみようと思っている。

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格差社会または論破しない人間

2006-08-19 | Weblog

僕は理論武装と論破が嫌いである。理論武装ができないのは集中力がなく、広く浅く本を読むためである。

論破。昔ロンパールームってあったけど、あのロンパーってどういう意味だろ?

本当に若かった頃は論破に多少の快感も感じた。今は相手を論破してもされても虚しい気分にしかならない。人間は半分以上感情的な部分で生きているから、相手を理論的に論破しても、それは勝利にはならない。相手に恨みが残る。「舞姫」の最後の表現みたいなもんだ。一点の恨み我に残れり。

むしろ最後にわざと降参したほうが、相手の心に言葉が届く場合があるとすら考えている。

ネット右翼という人たちがいる。若い人に多いようだ。でも政治ブログ投票でいつも想像を絶する投票数をもっている(きっとカラクリがあるのだろうが)、まあその人は顔写真ものせていて、僕より年上である。この間は加藤紘一氏の自宅焼き討ちを支持するとか凄いこと書いていた。マジなのか冗談なのか。なんだかマジみたいだ。どんな人生を歩んできたらこういう風になるのか。むしろそっちが気になった。

「支那人」と「共産主義者」が嫌いらしい。あまりよくは読んでいないのだが、本当に嫌いなのはマスコミらしい。というかマスコミが怖いらしい。自分は凄い弱者で、マスコミは強者なんだ。だから弱い自分はブログでこんな「とんでもないこと」書いても許されるんだ。弱いのだから。という論法だった。被害者意識も強い。

こういう方はもう本当に感情が先行してるし、「ガラスのように繊細で壊れやすい心」を持っているから論破なんてしようものなら大変である。まして論破に成功したらもっと大変である。「恨み」だけが残る。

もしどうしても関わるのなら、感情に訴えるのが一番だと思う。でも今のところ関わらなくてもまだ大丈夫だろう。彼らは彼ら自身が思っているように、少数派であるし、これからも多数派にはきっとなれない。

というわけで、僕はコメントにはコメントしない。論争が苦手なのである。恨まれるのも嫌いだし、勝つのも負けるのも嫌いである。もっと言えばブログの例の「コメントありがとう」とかいう「挨拶」も苦手である。苦手だからしたことない。

でも前回のブログに非常に熱心にアドバイスを下さる方がいるので、一応「何か」書かないと失礼だと思った。

えーと、社会民主主義。ぜんぜん念頭になかった。これは降参。

格差社会。考えはあるけど、まとまってないから書けない。

社会主義。何故必然的に暴君のような存在を生んでしまうのか。何故「現実的に崩壊した」という「事実」が存在するのか。資本主義が生んだ悪と社会主義が生んだ悪。どっちもどっちだが、ポルポトやスターリン粛清を考えると社会主義の悪はインパクトが強い。資本主義の悪はボディーブローのように、じわじわ効いてくる。インパクトは弱いが、しつこくてたちが悪い。どっちも欠陥だらけである。

とにかく共産党でも自民党でも「党派」は苦手である。個人的性格だから矯正できない。

以上です。コメントありがとうございました。参考にします。


「共産党宣言」を読んでみた。

2006-08-18 | Weblog

僕は人文系の大学に通っていて、プロレタリア文学なんぞも扱っていたので、マルキシズムについて「考えなくてはいけない」ような環境で育った。もっとも僕の頃は、もう大学は遊園地化していたから、みんなが考えていたわけではない。でもまあ僕は、文学の側から考えた。

だからマルクスの原書にあたるなんて真似はしてないし、日本語訳だって読んではいなかった。宮本さんの「敗北の文学」とか小林秀雄の「様々なる意匠」とかをよんで、「蟹工船」なんぞを青っぽく論じていた。広松渉さんとか、吉本隆明さんなんぞも読んだが、どうもよく分からなかった。不勉強だから丸山さんは読まなかった。

そしたらソ連がなくなって、もう今更マルキシズムでもないという社会になって、その上大学は修了してしまったから、結局マルクスの本なんてまともに読むことなく生きていた。

で、この間昔の本を整理したら、「共産党宣言」がでてきた。これはとても「厚さが薄い」ので、流石に一回は読んだことあったが、すっかり内容は忘れていた。

で、さっと読んでみた。むろん正確に読もうとはしていない。不謹慎だが流し読みである。

ヨーロッパを共産主義という妖怪がうろついている。という感じの出だしである。

この部分は「文学的」で好きだった。

社会の歴史は階級闘争の歴史である。

日本にはもう歴然とした「階級」はなくなってしまった。だから日本一国を考えた場合は、この定義にあまり意味はない。けれど世界を考えた時は貧困階級と富裕階級が存在する。

テロの温床が貧困であることは誰でも知っている。そして貧困国家の大部分はそこから抜け出せない。そういう「しくみ」があるのだ。中国、インド、ブラジルなど今先進国のマネーが流入している物的および人的資源がある国は別として、その他のほとんどの国は貧困からは抜け出せない。そういうようになっている。

とすると、まだこの定義は「活きて」いるということになる。テロが悪であることは間違いない。が、階級闘争の一面をもっていることも事実である。

つまり貧困を解決または改善しない限り、テロという階級闘争はいつまでも続くということになる。まあ、誰でも分かっていることで、書くべきものでもないが、久々に「社会の歴史は階級闘争」という言葉をみて、そんなことを想った。

日本共産党の最近の活動はよく知らない。ただ「日本」というレベルで活動しているかぎり、支持者はもう増えないだろう。日本社会の格差だけでなく、世界の格差を改善し、そのことによるテロの防止に邁進すると言えば、少しは人をひきつける政党になれるかもしれない。「ちゃんとやっています」とお叱りを受けそうだが、結構ニュースは見ている僕の耳に入ってこないのだから、やってるならもっとうまく伝達しないといけないだろう。と、ここで日本共産党のHPを見てみた。いろいろとつっこみを入れたい言葉が並んでいた。国連主義でテロを追いつめる、とか書いてある。「追いつめ」たらもっと事態はひどくなる。国連主義は残念ながら世界の貧困に対しては非力すぎる。

それでも日本共産党には「抵抗勢力」として頑張ってもらわないと困る。社民にも民主にもがんばってもらわないと困る。小泉的翼賛政治はもうこりごりである。安倍翼賛政治の嫌な予感もすることだし。あ、加藤紘一も頑張れだな。

ソビエトの壮大な実験は失敗したが、ソ連の存在は西側の福祉政策を強く刺激していた。冷戦はまた「どちらが福祉を向上し、より平等で豊かな社会を実現できるかの競争」でもあった。ソ連が崩壊して、西側に福祉向上への努力をする必要がなくなった。そしてむきだしの競争社会の中で豊かであるはずの我々の多くは疲れ果てている。

そこそこ豊かで、ほどよく平等で、心が荒廃するほど忙しくはない社会(世界)が僕はよい。マルクスもそう思ってこの本を書いたのだと僕は思っている。

社会主義はそれを実現できなかったが、資本主義も実現できなかった。共生社会という概念もまたあやふやである。

思えば資本主義も社会主義も「経済的豊かさ」を第一の目標とした点では全く同じものであった。時代背景がそれを要請したとはいえ、そこに「何か」間違いがあったのだ。

社会主義の実験は失敗したが、資本主義も世界全体でみれば格差と貧困とテロを生み出してしまったわけで、決して「勝利」などしていない。

「何か」が欠けていたのだろう。

いまのところ資本主義に対抗できる概念は「共生社会」しかないが、まだそれは「空想」「理想」の段階である。

共生社会が「空想から現実的政策へ」となる日はいつのことだろうか?

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敵もまたお国の民であり

2006-08-16 | Weblog

最後の「実質的な大奥の指導者」であった「天障院」は薩摩の出身です。この人、今度NHKの大河の主人公になるそうです。民放の「大奥」にも出てました。菅野美穂がやってました。数回見ましたが、個人の争いばかりを描いていました。あまりに卑小化されていて、天障院のために涙したい気分になりました。

本当の天障院はたぶん、資料で調べる限り、全く違う人間です。個人の問題を超えたもっと大きな問題を背負っていたし、考えてもいました。

西郷にこう伝えたと言われています。

徳川の民もまたお国の民である。今は人心をまとめ、外敵に備える時である。それゆえ徳川慶喜以下みな恭順をしている。それでもなお官軍は徳川を責めるのか。

江戸時代は国民意識そのものが薄く、「藩ナショナリズム」の時代でした。が、天障院はそれを超えて広く寛容なナショナリズムを身につけていました。

「敵」といえど「お国の民」

西郷と天障院は二人とも夭折した島津斉彬の薫陶を受けていました。西郷は生粋の藩ナショナリストでしたが、感情を頭でおさえることができたのでしょう。天障院の言葉の直接的な影響とは言えないでしょうが、結局彼女の言葉通りに徳川を責めて国民同士が争うという事態を回避しました。

むろん戊辰戦争は起きましたが、徳川との全面戦争をした場合は完全な内戦になっていたでしょうから、「人心がまとまる」にはその後長く時間を要したでしょう。

その後西郷は日本最後の内戦を起こします。しかし西郷をかばうなら、彼は全く戦術に口出しせず、ずぶの素人である中村半次郎らに全てを任せ、当然のように負け、結局不満士族と共に滅び、最終的な「人心の統一」が達成されます。明治政府もそれ(不満士族と共に滅んでくれたこと)が分かっていたから上野に銅像を立てたのでしょう。

西郷、大久保、天障院、徳川慶喜。昔のナショナリストたちは偉かったと思います。

今、ナショナリストを自称する人たちは小泉首相をはじめ、みなわざと「敵」を作って、時におとしめあい、時に本当に殺しあったりしています。

いつから日本のナショナリストはこんなちっぽけな、卑小な存在になったのでしょうか。

韓国に行ったら西郷は朝鮮侵略の旗手として極悪人の扱いを受けていました。韓国人の心情はよくわかります。僕が韓国人なら当然そう思うでしょう。

でも僕は西郷は好きですね。最後は彼の政敵になってしまった大久保も好きです。大きな人間たちです。

特にまとめはないのです。

敵もまたお国の民。敵もまた人間。

いい言葉だと思います。

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加藤氏邸放火右翼の醜悪さ

2006-08-16 | Weblog

加藤氏は小泉の靖国参拝を批判していた。

15日に田舎の自宅が放火された。97になる母親は外出していて無事だった。

犯人は自称ではあるが「右翼団体」に属しているそうである。

彼が右翼であろうとなかろうと、いったい右翼というのは日本人なのか。僕にはずっと疑問であった。品格、寛容、謙譲といった日本的美徳をあれほど「身につけていない人間たち」のどこが日本人なのか。あんな醜い人間たちを日本人とは認めたくない心情がどうしても消えない。でも日本人なんだろう。真の日本人と本人たちは自称しているし。彼らが日本人なら僕は日本人でなくともよい。

さてこの犯人。

①放火をしている。(放火は懲役10年以上もざらに下る重罪である。)

②意見が違うものを暴力で封じ込めようとしている。

③97になる母親が外出していなかったら死んでいた。弱い人間。97の「おばあさん」を殺すことが彼の「やり方」なのか。

切腹をしたらしいが、もちろん死んではいない。人間は切腹ではなかなか死ねないのだ。だから頚動脈を切る。たぶん知っていて、とりあえず切ったのだろう。知らなかったとしたら「切腹の作法」すら知らない間抜けということになる。

醜悪である。卑劣である。卑怯である。恥知らずである。

かつて二二六事件の時、昭和天皇が決起将校たちに言った言葉がある。

「自殺するならば勝手になすべし」

醜い日本人である犯人」にはこの言葉がよく似合う。

(もっとも、二二六の将校には貧困への義憤があり、同じ暴力でも同列には置けない。この犯人のほうがずっと醜く卑怯である。)

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ロシアの拿捕 日本人死亡

2006-08-16 | Weblog

まだ全く詳細はわからないので何とも書けない。

北海道にあんなに近いところでも「かに等」を獲ることは「日本とロシアの協定で禁止」されているそうだ。

日本船は、かに漁船ということである。

もし「かに等」を獲っていたなら「協定違反」ということになり、否は日本船にある。

北方領土問題に火がつくだろうが、仮に「かに」を獲っていたなら、「協定」がある以上、とりあえず北方領土とは関係がない。国内は騒ぐだろうが、協定がある以上、日本船の違法行為である。

停船命令があっただろうに。何故従わなかったのか。哀しい事件である。

しかし、協定違反なら、冷静に対処するほかはない。

小泉政権にとっては最後の大事件ということになる。どう収拾をつけるのか。日本外交が問われている。

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戦艦大和の最期に意味はない

2006-08-11 | Weblog

武蔵と大和はほぼ同じ船のはずである。しかし大和の方がずっと絵になるらしく、映画になるのは決まって大和の方である。「ピラミッド、万里の長城、武蔵」、は世界の三大愚行だとか、三大無用の長物だとか昔は言っていた。誰がいいだしたのだろう?ピラミッドは公共事業であったという説があるから無用ではなかろう。万里の長城は、民を酷使したことにより秦を内部から崩壊させた。だが、その後ずっと作られいるから秦時代はともかく、中国史全体においては無用ではなかったはずだ。

結局武蔵だけが本当の無用の長物ということになる。

そして大和も同じである。

大和の出撃は愚行以外の何物でもなく、それを命じた軍令部は愚人集団としか僕には思えない。反対はしたものの、結局出撃に応じた伊藤長官もどうであろうか。身を捨てて抗議をし、乗組員を守る責任があったはずである。伊藤長官が美しく散るのは勝手だが、あんなに多くの人間を巻き込む必要は全くない。伊藤長官も長く軍令部という愚人集団にいたわけだから、それは望んでも無駄なことではあるが。

天皇が「海軍にもう船はないのか」と言ったことがきっかけだという「伝説」がある。どこまでが伝説でどこからが史実かは知らないが、軍令部が大和を沈めるための口実として使った感じが強くする。天皇をかばう気はないが、この言葉と水上特攻が直接結びつくとは思えない。故意にむすびつけた人間集団がいるのだ。

「大和に生き恥をかかせない」。その為だけに2500人の人間が死んだ。愚かである。

彼らの死は本当に無駄な犬死であった。そう考えなくてはいけないと思う。

家族を守るとか祖国を守るとかそんな安っぽい感動ものにしてはいけない。祖国を守る攻撃力など飛行機を持たない大和には全くなかった。だから「祖国を守るため」というのは完全な嘘である。「家族のため」というなら、アメリカ兵も同じである。また海軍の愚かな南方作戦の巻き添えになって死んだアジアの多くの民間人にも家族はいる。

大東亜戦争に関して、家族がどうだ、とか、家族には最後まで優しかったとか、そういう安っぽいお涙ちょうだい的文章、映画、漫画が最近とみに多いようだ。家族を思ったからどうだというのだろう。馬鹿馬鹿しい。

虐殺されたアジア人の家族はどうなるんだろう。米軍の家族は。日本の家族だけが「家族」ではない。

たとえば東条英機が家族に優しかったら何だというのだ?普通のことである。しかし、彼の行った愚行とその結果起こった大量の死は普通のことではない。レベルの全く違う問題である。

さて。

大和ほど役にたたなかった船はない。犬死量産船と言ってよい。

戦闘は皆無と言ってよいほど行っていない。

レイテ戦ではおとり作戦で小沢艦隊を沈めながら、そしてその為に多数の人間を犠牲にしながら、大和はレイテに突入せずに途中で引き返した。小沢艦隊乗組員はただ死んだだけである。

最後はただ沈むためだけに出撃した。

「家族愛」とか「祖国の誇りを守る」とかいう言葉が安っぽく量産されている。

そういう愚かな思考は戦争から時がたつほど強まっていくようだ。

大和の最期には何の意味もない。乗組員の死は全くの犬死である。

そう考えることが大東亜戦争で死んだ、アジア人、日本人、アメリカ人、オーストラリア人、その他の死者、に対する最善の「供養」となる。

僕はそう「考えるべきだ」と思う。家族愛とか祖国愛とか空虚な言葉で現実の死、生身の人間の死を意味づける行為の愚かさに、僕らはもう気づいてもいいのではなかろうか。

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原爆の日

2006-08-10 | Weblog

原爆というとまず「東京裁判」の次のシーンが目に浮かぶ。

ブレークニーというアメリカの弁護士がこう言う。

概略である。

戦争に対し、開戦、終戦に関する法規、国際法があるということは「戦争の合法性」を示している。

戦争での殺人は殺人ではない。罪にならない。合法的な人殺しである。たとえ嫌悪すべき行為であっても犯罪として裁かれることはなかった。キット提督の死が真珠湾攻撃の結果として罪とされるなら、我々は原爆を落とした者の名を知っている。計画した参謀長の名も、そして投下を命じた元首(トルーマン)の名も知っている。

彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵が不正義だからではない。戦争行為自体が犯罪ではないからだ。

原爆投下というあまりにも残虐な行為が犯罪でない以上、日本兵の残虐行為も犯罪ではない。とブレークニーは逆説的に証明しようとした。

この「くだり」は正規の速記録からは削除された。

僕個人の意見では「どちらも間違いなく有罪」である。

話変わって。

「トータル・フィアーズ」という映画がある。モーガンフリーマンが出ている。3年ぐらい前のものだ。

アメリカで核テロが発生する。本当に核が爆発する。その現場、被災地に、モーガンフリーマンは、のこのこと防御服もなしに、出かけていく。なんだこれは。と思った。被災直後である。放射能レベルを考えれば防御服があっても怖い。

3年前のハリウッド映画でもこの程度にしか原爆の本当の恐ろしさ、つまり後遺症、二次被災は理解されていないようだ。この映画はアメリカの原爆に対する一般知識を反映しているのだろうか。それともこの映画が特別にオマヌケなのだろうか。「核テロの恐ろしさを描く」とか言っていた。核の本当の怖ろしさなんて全然分かってない。「大きな爆弾」程度に描いていた。放射能汚染の怖ろしさなど微塵も描いていなかった。

さらに話変わって。

「はだしのゲン」。怖くて最近は見てないし、持ってもいないが、凄かった。ゲンがリヤカーに原爆で溶けた遺体をのせて引っ張っていく。どこに行くと人が聞く。

ゲンは言う。

「天皇にこの死体を見せたるんや。そんで天皇に謝らせるんや」

子供心に凄いセリフだと思った。あの漫画は強烈である。

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君が代なんて歌わない

2006-08-08 | Weblog

題名は懐かしい庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」のパクリである。

子供の頃は歌った。教科書にも載っていた。大人になっても私的に歌うことはある。結構音程がとりにくくて、歌としてはなかなか玄人好みの音の流れがある。とくに「むーうすーうまーああで」のところが、面白い。

先日、若い友人から君が代を訳してくれと言われた。留学先で国歌を英語にせよ、という課題がでたらしい。25歳まで君が代の訳を考えたことがなかったらしい。なるほど、そうだよなー。考えないよな、と思った。

天皇の世は千年も八千年も、小さい石が、大きい石になって、苔がむすまで(長く続くよ)。ぐらいかな。「いわおと」は「巖と」だよ、「岩音鳴りて」じゃないよ、と書いた。これ、英語にできそうもない。君が代、の「君」の解釈にまつわる諸説は教えなかった。どうせ長くなって嫌がられると思ったので。

僕は左翼なんて「ご立派なもの」ではない。そんな政治活動をしたことは一度だってない。政治ビラ配りだってしてない。広告ビラだって配ったことはない。

でも子供の頃は左翼はなやかなりし時代で君が代は「国歌」ではなかった。「日本を代表する歌」と言った。

それが7年前ぐらいに急に法律で国歌になったらしい。そんな急に変えられても、頭には「日本を代表する歌」とインプットされてるんだから、変えられない。

だから国歌として歌えと言われたら歌わない。まして強制されたら絶対歌わない。相撲でもボクシングでも「ご起立」などしない。もっとも両方とも行ったことはない。たまに公式の場なんかで君が代斉唱がある。一応立つけど、歌わない。

歌わないと捕まるとかいう法律ができたら歌うが、たぶんできないだろう。

でも家では歌うこともある。強制されなければ「日本を代表する歌」として歌う。

馬を川まで連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。僕に、暴力的手段または心理的圧力による威圧以外の手段で、君が代を歌うように強制できる存在はこの国にはいない。

だいたい国歌なんて絶対必要なものか。そこから、まず疑問である。といって僕は無政府主義者でも破壊主義者でもない。儒教の仁義礼智信孝と恕がかなり好きである。忠と悌は好きではない。道教の無為自然はもっと好きである。

君が代は僕にとってはずっと国歌ではなかった。いまさら、無理である。君が代好きな人にとってそれが自然な感情であるように、僕にとって「公式の場では君が代は歌わない」が最も自然な感情である。

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靖国神社へはいかない

2006-08-08 | Weblog

東京に住んでいるので時々靖国の前は車で通る。でも参拝したことはない。

別に理由はない。京都の古寺などは好きだ。近くの神社や寺にもいく。でも靖国には行かない。

別に理由はない、と書いた。その通りで、行くとか行かないとか考えたこともないのだ。

たとえば僕は延暦寺にも行ったことはない。東京タワーも子供の頃一回行っただけだ。行くとか行かないとか考えたこともない。つまり意識の中に入ってこない存在だったから行かなかった。靖国も同じである。

でもこれだけ「世間が騒いでいる」。で、行かない理由を「強いて」考えてみた。

①誰も身内が合祀などされていない。祖父は陸軍中佐だが、戦死していない。

②、あのでっかい建物の「威容」が嫌いである。人を威圧する感じで、古寺にある「わびやさび」といった風情が全くない。「静寂」といった日本の伝統を全く感じない。

③僕は大東亜戦争を完全な侵略戦争だと考えている。米英も侵略者だが、日本も侵略者だった。他国とくに東南アジアを侵略して死んだ兵を「拝む」気持ちはさらさらない。戊辰や日清、日露の戦没者には嫌な気持ちはない。が、拝む必要も感じない。

④死んだ元検事総長の本の題名「人は死ねばゴミになる」が僕は好きだ。僕も死ねばゴミになるだけだ。遺体(魂)をことさらに「英霊」などと呼ぶ必要は感じない。

⑤まあ死刑になった殺人鬼などという特別な例を除けば、死に、価値の高い低いがあるのだろうか。川べりで亡くなったホームレスの死と戦争で死んだ兵隊の死の価値に差をつける論理が僕のなかでは浮かばない。

⑥父の墓にだって年に二回ぐらいしか行かない。人は死ねばゴミになるのだ。そんな僕が何故靖国に行かなくてはいけないのか。全く理由が見当たらない。

 

などと、いろいろ書いたが、まあ最大の理由は②である。とにかくでかくて、人を威圧する「いやな感じ」があるのだ。あと理論的には③。大村の像はちょっと見てはみたいが、絶対に一生行かない。国立の慰霊施設ができても、③があるので、絶対行かない。人に行くなとは言わない。僕は行かないというだけのことだ。

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スウィングガールズ

2006-08-06 | Weblog

いつもような政治の話は今回はなし。

スウィングガールズという映画をTVでやっていた。田舎のおちこぼれ女子高生がジャズに魅入られて成長していく話である。

高校時代、僕も音楽をやっていた。吹奏楽とか真面目で健全な部活はどうも肌に合わなかった。「フォークソング同好会」というさえない部活で、機材もないから生ギター中心で、それでも僕なりに「スウィング」をしていた。

こういう青春もの、しばらく見たことがなかった。大林監督風の叙情性はない。「さびしんぼう」とも「時をかける少女」とも違う。でも明るい。明るさは滅びの姿と太宰治は「実朝」に書いたが、時代は変わったのだろう。素直に受け入れることのできる「明るさ」だった。

本仮屋ユイカさん、という女優がとてもよい。内気でドジだが秘めた情熱をもつ少女を演じていた。形としては主役ではないが、内容的には彼女が主役のように感じた。朝ドラ「ファイト」のヒロインである。派手ではないが、人をひきつける魅力をもっている。まだ大学1年らしい。必ず伸びる、と思った。こういう若い女優が頑張っている姿はとても美しい。近頃世間には美しいものが足りない。よい映画を観た。


日本軍国主義と中国と私の夢物語

2006-08-03 | Weblog

安倍氏が、シンポジウムで発言した。

「正面から中国と議論し、摩擦をおそれず、対話を重ねるパートナー関係を作っていく。」

あれ、なかなか「まとも」なことを言っている。

さらに言う。

「中国関係者がひんぱんに口にする軍国主義の復活などは、ほとんどすべての日本人の想像の域を超えるあり得ない話。中国の人々に正しい認識を持ってほしい。」

うーん。これも「まとも」だ。

と、思った。が、少し疑問も感じた。

なるほど中国は日本の軍国主義の復活をよく口にする。

そんなことはありえない。僕も含めて日本人のほとんどは銃の撃ち方も知らない。安全装置もはずせない。戦争が大嫌いである。威勢のいいことをいう人間もいるが、いざとなったら、何もできない。人生を通じて、軍事教練など一回も受けていないのだ。多くの日本人は軍事知識など少しもない。「兵士」や「軍隊」を作るのには時間がかかる。

僕は安倍氏と同じように、「中国人は日本に本当に軍国主義が復活するなどと思っているのか」、ずっと疑問であった。どう考えてもありえない。

韓国の空港には連発銃らしきものをもった兵士がいる。日本を歩いていて銃をもった「兵士」に出会ったら「奇跡」である。

留学生も多く来て帰国している。日本企業も多く進出している。インターネットもある。

たとえばいくら政府が洗脳的な教育を行ったとしても、これだけ日本の情報が入るような環境で、「日本人の戦争嫌い」がわからないはずはない。

「中国は戦略として言っているのだ」ぐらいは僕にも分かる。でも政府にとって戦略でも、ネットも見れないような環境にいる中国人は本当に知らないのかもしれない。ネットを見ても「中国をこらしめろ」的な威勢のいいことを言ってるブログも多いので、一般中国人はそういう虚言に幻惑されているのかも知れない。

僕は安倍氏を信用していないが、総理になるのは確実なのだから、公約通り、「日本の真の姿」を戦略的に宣伝してもらいたいものだ。

もっとも中国が真に脅威を感じているのは世界第二位の兵数を持つアメリカであろう。一位はいうまでもなく「中国」である。

日本に軍国主義は復活しない。でも日本は米国を中心とする巨大な軍事同盟の一員である。基地も多くある。

僕は安保反対などといおうとしているのではない。現実問題として、同盟国アメリカの存在を考えれば、日本は自分たちが思っているより巨大な軍事国家なのかもしれない。と思った。それを書くために長々と書いてきた。

爆笑問題の太田ではないが「私が総理なら」、そろそろあの戦争に決着をつけようとするだろう。どうすれば今後中国がいろいろ変な心配や懸念をもたないのか。中国政府にまず「中日戦争、日中戦争の真の和解案」を作成させる。「ようするにどーして欲しいのか」と聞いてみる。A級の分祀。それはできる。米基地の撤去。すぐにはできない。軍国主義復活の防止。そんなことしなくても大丈夫。南京虐殺、30万は多すぎるが、虐殺の事実は認めます。と一つ一つ、詰めていく。

考えてみると、60年前、世界の大国の「それぞれの思惑」によって中途半端にあの戦争に「形式上の決着」をつけてしまったことが不幸の始まりであった。だから「本当の和平の実現」を一からやりなおす。

むろんこれは半分冗談であるが、半分は本気でもある。一つ要求をのんだら中国は次々出してくる、とタカ派は言う。なら、国としての最終和解案を出してもらう。韓国にも出してもらう。「思ってること全部言え。でも後では言うなよ」と言う。日本も「世界一の数をほこる中国軍のほうがよほど怖いぞ」と本当のことを言う。

「これで決着。もう政府レベルではお互いこれ以上は言わない。民間レベルの言動にはお互い動かされない。」めでたし。めでたし。

まあ簡単に「すっきり」いくわけもないが、もう60年もやってきたのだから、どっかで「すっきり」手打ちといかないと、この先100年も不毛な戦いをすることになる。安倍氏は好かないが、「すっきり」させたら大宰相になれる。もっとも両国とも「不毛な戦い」が大好きな一部国民を有しているから、やっかいな作業ではあるが。

それにしても何故民間人の虐殺を認めると自虐史観になるのか、意味がわからない。60年も前の人間がやったことと僕の「人格」には何の関係もない。戦争指導者は愚劣で無能な虐殺者だが、僕の人格には何の関係もない。現在の女性監禁男とか幼児殺人犯と僕が何の関係もないように、彼らとも関係ない。彼らの愚行は認めるが、僕の愚行ではない。

中国、インド、韓国を巻き込んだアジア経済圏構想を日本が打ち出した。EUのアジア版である。これはとてもいいことだ。実現したら画期的な事業となる。その実現のためにも、いい加減「すっきり」としてほしいし、経済交流を考えれば「そうする以外に道はない」はずである。まず被害国である中国に「最終和解案」を作成させ、それを両国で協議する。ゆずれないことは「何故ゆずれないか」正直に説明する。

もっともそんな「おおげさでわざとらしい」ことなどせずに、アジア経済圏の実現によって、両国の懸案が「自然消滅」するなら、それが一番よい。

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英霊という言葉は使えない

2006-08-03 | Weblog

僕は「英霊」という言葉をこのブログで使ったことがない。戦没者と書いている。

英霊とは書けないのである。戦史を調べれば調べるほど「英霊」などとは呼べなくなる。これは僕の気持ちの問題で(心の自由とか言う気はない)、誰にも強制はしないし、逆にどう言われても変わらない。

①なるほど、日本人戦没者は愚劣な作戦指導によって殺された。餓死した。その点では犠牲者である。被害者でもある。

②しかし、アジアの多くの人間にとっては「加害者」である。命令とはいえ、虐殺したり、収奪によって餓死させたり、傷を負わせた責任がある。虐殺については数が問題とはなる。でも多くの日本人兵士の証言があり、また実際に虐殺した人間の証言もあり、虐殺自体が行われたことは間違いない。そのアジア人の多くは、形式上は「敵」ではない。兵士ですらない。民間人である。あまりに多くの生き証人(日本人)がおり、この事実は否定しようもない。

③これは平凡だが、英霊という言葉には戦争美化の嫌な響きがある。

④お国の為に戦ってなくった人より、お国の愚かな指導で、殺されたり、餓死した人のほうがずっと多い。僕個人としてはほとんどの戦没者は「殺された」と分析している。また「お国のため」に虐殺者となった者もいる。

僕は、戦争指導責任者によって殺された、多くのアジア、日本の戦没者に同情している。

また人並み以上には戦史は調べた。そのうえで信念をもって「英霊」とは言わない。戦没者または犠牲者である。

私の個人的感覚として、「英霊」という言葉には実にいやな響きがある。僕は使わない。人が使ってもいい。その人が信念をもって「英霊」としているなら、つまり「中国への反感」とかいう別の理由で使っていないのなら、特に文句をつける筋合いではない。でも僕の感覚では「英霊」という言葉は非常に政治的かつ意図的なラベル貼りであり、愚劣な作戦で無念に死んでいった兵たちを形容する言葉としては、きわめて「不純な動機に基づく命名」である。

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