石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

2014年11月08日は栃木県氏家町の天皇駐蹕碑の拓本採り、その他でした

2014年11月09日 | Weblog

昨日11月08日は、先週に引き続いて(ブログは掲載を休んでしまいました)栃木県さくら市氏家町にある「天皇駐蹕之所」とある石碑の拓本を採ってきました。それが上記写真です。実はこれ、先週の11月1日に訪ねての2週連続での訪問です。この碑があるのは、今は市で管理されている旧個人宅内にあるもので、私が今まとめている「さくら市の輯録いしぶみ」調査として掲載したいと思いつつ9月から調査が出来ぬままでいたものです。それが、先週の1日には邸内開放されるということで、少なくも写真だけでは採りたい、名文を手写したいという思いで行きましたが、やはり碑陰にある戸田香園の撰文&揮毫を見てしまうと拓本も欲しくなり、色々とありましたがその結果で拓本を採る許可が降りました。そこで、2週連続でいく羽目になりました。昨夜は、その戸田香園の銘文と書を眺めながら楽しい夜を過ごしました。なお、碑表は時の宮内大臣、土方久元の揮毫になるものです。
もちろん、これだけで一日を終えるにはもったいなく、数年前からどうしても調査したい石碑が、今は宇都宮市と合併された上河内地区の廃寺跡にあるものを調査することにしました。行ってみると、そこは共同墓地になっていて、その中に入ってみれば、直ぐにそれと判る立派な石碑が建立されていました。しかし、一度も掃除されたことも無くひどい汚れよう。カメノコタワシだけでは石面にこびりついた苔は落ちずに、またしても金属ブラシを併用しながら約1時間。何とか拓本を取れるようになりました。そして、私が一番喜んだのは、篆額が山県有朋、撰文が羅山後裔の林昇、書は寒翠 村田鉄太郎。石工が井亀泉ということでした。なぜ、こんなひなびた邨に忘れられたように建立されているのかと、この碑に出会ったことを独りで大喜び。午前中の、氏家町の天皇駐蹕碑以上に、今日はこの前に立てたことに感謝する次第でした。

さて、次回は石碑調査はしないで、これまでに溜めてしまった石碑調査報告書をあちこちに報告を掛けて栃木市方面へ提出に行くつもりです。それでも、栃木市でまたしても断られるのを覚悟で一寺院を訪ねる腹づもりですが‥。

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