石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

これからの石仏巡り地選定で悩む

2010年03月31日 | Weblog
 今年の冬も、ついに昨日で以って終わりそうである。そこで昨夜は、今年になってからの石仏巡りでの成果冊子を振り返りつつ、これから先のことについて思い悩む。それは、先週から始めた国分寺町の石仏巡り等についてで、これから5月までの草が萌え出る前は、山村地区の石仏巡りには絶好機なのに、町中の石仏巡りに費やしていてはもったいないと思うことである。町中の石仏巡りなら、夏場の草が生い茂って調査が出来なくなった季節に行っても支障がないことに思い至ったからである。これからの、ほんの数ヶ月こそ山村の石仏巡りに費やすべきだと!。特に、栃木県内の大凡の地区を回り終わった今こそ、中途半端なままの調査で済ませていた山村地区へ入り、じっくり腰を落として調査すべきだと思った昨夕だった。
 そして今、仕事前の一時をこうしてパソコンの前に座っている。それは、次回以降も始めたばかりの国分寺町の調査を後回しにしてでも、田舎の山村地帯へ入るべきだという結論に達した。確かに、時には独り黙々と面白みもない自然石文字塔と向かって悪戦苦闘するのを思うと嫌になることもあるが、年齢的にも体力的にも経験的にもそれを為す時期に来たようなのである。そんな、今の私だからこそ出来る石仏調査に、次回から5月連休くらいまでおこなっていきたいと思う。そんな手始めとして、足利市では少し遠すぎるのでその手前の田沼町辺りの石仏調査に入ろうと、今は思っている。特に、田沼町の庚申塔群は、そのほとんどが中途半端なままなので、そんな庚申塔群の幾つかを一箇所ずつ纏めていきたい。そんな目的地として、次回は田沼町閑馬の栗木内にある庚申塔群全塔調査を選んでみよう。そうすればまた、里山の春景色を愛でながら際限のない石仏調査に没頭できそうだから。
コメント

3月27日は栃木県国分寺町(現・下野市)の石仏巡りでした

2010年03月30日 | Weblog

 2010年3月27日は、すばらしい晴れの中を栃木県国分寺町(現・下野市)の石仏巡りに出かけました。この国分寺町の石仏巡りも、ずいぶん前に石幢六地蔵を探しに一通りは巡っていますが、今回から今までの国分寺町調査をリセットしてゼロから調査することにしました。国分寺町という名の通り、今回は国分寺地区から、そして紫式部伝説のある紫地区から入りました。ほとんどの石仏所在地が分かっているので気が楽なもので、途中では咲き出したばかりの桜見物やら、姿川土手にひろっがっている菜の花を眺めたりと、のんびりした石仏巡りとなりました。それでも、特に今回の碑塔調査で真剣になって調査したのは、国分寺境内にある自然石で、それは旧石橋町の教育委員会調査で「天念仏塔」となっているもののの再確認で、昔の私の調査能力では何とも決着がつかなかったものです。そこで手拓を取り、現地で現物相手ににらめっこをした結果、それは「大念仏」の文字読み違いと判定しました。また、国分寺西小学校前にある笠付き四角柱も、像容確認等に行きましたが、報告書では地蔵像となっているものは阿弥陀如来様であり、両側面に浮き彫りされた勢至菩薩と聖観音像からも、それは阿弥陀三尊を表現した念仏等であることが確定しました。面白いのはその紀年銘で、書物には寛永六年云々と記されているとありましたが、読んでみれば簡単に寛文九己酉十月日と読めました。役所の特徴で、読めないものはその頭置き文字だけで古い年号を採用してしまう典型的な事例かと一人で笑ってしまいました。
 そんな石仏巡り調査も午後三時過ぎには50基を超えてしまったので、今回はここまでとしてそれからは国分寺町の北側に接する旧石橋町へ入り、先月に逆光で写真が撮れなかった箇所へ寄り道して撮影してきました。今回、ここへ掲載した写真はその一つで橋本神社の西側にある碑塔風景です。いずれにしましても、次回以降も国分寺町へ入ることになるでしょう。
コメント

3月20日も先週に続いて足利市の石仏調査でした

2010年03月23日 | Weblog

 先週に引き続き、足利市の子育観音堂へ入りました。前回に残った碑塔調査ですが、結果的には残りが51基と少なかったために余裕で午後2時頃には全て終わりました。そして、当地の調査費等数は164基の数になり、そのうちの庚申信仰に関する碑塔は155基という膨大な数になりました。それらの整理も、お彼岸中の連休ということもあって全て纏め終えることが出来ました。何はともあれ、メデタシメデタシといったところです。掲載写真は、その中の山道中段の山斜面に転がっている庚申塔風景です。1基づつ起こしては掃除して石文を読み、そして写真撮影。さらに、起こしたままでは転がり落ちそうな庚申塔はまたしても大地に寝転がして置きました。そんな馬鹿見たい作業、まあ暇と根性がないと出来ない仕業だろうと苦笑しています。
 山口さん、その調査纏めを作成しましたので明日にでもお送りいたしますのでご笑覧ください。
さて、次回はどこへ行こうかと思案中です。石橋町の碑塔写真、写りが悪いのが沢山あるので、その再撮影をかねて国分寺町へでもふらりと行こうかと思っています。
コメント

3月13日は、暫くぶりの快適な石仏調査でした

2010年03月14日 | Weblog

 昨日3月13日は、暫くぶりに快晴となり喜び勇んで足利市へ向かいました。本日の目的地は、足利市通七丁目近くの子育観音堂の上にある庚申塔調査で、佐野市在住の山口さんとの合同調査です。ここへは今年の1月23日に下見に来ていて、その時に見た感じでは約100基位だろう思ったが、山口氏はそんな数ではないだろうと言う。いずれにせよ、今日一日で私は調査終了出来ると考えていたのだが、早速に調査を開始してみると、あるはあるは、ここへ掲載した写真の最上段西側だけの庚申塔だけで64基という有様だった。到底、今日一日では調査が終了とは行かないのを、この時点で悟る。そして同東側の庚申塔群へ移ったが、ここにも43基が並んでいた。それらを調査終えた段階で午後も3時を過ぎていたので、今回はここまでとする。それにしても、一日で100基を超える庚申塔調査をしたのは、何年ぶりだろう。これも偏に山口さんの絶大なる協力があってこそのものと厚く感謝する。
 当地を離れるに際し、小便をして行こうと東側の山の中に少しだけ立ち入ると、そこにほとんど埋もれた状態の石が伏せている。大きさからして、これは庚申塔ではないかと山口さんを呼び寄せ、二人で掘り起こしを始めたが、土中に埋まっている石は何としても動かない。そこで、太い枝を拾ってきて、それをてこにして力任せに引き起こせば、そこには間違いようもない「庚申」の大きな文字がある。それからは山の中を徘徊し、新たに2基の同様な埋もれた石を見つけては同じ方法で動かしては、それらも庚申塔であることが判明。今回は、この3基の新たな庚申塔を掘り起こせた嬉しさで終了とし、本日の調査を終えて岐路に着く。
 次回も、ここの調査をしなければならないだろう。何しろ、すでにブヨなどが飛び回っていて、少しでも油断しようものなら喰われてひどい目に遭う。
 いずれにしても、山口さん! お疲れ様でした。
コメント

遅ればせながら2月の石仏巡りを掲載しました

2010年03月07日 | Weblog
 先月2月は、石仏巡り不漁でしたが、それでも1月末から計算すれば三度も石橋町の石仏巡りを行いましたので、その結果報告を本日の雨天を利用していつもの別HPの方へ掲載しました。お暇な方はご笑覧ください。特に、空海の即身成仏義に見える偈文は珍しいもので、このような偈文があること自体、田舎の当県にあることが信じられない思いでした。それと、信仰物としては道を離れますが、昔の既存石造物に刻んだ明治時代の几号水準点を掲載しました。石仏には大いなる興味を持っている人でも、この几号水準点については知らない方が多いので、あるいは参考になるかと思います。それにしても毎週のように週末の天候不順には泣かされています。願わくば、今度こそ週末はすばらしい天候になることを願っています。調べたい、足利市の庚申塔もこの長雨で私が行くまでに腐ってしまうのではないかと、畑に埋けた大根を見ながら思いました。
 それと天候不順のせいか、ここの所毎週お葬式に参列しています。その流れは止まらず、また今度の火曜日はお世話になった方の奥様の葬式に参加です。皆様も、もうすぐ春だと油断せずにご自愛ください。
コメント

3月最初の石仏巡りも雨でした!

2010年03月06日 | Weblog

 三月になれば、春らしい石仏巡りが出来ると楽しみにしていたのですが、残念!
それでも、どうやら午前中は雨になりそうもない気配がしたので、出発が9時過ぎと出遅れたが、どうしても拓本が欲しい栃木県石橋町(現下野市)へ行きました。今日は、この手拓だけで充分としたので、先ずは下部が埋もれている部分を掘り起こし、銘文全部を明らかにし、それからのんびりと手拓しました。それは、大きな六角柱に刻まれている宝永七年銘の梵字光明真言と他の面にある「即身成佛義」の中の重要な偈文「六大無碍常瑜伽」「四種曼荼各不離」です。特にこの偈文は滅多に見られないだけに、これだけを以っても石橋町の石仏巡りは大満足とすべきものです。
そんな手拓作業、1時間ばかりで終了。そして雨がまだ落ちてこないことを良いことに、すぐ近くの愛宕山神社へ移動する。ここにはかつて1996年に行ったとき、その境内にある髭題目塔の最下段石に「几号水準点」が刻まれていたのを確認していたので、改めて写真撮影に行きました。この几号水準点は、旧4号線(日光街道)沿いと奥州街道沿いの石造物に僅かに見られる記号です。今までは、私にとっては調査対象外でしたが、そろそろこうしたマイナーな物にも興味を持って調査しようと考えが変わったからです。そんな几号水準点の画像をご紹介しましたので、もし栃木県内でこれを見たことがある方からの情報をお待ちしております。現時点で20数箇所は分かっていますが、まだ誰も実見されていない几号水準点を加えて将来的には纏めてみたいと思っています。
 そうそう、それから次週末は必ず晴れることを期待して、その時は足利市の庚申塔調査に行きたいと願っています。
コメント