石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

2014年05月28日は、栃木県喜連川藩主第10代の墓碑調査報告です

2014年05月28日 | Weblog

 前回に引き続き、栃木県喜連川町の龍光寺さんでの歴代喜連川藩主墓碑の調査報告書です。今回は、第10代の煕氏(ひろうじ)公のです。これもまた、前回同様の別HPの同じところに掲載してありますので、興味のある方はご笑覧ください。
 次は第九代藩主の彭氏(ちかうじ)公の墓碑です。多分、今度の日曜日までには掲載できるでしょう。

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2014年05月27日は、栃木県の喜連川藩主第六代藩主、茂氏公の墓碑ご紹介

2014年05月27日 | Weblog

喜連川藩主の中でも傑出した名君として親しまれている茂氏(しげうじ)公の墓碑です。
拓本を含めまして、いつものように別HPの方へ掲載いたしました。興味のある方はご笑覧ください。前回のURLをコピー&ペーストしてご覧になれました方は、同じ方法で見られます。
次回は、喜連川藩主第十代の墓碑を近日中にご紹介します。

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2014年05月25日は、栃木県氏家町の石仏巡りでした

2014年05月26日 | Weblog

 24日土曜日は、風が強く吹くとの事で翌日曜日の25日に満を期して早朝から栃木県氏家町(現・さくら市)へ向かう。最初の目的地は、先々週に氏家町押上地区の薬師堂敷地内で、そこにある碑文の手拓作業。碑面は、その時にピカピカに磨き上げていたので直ぐに拓本採りに取り掛かれる。朝早いため、天候は曇り(いや、霧がかかっている状態か)で湿気も程よくあって、当に手拓日和。全紙一枚では篆額まで入らないが、作業は順調に進んで瞬く間に出来の良い拓本が出来上がる。まだ10時にもなっていないが、ここで気分良くの大休憩。コーヒーを飲みながらバナナ1本を食べ、今日の何とも気分の良い天候に感謝する。
さて続いては、この薬師堂の本元であった旧信国寺(今は全くの個人宅となっている)へ行き、敷地内にある近世宝篋印塔を調査することにした。奥様に案内されて屋敷林へ入れば、そこには上記に掲載したような立派な宝篋印塔があった。九輪を始め部位が欠けているものの、私にとって最も重要な塔身と軸部がある。上記写真は、綺麗に泥等を掃除した後で撮影したものだが、その軸部には4面に渡って梵字陀羅尼真言が刻まれている。もちろん、氏家町では初めて(自然石に刻まれたものは町内に2基あり)のもの。これは何が何でも拓本を採らなければとなり、了解を頂戴する。何しろ、相当長い年月を一度も掃除されることなくあったのだろう、特にこまかな泥状のものが陰刻された所に厚く入って梵字がかろうじてわかる程度だったので、その掃除に時間がかかる。特に2面は一部が欠損していたり剥離状態が酷く、手拓したところで判読もままならないだろうと思いつつも綺麗に掃除する。それから手拓作業に入ったので、4面を採り終えたときは11時半になっていた。いずれにしても、厚く篤く感謝し御礼を申し上げて次の場所へ移動する。
 昼食は、隣りの長久保地区にある天神社の駐車場で取る。ここへは昔に何度か来ているが、今回は境内にある石碑1基(篆額の揮毫者が、宇都宮藩最後の藩主であった戸田忠友というだけで(笑))を調査したが、折角来たのだからと、狛犬と出羽三山の碑を再調査してから、次の氏家町馬場へ向かう。その馬場地区薬師堂にある宝篋印塔調査のためである。順調に進んで、次は箱森新田地区の薬師堂境内にある宝篋印塔の調査へ向かう。しかし、ここの宝篋印塔軸部にある銘文は、何とも読み難い。一文字づつ判読しているよりも、拓本を採った方が早いと独りガッテンし、車の中に放置されている画仙紙の端紙を手にしてパッパッと貼り付け、またとにかく文字が読めればよいだけなので適当に墨入れし、一丁上がりとなる。ただ、軸部に紀年銘がないのでどこにあるかと探して、基壇にあるのを確認するまで少し時間がかかったが‥。ここで、時計は早くも3時を過ぎている。途中で、少しのんびりしすぎたようだ。加えて、今年初めての暑さで、何となく体がだるくなってきた。町中へ戻って、明治の戦争碑を手拓する予定だったが、もう今日は拓本は「いいや」となり、そのまま4号線を渋滞に巻き込まれながらのんびり運転して帰宅する。

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2014年05月21日は喜連川町の調査・清書石碑の紹介です。

2014年05月21日 | Weblog

 ここの所の調査で、たまりに溜めてしまった石碑等の整理のため先週はどこへも出かけず部屋へ閉じこもっての作業に没頭しました。その甲斐あって、ようやく今年4月12日まで整理がたどり着くことが出来ました。そんなことで、今回は栃木県喜連川町の龍光寺さんに所在する足利家累代の墓域調査第一弾として、上に掲載した画像の調査内容を別HPの方へ掲載いたしました。興味のある方はご笑覧ください。以下のURLをコピー & ペーストすれば直結で見られるかも‥
http://sekibutsu.digiweb.jp/2014%94N%82%CC%8C%8E%95%CA%90%CE%95%A7%8F%84%82%E8%8BL/2014-05/2014-05.html
この墓碑は、喜連川藩弟九代藩主となる前に21歳にて将来を嘱望されながら早世してしまった、梅千代君のものです。撰文は、林述斎(林衡)。書は、市河米庵(河三亥)。そして石工は廣羣鶴と、三拍子揃ったすばらしいものです。

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2014年05月10日は栃木県氏家町へ石碑調査に行きました

2014年05月15日 | Weblog

 栃木県氏家町の石仏巡りは、15年以上も前に行ったきりだったが、今回はその氏家町へ石碑調査に行きました。と言っても、どこへ行けばお目当ての石碑があるかが判らないので、取りあえずは境内に尼港事件の慰霊塔がある氏家街中の光明寺さんへ行く。それが上記に掲載した写真である。但し、それは私が思っていた尼港事件によって殉難者となった方の慰霊塔ではなかったのが残念。それでも碑陰に短い文章が刻まれているので生憎の強風の中ながら無理して手拓する。次は、氏家町押上地区にある旧信国寺跡の薬師堂にある個人頌徳碑。郊外に出ると、風はうなりをあげて吹いている。手拓する話どころではない。それでも、多分その石碑は苔で嫌らしく汚れているだろうから、その掃除だけでも次回のためにしておこうと向かう。その途中、長久保地区にて薬師堂が目に入り、寄り道。ここには男体山碑があるので1995年代に来ている場所であったが、そこにある近世宝篋印塔を始め他の石仏類は未調査だったのでついでに調査することにした。宝篋印塔は宝暦年間のものだったが、銘文が磨耗していて陀羅尼経文を読むのに一苦労。そんな調査が終われば、早くも時計は12時。これはいかんと、本来の目的地である押上地区にある薬師堂へ向かう。薬師堂前の空き地に車を止め、早速石碑を見に行けば予想通りの酷い状態。相変わらず風は強く、電線が悲鳴を上げている。いずれにせよ、ここで昼食として車の中にいれば真夏のような暑さを共に味わいながら、午後になれば少しは風も収まるかと様子を見ることにしてのんびりする。それにしても、天気予報では風も収まり絶好の行楽日と言っていたのは何なのだろうと思う。
 さて、一向に弱まらない風を相手にしていても仕方がないと車から出て、金属ブラシに亀の子束子を手にして石碑と向かい合い、ゴシゴシと水洗い。約1時間ばかりで、今までとは見違えるような綺麗な石碑となる。これで、風さえ穏やかなら今すぐにでも手拓できるのにと悔しがりながら、ここにもある男体山碑を始め他の石仏全てを再調査する。そしてまだ帰宅するには早すぎる時間を、周辺にある石仏を暇に飽かして調査しつつ、西隣の塩谷町まで来てしまう。予定では、ここから又氏家中心地へ戻り、勝山城址公園にある戦争碑を調査知る予定だったが、戻るには遠くへ来てしまっていた。そこで、そう言えば塩谷町にも幾つかの未調査石碑が残っているのを思い出し、急いでバックの中にあるはずの「未調査石碑一覧ファイル」を探したが、塩谷町地区のファイルが無い。まさか、今日は塩谷町へ入るとは思ってもいなかったので家に置いてきてしまったようだ。そこで潔く、今日の石碑調査を諦めてその後は新緑に溢れた農村地帯をのんびりドライブしながら帰路に着く。

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