二畳隅炉
お茶のお稽古
無理矢理仕切っての二畳隅炉
隅炉と言えば、利休が晩年に作った大山崎の国宝「待庵」が有名
亭主と正客がすぐ横に座り合い、お互いの息遣い、気持ちが伝わる感じ
その近さから「なぁ、利休殿〜」と話しかけたくなってしまう距離感だが、だけどそこは我慢して互いが心と心で対話していた、そんな妄想を掻き立てられる。
利休も、当初は「数奇屋風書院造」などの広間の茶座敷だった。
そして紹鴎四畳半をなぞり、手を加えていくが、亭主と客どの「直心の交わり」を求めるようになり二畳、一畳半になっていった、と。
いや、なんとなく利休の世界を感じたような気がした...
やってみて良かった。
あの「待庵」を作る時に利休は、大山崎に近い高槻城主であり利休七哲の一人とされる高山右近に柱などの材木を依頼している。
高山右近は柱として六本を提供し、そのうち一本は使用されたことは確か。
利休から高山右近宛の礼状が残っている。でもどこの柱であるかは不明..
お茶のお稽古
無理矢理仕切っての二畳隅炉
隅炉と言えば、利休が晩年に作った大山崎の国宝「待庵」が有名
亭主と正客がすぐ横に座り合い、お互いの息遣い、気持ちが伝わる感じ
その近さから「なぁ、利休殿〜」と話しかけたくなってしまう距離感だが、だけどそこは我慢して互いが心と心で対話していた、そんな妄想を掻き立てられる。
利休も、当初は「数奇屋風書院造」などの広間の茶座敷だった。
そして紹鴎四畳半をなぞり、手を加えていくが、亭主と客どの「直心の交わり」を求めるようになり二畳、一畳半になっていった、と。
いや、なんとなく利休の世界を感じたような気がした...
やってみて良かった。
あの「待庵」を作る時に利休は、大山崎に近い高槻城主であり利休七哲の一人とされる高山右近に柱などの材木を依頼している。
高山右近は柱として六本を提供し、そのうち一本は使用されたことは確か。
利休から高山右近宛の礼状が残っている。でもどこの柱であるかは不明..