「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

処世術としての同調と、モノを考えなくなるということと

2015-09-18 23:50:47 | 日常の一コマ
日本は同調圧力の高い国(社会と呼ぶべきか?)と言われている。
個人的には、日本とか、日本社会とか、国民性とか、一くくりにする議論は乱暴すぎると思っているが、
それにしても、なぜここまで、異論を恐れるのだろう。

上に立つ者の知的劣化は、覆い隠すことの出来ないレベルまで来てしまっている。これは明らか。
一国の首相の、言論の府たるべき国会での議論が、聞くに耐えないものに堕してしまった。
あるいは、スピーチライターである官僚の質がそこまで下がってしまったということか。
「馬鹿に付き合ってられるか!」と、啖呵を切った者がいたかもしれないが、
不幸にして、権力者にすり寄る者が絶えることのないのが人の世。

「旅の坊主」としても、異論を受け入れられなくなったら終わりだな、というところ。
もって他山の石とすべき、ではある……。

そういえば、で思い出したことがある。
かつて、とある国会議員の私設応援団の一員として、いろいろと議論をさせてもらっていた時のこと。
その御仁曰く、「国会議員に、なぜ党議拘束をかけなくてはならないのだろうか」と。
(唯一の例外として、首班指名の投票のみ、党議拘束をかける必要がある、とも言っていたが。)
国会議員が国会において何を発言しても、罪に問われることはない、と、憲法で明記されているのだから、
投票行動についても、党議拘束などというつまらないことはせず、本人の意志に任せ、
ただ、選挙前に「あなたは○○法案については賛成(反対)しましたね?」と成績表をつきつければよい、
大意はそんなような話だったように思う。

甲論乙駁の中で落とし所を探っていく、あるいは、議論の中で何か新しいものを作っていく、
こういう経験が日常茶飯の身としては、議会は何をやっていることやら、と言いたくもなる。
もっとも……。
議会での討論は立法過程の最後のセレモニーである、と、現実政治の追認をするならば、
書生じみた政治論and/or言論の力についての議論など、言うだけむなしい、ということなのかもしれないが……。

話が脱線してしまった。

本学のような底辺レベルにある地方私大の学生では、
程度の差こそあれ、過去にいじめの被害を受けた経験を持つ者が少なくない。
そのような体験を持つ者に言わせると、合わせることは一つの処世術なのだそうな。
これについても同調圧力と言うのだろうか……。
目立たなくてナンボ。目立たないためには思ったことを言わないのが当たり前。
そんなこと、らしい。

これは学生の議論ではないが、日本では「空気」が支配する、だったか、そんな議論もあった。
ただ、空気に合わせることが日常になってしまうと、当然のことながら、モノを考えなくなる。
世の動きと共に、後期が始まり学生との対話が戻ってきた昨今、そんなことを考えていた。

モノを考え続けるには力がいる。
流されたほうが楽、という状況は、常に存在している。
何か言うと「生意気なんだよ!」と、議論そのものを否定する雰囲気は、この国の中の至る所にある。
(この国だけではない、程度の差こそあれ、人間社会におしなべてみられる現象なのかもしれない。)
しかし、それを続けていくと、結局のところ、モノを考えない人間が生まれる。
それは、この国にとって幸いなことか?学生の将来にとって望ましいことか?

国政と学生対応、いささかレベル差があり過ぎることは百も承知で、
そんなことを考えてみたりしている秋の夜であった。
議論を交わす中で、お互いの人となりを理解する。
A案でもB案でもない、シンテーゼ―としてのC案を導き出す。
それは、人として、当たり前の行為、ではないのだろうか……。


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