坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

『大吉原展』と 新吉原を訪ねて <10:00am->

2024-05-10 10:17:35 | 本・映画・音楽etc.
Open15分前くらいに到着した。会場入口前にはすでに20人ほどが並んでおり、思ったより少なくて意外でもあったが安心した。(しかしその後、続々と入場者は増え続けた……)
『大吉原展』開催についてはSNS上で炎上し、新聞紙上でも開催意義に触れていたことは知っている。
「同展は開幕に先立ち、ピンク色のロゴや「江戸アメイジング」の文言で華やかさを強調し、SNSで無神経だと批判された。
公式サイトでは、「本展に吉原の制度を容認する意図はありません」と弁解したが、報道内覧会でも丁寧な展示内容と、広報が与えたイメージとのギャップを疑問視する質問が相次いだ。(4/9付、読売新聞)」、また「「イケてる人は吉原にいた!」などエンタメ性の強い文言が躍り、「吉原を美化している」といった批判が上がった。(4/25付、朝日新聞)」など、売買春や人権侵害等の負の事実よりエンタメ性(=娯楽性)を強く打ち出した広報(公式HPやチラシ等)へ批判が上がった。
同展学術顧問の田中優子氏(法政大学名誉教授)は、「「江戸アメイジング」のアメイジングとは、びっくりという意味。違和感はなかった。展覧会に目を向けてもらうため、題名に工夫をしている」、また「吉原の経済基盤は売買春だった。人権侵害で二度とこの世に出現してはならない場所。一方、文字や絵画など新しい文化が生まれる拠点にもなった。文化史から見て、見過ごすことは出来ない。両方があることを知ってください」と強調した。(同、朝日新聞)」と説明している。
氏の著書「遊郭と日本人」(講談社現代新書2021年刊)の冒頭に、ジェンダーから見た遊郭の問題として「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることのできない場所であり制度である」と、わざわざ太字で記している。当然、今回の展覧会においても全く違いはないのである。


会場:東京藝術大学

田中優子著『遊郭と日本人』が、今回の『大吉原展』のベースにもなっていると思われるが、如何せん新書本で挿絵等はモノクロなのが残念だったが、今回会場で販売されていた大判サイズの『大吉原展 -YOSHIWARA- 』は、オールカラー(P316)で展覧会を細部まで網羅している。この一冊を読み返すだけで、本物を思い浮かべることができる。素晴らしい!

公式図録『大吉原展 -YOSHIWARA-

ちなみに、今年の酒田まつり(5/20開催)でも「花魁道中」が披露されると新聞等が報道じ、選抜された今年の花魁姿の写真とともに喜々とした母娘のコメントが載っていた。 
そこには、「北前船交易で栄えた酒田の花柳界…(云々)」とあるように、舞子も花魁も一緒くたにした華やかさだけが注目され、売買春や人権等の負の部分は、すっぽりと抜け落ちている。でもSNSで批判はされてはいない……ようだ。

展覧会場内唯一写真撮影OKの「江戸風俗人形」

「『江戸風俗人形』は、江戸を中心に文化・文政時代(1804-1830年頃)の妓楼を念頭に制作された作品。檜細工師・三浦宏氏(1926-2019)、人形師・辻村寿三郎氏(1933-2023)、江戸小物細工師・服部一郎氏(1933-2009)の三人の職人技が一体となってつくり上げ、廓の世界を現代に蘇らせたものである」と紹介されている。


浅草寺

展覧会を約3時間ほどじっくり鑑賞した後、上野公園で遅い昼食(コンビニサンド&缶ビール)を済ませ、新吉原跡を訪れるため浅草に向かって歩き始めた。
中国語、韓国語他が大声で飛び交う浅草寺に到着。都内の徒歩は楽しいねぇ。


山形県村山市奉賛会が奉納した大草鞋

浅草寺寺務所で、遠藤虚籟[エンドウ キョライ] の平和を祈った綴れ織りについて伺った。結果は、「仏殿に丁寧に仕舞ってあり、一般公開はしていません。また今後も公開する予定はない」とのこと。突然の訪問に、お忙しい中にも親切に対応していただいた。ありがとうございます。


待乳山聖天(まつちやましょうでん)

墨田川から山谷堀に入る舟は、この寺のある丘を目印にした。 
「寺のシンボルマークは巾着と二股大根。巾着はお金を、二股大根は性のもたらす豊穣を表現している。飛鳥時代からある寺なので吉原とは何の関係もないが、一般に、聖天が男女抱擁の歓喜天をシンボルとするためか、底抜けの明るさに満ちている。(「江戸を歩く」田中優子著・石山貴美子写真より)


山谷堀公園

山谷堀跡、江戸時代は日本堤より下の位置の水の流れる堀だった。 
「吉野通りと交わる辺りまで墨田川から舟が入っていた。鍬形恵斎の『江戸一目図屏風』を見ると、このあたりに少人数用の猪牙舟がぎっしり溜まっており、ちょうどタクシーの溜まり場のようだったことがわかる。山谷堀はここから細くなるため、舟で吉原に入る客はここで降り、葦簀張りの店を冷かしながら土手通を歩いたのである。(前出「江戸を歩く」より)」 


名所江戸百景「真乳山山谷堀夜景」歌川広重

 


見返り柳

 


吉原公園(旧 浅草新吉原江戸町一丁目)


「元和三年(1617)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは”葭原(よしわら)”と呼ばれた。そして寛永三年(1626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するよう命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五ヵ町であった。そのうちの江戸町一丁目は元和四年の吉原開設とともにできたが、はじめは本柳一丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町一丁目と改称した」(旧町名由来案内看板より)


吉原公園向かいの風俗店街

 


浄閑寺山門


投込寺[なげこみでら](浄閑寺[じょうかんじ]
「浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政2(1855)年の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られてことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原總霊塔が建立された。
檀家の他に、遊女やその子供の名前を記した、かん寛保3(1743)年から大正15(1926)年にいたる、十冊の過去帳が現存する。
遊女の暗く悲しい生涯に思いを馳せて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。 荒川区教育委員会」(山門啓示板より)


榮法山浄閑寺

 


新吉原総霊塔

 

 


若紫の墓

 


次郎長寿司

背負うリュックも重く感じ始めた夕方5時。新宿に戻ってファストフード店での夕食より、ここ下町の店が良さそうだなと入ったのが『次郎長寿司』。日比谷線三ノ輪駅近くの、親しみを感じるような寿司店を選んだ。店内には清水の次郎長一家の写真が飾られている。寡黙そうな親方には訊けず、女将さんに「親方は静岡(清水)出身なんですか?」と尋ねた。「いやぁ、埼玉ですぅ、埼玉のxxxというところですぅ」とのことでした。「はぁ、そうですか……」と、旨い江戸前寿司を頬張った。酒は塩釜の浦霞を注文すると、思ったより大きなコップがトンと出された。疲れのせいか早く酔いが回ったようだ、「飲みきれなかったら持ち帰ってもいいから」と 女将さんが声を掛けてくれた。う~ぃ、東京だねぇ。

次郎長寿司、満足‼
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 上野公園 <9:15am-> | トップ | 「田川太郎の里歴史ウォーク... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本・映画・音楽etc.」カテゴリの最新記事